もう三十年も前の、子どもの頃の話です。
私が育ったのは、海を埋め立てて造られた、新しい町でした。
団地が整然と並び、どの建物も、同じ薄い灰色をしていました。
その団地の裏手に、古い防風林がありました。
埋め立て以前から、そこだけ残された林だと、大人たちは言っていました。
松の混じった、薄暗い、こぢんまりとした森です。
昼でも、中に入ると、空気がひやりと冷たくなりました。
夏の盛りでも、その森の中だけは、秋のように涼しいのです。
団地の階段を一段、地下へ降りたような、そんな冷たさでした。
耳をすますと、奥のほうで、水の滴る音が、ぴちょん、ぴちょんと聞こえました。
近くに、川も池も、ないはずでした。
その音が、どこから来るのか、私たちは、誰も知りませんでした。
今思えば、あれは、埋められた沼の、水の音だったのかもしれません。
地面の、ずっと下のほうで、沼は、まだ生きていた。
そんな気が、してならないのです。
湿った土と、苔の匂いが、いつも立ちこめていました。
私たち子どもは、その森を、ただの遊び場だと思っていました。
秘密基地を作り、虫を捕り、木の実を集める。
団地の子どもにとって、そこは、数少ない自然の遊び場でした。
親たちは、なぜか、あまりその森に近づきたがりませんでした。
「日が暮れる前に、帰ってきなさいよ」
母は、森へ行く私に、いつも、そう念を押しました。
その口調に、ほんの少しだけ、不安の色が混じっていたのを、覚えています。
埋め立てる前、この一帯が何だったのかを、母は、決して話しませんでした。
※
そのことを知ったのは、ずっと後、町の郷土資料を読んだときです。
私たちの団地が建つ前、その場所には、大きな沼があったそうです。
底なし沼として、土地の人に、長く恐れられていた沼でした。
埋め立ての際、その沼だけは、なぜか、最後まで埋まりきらなかったといいます。
そして、あの防風林は、ちょうど、その沼があったあたりに、残されていたのです。
暗がりの、あのぐにゃりとした感触を、私は、思い出さずにはいられませんでした。
沼は、本当に、消えたのでしょうか。
資料には、沼で命を落とした人の話も、いくつか載っていました。
身投げした女の人の話も、あったと記憶しています。
森で見つけた、あの片方の下駄のことが、頭から離れませんでした。
埋め立てられても、その場所の記憶だけは、消えずに残るのかもしれません。
土地は、起きたことを、静かに覚えている。
私は、そう思うようになりました。
※
その森には、奇妙な場所が、いくつかありました。
ある一画だけ、不自然に暗いのです。
木々が光を遮っている、というのとは、少し違いました。
晴れた日でも、その場所だけ、夕暮れのように沈んでいるのです。
墨を、薄く流したような暗さ、とでも言いましょうか。
大きさは、ちょうど、物置小屋くらいでした。
足を踏み入れると、地面が、妙にやわらかいのです。
ふかふかというより、ぐにゃりと沈むような、不思議な感触でした。
その感触が、私は、どうにも苦手でした。
一度、知らずに、その暗がりの縁を踏んだことがあります。
片足だけ、ぐにゃりと、地面に飲まれるような感覚がありました。
慌てて足を引き抜くと、運動靴の裏に、冷たい泥が、べったりとついていました。
晴れの日が、何日も続いていたのに。
その泥は、墨のように黒くて、なかなか、落ちませんでした。
※
いちばん奇妙だったのは、時間の流れ方です。
その暗がりに入ると、外の時間が、おかしくなるのです。
少し休んだだけのつもりが、外ではずいぶん経っていることがありました。
逆に、長くいたはずなのに、ほんの数分しか過ぎていないこともありました。
それだけではありません。
その暗がりに人が入ると、外から見ている者には、その姿が、すうっと消えて見えるのです。
だから、かくれんぼでは、そこを使ってはいけない、という決まりがありました。
子どもなりに、あそこは「ずるい場所」だと、分かっていたのです。
私自身、一度だけ、時間のずれを経験しています。
暗がりのすぐそばで、ぼんやりと座っていた、ある午後のことです。
ほんの少し、うとうとしただけのつもりでした。
ふと顔を上げると、空が、すっかり茜色に染まっていました。
あんなに高かった太陽が、もう、山の端に沈みかけていたのです。
腕の時計を見て、私は、ぞっとしました。
二時間近くが、過ぎていたのです。
私は、転がるように、森から飛び出しました。
団地に戻ると、母が、玄関先で、私を探していました。
「どこに行ってたの。何度も呼んだのよ」
母の声は、いつになく、とがっていました。
私は、暗がりのそばで眠っていた、とは、言えませんでした。
なぜか、それを話してはいけない気が、したのです。
でも、私の体感では、ほんの五分ほどのことでした。
「あそこに入ったら、鬼にずっと見つからないからな」
年上の子が、そう言って、私たちに念を押しました。
「でも、入っちゃだめだぞ。出てこれなくなるって、噂だから」
その噂の出どころは、誰も知りませんでした。
※
その暗がりは、ひとつではありませんでした。
森のあちこちに、四つか五つ、点在していました。
そして、不思議なことに、その場所は、移動するのです。
ある日「今日は、いつもより暗くないな」と感じると、数日後には、そこは消えていました。
その代わり、別の場所に、新しい暗がりが生まれているのです。
数だけは、いつも、四つか五つで、変わりませんでした。
まるで、森が、息をするように、暗がりを移し替えているようでした。
私たちは、その暗がりに、こっそり名前をつけていました。
「あなぐら」と、呼んでいたのです。
森に入ると、まず、その日の「あなぐら」の位置を、みんなで確かめました。
近づきすぎないように。間違って、踏み込まないように。
一度、その「あなぐら」のそばで、古い下駄を見つけたことがあります。
片方だけの、ずいぶん古い、女物の下駄でした。
鼻緒は朽ちて、木は、黒く濡れていました。
団地の子で、そんなものを履く子は、一人もいませんでした。
気味が悪くて、私たちは、それを、そっと元の場所に戻しました。
同じ班のヨウコちゃんが、青い顔で、こう言ったことがあります。
「あなぐらの中から、おいでって、女の人の声がしたの」
私たちは、笑って、取り合いませんでした。
でも、ヨウコちゃんは、本気で、おびえていました。
「やさしい声なんだけど、すごく、こわかった」
その日から、ヨウコちゃんも、森へは来なくなりました。
次の日には、その下駄は、もう、なくなっていました。
それが、森で遊ぶときの、いちばん大事なルールでした。
その日の「あなぐら」を確かめずに森へ入った子は、一人もいませんでした。
暗がりは、毎日、少しずつ、団地のほうへ、にじり寄っている。
そんな噂も、子どもたちの間で、ささやかれていました。
本当かどうかは、分かりません。
ただ、私が森に通った数年のあいだに、暗がりは、確かに、林の縁へと、近づいていた気がします。
その動きには、何の規則も、見つけられませんでした。
※
小学四年生の、夏のことでした。
タカシという、近所の悪ガキが、肝試しをしようと言い出しました。
「あの暗がりに、いちばん長く入ってられた奴が、勝ちな」
みんな、顔を見合わせて、黙りこみました。
誰も、本気でやりたいとは、思っていなかったのです。
でも、タカシは、引きませんでした。
「ビビってんのかよ。じゃあ、俺が入ってやるよ」
そう言って、タカシは、いちばん近い暗がりへ、ずかずかと歩いていきました。
私たちが止める間もなく、その体は、暗がりの中へ消えました。
本当に、ふっと、消えたのです。
そこに、人がいる気配さえ、なくなりました。
※
私たちは、暗がりの外で、タカシが出てくるのを待ちました。
一分。二分。
最初は、笑っていました。
「タカシのやつ、強がっちゃって」
でも、五分が過ぎても、出てきません。
十分が過ぎる頃には、誰も、口をきかなくなっていました。
森の中は、しんと静まりかえっていました。
風も、止まっていました。
木の葉の一枚さえ、揺れていませんでした。
まるで、世界から、私たちのいる場所だけが、切り取られたようでした。
あれほどうるさかった蝉の声も、いつのまにか、聞こえなくなっていました。
自分の心臓の音だけが、やけに大きく、耳に響きました。
「……タカシ?」
おそるおそる、暗がりに声をかけても、返事はありません。
誰も、その中へ、入っていく勇気は、ありませんでした。
※
タカシが出てきたのは、それから、たっぷり三十分は経った頃でした。
暗がりの中から、ぬっと、その姿が現れたのです。
私たちは、ほっとして、駆け寄りました。
でも、タカシの様子は、明らかに、おかしかったのです。
顔から、血の気が、すっかり引いていました。
汗ひとつ、かいていないのです。あんなに暑い日だったのに。
「おまえ、三十分も入ってたんだぞ。心配しただろ」
私がそう言うと、タカシは、不思議そうな顔をしました。
「何言ってんだよ。俺、ちょっと、目をつぶってただけだぜ」
その声は、震えていました。
「ほんの、一分くらいだろ。なあ、そうだろ?」
タカシの服には、なぜか、湿った泥が、点々とついていました。
あの、墨のように黒い泥でした。
そして、彼の髪からは、かすかに、水の腐ったような匂いが、していました。
沼の、匂いでした。
私たちは、何も、答えられませんでした。
※
タカシは、その日のことを、二度と話そうとしませんでした。
私が、暗がりの中で何を見たのか、と尋ねても、ただ首を横に振るばかりでした。
一度だけ、ぽつりと、こう言ったことがあります。
「中にな、もう一人、俺がいたんだ」
その言葉を聞いたとき、私の背筋を、冷たいものが、すっと走りました。
「もう一人の、俺がな。暗がりの真ん中で、こっちを見て、立ってたんだよ」
「そいつ、にやにや笑いながら、手招きしてくるんだ」
タカシの声は、最後まで、震えていました。
それ以上は、何も言いませんでした。
私は、その言葉の意味を、今でも、考え続けています。
暗がりの中に、もう一人の自分がいる。
それは、いったい、どういうことなのでしょう。
鏡のように、自分を映していただけなのか。
それとも、入れ替わろうと、手招きしていたのか。
私には、考えれば考えるほど、分からなくなります。
ただ、引っ越していったタカシが、本当に、私の知るタカシだったのか。
それを思うと、今でも、夜、眠れなくなることがあります。
あの夏、暗がりに入ったのは、タカシだけでした。
出てきたのも、確かに、タカシの姿をしていました。
でも、本当に、同じ人間が、出てきたのでしょうか。
暗がりの中で、二人は、入れ替わってしまったのではないか。
そんな考えが、ふとした拍子に、頭をよぎるのです。
そして、もし入れ替わったのだとしたら。
本物のタカシは、今も、あの暗がりの中で、出口を探し続けているのかもしれません。
そして、その夏が終わる頃、タカシの一家は、急に、町を引っ越していきました。
引っ越しの前の日、タカシは、一度だけ、私の家を訪ねてきました。
玄関先で、彼は、妙に静かな目で、私を見ました。
「おまえは、あの森に、もう行くなよ」
それだけ言って、背を向けました。
その横顔が、私の知っているタカシと、どこか違って見えたのを、今も忘れられません。
挨拶も、何もありませんでした。
ある朝、彼の部屋の窓が、空っぽになっているのに、気づいただけでした。
後で、近所の大人が、こんなことを話しているのを、聞きました。
タカシの母親が「あの子が、あの子じゃないみたいだ」と、おびえていた、と。
森の肝試しの日を境に、タカシは、人が変わってしまったのだそうです。
夜中に、突然、笑い出すようになった、と。
その話を聞いて以来、私は、あの森に、二度と近づきませんでした。
※
それから、私も大きくなり、町を離れました。
あの森のことも、暗がりのことも、長いあいだ、忘れていました。
先日、仕事で、あの町の近くを通る機会がありました。
懐かしくなって、団地の裏手まで、足を運んでみました。
防風林は、もう、ありませんでした。
道路を広げるために、すっかり切り払われ、平らな歩道になっていました。
少し、寂しい気持ちで、その歩道を歩きました。
そのときです。
横断歩道の、ちょうど真ん中あたりで、ふいに、空気が冷たくなったのです。
足の裏が、一瞬、ぐにゃりと、沈んだ気がしました。
あの、暗がりの感触と、まったく同じでした。
私は、思わず、足を止めました。
周りを、車が、何台も走り抜けていきました。
誰も、その冷たさには、気づいていない様子でした。
私だけが、その場所で、立ちすくんでいました。
足の裏の感覚は、まぎれもなく、三十年前の、あの「あなぐら」のものでした。
見上げると、夏の空が、やけに、明るすぎるほど明るかったのを、覚えています。
※
信号は、青でした。
行き交う人の中で、私だけが、時間から取り残されたようでした。
その一歩の先に、あの森の冷たさが、口を開けて待っている。
そんな気がして、足が、すくんで動きませんでした。
でも、私は、その場所を、どうしても、踏み越えられませんでした。
森は、なくなったはずです。
それなのに、暗がりだけは、まだ、そこに残っているのでしょうか。
姿を消して、ただ場所だけを、移し替えながら。
今も、あの町のどこかを、息をするように、漂っているのでしょうか。
あれが、いったい何だったのか、私には、いまだに分かりません。
ただ、ひとつだけ、確かなことがあります。
あのとき、暗がりに入ったタカシが見た「もう一人の自分」は、まだ、あの冷たい場所で、誰かが入ってくるのを、静かに待っているのだということです。