不思議な森

もう三十年も前の、子どもの頃の話です。

私が育ったのは、海を埋め立てて造られた、新しい町でした。

団地が整然と並び、どの建物も、同じ薄い灰色をしていました。

その団地の裏手に、古い防風林がありました。

埋め立て以前から、そこだけ残された林だと、大人たちは言っていました。

松の混じった、薄暗い、こぢんまりとした森です。

昼でも、中に入ると、空気がひやりと冷たくなりました。

夏の盛りでも、その森の中だけは、秋のように涼しいのです。

団地の階段を一段、地下へ降りたような、そんな冷たさでした。

耳をすますと、奥のほうで、水の滴る音が、ぴちょん、ぴちょんと聞こえました。

近くに、川も池も、ないはずでした。

その音が、どこから来るのか、私たちは、誰も知りませんでした。

今思えば、あれは、埋められた沼の、水の音だったのかもしれません。

地面の、ずっと下のほうで、沼は、まだ生きていた。

そんな気が、してならないのです。

湿った土と、苔の匂いが、いつも立ちこめていました。

私たち子どもは、その森を、ただの遊び場だと思っていました。

秘密基地を作り、虫を捕り、木の実を集める。

団地の子どもにとって、そこは、数少ない自然の遊び場でした。

親たちは、なぜか、あまりその森に近づきたがりませんでした。

「日が暮れる前に、帰ってきなさいよ」

母は、森へ行く私に、いつも、そう念を押しました。

その口調に、ほんの少しだけ、不安の色が混じっていたのを、覚えています。

埋め立てる前、この一帯が何だったのかを、母は、決して話しませんでした。

そのことを知ったのは、ずっと後、町の郷土資料を読んだときです。

私たちの団地が建つ前、その場所には、大きな沼があったそうです。

底なし沼として、土地の人に、長く恐れられていた沼でした。

埋め立ての際、その沼だけは、なぜか、最後まで埋まりきらなかったといいます。

そして、あの防風林は、ちょうど、その沼があったあたりに、残されていたのです。

暗がりの、あのぐにゃりとした感触を、私は、思い出さずにはいられませんでした。

沼は、本当に、消えたのでしょうか。

資料には、沼で命を落とした人の話も、いくつか載っていました。

身投げした女の人の話も、あったと記憶しています。

森で見つけた、あの片方の下駄のことが、頭から離れませんでした。

埋め立てられても、その場所の記憶だけは、消えずに残るのかもしれません。

土地は、起きたことを、静かに覚えている。

私は、そう思うようになりました。

その森には、奇妙な場所が、いくつかありました。

ある一画だけ、不自然に暗いのです。

木々が光を遮っている、というのとは、少し違いました。

晴れた日でも、その場所だけ、夕暮れのように沈んでいるのです。

墨を、薄く流したような暗さ、とでも言いましょうか。

大きさは、ちょうど、物置小屋くらいでした。

足を踏み入れると、地面が、妙にやわらかいのです。

ふかふかというより、ぐにゃりと沈むような、不思議な感触でした。

その感触が、私は、どうにも苦手でした。

一度、知らずに、その暗がりの縁を踏んだことがあります。

片足だけ、ぐにゃりと、地面に飲まれるような感覚がありました。

慌てて足を引き抜くと、運動靴の裏に、冷たい泥が、べったりとついていました。

晴れの日が、何日も続いていたのに。

その泥は、墨のように黒くて、なかなか、落ちませんでした。

いちばん奇妙だったのは、時間の流れ方です。

その暗がりに入ると、外の時間が、おかしくなるのです。

少し休んだだけのつもりが、外ではずいぶん経っていることがありました。

逆に、長くいたはずなのに、ほんの数分しか過ぎていないこともありました。

それだけではありません。

その暗がりに人が入ると、外から見ている者には、その姿が、すうっと消えて見えるのです。

だから、かくれんぼでは、そこを使ってはいけない、という決まりがありました。

子どもなりに、あそこは「ずるい場所」だと、分かっていたのです。

私自身、一度だけ、時間のずれを経験しています。

暗がりのすぐそばで、ぼんやりと座っていた、ある午後のことです。

ほんの少し、うとうとしただけのつもりでした。

ふと顔を上げると、空が、すっかり茜色に染まっていました。

あんなに高かった太陽が、もう、山の端に沈みかけていたのです。

腕の時計を見て、私は、ぞっとしました。

二時間近くが、過ぎていたのです。

私は、転がるように、森から飛び出しました。

団地に戻ると、母が、玄関先で、私を探していました。

「どこに行ってたの。何度も呼んだのよ」

母の声は、いつになく、とがっていました。

私は、暗がりのそばで眠っていた、とは、言えませんでした。

なぜか、それを話してはいけない気が、したのです。

でも、私の体感では、ほんの五分ほどのことでした。

「あそこに入ったら、鬼にずっと見つからないからな」

年上の子が、そう言って、私たちに念を押しました。

「でも、入っちゃだめだぞ。出てこれなくなるって、噂だから」

その噂の出どころは、誰も知りませんでした。

その暗がりは、ひとつではありませんでした。

森のあちこちに、四つか五つ、点在していました。

そして、不思議なことに、その場所は、移動するのです。

ある日「今日は、いつもより暗くないな」と感じると、数日後には、そこは消えていました。

その代わり、別の場所に、新しい暗がりが生まれているのです。

数だけは、いつも、四つか五つで、変わりませんでした。

まるで、森が、息をするように、暗がりを移し替えているようでした。

私たちは、その暗がりに、こっそり名前をつけていました。

「あなぐら」と、呼んでいたのです。

森に入ると、まず、その日の「あなぐら」の位置を、みんなで確かめました。

近づきすぎないように。間違って、踏み込まないように。

一度、その「あなぐら」のそばで、古い下駄を見つけたことがあります。

片方だけの、ずいぶん古い、女物の下駄でした。

鼻緒は朽ちて、木は、黒く濡れていました。

団地の子で、そんなものを履く子は、一人もいませんでした。

気味が悪くて、私たちは、それを、そっと元の場所に戻しました。

同じ班のヨウコちゃんが、青い顔で、こう言ったことがあります。

「あなぐらの中から、おいでって、女の人の声がしたの」

私たちは、笑って、取り合いませんでした。

でも、ヨウコちゃんは、本気で、おびえていました。

「やさしい声なんだけど、すごく、こわかった」

その日から、ヨウコちゃんも、森へは来なくなりました。

次の日には、その下駄は、もう、なくなっていました。

それが、森で遊ぶときの、いちばん大事なルールでした。

その日の「あなぐら」を確かめずに森へ入った子は、一人もいませんでした。

暗がりは、毎日、少しずつ、団地のほうへ、にじり寄っている。

そんな噂も、子どもたちの間で、ささやかれていました。

本当かどうかは、分かりません。

ただ、私が森に通った数年のあいだに、暗がりは、確かに、林の縁へと、近づいていた気がします。

その動きには、何の規則も、見つけられませんでした。

小学四年生の、夏のことでした。

タカシという、近所の悪ガキが、肝試しをしようと言い出しました。

「あの暗がりに、いちばん長く入ってられた奴が、勝ちな」

みんな、顔を見合わせて、黙りこみました。

誰も、本気でやりたいとは、思っていなかったのです。

でも、タカシは、引きませんでした。

「ビビってんのかよ。じゃあ、俺が入ってやるよ」

そう言って、タカシは、いちばん近い暗がりへ、ずかずかと歩いていきました。

私たちが止める間もなく、その体は、暗がりの中へ消えました。

本当に、ふっと、消えたのです。

そこに、人がいる気配さえ、なくなりました。

私たちは、暗がりの外で、タカシが出てくるのを待ちました。

一分。二分。

最初は、笑っていました。

「タカシのやつ、強がっちゃって」

でも、五分が過ぎても、出てきません。

十分が過ぎる頃には、誰も、口をきかなくなっていました。

森の中は、しんと静まりかえっていました。

風も、止まっていました。

木の葉の一枚さえ、揺れていませんでした。

まるで、世界から、私たちのいる場所だけが、切り取られたようでした。

あれほどうるさかった蝉の声も、いつのまにか、聞こえなくなっていました。

自分の心臓の音だけが、やけに大きく、耳に響きました。

「……タカシ?」

おそるおそる、暗がりに声をかけても、返事はありません。

誰も、その中へ、入っていく勇気は、ありませんでした。

タカシが出てきたのは、それから、たっぷり三十分は経った頃でした。

暗がりの中から、ぬっと、その姿が現れたのです。

私たちは、ほっとして、駆け寄りました。

でも、タカシの様子は、明らかに、おかしかったのです。

顔から、血の気が、すっかり引いていました。

汗ひとつ、かいていないのです。あんなに暑い日だったのに。

「おまえ、三十分も入ってたんだぞ。心配しただろ」

私がそう言うと、タカシは、不思議そうな顔をしました。

「何言ってんだよ。俺、ちょっと、目をつぶってただけだぜ」

その声は、震えていました。

「ほんの、一分くらいだろ。なあ、そうだろ?」

タカシの服には、なぜか、湿った泥が、点々とついていました。

あの、墨のように黒い泥でした。

そして、彼の髪からは、かすかに、水の腐ったような匂いが、していました。

沼の、匂いでした。

私たちは、何も、答えられませんでした。

タカシは、その日のことを、二度と話そうとしませんでした。

私が、暗がりの中で何を見たのか、と尋ねても、ただ首を横に振るばかりでした。

一度だけ、ぽつりと、こう言ったことがあります。

「中にな、もう一人、俺がいたんだ」

その言葉を聞いたとき、私の背筋を、冷たいものが、すっと走りました。

「もう一人の、俺がな。暗がりの真ん中で、こっちを見て、立ってたんだよ」

「そいつ、にやにや笑いながら、手招きしてくるんだ」

タカシの声は、最後まで、震えていました。

それ以上は、何も言いませんでした。

私は、その言葉の意味を、今でも、考え続けています。

暗がりの中に、もう一人の自分がいる。

それは、いったい、どういうことなのでしょう。

鏡のように、自分を映していただけなのか。

それとも、入れ替わろうと、手招きしていたのか。

私には、考えれば考えるほど、分からなくなります。

ただ、引っ越していったタカシが、本当に、私の知るタカシだったのか。

それを思うと、今でも、夜、眠れなくなることがあります。

あの夏、暗がりに入ったのは、タカシだけでした。

出てきたのも、確かに、タカシの姿をしていました。

でも、本当に、同じ人間が、出てきたのでしょうか。

暗がりの中で、二人は、入れ替わってしまったのではないか。

そんな考えが、ふとした拍子に、頭をよぎるのです。

そして、もし入れ替わったのだとしたら。

本物のタカシは、今も、あの暗がりの中で、出口を探し続けているのかもしれません。

そして、その夏が終わる頃、タカシの一家は、急に、町を引っ越していきました。

引っ越しの前の日、タカシは、一度だけ、私の家を訪ねてきました。

玄関先で、彼は、妙に静かな目で、私を見ました。

「おまえは、あの森に、もう行くなよ」

それだけ言って、背を向けました。

その横顔が、私の知っているタカシと、どこか違って見えたのを、今も忘れられません。

挨拶も、何もありませんでした。

ある朝、彼の部屋の窓が、空っぽになっているのに、気づいただけでした。

後で、近所の大人が、こんなことを話しているのを、聞きました。

タカシの母親が「あの子が、あの子じゃないみたいだ」と、おびえていた、と。

森の肝試しの日を境に、タカシは、人が変わってしまったのだそうです。

夜中に、突然、笑い出すようになった、と。

その話を聞いて以来、私は、あの森に、二度と近づきませんでした。

それから、私も大きくなり、町を離れました。

あの森のことも、暗がりのことも、長いあいだ、忘れていました。

先日、仕事で、あの町の近くを通る機会がありました。

懐かしくなって、団地の裏手まで、足を運んでみました。

防風林は、もう、ありませんでした。

道路を広げるために、すっかり切り払われ、平らな歩道になっていました。

少し、寂しい気持ちで、その歩道を歩きました。

そのときです。

横断歩道の、ちょうど真ん中あたりで、ふいに、空気が冷たくなったのです。

足の裏が、一瞬、ぐにゃりと、沈んだ気がしました。

あの、暗がりの感触と、まったく同じでした。

私は、思わず、足を止めました。

周りを、車が、何台も走り抜けていきました。

誰も、その冷たさには、気づいていない様子でした。

私だけが、その場所で、立ちすくんでいました。

足の裏の感覚は、まぎれもなく、三十年前の、あの「あなぐら」のものでした。

見上げると、夏の空が、やけに、明るすぎるほど明るかったのを、覚えています。

信号は、青でした。

行き交う人の中で、私だけが、時間から取り残されたようでした。

その一歩の先に、あの森の冷たさが、口を開けて待っている。

そんな気がして、足が、すくんで動きませんでした。

でも、私は、その場所を、どうしても、踏み越えられませんでした。

森は、なくなったはずです。

それなのに、暗がりだけは、まだ、そこに残っているのでしょうか。

姿を消して、ただ場所だけを、移し替えながら。

今も、あの町のどこかを、息をするように、漂っているのでしょうか。

あれが、いったい何だったのか、私には、いまだに分かりません。

ただ、ひとつだけ、確かなことがあります。

あのとき、暗がりに入ったタカシが見た「もう一人の自分」は、まだ、あの冷たい場所で、誰かが入ってくるのを、静かに待っているのだということです。

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