
中学生の頃、俺は吹奏楽部に入っていた。
運動部のような体格なのに、担当はクラリネットだった。
部員は約四十名。男子は、俺を含めて三、四人しかいなかった。
あの合宿で見た真っ赤な顔面のことを、俺は今も、夢に見る。
夏休みに入ってすぐ、県大会へ向けた強化合宿が、山あいの宿舎で始まった。
蒸し暑い宿舎の五日間
宿舎にエアコンはなく、夜でも蒸し暑かった。
窓を開けると、羽虫が、電灯に群がって入り込んでくる。
畳には、前の団体の汗の匂いが、染みついていた。
それでも、県大会で良い成績を取りたかった。
皆で我慢して、朝から晩まで、音を合わせた。
クラリネットのリードは、湿気で、すぐにへたった。
夕方の合奏のあと、廊下の窓から、山の稜線が暗い紫に沈んでいくのを見るのが好きだった。
湖は、その稜線の下に、黒い板のように横たわっていた。
宿舎から歩いて十分ほど。夜になると、冷たい水の匂いが、風に乗って廊下まで届いた。
向こう岸には街灯ひとつなく、葦原だけが、闇の中に広がっていた。
同じパートのS子は、第一パートの首席だった。
指の動きが速く、息継ぎの場所を、誰よりも正確に守る人だった。
楽譜に赤い鉛筆で、息継ぎの印をつける癖があった。
その印の数が、そのまま彼女の練習量だった。
合宿三日目、俺は譜面台の前で、S子に訊いたことがある。
「S子は、緊張しないの?」
「するよ。だから、息継ぎの場所を、全部決めておくの」
「迷う場所が少ないほうが、怖くないから」
彼女はそう言って、小さく笑った。
宿舎の管理人は、七十歳くらいの、日に焼けた老人だった。
合宿の初日、老人は食堂の入り口で、俺たちを見回して言った。
「夜の湖には、近づいてもええが、向こう岸は見るもんじゃねえ」
「花火の光で、向こうを見るのが、いちばんいかん」
顧問の先生が、笑って頭を下げた。
「はい、気をつけます」
部員たちは、後ろで肘をつつき合って笑っていた。
俺も笑った。意味が、分からなかったからだ。
合宿は、四日目まで、何事もなく過ぎた。
五日目の夜までは。
花火に行かなかったS子
五日目の夕方、練習が終わると、先生が言った。
「今夜は、湖で花火をしよう。最後の思い出作りだ」
部員は歓声を上げた。
ただ、S子だけは、首を振った。
「虫に刺されるから、行きたくない」
白いワンピースに着替えたばかりの彼女は、窓際の布団に座っていた。
「一人で残って、大丈夫?」
「うん。宿舎のほうが、安全でしょ」
仕方なく、俺たちはS子を置いて、湖へ向かった。
暗い道を、懐中電灯を持って歩いた。
S子の友人のA美、K恵と、俺の三人は、列の最後尾だった。
蝉の声が止んで、代わりに蛙が鳴いていた。
道の途中で、A美が足を止めた。
「やっぱり、S子も連れて来ようよ」
「一人にしておくの、嫌な感じがする」
俺たちは、宿舎に引き返した。
玄関の戸は、鍵がかかっていなかった。
A美が二階の部屋に上がって、S子の名前を呼んだ。
返事がない。
布団は、まだ少しだけ温かかった。
枕元の畳に、濡れた足跡が、ひとつだけ残っていた。
素足の、小さな足跡だった。
窓のほうへ向かって、一歩だけ。
トイレにも、食堂にも、風呂場にも、S子はいなかった。
三人で手分けして宿舎中を探したが、どこにも見当たらなかった。
「入れ違いになったのかも」
K恵がそう言い、俺たちは、もう一度、湖へ走った。
向こう岸の真っ赤な顔面
湖には、すでに花火の光が、ちらちらと揺れていた。
火薬の匂いと、水草の匂いが、湿った風に混じっていた。
顧問の先生に、S子を見なかったかと訊いた。
「見たぞ。さっきまで、そこで線香花火をしてたじゃないか」
俺は、背中が冷たくなるのを感じた。
S子は、宿舎にいたはずだ。
さっき触れたばかりの、布団の温かさを思い出した。
あれは、確かに、人の体温だった。
俺たちは、とにかく湖の周りを探すことにした。
ボート乗り場まで歩いたところで、K恵が足を止めた。
「ねえ。あそこ」
向こう岸の、葦の茂みの手前に、誰かが立っていた。
白いワンピースだった。
「S子!」
A美とK恵が、声を合わせて呼んだ。
返事はない。
距離がありすぎて、顔は見えない。
葦の茂みが、風もないのに、さわさわと鳴っていた。
水面に映る花火の色が、向こう岸だけを避けるように、揺れていた。
俺は、目を凝らした。
花火の音が、二度、三度と続いた。
そのたびに、向こう岸は、昼と夜の間で、まばたきのように切り替わった。
光っては消え、消えては光る。
白いワンピースだけが、いつも同じ場所に、同じ向きで、立っていた。
そのとき、遠くで、ドーンと大きな音がした。
打ち上げ花火が、湖面を、昼間のように照らした。
向こう岸の姿が、はっきりと浮かび上がる。
確かに、S子だった。
白いワンピースの裾に、見覚えのある、小さな刺繍があった。
だが、顔が違った。
そこにあるのは、顔ではなかった。
真っ赤な顔面だった。
目も、鼻も、口も、輪郭さえも、赤一色に塗りつぶされている。
絵の具をぶちまけたような、濡れた赤だった。
それでも、見られている、ということだけは分かった。
顔がないのに、はっきりと、こちらを向いていた。
「いやあああ!」
A美が叫んだ。
K恵は、涙をこぼしながら、ただ震えていた。
俺は、二人をその場に置いたまま、森のほうへ走り出した。
A美が、俺の腕をつかもうとした。
その手を、俺は振り払った。
今でも、その感触を覚えている。冷たく湿った、小さな手だった。
足がもつれ、枝が頬を打った。
振り返ることは、できなかった。
気がつくと、花火をしている皆の輪の中に戻っていた。
何を口走ったのか、今でも思い出せない。
後から聞いた話では、俺は「顔が、ない。顔が、ない」と、繰り返していたらしい。
皆の手持ち花火の火が、俺の足もとを、赤く照らしていた。
ボート乗り場の二人
少し落ち着いてから、俺は二人を置いてきたことを思い出した。
「A美とK恵が、ボート乗り場にいる。向こう岸に、S子がいた」
皆は、半信半疑だった。
冗談を言う者もいた。
先生だけは、黙って、険しい顔をしていた。
「真っ赤な顔面だった、なんて言うなよ」
先生は、笑ってそう言ったが、頬が引きつっていた。
線香花火の最後の一粒が、ぽとりと落ちて、先生の足もとで消えた。
全員で、ボート乗り場へ向かった。
夜の湖面は、墨を流したように黒く、花火の残り火だけが、ちらちらと映っていた。
板を踏む足音が、やけに大きく響いた。
A美とK恵は、板の上に倒れていた。
二人とも、息はしていたが、目を開けなかった。
S子の姿は、湖のどこにも、なかった。
その夜は、そのまま宿舎に戻ることになった。
翌朝、先生が警察を呼んだ。
湖の周りを調べてもらうと、ボート乗り場のそばの水底から、S子が見つかった。
すでに、冷たくなっていた。
手には、線香花火の燃えさしが、握られていたという。
湿ったワンピースの裾からは、火薬の匂いがしたそうだ。
警察は、部員に、最後にS子を見た場所を訊いた。
大半は「宿舎」と答えた。
けれど、先生と俺を含めた五人は、「花火の最中の、湖」と答えた。
誰も、S子と話してはいない。
ただ、姿を見たと、全員が言った。
水の中にいた人が、花火の光の下に、どうやって立っていたのか。
誰も、その説明をしてくれなかった。
合宿は、その場で中止になった。
帰りのバスの中で、誰も、楽器のケースを開けようとしなかった。
A美とK恵は、夏休みが終わっても、学校に来なかった。
夏が終わる頃、俺は職員室に呼ばれた。
顧問の先生は、窓の外を見たまま、話し始めた。
「あの晩な、俺も見たんだ」
「花火の最中に、S子は確かにいた。線香花火を持って」
「そのあと、見失った。しばらくして、向こう岸に立っているのに気づいた」
「光の加減だと思った。そう思い込もうとした」
先生の声は、少し震えていた。
背中を向けたまま、ネクタイの先を、何度も指で撚っていた。
「顔がな、赤ペンキを塗ったみたいに、真っ赤だったんだ」
俺は、何も言えなかった。
「管理人さんには、あとで訊いたよ。黙って、花火の跡を片付けていた」
「ただ、一言だけ。見た者の数だけ、向こうは覚えている、ってな」
夜の水辺や赤い色にまつわる話は、ほかにも書いてきた。赤い誘導棒は右を指すと、ずぶ濡れの住人は晴れた朝に帰る。
合宿から戻った日、自分のクラリネットのケースを開けると、楽譜の端に、見覚えのない赤い印がついていた。
息継ぎの印だった。S子の癖の、あの形の。
俺はそれを消せないまま、楽譜ごと、押入れの奥にしまった。
あの湖の花火は、翌年から、禁止になったそうだ。
俺は今でも、花火大会の夜は、水辺へ行かない。
テレビの花火中継でさえ、音を消して観る。
夜空が光るたびに、向こう岸の白いワンピースを、思い出してしまうからだ。