縁の下

その出来事を、私は、いまも、忘れることができません。

もう、ずいぶんと昔の話になります。

当時、私の住んでいた古い借家の隣に、小さな親子が、引っ越してきました。

父親と、五つになったばかりの男の子の、二人暮らしでした。

奥さんは、その子を産んでまもなく、病で亡くなったと、あとから聞きました。

父親は、夜勤の警備の仕事をしていて、夜はいつも、家を空けていました。

だから、夜のあいだだけ、私が、その子を預かることになったのです。

私には、子どもがありませんでしたから、その子は、孫のように、かわいいものでした。

「おばちゃん、こんばんは」と、その子は、いつも、礼儀正しく挨拶しました。

利発で、それでいて、どこか寂しげな目をした子でした。

引っ越してきた日、父親は、深々と頭を下げて、挨拶に来ました。

「夜、子どもを、見ていただけないでしょうか」と、申し訳なさそうに。

事情を聞けば、断れるものでは、ありませんでした。

その子は、父親の後ろに隠れて、私を、じっと見ていました。

「ほら、ご挨拶は」と父親に促され、小さな声で「こんばんは」と言いました。

二人の住む家は、私の家よりも、さらに古い、平屋でした。

畳は、すっかり日に焼けて、雨の日には、かびくさい匂いがしました。

縁側の下、つまり縁の下は、いつも、じめじめと、暗く湿っていました。

その家のことを、近所では、あまり良く言わない人も、いました。

「あの家の縁の下には、何かがいる」という、古い噂でした。

誰も、はっきりとは、口にしませんでしたが。

けれど、当時の私は、そんな噂を、気にも留めていませんでした。

父親の仕事は、思いのほか、帰りが遅くなることが、多いものでした。

約束の時間を、二時間も、三時間も過ぎることが、珍しくありませんでした。

幼い子を、いつまでも起こしておくわけにも、いきません。

私も、年寄りですから、夜更かしは、体にこたえます。

それで、深夜になると、私はその子を、隣の自分の家へ、帰すようになりました。

「お父さんが帰るまで、おうちで、いい子で待っていてね」

そう言うと、その子は、こくりとうなずいて、暗い隣の家へ、戻っていきました。

その小さな背中を見送るたびに、私の胸は、ちくりと痛みました。

本当なら、朝まで、私の家で、預かってやればよかったのです。

けれど、当時の私は、体を悪くしていて、夜通しの世話は、無理でした。

いま思えば、それが、悔やまれてなりません。

あんな小さな子を、毎晩、暗い家に、一人で帰していたのですから。

けれど、いまにして思えば。

あの子は、本当に、一人だったのでしょうか。

私が帰したあと、あの暗い家で。

すぐに、縁の下から、誰かが、出てきていたのだとしたら。

夜、その子が、一人で、親の名を呼んで泣いているのを、私は、何度も聞きました。

「お父さん、お母さん」と、細い声が、薄い壁ごしに、聞こえてくるのです。

その声を聞くたびに、私は、何度、駆けつけてやろうかと、思ったか分かりません。

あるとき、おにぎりを作って、その子に、持っていったことがあります。

その子は、ぱっと、顔を輝かせて、おいしそうに、ほおばりました。

「おばちゃんの、ごはん、あったかいね」

その一言が、いまも、忘れられません。

「ねえ、おばちゃん」と、その子は、ふいに、言いました。

「ひとりでも、もう、さみしくないよ」

私は、けなげなことを言う子だと、その頭を、なでてやりました。

「えらいねえ。お父さんが帰るまで、もう少しの辛抱だよ」

その子は、不思議そうに、私を見上げました。

まるで、なぜ辛抱が必要なのか、分からない、という顔で。

けれど、その子は、首を、横に振って、こう言ったのです。

「ちがうよ。夜になると、あそぶ人が、来てくれるんだ」

「どんな人が、来てくれるの」と、私は、何気なく、聞きました。

その子は、にっこり笑って、答えました。

「やさしい人だよ。ぼくのこと、いちばん、すきな人」

その言葉の意味を、私が、本当に理解したのは、ずっと後のことでした。

そのときは、空想の友達のことだろうと、私は、笑っていました。

いま思えば、その子は、嘘など、一つも、ついていなかったのです。

ところが、ある晩のことでした。

いつものように聞こえていた、その子の泣き声が、ふいに、ぴたりとやんだのです。

そして、かわりに、楽しそうな、笑い声が、聞こえてきました。

きゃっ、きゃっ、と、無邪気に、はしゃぐ声です。

私は、ああ、お父さんが、早く帰ってきたのだな、と思いました。

よかった、よかった、と、胸を、なでおろしたのです。

ところが、それから、しばらく経ってからのことでした。

隣の玄関のほうから、父親の、帰宅する物音が、聞こえてきたのです。

がらがらと、戸の開く音。

「ただいま」という、疲れた、低い声。

「お父さん、おかえりなさい」と、その子が、出迎える声。

私は、思わず、首を、かしげました。

では、さっきの、あの楽しそうな笑い声は、いったい、誰と。

父親に、それとなく、聞いてみたことも、あります。

「お宅に、どなたか、訪ねてこられる方でも」

父親は、けげんな顔で、首を振りました。

「いいえ。私が留守のあいだ、あの子は、いつも一人ですよ」

「親戚も、近くには、おりませんし」

その答えに、私の胸の奥が、ざわりと、ざわめきました。

では、あの子は、本当に、誰と、笑っていたのか。

考えれば考えるほど、分からなくなっていきました。

そういう晩が、それから、幾晩も、続きました。

父親が帰ってくる、その前に。

その子は、決まって、誰かと、楽しそうに、笑っているのです。

聞こえてくる声は、いつも、その子のものだけ。

相手の声は、どんなに耳をすませても、まったく、聞こえませんでした。

気のせいだろうと、私は、何度も、思おうとしました。

きっと、一人で、ぬいぐるみとでも、遊んでいるのだろう、と。

けれど、あの笑い声は、ただの一人遊びの声では、ありませんでした。

確かに、誰かと、じゃれ合っている。

そうとしか、思えない声だったのです。

雨の、ひどく降る晩のことも、ありました。

その夜も、その子の泣き声が、やがて、笑い声に、変わりました。

雨音にまじって、きゃっ、きゃっ、と、はしゃぐ声。

そして、その合間に。

かすかに、子守歌のような、低い声が、聞こえた気が、したのです。

女の人の、声でした。

けれど、その家には、女の人など、いないはずでした。

私は、布団を、頭からかぶって、朝まで、震えていました。

翌朝、雨は、嘘のように、上がっていました。

隣の家からは、いつもどおり、その子の、無邪気な声が聞こえました。

「お父さん、いってらっしゃい」

その明るい声が、かえって、私には、痛々しく感じられました。

あの子は、何も、こわがってなど、いませんでした。

こわがるどころか、毎晩の逢瀬を、心待ちにしていたのです。

とうとう、ある晩、私は、こらえきれなくなりました。

その子の様子を、こっそり、見に行くことに、したのです。

足音を忍ばせて、隣の家の、窓の下まで、近づきました。

そして、そっと、中を、覗いてみたのです。

暗い部屋の中に、その子は、ぽつんと、座っていました。

明かりも、つけずに。

そして、誰もいない、暗がりに向かって。

何かを、しきりに、話しかけているのです。

うん、うん、と、うなずいては、楽しそうに、笑っています。

まるで、すぐ目の前に、誰かが、座っているかのように。

その子の口が、何度も、楽しそうに、動いていました。

「うん」「あのね」「きいて、きいて」と。

暗くて、表情までは、見えません。

けれど、その小さな体は、確かに、誰かのほうへ、傾いていました。

見えない誰かに、甘えるように。

けれど、その子のまわりには、誰の姿も、ありませんでした。

がらんとした、暗い部屋に、その子が、一人。

私は、ぞっとして、思わず、その場を、離れました。

けれど、立ち去ろうとした、そのときでした。

部屋の、床の下のほうから、かすかな音が、聞こえたのです。

ずる、ずる、と。

何か重いものが、ゆっくりと、這うような音でした。

そして、ひやりと、冷たい風が、私の足もとを、抜けていきました。

真夏だというのに、その風だけが、氷のように、冷たいのです。

足首のあたりが、ぞわりと、粟立ちました。

風は、確かに、縁の下のほうから、吹いてきていました。

その風には、湿った土の、墓場のような匂いが、まじっていました。

窓のなかでは、あいかわらず、その子が、笑っています。

暗がりに向かって、両手を、広げていました。

まるで、誰かに、抱きついていくように。

私は、もう、見ていることが、できませんでした。

翌朝、私は、思いきって、父親に、そのことを話しました。

父親は、はじめ、まともに、取り合いませんでした。

「子どもの、ひとり言でしょう」と、力なく、笑っていました。

けれど、私の、よほど真剣な顔を見て、思うところがあったようです。

その晩、父親は、子どもに、そっと、尋ねてくれたそうです。

「お前は、毎晩、いったい、誰と、話しているんだ」

その子は、きょとんとした顔で、こう答えたといいます。

「お母さんだよ」

父親は、その一言に、言葉を、失いました。

「僕が、寂しくて泣いてると、お母さんが、来てくれるの」

「ぎゅっと抱っこしたり、頬っぺたを、すりすりしてくれるんだ」

その子は、それを、心から、うれしそうに、話したそうです。

父親は、その晩、ひと晩じゅう、眠れなかったといいます。

翌朝、私の家に来た父親の顔は、紙のように、白くなっていました。

「あの子の、母親の口ぐせが、ありましてね」と、父親は言いました。

「寂しいときは、ぎゅっと抱っこして、頬ずりしてやる、と」

「その通りのことを、あの子は、話したんです」

その口ぐせを、その子は、まだ赤ん坊の頃に、聞いていたはずもありません。

母親が亡くなったのは、その子が、生後すぐのことだったからです。

顔も、声も、覚えているはずが、ないのです。

それなのに、その子は、母親を、はっきりと知っていました。

毎晩、会っていたのですから、当然のことかもしれません。

父親の手が、湯のみを持ったまま、小刻みに、震えていました。

「いっそ、引っ越そうかとも、思いました」と、父親は言いました。

「ですが、もし、あれが、本当に、あの子の母親なら」

「無理に引き離すのは、かえって、むごい気もするのです」

父親の目には、うっすらと、涙が、にじんでいました。

「だから、せめて、私が、そばにいてやろうと思います」

「私がいれば、あの子は、もう、寂しくないはずですから」

その言葉のとおり、父親は、約束を、守りました。

どんなに仕事がきつくても、夜だけは、必ず、家にいたのです。

父と子が、川の字ならぬ、二人で寄り添って眠る。

その、ささやかな日常が、あの子を、守ったのだと思います。

その言葉に、私は、ただ、うなずくしか、ありませんでした。

父親は、声を、震わせながら、もう一つ、尋ねました。

「それで……お母さんは、どこから、入ってくるんだ」

その子は、にっこりと笑って、部屋の隅のほうを、指さしました。

古いその家の、縁の下にあたる、暗い一角を。

「あの下から」

「にこにこ笑って、這って出てくるよ」

それを聞いた父親は、その場に、へなへなと、座り込んでしまったそうです。

次の日、父親は、長く続けた、夜勤の仕事を、辞めました。

昼間の仕事に変えて、夜は、必ず、家にいるように、したのです。

それからというもの、あの楽しそうな笑い声を、聞くことは、なくなりました。

その子も、夜中に、泣くことが、なくなりました。

父親が、いつもそばに、いてくれるように、なったからでしょう。

私も、心から、ほっと、いたしました。

あれは、いったい、何だったのでしょう。

亡くなった母親が、寂しがる我が子を、案じて、戻ってきたのでしょうか。

だとしたら、それは、こわい話ではなく、むしろ、優しい話なのかもしれません。

母の情というものは、死をも越えるのだと、そう思えば、胸が温かくもなります。

子を思う気持ちに、生きている、死んでいるは、関係ないのかもしれません。

寂しさで泣く我が子を、母親が、放っておけるはずも、ないのです。

だから、私は、あれを、ただ恐ろしいだけのものとは、思いたくありません。

けれど、それでも。

けれど、私には、一つだけ、どうしても、気にかかることが、あるのです。

その子が、指さした、縁の下。

母親の亡骸は、とうの昔に、お墓の中に、おさまっているはずです。

それなのに、なぜ、よりにもよって。

あんなに、暗くて、冷たい、床の下から。

這って、出てくるのでしょう。

いまも、それを思うたびに、私は、背筋が、すうっと、寒くなるのです。

あの子は、その後、すくすくと、育ちました。

引っ越していくとき、もう、あの寂しげな目は、していませんでした。

父親と手をつなぎ、私に、元気よく、手を振ってくれました。

「おばちゃん、ありがとう」と。

その姿に、私は、ようやく、胸をなでおろしたものです。

ただ、あの家は、その後、長く、空き家のままでした。

借り手が、何人か来ても、なぜか、すぐに、出ていってしまうのです。

みな、口をそろえて、こう言ったそうです。

「夜になると、床の下から、子どもをあやす声が、聞こえる」と。

その話を聞いたとき、私は、思わず、手を合わせました。

あの母親は、まだ、待っているのでしょうか。

もう、誰もいない、あの古い家の、縁の下で。

あの冷たく湿った闇の中で、ひとり。

誰かが、優しい声で、子守歌を、口ずさんでいる。

その光景を想像すると、私は、いまでも、眠れなくなるのです。

あやしてやるべき、我が子の帰りを、いまも、じっと。

そう思うと、悲しいような、こわいような、何とも言えない気持ちになります。

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