その出来事を、私は、いまも、忘れることができません。
もう、ずいぶんと昔の話になります。
当時、私の住んでいた古い借家の隣に、小さな親子が、引っ越してきました。
父親と、五つになったばかりの男の子の、二人暮らしでした。
奥さんは、その子を産んでまもなく、病で亡くなったと、あとから聞きました。
父親は、夜勤の警備の仕事をしていて、夜はいつも、家を空けていました。
だから、夜のあいだだけ、私が、その子を預かることになったのです。
私には、子どもがありませんでしたから、その子は、孫のように、かわいいものでした。
「おばちゃん、こんばんは」と、その子は、いつも、礼儀正しく挨拶しました。
利発で、それでいて、どこか寂しげな目をした子でした。
引っ越してきた日、父親は、深々と頭を下げて、挨拶に来ました。
「夜、子どもを、見ていただけないでしょうか」と、申し訳なさそうに。
事情を聞けば、断れるものでは、ありませんでした。
その子は、父親の後ろに隠れて、私を、じっと見ていました。
「ほら、ご挨拶は」と父親に促され、小さな声で「こんばんは」と言いました。
二人の住む家は、私の家よりも、さらに古い、平屋でした。
畳は、すっかり日に焼けて、雨の日には、かびくさい匂いがしました。
縁側の下、つまり縁の下は、いつも、じめじめと、暗く湿っていました。
その家のことを、近所では、あまり良く言わない人も、いました。
「あの家の縁の下には、何かがいる」という、古い噂でした。
誰も、はっきりとは、口にしませんでしたが。
けれど、当時の私は、そんな噂を、気にも留めていませんでした。
※
父親の仕事は、思いのほか、帰りが遅くなることが、多いものでした。
約束の時間を、二時間も、三時間も過ぎることが、珍しくありませんでした。
幼い子を、いつまでも起こしておくわけにも、いきません。
私も、年寄りですから、夜更かしは、体にこたえます。
それで、深夜になると、私はその子を、隣の自分の家へ、帰すようになりました。
「お父さんが帰るまで、おうちで、いい子で待っていてね」
そう言うと、その子は、こくりとうなずいて、暗い隣の家へ、戻っていきました。
その小さな背中を見送るたびに、私の胸は、ちくりと痛みました。
本当なら、朝まで、私の家で、預かってやればよかったのです。
けれど、当時の私は、体を悪くしていて、夜通しの世話は、無理でした。
いま思えば、それが、悔やまれてなりません。
あんな小さな子を、毎晩、暗い家に、一人で帰していたのですから。
けれど、いまにして思えば。
あの子は、本当に、一人だったのでしょうか。
私が帰したあと、あの暗い家で。
すぐに、縁の下から、誰かが、出てきていたのだとしたら。
夜、その子が、一人で、親の名を呼んで泣いているのを、私は、何度も聞きました。
「お父さん、お母さん」と、細い声が、薄い壁ごしに、聞こえてくるのです。
その声を聞くたびに、私は、何度、駆けつけてやろうかと、思ったか分かりません。
あるとき、おにぎりを作って、その子に、持っていったことがあります。
その子は、ぱっと、顔を輝かせて、おいしそうに、ほおばりました。
「おばちゃんの、ごはん、あったかいね」
その一言が、いまも、忘れられません。
「ねえ、おばちゃん」と、その子は、ふいに、言いました。
「ひとりでも、もう、さみしくないよ」
私は、けなげなことを言う子だと、その頭を、なでてやりました。
「えらいねえ。お父さんが帰るまで、もう少しの辛抱だよ」
その子は、不思議そうに、私を見上げました。
まるで、なぜ辛抱が必要なのか、分からない、という顔で。
けれど、その子は、首を、横に振って、こう言ったのです。
「ちがうよ。夜になると、あそぶ人が、来てくれるんだ」
「どんな人が、来てくれるの」と、私は、何気なく、聞きました。
その子は、にっこり笑って、答えました。
「やさしい人だよ。ぼくのこと、いちばん、すきな人」
その言葉の意味を、私が、本当に理解したのは、ずっと後のことでした。
そのときは、空想の友達のことだろうと、私は、笑っていました。
いま思えば、その子は、嘘など、一つも、ついていなかったのです。
※
ところが、ある晩のことでした。
いつものように聞こえていた、その子の泣き声が、ふいに、ぴたりとやんだのです。
そして、かわりに、楽しそうな、笑い声が、聞こえてきました。
きゃっ、きゃっ、と、無邪気に、はしゃぐ声です。
私は、ああ、お父さんが、早く帰ってきたのだな、と思いました。
よかった、よかった、と、胸を、なでおろしたのです。
ところが、それから、しばらく経ってからのことでした。
隣の玄関のほうから、父親の、帰宅する物音が、聞こえてきたのです。
がらがらと、戸の開く音。
「ただいま」という、疲れた、低い声。
「お父さん、おかえりなさい」と、その子が、出迎える声。
私は、思わず、首を、かしげました。
では、さっきの、あの楽しそうな笑い声は、いったい、誰と。
父親に、それとなく、聞いてみたことも、あります。
「お宅に、どなたか、訪ねてこられる方でも」
父親は、けげんな顔で、首を振りました。
「いいえ。私が留守のあいだ、あの子は、いつも一人ですよ」
「親戚も、近くには、おりませんし」
その答えに、私の胸の奥が、ざわりと、ざわめきました。
では、あの子は、本当に、誰と、笑っていたのか。
考えれば考えるほど、分からなくなっていきました。
※
そういう晩が、それから、幾晩も、続きました。
父親が帰ってくる、その前に。
その子は、決まって、誰かと、楽しそうに、笑っているのです。
聞こえてくる声は、いつも、その子のものだけ。
相手の声は、どんなに耳をすませても、まったく、聞こえませんでした。
気のせいだろうと、私は、何度も、思おうとしました。
きっと、一人で、ぬいぐるみとでも、遊んでいるのだろう、と。
けれど、あの笑い声は、ただの一人遊びの声では、ありませんでした。
確かに、誰かと、じゃれ合っている。
そうとしか、思えない声だったのです。
雨の、ひどく降る晩のことも、ありました。
その夜も、その子の泣き声が、やがて、笑い声に、変わりました。
雨音にまじって、きゃっ、きゃっ、と、はしゃぐ声。
そして、その合間に。
かすかに、子守歌のような、低い声が、聞こえた気が、したのです。
女の人の、声でした。
けれど、その家には、女の人など、いないはずでした。
私は、布団を、頭からかぶって、朝まで、震えていました。
翌朝、雨は、嘘のように、上がっていました。
隣の家からは、いつもどおり、その子の、無邪気な声が聞こえました。
「お父さん、いってらっしゃい」
その明るい声が、かえって、私には、痛々しく感じられました。
あの子は、何も、こわがってなど、いませんでした。
こわがるどころか、毎晩の逢瀬を、心待ちにしていたのです。
※
とうとう、ある晩、私は、こらえきれなくなりました。
その子の様子を、こっそり、見に行くことに、したのです。
足音を忍ばせて、隣の家の、窓の下まで、近づきました。
そして、そっと、中を、覗いてみたのです。
暗い部屋の中に、その子は、ぽつんと、座っていました。
明かりも、つけずに。
そして、誰もいない、暗がりに向かって。
何かを、しきりに、話しかけているのです。
うん、うん、と、うなずいては、楽しそうに、笑っています。
まるで、すぐ目の前に、誰かが、座っているかのように。
その子の口が、何度も、楽しそうに、動いていました。
「うん」「あのね」「きいて、きいて」と。
暗くて、表情までは、見えません。
けれど、その小さな体は、確かに、誰かのほうへ、傾いていました。
見えない誰かに、甘えるように。
けれど、その子のまわりには、誰の姿も、ありませんでした。
がらんとした、暗い部屋に、その子が、一人。
私は、ぞっとして、思わず、その場を、離れました。
けれど、立ち去ろうとした、そのときでした。
部屋の、床の下のほうから、かすかな音が、聞こえたのです。
ずる、ずる、と。
何か重いものが、ゆっくりと、這うような音でした。
そして、ひやりと、冷たい風が、私の足もとを、抜けていきました。
真夏だというのに、その風だけが、氷のように、冷たいのです。
足首のあたりが、ぞわりと、粟立ちました。
風は、確かに、縁の下のほうから、吹いてきていました。
その風には、湿った土の、墓場のような匂いが、まじっていました。
窓のなかでは、あいかわらず、その子が、笑っています。
暗がりに向かって、両手を、広げていました。
まるで、誰かに、抱きついていくように。
私は、もう、見ていることが、できませんでした。
※
翌朝、私は、思いきって、父親に、そのことを話しました。
父親は、はじめ、まともに、取り合いませんでした。
「子どもの、ひとり言でしょう」と、力なく、笑っていました。
けれど、私の、よほど真剣な顔を見て、思うところがあったようです。
その晩、父親は、子どもに、そっと、尋ねてくれたそうです。
「お前は、毎晩、いったい、誰と、話しているんだ」
その子は、きょとんとした顔で、こう答えたといいます。
「お母さんだよ」
父親は、その一言に、言葉を、失いました。
「僕が、寂しくて泣いてると、お母さんが、来てくれるの」
「ぎゅっと抱っこしたり、頬っぺたを、すりすりしてくれるんだ」
その子は、それを、心から、うれしそうに、話したそうです。
父親は、その晩、ひと晩じゅう、眠れなかったといいます。
翌朝、私の家に来た父親の顔は、紙のように、白くなっていました。
「あの子の、母親の口ぐせが、ありましてね」と、父親は言いました。
「寂しいときは、ぎゅっと抱っこして、頬ずりしてやる、と」
「その通りのことを、あの子は、話したんです」
その口ぐせを、その子は、まだ赤ん坊の頃に、聞いていたはずもありません。
母親が亡くなったのは、その子が、生後すぐのことだったからです。
顔も、声も、覚えているはずが、ないのです。
それなのに、その子は、母親を、はっきりと知っていました。
毎晩、会っていたのですから、当然のことかもしれません。
父親の手が、湯のみを持ったまま、小刻みに、震えていました。
「いっそ、引っ越そうかとも、思いました」と、父親は言いました。
「ですが、もし、あれが、本当に、あの子の母親なら」
「無理に引き離すのは、かえって、むごい気もするのです」
父親の目には、うっすらと、涙が、にじんでいました。
「だから、せめて、私が、そばにいてやろうと思います」
「私がいれば、あの子は、もう、寂しくないはずですから」
その言葉のとおり、父親は、約束を、守りました。
どんなに仕事がきつくても、夜だけは、必ず、家にいたのです。
父と子が、川の字ならぬ、二人で寄り添って眠る。
その、ささやかな日常が、あの子を、守ったのだと思います。
その言葉に、私は、ただ、うなずくしか、ありませんでした。
※
父親は、声を、震わせながら、もう一つ、尋ねました。
「それで……お母さんは、どこから、入ってくるんだ」
その子は、にっこりと笑って、部屋の隅のほうを、指さしました。
古いその家の、縁の下にあたる、暗い一角を。
「あの下から」
「にこにこ笑って、這って出てくるよ」
それを聞いた父親は、その場に、へなへなと、座り込んでしまったそうです。
※
次の日、父親は、長く続けた、夜勤の仕事を、辞めました。
昼間の仕事に変えて、夜は、必ず、家にいるように、したのです。
それからというもの、あの楽しそうな笑い声を、聞くことは、なくなりました。
その子も、夜中に、泣くことが、なくなりました。
父親が、いつもそばに、いてくれるように、なったからでしょう。
私も、心から、ほっと、いたしました。
※
あれは、いったい、何だったのでしょう。
亡くなった母親が、寂しがる我が子を、案じて、戻ってきたのでしょうか。
だとしたら、それは、こわい話ではなく、むしろ、優しい話なのかもしれません。
母の情というものは、死をも越えるのだと、そう思えば、胸が温かくもなります。
子を思う気持ちに、生きている、死んでいるは、関係ないのかもしれません。
寂しさで泣く我が子を、母親が、放っておけるはずも、ないのです。
だから、私は、あれを、ただ恐ろしいだけのものとは、思いたくありません。
けれど、それでも。
けれど、私には、一つだけ、どうしても、気にかかることが、あるのです。
その子が、指さした、縁の下。
母親の亡骸は、とうの昔に、お墓の中に、おさまっているはずです。
それなのに、なぜ、よりにもよって。
あんなに、暗くて、冷たい、床の下から。
這って、出てくるのでしょう。
いまも、それを思うたびに、私は、背筋が、すうっと、寒くなるのです。
あの子は、その後、すくすくと、育ちました。
引っ越していくとき、もう、あの寂しげな目は、していませんでした。
父親と手をつなぎ、私に、元気よく、手を振ってくれました。
「おばちゃん、ありがとう」と。
その姿に、私は、ようやく、胸をなでおろしたものです。
ただ、あの家は、その後、長く、空き家のままでした。
借り手が、何人か来ても、なぜか、すぐに、出ていってしまうのです。
みな、口をそろえて、こう言ったそうです。
「夜になると、床の下から、子どもをあやす声が、聞こえる」と。
その話を聞いたとき、私は、思わず、手を合わせました。
あの母親は、まだ、待っているのでしょうか。
もう、誰もいない、あの古い家の、縁の下で。
あの冷たく湿った闇の中で、ひとり。
誰かが、優しい声で、子守歌を、口ずさんでいる。
その光景を想像すると、私は、いまでも、眠れなくなるのです。
あやしてやるべき、我が子の帰りを、いまも、じっと。
そう思うと、悲しいような、こわいような、何とも言えない気持ちになります。