公園の違和感

その公園の前を通るのは、いつも、夜の十一時を過ぎた頃でした。

残業続きだった私は、最寄り駅から自宅まで、毎晩その道を歩いて帰っていました。

駅から十五分ほどの、住宅街のなかほどに、その小さな公園はあります。

ブランコと、砂場と、塗装の剥げた古い滑り台が、ぽつんとあるだけの公園です。

昼間は、近所の子どもたちの声で、にぎやかなのでしょう。

けれど、私が通る深夜には、いつも、しんと静まり返っていました。

白い街灯の光が、誰もいない砂場を、ぼんやりと照らしているだけです。

すぐ脇の自動販売機が、低い音で、ぶうんと唸っていました。

その単調な音だけが、深夜の住宅街に、ずっと響いています。

たまに、どこかの家の風鈴が、ちりん、と鳴ることがありました。

季節外れの風鈴の音は、なぜか、ひどく寂しく聞こえたものです。

私はその横を、毎晩、特に何を思うでもなく、足早に通り過ぎていました。

怖いと感じたことなど、それまで、一度もありませんでした。

仕事仲間には、夜道が怖くないのかと、よく聞かれました。

「平気ですよ。何年も、同じ道を歩いていますから」

そう笑って答えるのが、いつもの私でした。

暗い夜道よりも、終わらない仕事のほうが、よほど怖い。

当時の私は、本気で、そう思っていたのです。

あの晩を、迎えるまでは。

その日も、私はいつものように、駅からの道を歩いていました。

冷たい風が、よく吹く、十月の終わりの夜でした。

街路樹の葉が、かさかさと、足もとを転がっていきました。

やがて、道の先に、あの公園の街灯の光が、見えてきました。

そのとき、私は、なぜか、ふと足を止めてしまったのです。

なんだか、いつもと、様子が違うように感じられました。

何が違うのか、すぐには、自分でも分かりませんでした。

ただ、目の前の景色全体に、ぼんやりとした違和感があったのです。

見慣れた一枚の絵の、どこか一か所だけが、間違って描かれているような。

そんな、据わりの悪い感覚でした。

私はその正体を確かめようと、ゆっくりと、公園のほうへ近づいていきました。

一歩、また一歩と、近づくたびに、足が、重くなっていきました。

引き返したほうがいい。

頭のどこかでは、そう、警告する声がしていました。

それでも、確かめずにはいられない。

人というのは、不思議なもので、怖いものほど、見てしまうのです。

そのときの私も、まさに、そうでした。

近づくにつれ、自動販売機の唸りさえ、聞こえなくなっていきました。

世界から、少しずつ、音が、消えていくようでした。

残ったのは、自分の、浅い呼吸の音だけ。

その静けさは、耳を、押さえつけられているようでした。

近づくにつれて、違和感の正体が、少しずつ、分かってきました。

公園のすぐそばに、一本の電柱が立っています。

その電柱だけが、妙に、長く見えるのです。

周りに並ぶ電柱より、頭一つ分ほど、高く伸びているように思えました。

きっと、目の錯覚だろうと、私は自分に言い聞かせました。

街灯の頼りない光と、夜の闇とが、そう見せているだけだと。

けれど、近づくほどに、その違和感は、消えるどころか強くなっていきました。

そして、十分に近づいたとき、私は、気づいてしまったのです。

電柱が、長いのではありませんでした。

その電柱の、いちばん上に。

何かが、立っていたのです。

街灯のわずかな光が、それを、ぼんやりと照らし出していました。

長い、黒い髪。

喪服のような、黒い着物。

一人の女が、その細い電柱のてっぺんに、立っていました。

前のめりに、いまにも落ちそうな姿勢で、じっと。

こんな細いものの上に、なぜ立っていられるのか。

そんなことを、考える余裕は、私にはありませんでした。

その顔が、まっすぐ、こちらを向いていたからです。

血の気のない、のっぺりとした、青白い顔でした。

そして、その口もとが、かすかに、笑っているように見えたのです。

けれど、その目は、笑っていませんでした。

二つの目だけが、暗い穴のように、ぽっかりと、こちらを見ていました。

笑った口と、笑わない目。

そのちぐはぐさが、何よりも、恐ろしかったのです。

おかしいのは、それだけでは、ありませんでした。

問題は、その頭の、大きさでした。

電柱の上ですから、私との間には、かなりの距離があるはずです。

それなのに、その顔だけが、すぐ目の前にあるかのように、大きく見えました。

暗闇の中から、その顔だけが、ぬっと飛び出しているような。

まるで、望遠鏡を、逆さに覗いているような感覚でした。

遠いはずのものが、近い。

近いはずの地面が、遠い。

世界の縮尺が、その一点だけ、壊れていました。

そのとき、私は、はっきりと理解しました。

あれは、人ではない。

人の形をした、まったく別の何かなのだと。

遠近の感覚が、ぐにゃりと、狂っていました。

私は、とっさに、目をそらしました。

見てはいけない、と。

理屈ではなく、自分の体が、そう叫んでいたのです。

私は、うつむいたまま、足を速めました。

心臓が、痛いほどの速さで、打っていました。

背後の電柱を、振り返ることは、どうしてもできませんでした。

振り返ったら、あの女と、目が合ってしまう。

そんな気がして、ならなかったのです。

気がつくと、あれほど吹いていた風が、ぴたりと、止んでいました。

葉の転がる音も、もう、聞こえませんでした。

いま思えば、その数日前にも、小さな異変はありました。

風のない夜なのに、公園のブランコが、ひとりでに揺れていたのです。

きい、きい、と、錆びた鎖の鳴る音が、闇に響いていました。

そのときは、野良猫でも乗ったのだろうと、気にも留めませんでした。

もう一つ、覚えていることがあります。

あの公園のそばだけ、いつも、湿った土のにおいが、濃く漂っていました。

雨も降っていないのに、まるで、墓地のような、土のにおいでした。

その晩、私は、逃げるように、近くのコンビニへ駆け込みました。

明るい店内に入って、ようやく、人心地がついたのです。

顔なじみの店員さんが、私の様子を見て、声をかけてくれました。

「お客さん、顔色が、真っ青ですよ。大丈夫ですか」

「ええ、少し……公園のほうで、変なものを、見た気がして」

そう言うと、店員さんは、ふと、レジの手を止めました。

「あの公園には、夜、あまり近づかないほうが、いいですよ」

それ以上は、何も、言ってくれませんでした。

レジ袋を受け取るとき、店員さんは、もう一度だけ、言いました。

「もし、見てしまったら。目を、合わせないことです」

その声は、半分は、私への忠告のようでした。

けれど、もう半分は、自分自身に言い聞かせているようにも、聞こえました。

この人も、見たことがあるのかもしれない。

そう思うと、明るい店内が、急に、心細く感じられました。

自分の足音だけが、しんとした夜に、やけに大きく響いていました。

その夜のことを、私は、誰にも話しませんでした。

話したところで、信じてもらえるとは、思えなかったからです。

翌日、私は、明るい昼間に、もう一度あの公園を訪れました。

昨夜のことが、どうしても、信じられなかったからです。

きっと、疲れて、見間違えたのだ。

そう、自分を、納得させたかったのだと思います。

問題の電柱は、すぐに見つかりました。

そして、それを見上げて、私は立ちすくみました。

その電柱は、周りの電柱と、まったく同じ高さだったのです。

頭一つ分、高いなどということは、ありませんでした。

どこにでもある、ごく普通の電柱でした。

普通だったことが、かえって、私をぞっとさせました。

昨夜、あの電柱は、確かに、長く見えたのです。

それは、てっぺんに、あの女が立っていたからにほかなりません。

女が立っていた分だけ、電柱が、高く見えていたのです。

つまり、あれは、見間違いなどではなかった。

昼間の、何の変哲もないその電柱が、その事実を、突きつけてきました。

私は、その場に、長くとどまっていることが、できませんでした。

逃げるように、その公園を、後にしました。

家に着いてからも、心臓の鼓動は、なかなか収まりませんでした。

手のひらが、じっとりと、汗ばんでいました。

鍵を閉め、明かりを全部つけても、安心はできませんでした。

あの青白い顔が、瞼の裏に、はっきりと焼きついていたのです。

目を閉じると、笑った口と、暗い穴のような目が、浮かびます。

あの夜から、私は、暗い場所が、苦手になりました。

とりわけ、高いものを、見上げることが。

帰りかけたとき、公園の向かいの家から、年配の女性が出てきました。

近所に、長く住んでいる方のようでした。

私は、思いきって、その方に声をかけてみました。

「あの、つかぬことを、お伺いしますが」

「この公園で、何か、変わったことは、ありませんでしたか」

女性は、私の顔を、しばらく、じっと見つめていました。

それから、ふいに、声をひそめて言ったのです。

「あなた、もしかして、夜に、見たんですか」

私が、思わず黙り込むと、女性は、小さく、うなずきました。

「あの電柱の上にいるものはね」

「この、向かいの家を、ずっと、覗いているんですよ」

私は、背筋が、冷たくなりました。

「覗いている、というのは、どういう」

そう尋ねると、女性は、ゆっくりと、首を横に振りました。

「詳しいことは、私にも、分かりません」

「ただ、この土地では、昔から言い伝えられているんです」

「あの電柱だけは、夜、決して見上げてはいけない、と」

女性は、それだけ言うと、そそくさと、家の中に入っていきました。

残された私は、しばらく、その場から動けませんでした。

あとから、近所の古い話を、少しだけ聞くことができました。

その公園のある場所には、昔、一軒の古い家が建っていたそうです。

その家には、一人の女の人が、長く住んでいたといいます。

遠くへ働きに出たきり帰らない、家族の帰りを、待ち続けていたそうです。

来る日も来る日も、その人は、高いところから、道の先を見ていたとか。

家が取り壊され、公園になっても、何かだけが、残ってしまった。

そういう話を、近所の方は、声をひそめて、語ってくれました。

その方も、夜は、決してこちらの窓を開けないのだと言いました。

「目が合うと、こんどは、あちらが、こっちに来るから」

そう言って、その人は、自分の家のほうを、ちらりと見ました。

向かいの家の二階の窓には、ぴたりと、雨戸が閉ざされていました。

真っ昼間だというのに、その一軒だけが。

本当かどうかは、私には、分かりません。

けれど、つじつまは、合っていました。

高いところから、道の先を、見ている。

私が見たものの姿と、その言い伝えは、ぴたりと重なっていたのです。

ただ、あの女が向かいの家を覗いていた理由が、少しだけ、分かった気がしました。

あれはきっと、いまも、誰かの帰りを、待っているのです。

待っているだけなら、まだ、いいのかもしれません。

けれど、もし。

あれが、自分の待ち人と、誰かを、見間違えたとしたら。

覗いていた、向かいの家。

あの家の住人は、いまも、無事なのでしょうか。

それを思うと、私は、いてもたっても、いられなくなります。

その日から、私は、夜の帰り道を、変えました。

あの公園の前を通らず、わざわざ遠回りをして、帰るようにしたのです。

見なければ、関わらなければ、それでいい。

そう、自分に言い聞かせていました。

ところが、ある夜のことです。

私は、とんでもないことに、気づいてしまいました。

私の住む、古いアパートの、すぐ目の前にも。

一本の電柱が、ひっそりと、立っているのです。

それまで、一度も、気に留めたことのない電柱でした。

けれど、一度意識してしまうと、もう、目が離せなくなりました。

夜、その電柱の影が、やけに長く伸びているように見える日があります。

気のせいだと、何度も、自分に言い聞かせました。

それでも、二階の窓の高さと、その電柱のてっぺんは、ちょうど同じくらいでした。

もし、あれが、私の部屋を覗こうとしたら。

ちょうど、目の高さに、なってしまうのです。

それからというもの、私は、夜、窓のカーテンを開けられなくなりました。

もし、開けてしまって。

あの電柱の、いちばん上に、何かがいたら。

そして、その青白い顔が、こちらを向いて、笑っていたら。

そう思うと、私には、どうしても、手が動かないのです。

遠回りの道に変えてからも、安心は、できませんでした。

夜、布団に入ると、遠くから、かすかに、音が聞こえる気がするのです。

きい、きい、という、あのブランコの、鎖の鳴る音が。

風のない夜に限って、その音は、聞こえてくるように思えました。

窓のほうを見ないように、私は、頭から布団をかぶります。

そうしてやり過ごすうちに、いつのまにか、朝になっているのです。

朝の光の中では、すべてが、ばかばかしい思い込みのように思えます。

けれど、日が暮れると、また、あの不安が、戻ってくるのです。

結局、私は、その年のうちに、その町を離れました。

引っ越しの当日、私は、最後にもう一度だけ、あの公園の前を通りました。

もちろん、昼間です。

例の電柱は、何ごともなかったように、青空の下に立っていました。

その根もとには、誰が供えたのか、しおれた花が、一輪だけ置かれていました。

けれど、私は、最後まで、それを見上げることが、できませんでした。

いまも、私は、その確かめる勇気を、持てずにいます。

ところで、あなたの家の、すぐ前にも。

もしかしたら、電柱が、一本、立っていないでしょうか。

もし、立っていたとしても。

その上に、何かがいないと、誰が、言い切れるでしょう。

昼間は、ただの電柱です。

けれど、夜になると、話は別かもしれません。

どうか、夜だけは、その上を、見上げないでください。

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