その公園の前を通るのは、いつも、夜の十一時を過ぎた頃でした。
残業続きだった私は、最寄り駅から自宅まで、毎晩その道を歩いて帰っていました。
駅から十五分ほどの、住宅街のなかほどに、その小さな公園はあります。
ブランコと、砂場と、塗装の剥げた古い滑り台が、ぽつんとあるだけの公園です。
昼間は、近所の子どもたちの声で、にぎやかなのでしょう。
けれど、私が通る深夜には、いつも、しんと静まり返っていました。
白い街灯の光が、誰もいない砂場を、ぼんやりと照らしているだけです。
すぐ脇の自動販売機が、低い音で、ぶうんと唸っていました。
その単調な音だけが、深夜の住宅街に、ずっと響いています。
たまに、どこかの家の風鈴が、ちりん、と鳴ることがありました。
季節外れの風鈴の音は、なぜか、ひどく寂しく聞こえたものです。
私はその横を、毎晩、特に何を思うでもなく、足早に通り過ぎていました。
怖いと感じたことなど、それまで、一度もありませんでした。
仕事仲間には、夜道が怖くないのかと、よく聞かれました。
「平気ですよ。何年も、同じ道を歩いていますから」
そう笑って答えるのが、いつもの私でした。
暗い夜道よりも、終わらない仕事のほうが、よほど怖い。
当時の私は、本気で、そう思っていたのです。
あの晩を、迎えるまでは。
※
その日も、私はいつものように、駅からの道を歩いていました。
冷たい風が、よく吹く、十月の終わりの夜でした。
街路樹の葉が、かさかさと、足もとを転がっていきました。
やがて、道の先に、あの公園の街灯の光が、見えてきました。
そのとき、私は、なぜか、ふと足を止めてしまったのです。
なんだか、いつもと、様子が違うように感じられました。
何が違うのか、すぐには、自分でも分かりませんでした。
ただ、目の前の景色全体に、ぼんやりとした違和感があったのです。
見慣れた一枚の絵の、どこか一か所だけが、間違って描かれているような。
そんな、据わりの悪い感覚でした。
私はその正体を確かめようと、ゆっくりと、公園のほうへ近づいていきました。
一歩、また一歩と、近づくたびに、足が、重くなっていきました。
引き返したほうがいい。
頭のどこかでは、そう、警告する声がしていました。
それでも、確かめずにはいられない。
人というのは、不思議なもので、怖いものほど、見てしまうのです。
そのときの私も、まさに、そうでした。
近づくにつれ、自動販売機の唸りさえ、聞こえなくなっていきました。
世界から、少しずつ、音が、消えていくようでした。
残ったのは、自分の、浅い呼吸の音だけ。
その静けさは、耳を、押さえつけられているようでした。
※
近づくにつれて、違和感の正体が、少しずつ、分かってきました。
公園のすぐそばに、一本の電柱が立っています。
その電柱だけが、妙に、長く見えるのです。
周りに並ぶ電柱より、頭一つ分ほど、高く伸びているように思えました。
きっと、目の錯覚だろうと、私は自分に言い聞かせました。
街灯の頼りない光と、夜の闇とが、そう見せているだけだと。
けれど、近づくほどに、その違和感は、消えるどころか強くなっていきました。
そして、十分に近づいたとき、私は、気づいてしまったのです。
電柱が、長いのではありませんでした。
その電柱の、いちばん上に。
何かが、立っていたのです。
※
街灯のわずかな光が、それを、ぼんやりと照らし出していました。
長い、黒い髪。
喪服のような、黒い着物。
一人の女が、その細い電柱のてっぺんに、立っていました。
前のめりに、いまにも落ちそうな姿勢で、じっと。
こんな細いものの上に、なぜ立っていられるのか。
そんなことを、考える余裕は、私にはありませんでした。
その顔が、まっすぐ、こちらを向いていたからです。
血の気のない、のっぺりとした、青白い顔でした。
そして、その口もとが、かすかに、笑っているように見えたのです。
けれど、その目は、笑っていませんでした。
二つの目だけが、暗い穴のように、ぽっかりと、こちらを見ていました。
笑った口と、笑わない目。
そのちぐはぐさが、何よりも、恐ろしかったのです。
※
おかしいのは、それだけでは、ありませんでした。
問題は、その頭の、大きさでした。
電柱の上ですから、私との間には、かなりの距離があるはずです。
それなのに、その顔だけが、すぐ目の前にあるかのように、大きく見えました。
暗闇の中から、その顔だけが、ぬっと飛び出しているような。
まるで、望遠鏡を、逆さに覗いているような感覚でした。
遠いはずのものが、近い。
近いはずの地面が、遠い。
世界の縮尺が、その一点だけ、壊れていました。
そのとき、私は、はっきりと理解しました。
あれは、人ではない。
人の形をした、まったく別の何かなのだと。
遠近の感覚が、ぐにゃりと、狂っていました。
私は、とっさに、目をそらしました。
見てはいけない、と。
理屈ではなく、自分の体が、そう叫んでいたのです。
※
私は、うつむいたまま、足を速めました。
心臓が、痛いほどの速さで、打っていました。
背後の電柱を、振り返ることは、どうしてもできませんでした。
振り返ったら、あの女と、目が合ってしまう。
そんな気がして、ならなかったのです。
気がつくと、あれほど吹いていた風が、ぴたりと、止んでいました。
葉の転がる音も、もう、聞こえませんでした。
いま思えば、その数日前にも、小さな異変はありました。
風のない夜なのに、公園のブランコが、ひとりでに揺れていたのです。
きい、きい、と、錆びた鎖の鳴る音が、闇に響いていました。
そのときは、野良猫でも乗ったのだろうと、気にも留めませんでした。
もう一つ、覚えていることがあります。
あの公園のそばだけ、いつも、湿った土のにおいが、濃く漂っていました。
雨も降っていないのに、まるで、墓地のような、土のにおいでした。
その晩、私は、逃げるように、近くのコンビニへ駆け込みました。
明るい店内に入って、ようやく、人心地がついたのです。
顔なじみの店員さんが、私の様子を見て、声をかけてくれました。
「お客さん、顔色が、真っ青ですよ。大丈夫ですか」
「ええ、少し……公園のほうで、変なものを、見た気がして」
そう言うと、店員さんは、ふと、レジの手を止めました。
「あの公園には、夜、あまり近づかないほうが、いいですよ」
それ以上は、何も、言ってくれませんでした。
レジ袋を受け取るとき、店員さんは、もう一度だけ、言いました。
「もし、見てしまったら。目を、合わせないことです」
その声は、半分は、私への忠告のようでした。
けれど、もう半分は、自分自身に言い聞かせているようにも、聞こえました。
この人も、見たことがあるのかもしれない。
そう思うと、明るい店内が、急に、心細く感じられました。
自分の足音だけが、しんとした夜に、やけに大きく響いていました。
その夜のことを、私は、誰にも話しませんでした。
話したところで、信じてもらえるとは、思えなかったからです。
※
翌日、私は、明るい昼間に、もう一度あの公園を訪れました。
昨夜のことが、どうしても、信じられなかったからです。
きっと、疲れて、見間違えたのだ。
そう、自分を、納得させたかったのだと思います。
問題の電柱は、すぐに見つかりました。
そして、それを見上げて、私は立ちすくみました。
その電柱は、周りの電柱と、まったく同じ高さだったのです。
頭一つ分、高いなどということは、ありませんでした。
どこにでもある、ごく普通の電柱でした。
※
普通だったことが、かえって、私をぞっとさせました。
昨夜、あの電柱は、確かに、長く見えたのです。
それは、てっぺんに、あの女が立っていたからにほかなりません。
女が立っていた分だけ、電柱が、高く見えていたのです。
つまり、あれは、見間違いなどではなかった。
昼間の、何の変哲もないその電柱が、その事実を、突きつけてきました。
私は、その場に、長くとどまっていることが、できませんでした。
逃げるように、その公園を、後にしました。
家に着いてからも、心臓の鼓動は、なかなか収まりませんでした。
手のひらが、じっとりと、汗ばんでいました。
鍵を閉め、明かりを全部つけても、安心はできませんでした。
あの青白い顔が、瞼の裏に、はっきりと焼きついていたのです。
目を閉じると、笑った口と、暗い穴のような目が、浮かびます。
あの夜から、私は、暗い場所が、苦手になりました。
とりわけ、高いものを、見上げることが。
※
帰りかけたとき、公園の向かいの家から、年配の女性が出てきました。
近所に、長く住んでいる方のようでした。
私は、思いきって、その方に声をかけてみました。
「あの、つかぬことを、お伺いしますが」
「この公園で、何か、変わったことは、ありませんでしたか」
女性は、私の顔を、しばらく、じっと見つめていました。
それから、ふいに、声をひそめて言ったのです。
「あなた、もしかして、夜に、見たんですか」
私が、思わず黙り込むと、女性は、小さく、うなずきました。
「あの電柱の上にいるものはね」
「この、向かいの家を、ずっと、覗いているんですよ」
※
私は、背筋が、冷たくなりました。
「覗いている、というのは、どういう」
そう尋ねると、女性は、ゆっくりと、首を横に振りました。
「詳しいことは、私にも、分かりません」
「ただ、この土地では、昔から言い伝えられているんです」
「あの電柱だけは、夜、決して見上げてはいけない、と」
女性は、それだけ言うと、そそくさと、家の中に入っていきました。
残された私は、しばらく、その場から動けませんでした。
あとから、近所の古い話を、少しだけ聞くことができました。
その公園のある場所には、昔、一軒の古い家が建っていたそうです。
その家には、一人の女の人が、長く住んでいたといいます。
遠くへ働きに出たきり帰らない、家族の帰りを、待ち続けていたそうです。
来る日も来る日も、その人は、高いところから、道の先を見ていたとか。
家が取り壊され、公園になっても、何かだけが、残ってしまった。
そういう話を、近所の方は、声をひそめて、語ってくれました。
その方も、夜は、決してこちらの窓を開けないのだと言いました。
「目が合うと、こんどは、あちらが、こっちに来るから」
そう言って、その人は、自分の家のほうを、ちらりと見ました。
向かいの家の二階の窓には、ぴたりと、雨戸が閉ざされていました。
真っ昼間だというのに、その一軒だけが。
本当かどうかは、私には、分かりません。
けれど、つじつまは、合っていました。
高いところから、道の先を、見ている。
私が見たものの姿と、その言い伝えは、ぴたりと重なっていたのです。
ただ、あの女が向かいの家を覗いていた理由が、少しだけ、分かった気がしました。
あれはきっと、いまも、誰かの帰りを、待っているのです。
待っているだけなら、まだ、いいのかもしれません。
けれど、もし。
あれが、自分の待ち人と、誰かを、見間違えたとしたら。
覗いていた、向かいの家。
あの家の住人は、いまも、無事なのでしょうか。
それを思うと、私は、いてもたっても、いられなくなります。
※
その日から、私は、夜の帰り道を、変えました。
あの公園の前を通らず、わざわざ遠回りをして、帰るようにしたのです。
見なければ、関わらなければ、それでいい。
そう、自分に言い聞かせていました。
ところが、ある夜のことです。
私は、とんでもないことに、気づいてしまいました。
私の住む、古いアパートの、すぐ目の前にも。
一本の電柱が、ひっそりと、立っているのです。
それまで、一度も、気に留めたことのない電柱でした。
けれど、一度意識してしまうと、もう、目が離せなくなりました。
夜、その電柱の影が、やけに長く伸びているように見える日があります。
気のせいだと、何度も、自分に言い聞かせました。
それでも、二階の窓の高さと、その電柱のてっぺんは、ちょうど同じくらいでした。
もし、あれが、私の部屋を覗こうとしたら。
ちょうど、目の高さに、なってしまうのです。
※
それからというもの、私は、夜、窓のカーテンを開けられなくなりました。
もし、開けてしまって。
あの電柱の、いちばん上に、何かがいたら。
そして、その青白い顔が、こちらを向いて、笑っていたら。
そう思うと、私には、どうしても、手が動かないのです。
遠回りの道に変えてからも、安心は、できませんでした。
夜、布団に入ると、遠くから、かすかに、音が聞こえる気がするのです。
きい、きい、という、あのブランコの、鎖の鳴る音が。
風のない夜に限って、その音は、聞こえてくるように思えました。
窓のほうを見ないように、私は、頭から布団をかぶります。
そうしてやり過ごすうちに、いつのまにか、朝になっているのです。
朝の光の中では、すべてが、ばかばかしい思い込みのように思えます。
けれど、日が暮れると、また、あの不安が、戻ってくるのです。
結局、私は、その年のうちに、その町を離れました。
引っ越しの当日、私は、最後にもう一度だけ、あの公園の前を通りました。
もちろん、昼間です。
例の電柱は、何ごともなかったように、青空の下に立っていました。
その根もとには、誰が供えたのか、しおれた花が、一輪だけ置かれていました。
けれど、私は、最後まで、それを見上げることが、できませんでした。
いまも、私は、その確かめる勇気を、持てずにいます。
ところで、あなたの家の、すぐ前にも。
もしかしたら、電柱が、一本、立っていないでしょうか。
もし、立っていたとしても。
その上に、何かがいないと、誰が、言い切れるでしょう。
昼間は、ただの電柱です。
けれど、夜になると、話は別かもしれません。
どうか、夜だけは、その上を、見上げないでください。