クシャクシャ

クシャクシャ

紙を揉む音が、いまでも夜中に聞こえる。

四十年、ずっとだ。

昭和五十八年の秋、わたしは十九で、大阪の玉造にあった製本所で働いていた。

中辻製本という、職人が六人ほどの小さな工場だった。

路地の奥で、隣は畳屋だった。

仕事は、断裁と、丁合と、糊付けの手伝い。

年末が近づくと夜業になる。

夜業は八時から十二時まで、多い日は二時までやった。

紙の粉が、蛍光灯の下でずっと舞っている。

あの匂いは、いまでもすぐに思い出せる。

湿った糊と、切ったばかりの紙の断面の匂いだ。

断裁機は、足踏みで刃を落とす古い型だった。

一度に五百枚を裁つと、腹に響く音がする。

その音のあいだだけ、工場のほかの音が消える。

丁合は手作業だった。

台の上に折丁を並べて、端から順に一枚ずつ取っていく。

指の腹が乾くと取れなくなるので、みんな指サックをはめていた。

わたしは指サックが嫌いで、指を舐めて取っていた。

それを見つけると、親方は決まって顔をしかめた。

「紙は、こっちの水気を吸うんじゃ」

「はあ」

「吸われたぶん、こっちが乾く」

そのときは、単なる衛生の話だと思っていた。

※

親方は、中辻さんという人だった。

当時で六十くらい。

無口で、怒鳴らない人だった。

その代わり、決まりごとには厳しかった。

入って三日目に、こう言われた。

「刷り損じは、その日のうちに畳んで縛れ」

「はい」

「丸めて放っといたらあかん」

「なんでですか」

親方は、束ねた紙の角を揃えながら答えた。

「丸めた紙いうのはな、まだ言うことが残っとる、いうことや」

その言い方が可笑しくて、わたしは笑った。

親方も、少し笑った。

笑ったあとで、こう付け足した。

「言うことが残っとるもんは、聞いてくれる者を探すんや」

「紙がですか」

「紙が、や」

ただ、目は笑っていなかった。

※

もう一つ、親方には妙な癖があった。

帰りぎわに、必ず一度、反故の束の前で立ち止まる。

親方は帰りぎわに、縛った束から一枚だけ紙を抜いて、広げて、それからまた畳んだ。

毎晩だ。

雨の日も、忙しい日も、必ずやった。

先輩に聞いたことがある。

「あれ、何ですのん」

「知らん。癖やろ」

「気持ち悪ないですか」

「四十年やっとるらしいで」

先輩は、それ以上は何も言わなかった。

この工場では、誰も親方の癖を話題にしなかった。

いま思えば、それも変な話だ。

職人が六人しかいない工場で、四十年続いている癖が話題にならないというのは、あり得ない。

誰かが、話題にしないことに決めていたのだと思う。

もう一つ、決まりごとがあった。

夜業のとき、上の棚に灯りを向けてはいけない。

裸電球を吊るす位置も、決まっていた。

棚の下だけが明るくなるように吊る。

上は、暗いままにしておく。

理由は誰も説明しなかった。

※

音に気づいたのは、十月の終わりだった。

その晩は、わたしと先輩の二人で夜業をしていた。

先輩が糊釜の様子を見に奥へ行って、裁ち場にはわたし一人になった。

そのときに、聞こえた。

クシャクシャ、と。

買い物袋を握りつぶすような、乾いた音だった。

鼠かと思った。

古い工場だから、鼠は珍しくない。

断裁機の裏を覗いたが、何もいなかった。

音は、止んでいた。

先輩が戻ってきて、わたしは何も言わなかった。

その晩、帰ってから手を洗った。

石鹸で二度洗っても、紙の匂いが取れなかった。

製本の仕事をしていれば、手に匂いは残る。

ただ、いつもの匂いとは違った。

古い雑誌を、雨に濡らして乾かしたときの匂いに近い。

その日は、うちの工場で古紙を扱っていない。

言うほどのことではないと思った。

※

次に起きたのは、朝だ。

前の晩に自分で縛った反故の束を、たまたま見た。

紐はきちんと掛かっていた。

その束の、上から三枚目くらいのところに、丸まった紙が一枚だけ挟まっていた。

畳んで縛った束の中に、丸めた紙が入るはずがない。

紐を解かないかぎり、抜き差しもできない。

わたしは紐を切って、その一枚を引き出した。

刷り損じの端物だった。

ずいぶん強く握られていて、皺が布のようになっていた。

広げて、余白のところで手が止まった。

字が書いてあった。

鉛筆ではない。

爪か何かで、紙の繊維を潰して書いたような跡だった。

読めなかった。

ひらがなに見えるところもあるが、続けて読むと意味にならない。

気になったのは、行の傾きだ。

左から右へ、少しずつ上がっていく。

下を向いて書いたのではない。

上のほうから、身を乗り出して書いたらこうなる、という角度だった。

※

その紙を、わたしは親方に見せなかった。

叱られると思ったからだ。

丸めて放っておくな、と言われていた矢先に、束の中に丸まった紙がある。

自分の縛り方が悪かったのだと思った。

だから、畳んで、また束に戻した。

いま思えば、そこが分かれ目だった。

畳んだだけで、わたしは広げて置いていない。

親方がやっていたのは、逆の順番だ。

広げてから畳めば、間に一度、開いた時間ができる。

畳んで戻すだけなら、開いた時間はどこにもない。

その差が何を意味するのか、当時のわたしには分からなかった。

広げて、それから畳む。

※

十一月に入って、音は増えた。

最初は裁ち場の隅から。

次は、断裁機の上に積んだ刷り本の山の、そのまた上から。

工場の天井は高くて、棚が二段ある。

上の段には、納品待ちの束を積んでおく。

音は、そこから降りてきた。

ある晩、先輩に聞いてみた。

「あの音、聞こえませんか」

「なんの音や」

「紙、揉んでるみたいな」

先輩は手を止めて、しばらく耳を澄ました。

それから、糊のついた指で、自分の耳の後ろを掻いた。

「聞こえるけど、それ、言うたらあかんやつやで」

「なんでですか」

「言うたら、こっちに用があることになるやろ」

その日から、先輩は夜業を断るようになった。

※

そのころ、事務所の受注台帳を見る用があった。

納品先の住所を写すためだ。

台帳は、昭和二十年代のぶんから残っていた。

ページの端に「刷り直し」という欄がある。

刷り損じが多く出た日に、印をつける欄だった。

その欄に、注文の記載がない日付が、いくつも並んでいた。

仕事が入っていない日に、刷り直しの印だけがある。

数えてみると、その日付はいつも十一月と十二月だった。

暮れの、忙しい時期だ。

そして、どの年も一日だけだった。

わたしは台帳を閉じた。

閉じてから、その年の十一月の欄を、もう一度開いた。

まだ何も書かれていなかった。

※

十一月の半ばに、親方が休んだ。

腰を痛めて、二日ほど来られないという。

その二日目の晩、わたしは一人で夜業をした。

納期が迫っていて、裁ち上げまでやらないと間に合わなかった。

一時を過ぎて、ようやく終わった。

反故が、床に山になっていた。

畳んで縛れば、二十分はかかる。

終電はとうにない。

自転車で帰るにしても、翌朝は七時に来なければならない。

わたしは、山になった反故を両手で押し込むようにして、麻袋に入れた。

畳まなかった。

袋の口を縛って、電気を消して、鍵を掛けて帰った。

そのとき、後ろで音がした気がした。

クシャクシャ、と。

袋の中の紙が落ち着いた音だと、自分に言い聞かせた。

※

次の晩のことは、順番どおりに書く。

その晩、家で目が覚めた。

右手が、何かを握っていた。

枕元に置いた新聞の折り込みだった。

きつく丸まっていた。

広げてみたが、何も書かれていなかった。

わたしはそれを、畳んで、机に置いた。

広げて、それから畳む。

親方の順番でやったつもりだった。

朝には、また丸まっていた。

※

親方はまだ来ていなかった。

八時に工場へ入って、蛍光灯を点けた。

麻袋は、昨日置いた場所にあった。

ただ、口の紐が解けていた。

中の紙が、少しはみ出していた。

はみ出していたのは、全部、丸めた紙だった。

わたしが押し込んだときは、丸めたつもりはない。

押し込んだだけだ。

それを直そうとして、しゃがんだ。

しゃがんだところで、上から音がした。

クシャクシャ。

今度は、はっきりと近かった。

顔を上げた。

断裁機の上の棚に、誰かが横になっていた。

積んだ束の上に、身体を寝かせて、こちらへ顔を出している。

髪が下に垂れていた。

顔の色は、灰を溶いたような色だった。

男か女か、若いか年寄りか、まったく分からなかった。

目だけが、せわしなく動いていた。

その目は、わたしを見ていなかった。

床のあたりを、しきりに探していた。

クシャクシャという音は、その口から出ていた。

息と一緒に、言葉のようなものが混ざっている。

紙を揉む音にしか聞こえないのに、抑揚だけが人の言葉だった。

わたしは、目を逸らそうとした。

逸らし方が分からなかった。

目を動かすという動作を、そのとき完全に忘れていた。

逃げようにも、裁ち場の出口は棚の真下を通る。

足の裏が、床に貼りついていた。

そのあいだ、わたしは一つのことだけを考えていた。

床のあたりを探しているあの目は、何を探しているのか。

昨日、わたしが押し込んだ麻袋は、床にある。

丸めたまま入れた紙が、その中にある。

探しているのは、それではないか。

いや、逆かもしれない。

丸めた者を探しているのかもしれない。

その二つの違いが、そのときのわたしには途方もなく大きかった。

どれくらい経ったか分からない。

棚の上の音が、いったん止んだ。

止んだあと、少し高い音になった。

握りつぶす音ではなく、皺を伸ばす音だった。

紙を、開こうとしている音だ。

それが分かった瞬間のほうが、よほど怖かった。

路地で、隣の畳屋のシャッターが鳴った。

その音で、身体が動いた。

わたしは棚の下を走って抜けた。

抜けるとき、頭の上で、紙が一枚落ちる音がした。

拾わなかった。

鍵も掛けずに、自転車で帰った。

途中の橋の上で、一度だけ振り返った。

路地の奥の窓に、蛍光灯がまだ点いていた。

消してきた覚えはある。

※

翌朝、親方が来ていた。

腰にコルセットを巻いて、いつもの場所に立っていた。

床に散らばった紙を、一枚ずつ広げていた。

広げて、畳んで、揃えて、また次を広げる。

わたしは、その背中に謝った。

「すんません。昨日、片付けんと帰りました」

親方は、手を止めなかった。

「見たか」

「はい」

「そうか」

それだけだった。

しばらくして、こう言われた。

「開いてやらんと、いつまでも丸まったままやろう」

「はい」

「丸まったままのもんは、開けてくれる者を探しよる」

「探して、どうなるんですか」

親方は、そこで初めて手を止めた。

「探されたら、こっちが読まれる」

※

親方は、その三年後に亡くなった。

葬式は、工場の近くの寺であった。

職人が六人と、近所の人が少し。

小さな式だった。

受付を手伝っていたら、奥さんに袖を引かれた。

「あんた、あの人の癖、見とったやろ」

「見とりました」

「聞かんかったの」

「聞きました。開いてやらんと丸まったままや、て」

奥さんは、そう、と言って少し黙った。

葬式の日に、奥さんから聞いた話がある。

親方は戦後すぐ、まだ十代であの工場に入った。

そのとき、上の職人が一人、暮れの忙しい晩に反故を片付けずに帰ったのだそうだ。

その人は、翌日から工場へ来なくなった。

行方は、いまも分かっていないという。

親方はそれ以来、四十年、毎晩一枚だけ広げて畳んでいた。

「あの人はね、代わりに読んどったんやと思います」

奥さんは、そう言って笑った。

笑いながら、指で自分の手の甲を撫でていた。

その撫で方が、紙の皺を伸ばす手つきに似ていた。

「あんた、これから気ぃつけなあかんよ」

「なにをですか」

「一遍でも放っといたら、覚えられるんやて」

「覚えられる、いうのは」

「あの人が、そう言うとっただけ」

奥さんは、それきりその話をしなかった。

帰りに、香典返しの袋を渡された。

紙の袋だった。

電車の中で、わたしはその袋を、無意識に膝の上で丸めていた。

気づいて、広げて、畳んだ。

広げてから畳む。

それが、あの日から四十年の癖になった。

※

工場は、平成のはじめに畳んだ。

わたしは印刷の会社に移って、そのまま定年まで勤めた。

移った先の会社でも、わたしは反故を丸めなかった。

若い者に笑われたことがある。

捨てる紙をわざわざ畳む人は、いまどきいない。

笑われても、やめなかった。

理由を聞かれたら、癖ですと答えた。

あの工場で、誰も親方の癖を話題にしなかった理由が、そのころやっと分かった。

説明すると、聞いた人が同じ決まりごとの中に入ってしまう。

入れてしまったら、こちらの責任になる。

だから、みんな黙っていたのだ。

それから四十年、あの音は月に何度か聞こえる。

たいてい、夜中の一時過ぎだ。

隣の部屋から聞こえる。

猫は飼っていない。

一人暮らしだ。

最初のうちは、確かめに行った。

隣の部屋には、いつも誰もいなかった。

いまは、行かない。

行かなくても、分かるようになったからだ。

去年の冬、目が覚めたときに、音がまだ続いていた。

暗い部屋で、はっきりと聞こえた。

その音を立てていたのは、わたしの右手だった。

掛け布団の端を、指が握って、離して、また握っていた。

眠っているあいだ、ずっとそうしていたらしい。

手を開くと、掌に汗をかいていた。

それだけの話だ。

ただ、朝になって布団を干したら、シーツに皺が寄っていた。

わたしの手が届かない、足元のほうだった。

皺は、細かい字のように見えた。

右のほうへ、少しずつ上がっていた。

あの晩の紙と、同じ角度だった。

四十年前に束へ戻したあの一枚は、工場を畳んだときに処分されたはずだ。

そうであってほしいと思っている。

確かめる手立てはない。

中辻製本の建物は、いまは駐車場になっている。

去年、用があって近くを通った。

路地の奥まで入って、少しだけ立っていた。

畳屋も、もうない。

アスファルトの上に、丸めた紙が一つ落ちていた。

拾わなかった。

拾って広げるのが怖かったのではない。

広げずに、また丸めて置いてしまいそうだったからだ。

広げて伸ばそうとして、やめた。

広げたら、読めてしまう気がしたからだ。

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