仮母女(かもめ)
公開日: 死ぬ程洒落にならない怖い話 | 長編
若干の脚色はありますが、友人の兄の体験を本人目線で書いたものです。
※
今日は彼女の洋子と初めての一泊旅行。と言っても、家から電車で二時間ほどの県内北部にある温泉旅館だが…。
家が厳しく外泊自体が禁止だった洋子が「女友達と行く」と親に嘘を吐いてやっと実現した。
俺はかなりテンション上がりまくりで、頭の中はお花畑状態であった。
※
適当に写真を撮ったり名物の菓子を食べ歩きながら、旅館には15時頃に着いた。
二階建てで小さく古いながらも、一応露天風呂のある旅館だ。
最初の事態は、チェックインの時に起こった。
「いらっしゃいませー。ご予約のお名前は? えー……○○洋子様ですね。……え!?」
旅館の女将さんはかなり驚き、困惑した様子でこちらを見ている。
「あのー。何か……?」
そう俺が尋ねると、非常に焦り困った調子で、
「お客様、失礼ですが、確か女性二名様でご予約を承ったはずですけれども……」
そう言えば、洋子の親がもし旅館に問い合わせた時に(やりかねない親なのだ)嘘がバレないよう、洋子が友達の名前を使って女二名で予約していたのだった。
「あのー、急にその子が来れなくなって……代わりの者なんですが、良いですか?」
洋子が不安そうに尋ねる。
「申し訳ありません、お客様。ご用意させて頂いたお部屋は女性専用のお部屋で……男性のお客様はお泊めできないんですよ。かと言って他の空き部屋もございませんし……」
女将が先程よりやや毅然とした態度でそう答えた。
「そんな……」
温泉旅館に女性専用部屋なんてものが存在することすら初めて知ったし、ウキウキ気分を害されて、俺は少し怒った調子で抗議した。
「申し訳ありません。元々当方が説明不足でしたので……キャンセル料は要りませんから、他のお宿を当たっていただけませんか?」
「そんな……他の旅館は電話してもどこも一杯だったんです。やっとこちらで予約が取れたので、とても楽しみにしていたのに……」
洋子が泣きそうな声で抗議する。
俺もそれに加わる。
「お願いします。妹は本当にこの日を楽しみにしていて、友達が急に都合悪くなって落ち込んでいたので、兄の僕が一緒に来てしまったんです」
俺は何となく「彼氏」と言うよりは印象が良いかと思い、口からでまかせで頼み込んだ。
「あ……ご兄妹でいらっしゃいましたか? ……失礼ですが、何か証明できるものございますか?」
女将の態度がふと緩んだ。
『おっ? 兄妹ならOKなのか?』
俺はこの作戦を通すべく、尚も食い下がった。
「ちょっと今日は何も持ってないんですが……。でも家族風呂は利用しませんし、お部屋だけでも泊めて下さい。お願いします」
家族証明がないと部屋に泊まれないなどという条例はない。
旅館の規約にはあるのかもしれないが……そんなものどうとでもなるだろう。
一時間ほど押し問答した末、最後は洋子の泣き落としも加わり、
「……かしこまりました。ではお泊めしますが……。
あの、大変申し上げにくいのですが、その……いかがわしい行為だけは絶対なさらないで下さいませね。
まあ、ご兄妹ですので当然なさりませんでしょうが……これも一応お伝えする決まりですので……」
やっとのことで女将が折れた。
イライラが頂点に達していた俺は、必殺アイアンクローが炸裂する前に事態が収拾しホッとした。
※
部屋に上がったらもう16時を回っていた。
俺達は早速それぞれ温泉を堪能した。
18時から夕食の海鮮料理に舌鼓を打ち、また温泉に入り、夜になった。
色白で、長い黒髪を後ろで一つにまとめた洋子は、浴衣が本当によく似合っていた。
俺達は女将の忠告を無視して当然いかがわしい行為を楽しみ、23時頃に消灯した。
※
異変は深夜にやって来た。
真夜中、トイレに行きたくなって目が覚めた。
『ちょっと飲み過ぎたかな?』
すぐ隣では洋子が寝息を立てている。
さて、いざ起き上がろうとすると……体が動かない。
金縛りだ。
『やべー。マジで飲み過ぎた? まだ酔ってんのかな?』
隣に洋子が居ることもありそんなに恐怖は感じていなかったので、目だけ動かして部屋の様子をボンヤリ見回した。
……後悔した。
布団の横、洋子を隔てた向こうの壁に押入れがあるのだが、そこが四分の一ほど開いていた。
そこに……そいつが居た。
押入れの襖の隙間から、そいつはこちらを見ていた。
押入れ上段の暗がりに浮かぶ真っ白な女の顔。
髪は肩くらいだろうがぐちゃぐちゃに乱れており、正確にどのくらいの長さか分からない。
確かあの押入れは布団が入っていたところだから、今なら人は入れるだろうが……。
いや、そもそもあれは生きた人にはとても思えない。
女は和服のようなものを着ていた。
襟元しか見えないが、恐らく着物だろう。色はよく分からないが、茶色か黄色のような色だ。
女は物凄く憎悪に満ちた形相でこちらを睨んでいる。
眉は剃っているのか単に薄いのか、とにかく眉がない。
目は般若のようにカッと見開き、瞬き一つせずにジッとこちらを睨んでいる。
そしてその目は……真っ赤だ。眼球全体が真っ赤な血の色に染まっている。
そして黒目部分は……白く透明に濁ったような色をしていた。
以前、眼球全体が白濁していた白内障の人をテレビで見たが、そんな感じの目だ。
だがこいつは、白濁した水晶体の周りを真っ赤な血溜まりが覆い、この世のものとは思えないほど邪悪な醜悪な目をしていた。
「……ひっ!」
俺は声にならない声を漏らした。
目を閉じたかったが、何故か今まで動かせていた目までも自由を奪われてしまった。
『ヤバいヤバいヤバいヤバい!!』
永遠とも思える時間、そいつは俺のことを真っ赤な目で睨み続けていた。
『怖い怖い怖い!!洋子起きてくれ!』
すると女は急に嬉しそうにニターッと顔を歪ませて笑った。
真っ白な手が押入れの襖に掛かる。
ゆっくりと襖が開いて行く。
「カタカタカタ……」
静寂に響くその音が、これは現実に起きていることなのだと妙にリアリティーを与える。
襖が半分ほど開いたところで、女が押入れから降りて来た。
ゆっくりとこちらに近付いて来る。
『怖い怖い怖い!!来るな来るな来るな!!』
俺の頭の中の叫びが聞こえているかの如く、女は楽しそうにニターッと笑う。今度は口を大きく開けて笑っている。
女の口には歯が生えていなかった。
女はまだ若かったが、その歯のない口だけが老婆のような印象を与え、殊更不気味である。
真っ白な顔に、真っ暗な穴のように空いた口。そして、真っ赤な眼球に白濁した瞳。
見ているだけで涙が出るくらい恐ろしかった。
「シュッシュッ」
衣擦れの音と共にゆっくりと女は近付いて来る。
真っ白な手を前方にフラフラと漂わせ、暗闇をまさぐるようにしてやって来る。
とうとう手が届くほどの距離に近付いて来た。
『やられる!』
恐怖と絶望で体中の毛穴が開き、そこから汗が吹き出る。
……しかし、女の目的は俺ではなかった。
女と俺の間に横たわっている洋子。俺の可愛い彼女。
その洋子の枕元に屈み込んだそいつは、真っ赤な目を見開き洋子の顔をジーッと覗き込んでいる。
そしておもむろに、そいつは洋子の瞼の上に人差し指を乗せた。
閉じられた瞼の下にこんもり盛り上がる洋子の眼球を、そいつは人差し指の先でぐぐぐっと押している。
余程力を入れているのか人差し指がプルプル震えており、また洋子の眼球もそれに合わせて痙攣している。
『やめろ!やめてくれ!』
俺の願いも虚しく、「プチッ」という音と共に洋子の瞼から血の涙が流れる。
女はそれを見て、満足そうに真っ赤な目を細めて喜んでいる。
そして、残されたもう片方の眼球を潰しにかかる。
俺の股間に生暖かいものが流れる。
失禁と同時に、ようやく俺は気を失うことができた。
※
翌朝、朝食を知らせる電話の音で目が覚めた。
起きた瞬間、あの女の顔が脳裏にくっきりと浮んだ。
そして失禁の跡と、両目から血を流し気を失っている洋子の姿を認めて、
「うおーーーっっ!!うわーーっ!!」
と叫び声を上げた。
混乱した頭のまま電話を取り、「女が……!目が真っ赤で!彼女の目が……!」
と、訳の解らないことを半狂乱で口走ったのだが、すぐに従業員数人が血相を変えて飛んで来てくれた。
洋子は目に包帯を巻かれ、旅館の車でどこかに連れて行かれた。
何故か救急車は呼んでもらえなかった。
俺は少し落ち着いてから、三畳ほどの従業員休憩室のようなところに通された。
そこには女将が怒ったような、悲しいような顔をして待っていた。
「あなた方、ご兄妹ではなかったのですね。私がお部屋にご案内する前に申し上げた約束を破られた……。つまり……禁忌を犯したことになりますね……」
……そして女将は、この土地にまつわる禁忌……恐ろしい話を聞かせてくれた。
※
以下、旅館の女将の話。
昔、この土地には仮母女(「カモメ」または単に「カモ」と呼ばれていた)という風習があった。
お嫁さんが不妊症で子宝に恵まれない家に、その嫁に代わって子孫を残す女のことだ。
正妻と側室のような感じと思われるかもしれないが、仮母女は純粋にお金で買われた『妊娠・出産』を提供するだけの商品なのである。
仮母女は身売りされた貧しい農家の娘や孤児から成っており、それを仕切っていたのはこの旅館の地主だったという。
旅館の一室で仮母女と男が事を行い、妊娠が判明したら、その日から一年間、仮母女はその夫婦の家で養われる。
栄養失調などで流産すれば、それは各夫婦のカモ管理ができていなかったからということになる。
殆どの仮母女は押入れなどに閉じ込められ、人目に付かないよう養われた。
晴れて出産すれば、お産の翌日には旅館に戻され、また妊娠可能な体に戻り次第仕事に戻る。
今では考えられないような過酷で悲しすぎる労働だ。
だが、悲惨さは更に加速する。
ある年、カモに情が移った男がカモと駆け落ちしたり、また子供に情が移ったカモが子供を攫って逃げるという事件が続発したのだ。
地主は困った挙げ句、ある恐ろしい方法を思い付く。
仮母女の目を潰したのだ。
カモが寝ている隙に、もしくは薬で気を失わせて、その間にカモの目を刃物で刺して潰した。
目に傷を負ったカモの顔は、情が移らないほど醜くなった。
目が見えなくなったカモは、子供を攫って逃げるような真似は到底できなくなった。
醜い顔のカモと事を為すのは男が苦労するため、それ以来殆どの男が自分の嫁をカモ部屋に連れ込み、嫁に協力してもらいながら三人で事を為したという。
時にはカモの醜悪さを際立たせるため、無理矢理全ての歯を抜いたりもした。
既にこの頃から、みんな狂い出していたのかもしれない……。
※
カモの目を潰すようになってから二年ほど経った頃、村に異変が起こった。
今までカモが生んできた子供達が、皆一斉に狂い出したのだ。
目は焦点が定まらず、よだれを垂れ流し、
「ぎょえーー!ぶふふふー……!」
と奇声を発し始めたのだ。
また一部の子供は瞳が白く濁り、視力を失う者も居たという。
カモ以外から生まれた子供には何の異常も見受けられなかったため、「これはカモに原因があるのでは」という噂が立ち、またカモ離れが起きだした。
焦った地主は、有名な医者を呼んだり祈祷師を呼んだり八方手を尽くしたが、一向に原因が判らない。
そんなある日、噂を聞き付けた某寺のお坊様がやって来た。
お坊様は旅館のカモ部屋に集められた、目の潰された女達(当時6人)を一目見るなり、
「何と……酷いことを……」
と言葉を失った。
そして地主に向き直りカッと厳しく睨むと、こう言った。
「この地には、お腹を痛めて生んだ愛する我が子を、一目も拝むことなく亡くなってしまった母の強い怨念が張り付いておる。
このような人外のものが行うような商売は今日これ限りにしないと、その内この土地の人間全ての気が狂ってしまいますぞ」
それを聞いた地主は非常に焦った。
地主の一族もこの土地に沢山住んでいるからだ。
「解りました、お寺様。仮母女業は今日限り二度と行いません。それで、おかしくなった子供達は治るのでしょうか?」
震えた声で尋ねる地主に、お坊様は首を振りながら答えた。
「残念ながら、そう簡単には治らんよ。これまで亡くなった女性の供養をせねばならん」
「墓には一応入れておりますが」
地主が上目遣いで答えると、お坊様はまた首を振って続けた。
「それでは不十分じゃ。まず小さなカゴを用意しなさい」
お坊様の言い付けにならって、地主は女中に硯箱くらいの小さなカゴを持って来させた。
「このカゴに、人の目と同じ大きさの水晶を二つ入れなさい。そう、無念にも潰された女達の目の代わりじゃよ。
それから、その女性達が生んだ子供達のへその緒を当事者達から集めて、同じカゴの中に入れなさい」
地主は狼狽した。
「そんな大きな水晶……しかも二つも……!!いくらかかると思ってるんです?
それに、へその緒を集めるってのも難儀な仕事ですなー。何せへその緒はみんなお客さんに渡してるし、その人達は今うちを恨んでおりますからねー。子供が狂ったのはお前らのせいだーってね」
お坊様は呆れを通り越し、哀しい目をして言った。
「あなたはこれまで私利私欲のために、罪のない女性の目を潰し、望まないのに無理矢理男に体を汚させ、挙げ句母と子を引き離させてきたのですよ。その上、まだお金のことを心配するとは……救いようがない……。
ここに残った目の見えない女性六人は、私が今日から引き取って、お世話させていただきましょう。
あなたが心を入れ替えない限り、この土地の怨念は今後ますます大きくなって行くでしょうな。まさに言葉通り……救いようがなくなります。……今がギリギリ手遅れになる一歩手前ですぞ」
お坊様は静かに、しかし怒りの色を目に湛えてこう諭した。
「……解りました。じゃ、今すぐにでも水晶とへその緒を調達して来ますよ。……で、それをカゴに詰めたらどうするんですか?」
「水晶は亡くなった女性達の目に代わって、またへその緒はその方達が生んだ子供の身代わりとなって、晴れてその姿を拝むことができましょう。
カゴに詰め終わったら、その方々のお墓にお骨と一緒に埋めて供養しておやりなさい」
そして渋々ながらも地主はお坊様の言い付けを守った。
眼球大の水晶二つ(これを買うために土地の半分を売った)と、狂った子供達の親に土下座して回収したへその緒。それらをカゴに入れて仮母女の墓に埋めてやった。
※一説には「カゴの目」→「カゴメ」が訛って「カモメ」となり、後々になって『仮母女』と当て字が使われたとも言われている。
※
それ以降、子供達は段々と元に戻り、会話ができるまでには回復したのだが……。
しかし父母の顔はいつまで経っても認識できなかったらしい。
そしてこの土地で『仮母女』の話は余所には絶対漏らしてはならない禁忌、タブーというものになった。
その後、旅館は裏稼業などに一切手を染めることなく何人かの人の手に渡り、今は女将が切り盛りしているという。
ちなみに今の女将と当時の地主は全く血縁関係はないらしい。
※
ここまで女将の話を聞き、俺は口をやっと開いた。
「ちょっと待って下さいよ。じゃあ昨日の夜、俺らの前に現れたのは、そのカモメ? もうその呪いや怨念は消えてたんじゃないんですか!?」
女将は首を振りながら答える。
「それがね、まだ続きがあるんですよ……」
※
―女将の話の続き。
先述の地主は仮母女の供養後も商売全てが上手く行かなくなり、とうとうこの旅館も土地ごと手放すことになった。
その旅館を引き継いだ者は旅館を改築し、かつてカモ部屋として使われていた一室も客室に改装した。
もう怨念は晴れたと考えられていたからだ。
ところが……その部屋に泊まった者から数々のアレの目撃談が寄せられた。
押入れの中の、真っ赤な目をした歯のない女だ。
旅館の主人は急いで先述のお寺のお坊様に来てもらった。
その部屋に入るなりお坊様は眉をひそめ、すぐに主人に言った。
「今すぐ彼女達のお墓を調べなさい」
主人とお坊様が一緒に仮母女の墓を掘ってみると……果たしてカゴの中の水晶が消えていた。
あの地主がこの地を離れる際に、あろうことか墓を暴き、仮母女の眼球……そう、水晶を盗み出していたのだ。主人は慌てふためいた。
「どっ……どうしましょう!? あの地主、この村を離れて以来、消息が掴めないって話ですぜ。しかも私には、あんな水晶を買うようなお金なんてありませんよ!」
お坊様は静かにこう言った。
「落ち着いて下さい、ご主人。見たところ、ここにいた殆どの女性は成仏しております。
ただ一人だけ、目を潰されて、しかも歯まで抜かれていたとかいう者の怨念だけが微かに残っていますね。
しかしこの者も……こちらが怒らせない限りは、まあ殆ど害のない程度の怨念になっています」
主人は少しホッとした表情を浮かべ、続けて訊いた。
「一体どうしたら良いんでしょうか? すぐにでも成仏してくれないんでしょうか?」
お坊様は答えた。
「まあ、すぐには無理でしょうな。取り敢えず、何となくこの事態は予想していたので、ひとまずはこれを埋めましょう。話の続きはそれからです」
そう言って袈裟の袂から眼球大のガラス玉を二つ取りだし、へその緒のカゴに納めて再び埋めた。
※
旅館の仮母女の間に戻り、お坊様の話が続いた。
「この部屋に居る女は、以前埋めていた水晶の力である程度の気は晴れておるようです。
でもやはり、まだ悔しい、悲しいという念は残っていますな。まあ、あんな仕打ちを受けていたのだから、無理もないでしょうが……。
しかし今から言う決まりさえ守れば、この部屋を客室として使うことに差し障りはないですぞ」
主人は驚いた。
「えーっ!? こんな幽霊部屋……使っていいんですかい!?」
お坊様は静かに、窘めるように答えた。
「これから私が言う決まりを、必ず守らなければいけませんがね。
まず一つ目。なるべく男女の組を泊めないこと。男と女が対で泊まれば、アレは昔の忌まわしい仕打ちを思い出し、押入れから顔を覗かせるでしょう。
まあ、単に覗くだけで特別に害は為しませんが……。それでもアレを見た人はびっくりしてしまうでしょうからね。家族であっても、男女の組ならばアレは覗いてきます」
主人は、
「はい。はい」
と熱心に覚書きに記しながら、話を聞いている。
お坊様は話を続ける。
「二つ目の決まりですが、こちらは大事です。
この部屋で不浄な行い(男女の営み)を決して行わないこと。それは必ずアレの逆鱗に触れるでしょう。何をしでかすか分かりませんが……とにかくとても恐ろしい害を与えてくるでしょう」
主人は身震いしながら尋ねた。
「でもお坊様。そんなに恐ろしい霊なら、やっぱりこの部屋は閉じてしまった方がいいんじゃ……」
お坊様は静かに首を横に振る。
「まあ、それは最終的にはご主人の裁量に委ねますが……。しかし、悪い霊というよりも、可哀想な霊なのですよ。怒らせさえしなければ出てくることもないでしょうしね。
恐らく不妊の病を抱えるご婦人には良い恵みを与えてくれるかもしれませんよ。仏様だって、我々の所業によって、禍福それぞれをお与えになりますしね」
そういう訳で、仮母女の間には女性客のみを泊めることになったという。
不妊に効くという噂も広まり、そこそこ繁盛するようにもなった。
しかし、やはり中には俺と洋子のように決まりを破る客もいたらしい。
※
「それで……その決まりを破ったカップルはどうなったんですか?」
俺は背中に汗をぐっしょり掻きながら、女将に詰め寄った。
クーラーの冷気がその汗を冷やし、ずっと背筋がぞくぞくする。
「……貴方と同じ目に遭っています。仮母女は自分の部屋で夜の営みをした男女を激しく憎み、女の目を潰します。
……そして、話によると、どうやらその……子宮をも潰してしまうらしいです。そう、一生子供が生めない体にしてしまうのです」
俺は言葉を失った。
「そっ……そんな……俺、昨日途中で気を失ってたけど……アイツ洋子の体にそんなこと……」
怒りと恐怖で震える俺を悲しそうに見つめて、女将は続けた。
「私もこれ以上は説明申し上げるのも心苦しいのですが……。
両目を潰された女性は、まず眼球が真っ赤に染まり、瞳が白く濁ります。恐らく、あなたがご覧になったアレと同じ目になるんです。
子宮は潰されているので、歩くたびに想像を絶する苦痛が襲うようですが……悲鳴などは決して上げることはないようです。ただ歩く時、異常に内股になるようですがね……」
俺は心臓をギューッと鷲掴みされたように苦しくなった。
「洋子は……彼女は今どこに居るんです!? もう治らないんですか!?」
女将が答える。
「洋子さんは、例のお寺様に向かっております。
仮母女に目を潰された女性は、完全に視力を失うまでに三日かかると言われています。その三日間は……洋子さんは洋子さんでなくなっています。仮母女が憑いているのです。
そして、その三日の内に男の方を……つまり貴方を探して憑きます」
「三日……」
俺はゴクリと喉を鳴らした。
「そうです。三日です。ですから、貴方はすぐにでもご自宅に戻って、三日間は決して家から出ないようにして下さい。
三日経つと、洋子さんの視力は完全に失われ、また仮母女は離れて行きます。
……でも……恐らく、正気の洋子さんに戻ることはもうないでしょう。
貴方が三日を無事に過ごすことができれば……その状態の洋子さんになら会うことはできます」
仮母女が三日だけ目が見えるというのは、墓のカゴに入れられたガラス玉のせいらしい。
もしそれが以前の水晶だったら、その期間は一ヶ月以上になっていただろうとのことだった。
……だが、そんなこと今の俺にはどうでも良かった。
今すぐ家に帰らなければ……。
そして三日経ったら必ず洋子を迎えに行って、それから洋子のご両親に土下座して……。
それから……それから……洋子の面倒は俺が一生見る!
※
そんなことをグルグル考えていたら部屋の廊下をバタバタ走る音が聞こえ、部屋の襖が勢い良く開いた。
そこに立っていたのは……洋子の両親だった。
洋子の母親が俺の前に大股でズカズカと近付いて来たと思ったら……。
「パーン!」
口の中にジワーッと鉄の味が広がる。
頬を思い切り殴られたようだ。口の中が切れている。
「あなた……あなた……!!よくも洋子を……!あんな嘘まで吐いて……よくも……よくも」
洋子の母親は顔を真っ赤にして、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。
父親はそんな母を窘めることもせず、じっと俺を睨んでいる。
「あなた……彼氏なら……どうしてあの子を守ってやれなかったの!? 何であなたは平気で……洋子だけ……洋子だけあんな目に……!」
母親は化粧をしていたのだろうが、涙でマスカラやアイシャドウが溶け、目の周りは真っ黒に染まっている。
どうやら旅館からの連絡で、ここに来る前にお寺に行って洋子の姿を目にして来たのだろう。
「本当に……本当に申し訳ありませんでした!この責任は必ず取ります!一生かけて償いますから!」
俺も既に涙声になっていた。
その様子を見ていた父親が一言、
「取り敢えず話は三日後にゆっくり聞かせてもらう。君は今すぐ帰りなさい」
お寺の方で既に彼らも事情を説明されていたのだろう。
俺は畳に頭をこすりつけ、土下座の体勢で暫く黙っていた。
「いいから早く帰りなさい」
再び父親の声が響き、肩をポンと叩かれ、家に帰るよう促された。
※
それから俺は急いで荷物を詰め(失禁したパンツだけ旅館に捨てて来た)、駅まで旅館の車で送ってもらい電車に乗った。
そして電車で二時間……やっと地元に戻って来た。
見慣れた景色に戻って、もしかして全部夢だったりして……なんて都合の良い現実逃避をしていたら……。
まるで「そんなことさせないよ」と言うかのように俺の携帯が鳴った。
旅館からだった。
「もしもし。○○良一様(俺の名前)の携帯でしょうか。あの、私△△旅館の女将の△△ですが……」
俺は女将のただならぬ声のトーンに不安を抱きながらも、
「はい。僕です。先程はどうもお世話になりました」
と答えた。
「あっ、良かった……一応携帯番号を聞いておいて……。
実は今しがたお寺から連絡があったんですが、洋子さんがお寺から居なくなったそうなんです!
どうやら少し目を離した隙に、ご家族が無理矢理縄とお札をほどいてしまったみたいで……ご家族の方共々居なくなってしまったんです!
お坊様がすぐに洋子さんのご自宅に向かわれるそうですが、くれぐれも三日間ご用心なさいませね。絶対に外には出ないように。
それと、なるべくなら声も出さないようにして下さい。アレは耳が異常にききますから……」
俺は携帯を耳に当てたまま、サーッと血の気が引き、その場に倒れそうになった。
昨夜のアレの恐ろしい顔が……見開かれた真っ赤な目が……その中の白濁して焦点の定まらない瞳が……。
ニターッとした嫌らしい笑いが……歯のない空洞のような口が……脳裏に蘇った。
※
俺は駅から全速力で自宅に戻り、部屋に閉じ籠もった。
家族が心配して声を掛けてくるが、何も答えられない。なるべく声も出したくない。
ご飯など喉を通る訳がない。ただ頭の中と喉がカラカラに乾いている。
たった三日間だが、無事に過ごせる保証はどこにもない。
部屋のクローゼットの隙間からアレが出て来るかもしれない。
アレに憑かれたらどうなるんだろう?
俺も洋子みたいになるのか?
眼球が真っ赤になり、視力を奪われるのか?
気が狂ってしまうのだろうか?
いや、もう既に俺は狂ってきているのだろうか?
洋子は家族と一緒に居るのだろうか?
家族がまた寺に連れ戻してはいないだろうか?
洋子は俺のところに来るだろうか?
洋子の母親の声が蘇る。
『何で、あなたは平気で……!洋子だけこんな目に……!』
もしも俺が三日の内に洋子に……いや、洋子の姿をした仮母女に見つかり、最悪取り殺されるようなことがあったら……。
どうか俺の家族は洋子を恨まないで欲しい。悪いのは全部俺なのだから。
無理矢理洋子を旅行に連れ出して、旅館の禁忌を犯してしまった俺の自業自得なのだから。
※
俺がこの手記を残すのは、真実を明らかにしておくためと、俺の家族に洋子を恨まないでもらうためでもある。
もし俺が三日の内に死んでしまったら、この手記を遺言代わりにしてもらいたい。
父ちゃん、母ちゃん、今までありがとう。
良二(弟)、小さい頃いじめてばっかでゴメンな。
俺のゲームとマンガ全部お前にやるよ。
※
その後、良一さんの手記は家族に対する感謝や友人達へのメッセージで埋められていたそうです。
この手記を私の友人(良二)が見つけたのは、つい最近のことだそうです。
そして良一さんは、今……県内の精神病院に入院しています。
文中は全て仮名です。
県名は、分かる人には特定できるかもしれないです。