鶯谷のホテルで同じ夢を見た夜

ホテル(フリー素材)

これは、二年前の秋、会社の後輩と泊まった古いホテルでの話です。

山手線の鶯谷駅の周りには、今も昭和の匂いが残るホテルがいくつもあります。

その夜、私が泊まったのは、そのうちの一軒、鶯谷のホテルでした。

あの夜に二人で見た夢のことは、今も、はっきり思い出せます。

鶯谷のホテルを探す夜

その日は、取引先との会食が長引き、気がつくと終電を逃していました。

同行していたのは、入社三年目の後輩です。

彼は、自分のことを「少し霊感がある」と言う人でした。

私は、そういうものを信じない性質です。

彼の言う能力は、神経質な性格から来ているのだろうと、勝手に解釈していました。

私たちは、駅の北口から、細い路地へ入りました。

街灯の少ない道に、古い看板のホテルが、肩を寄せ合うように並んでいます。

どの建物も、壁の色が煤けて、窓には厚いカーテンが引かれていました。

路地の角で、痩せた黒猫が、じっと私たちを見送っていました。

「猫は、霊を見るって言いますよね」

後輩が、冗談めかして言いました。

「お前が見る側じゃなかったのか」

「僕は、見ないようにしてるほうです」

笑ったつもりの声が、路地に吸われて消えました。

湿った風が、どこかの換気口から、味噌汁の匂いを運んできました。

人が暮らしている、という匂いでした。

最も安い宿を探して歩き、ようやく一軒、見つけました。

外壁の非常階段には、白い布のようなものが、風もないのに揺れていました。

近づいてよく見ると、ただの古い養生シートでした。

フロントには、初老の男が、気だるそうに座っていました。

「二部屋、空いていますか」

「うちはさ、君たちみたいな若い人が好きそうな、今風のホテルじゃないからぁ」

男は、やんわりと断るような口ぶりでした。

「いいんです。寝られれば、それで」

「でも、本当に今風じゃないよぉ?」

そう言いながら、男は渋々、二つの鍵を差し出しました。

鍵についた木の札は、角が丸く擦り減っていました。

札の数字は、墨が薄れて、ほとんど読めませんでした。

部屋は二階の奥でした。

階段の踊り場に、大きな鏡が掛かっていました。

古い水銀鏡で、映る私たちの顔は、少し黄色く濁って見えました。

後輩は、鏡のほうを、一度も見ませんでした。

「どうした」

「いえ。なんでもないです」

声が、少し上ずっていました。

後輩が持ってきた荷物

それぞれの部屋に入ると、廊下の奥から、古い換気扇の回る音が聞こえました。

部屋には、昭和を感じさせる赤い絨毯が敷かれています。

壁には色の褪せた風景画。内装に似合わない、背の低いテーブル。

扉の脇には、白いビニール張りのソファーがありました。

絨毯の一箇所だけ、色が濃く、湿ったように見えました。

ちょうど、ソファーの前の辺りです。

私は、気にしないことにしました。

荷物を置いて一息ついたとき、扉が小さく叩かれました。

「あの、先輩。ソファーで寝るので、同じ部屋で寝てもいいですか」

後輩が、枕を抱えて立っていました。

「どうした」

「このホテル、なんだか、嫌な感じがするんです」

やはり、そういうことか、と思いました。

私には、お化けが怖くて眠れない小学生のように見えて、少しだけ滑稽でした。

断る理由もないので、承諾しました。

彼は、荷物を持って、ささっとソファーに横になりました。

私は、シャワーを浴びてから、ベッドに横になりました。

壁の向こうから、誰かが畳を擦るような音が、時おり聞こえます。

隣の部屋は、空いているはずでした。

気のせいだ、と何度か言い聞かせました。

ソファーのほうを見ると、後輩はもう、背を丸めて眠っているようでした。

寝息が、不規則に途切れては、また始まります。

そのたびに、私は息を詰めて、次の寝息を待ちました。

部屋の灯りを消すと、天井の隅の、小さな染みだけが、暗闇に残りました。

私たちは、いつの間にか、眠りに就いていました。

同じ夢を見た二人

私は、夢を見ていました。

夢の舞台は、いま泊まっている部屋でした。

閉めたはずの扉が、細く開いています。

その隙間から、廊下の白熱球の明かりが、細い線になって差し込んでいました。

扉の脇のソファーには、後輩が寝ています。

私は、その光景を、少し離れた場所から、カメラで撮るように眺めていました。

動くものは、何もありません。

ただ、ひどく静かでした。

夢の中で、ふと「ああ、これは夢だな」と気づいた瞬間、目が覚めました。

部屋は、寝る前と同じでした。

赤い絨毯。色褪せた絵。背の低いテーブル。扉の脇の、白いソファー。

扉は、きちんと閉まっています。

ほっとしかけたとき、ソファーの後輩が、突然、胸をのけ反らせました。

足が、魚のように、ばたばたと跳ねています。

「ぎゃああああっ!」

聞いたことのない、人の叫び声でした。

私は、金縛りにあったように、動けませんでした。

喉の奥が、乾いた紙のように張りついて、声が出ません。

ソファーまでの二メートルが、ひどく遠く感じられました。

何か恐ろしいことが起きている、という確信だけが、心臓を速く打たせていました。

ようやく手を伸ばして、彼の肩を揺さぶりました。

「おい。おい、しっかりしろ」

目を開けた後輩は、頭を抱えて、荒い息をついていました。

時計を見ると、午前三時十分でした。

後輩の顔は、汗でぐっしょり濡れていました。

冷蔵庫の水を渡すと、彼はキャップを開けようとして、何度も取り落としました。

「……見ましたか。先輩も」

「何を」

「扉が、開いてたでしょう」

私は、背筋が冷たくなるのを感じました。

彼もまた、私とまったく同じ夢を見ていたのです。

ただし、彼の夢は、私より少し長かったようでした。

「夢の続きがあるんです」

後輩は、震える声で、話しはじめました。

「細く開いた扉の向こうから、女の人が、ゆっくり入ってきたんです」

「目がありませんでした。そこだけが、黒く窪んでいて」

「長い髪が、肩から、前に垂れていました」

「その人が、寝ている僕の顔のそばに来て、しゃがんだんです」

「そして、鼻を近づけてきました」

「匂いを、嗅いでいました。僕の顔を、ずっと」

私は、自分と後輩の夢がつながっていた事実に、鳥肌が立ちました。

外では、始発前の電車の音が、遠くで、ごうと鳴っていました。

五十年やっているからねぇ

私たちは、夜明けを待たず、すぐにチェックアウトしました。

階段の鏡の前で、後輩が、初めて足を止めました。

鏡の中の自分の後ろに、誰も映っていないことを、確かめるように。

そして、小さく息を吐きました。

朝の路地は、昨夜とは別の街のように、白々としていました。

ホテルの看板は、昼の光の下では、ただの古びた板でした。

駅前の喫茶店で、二人でモーニングを頼みました。

後輩は、コーヒーに口をつけず、カップの縁を見つめていました。

「あの人、僕のにおいを、覚えようとしてたんです」

「覚える?」

「前の誰かと、比べてるみたいに。何度も、何度も」

私は、トーストを皿に置きました。

その言葉が、喉の奥に、貼りついたからです。

フロントの初老の男は、変わらず、気だるそうに座っていました。

鍵を返しながら、私は、思い切って訊いてみました。

「この部屋で、何かありましたか」

男は、帳面に目を落としたまま、答えました。

「まあ、うちも五十年近くやってるからねぇ」

それ以上は、何も言いませんでした。

私も、それ以上は、訊けませんでした。

鍵の木札を渡すとき、男の指先が、ほんの少し、私の手に触れました。

氷のように冷たい指でした。

そのとき、フロントの奥の暗がりで、誰かが椅子を引く音がしました。

男は、振り返りませんでした。

私は、何も聞かなかったことにして、ロビーを出ました。

後日談があります。

その日以来、後輩の様子が、明らかにおかしくなりました。

異常なほど、自分の匂いを気にするようになったのです。

袖を鼻に当てる。髪を何度も洗う。電車では、人から離れて立つ。

彼は今も、同じ会社にいます。

ただ、会議のあとには、必ず手を洗いに行きます。

洗面台の前で、長いあいだ袖口の匂いを嗅いでいる後ろ姿を、私は何度か、見かけました。

心配した恋人が、彼を心療内科に連れて行ったそうです。

診断は、自臭症というものでした。

私には、あのホテルの夜と、無関係とは思えませんでした。

夢の中の女は、誰の匂いを探していたのでしょうか。

鶯谷のホテルの階段は、今も、時どき夢に出てきます。

私は、今も、確かめられずにいます。

鶯谷のホテルがまだあるのかどうか、確かめに行く勇気は、ありません。

夜の宿にまつわる話は、ほかにも書いてきました。チェックアウトの朝に聞かれたことと、この部屋にはもう泊まるなです。

あの夜、先に目を覚ました私の鼻には、ほんのかすかに、他人の髪の匂いが残っていました。

私のものではない、古い整髪料の匂いでした。

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