ずいぶん、昔の話だ。
まだ、誰もが、カセットテープを、使っていた頃の。
当時の俺は、高校生だった。
深夜のラジオ番組を、録音するのが、毎週の、楽しみだった。
お目当ては、土曜の、夜中に、流れる番組だった。
だが、その週は、手元の、テープが、切れていた。
それで、同じクラスの、啓介に、一本、借りることにした。
啓介は、放課後、古びた、カセットテープを、一本、差し出した。
「これ、使っていいよ。家に、余ってたやつ」
ラベルには、何も、書かれていなかった。
俺は、それを、受け取って、何気なく、光に、透かして、みた。
テープの、巻きは、半分ほど、片側に、寄っていた。
つまり、半分くらいまで、何かが、録音されて、いたということだ。
「これ、本当に、空なのか」と、俺は、聞いた。
「ああ、ちゃんと、頭から、消しといたよ」と、啓介は、言った。
「叔父さんの、声でも、入ってたら、気味悪いだろ」
俺たちは、二人で、軽く、笑った。
あのとき、笑って、いられたのが、今では、不思議なくらいだ。
ただ、角が、少し、すり切れていた。
「ずいぶん、古そうだな」
「ああ。死んだ、叔父さんの、荷物から、出てきたんだ」
啓介の、叔父は、海の近くで、一人暮らしを、していたという。
数年前に、亡くなって、遺品を、整理したとき、出てきた、何本かのうちの、一本らしい。
「中身は、たぶん、空だよ。録音、消しといたから」
俺は、礼を言って、そのテープを、鞄に、しまった。
古いテープを、もらうことに、特に、抵抗は、なかった。
ただ、なんとなく、その、すり切れた角が、気には、なった。
啓介の、叔父というのは、変わり者だった、らしい。
若い頃に、所帯を、持ちかけたが、うまく、いかなかったという。
それからは、海辺の、小さな家で、ずっと、一人で、暮らしていた。
趣味は、夜釣りと、ラジオを、聞くこと。
それくらいしか、家族も、知らなかったそうだ。
「変な、叔父さんでさ」と、啓介は、苦笑いした。
「人付き合いが、苦手で、最後まで、独りだった」
俺は、そのときは、ふうん、と、聞き流していた。
今思えば、あの角の、すり切れ方が、どこか、不自然だった。
まるで、誰かが、何度も、何度も、再生を、繰り返したかのような。
※
その晩、俺は、自分の部屋で、ラジカセの前に、座っていた。
俺の部屋は、二階の、いちばん奥に、あった。
窓の外は、冬の、暗い、住宅街だった。
机の上の、ラジカセは、もう、十年も使っている、古い型だった。
再生ボタンの、塗装は、剝げ、録音ランプは、赤く、にじんでいた。
俺は、借りた、テープを、デッキに、差し込んだ。
かちゃり、と、固い音が、した。
ラジオの、チューニングを、合わせ、録音ボタンを、押した。
番組は、いつものように、賑やかに、始まった。
パーソナリティの、明るい声が、狭い部屋を、満たした。
俺は、その、賑やかさに、安心して、いた。
ハガキの、投稿が、読まれ、笑い声が、起きる。
ありふれた、いつもの、深夜だった。
机の上の、時計の、針が、こつ、こつ、と、進んでいた。
この、平凡な、夜が、まさか、あんなことに、なるとは。
そのときは、夢にも、思って、いなかった。
俺は、布団に、寝転んで、それを、聞いていた。
番組が、終わったのは、夜中の、三時前だった。
俺は、もう、半分、眠っていた。
停止ボタンを、押すのが、面倒だった。
テープが、最後まで、回って、自動で、止まるまで、放っておくことにした。
そういう、ずぼらな、癖が、俺には、あった。
部屋の、暖房は、とうに、切れていた。
窓の外では、北風が、電線を、低く、鳴らしていた。
隣の家の、灯りも、もう、消えていた。
町は、しんと、静まり返っていた。
俺は、毛布を、肩まで、引き上げた。
ラジカセの、緑の、再生表示だけが、暗い部屋で、光っていた。
あと、少しで、テープも、終わる。
そうしたら、起きて、ラジカセを、消そう。
そう、思いながら、俺は、うとうとと、していた。
番組が、終わると、あとは、ただの、無音だった。
さあ、と、いう、テープの、走る音だけが、続いた。
俺は、その音を、子守唄のように、聞いていた。
どこか、遠くで、犬が、一度だけ、長く、吠えた。
それから、また、静寂が、戻った。
俺は、夢と、現の、境を、漂っていた。
ふと、テープの、走る音が、止まった気が、した。
だが、停止ボタンは、押されて、いなかった。
おかしいな、と、思った、そのときだった。
かたり、と、ひとりでに、リールが、動いた。
俺は、薄目を、開けて、ラジカセを、見た。
赤い、録音ランプが、ついていた。
俺は、録音ボタンなど、押して、いない。
それなのに、ランプは、赤く、灯っていた。
まるで、何かを、新しく、録音している、かのように。
※
どれくらい、経った頃だろう。
無音の中に、ふと、別の音が、混じった。
ざざ……、ざざ……、という、低い音だった。
最初は、ノイズだと、思った。
だが、それは、規則正しく、寄せては、返した。
波の、音だった。
録音したはずのない、波の音が、テープから、流れていた。
俺は、半分、眠ったまま、それを、聞いていた。
海など、近くに、ない、はずだった。
それでも、その音は、確かに、波だった。
遠くで、潮が、引いていく、音まで、聞こえた。
部屋の空気が、少しずつ、冷たくなっていく、気がした。
布団の中なのに、足先が、ひやりと、した。
ざざ……、ざざ……。
波の音は、次第に、近くなった。
まるで、海が、この部屋まで、迫ってくるようだった。
それから、別の音が、聞こえた。
ぴちゃ、ぴちゃ、と、水の、滴る音だった。
何か、濡れたものが、ゆっくりと、動いている。
畳の上を、何かが、引きずられるような、音だった。
ずる、ずる、と、それは、近づいてくる。
だが、音は、確かに、テープから、聞こえていた。
部屋には、俺の、ほかに、誰も、いない、はずだった。
潮の、匂いが、鼻を、ついた。
生臭い、磯の、匂いだった。
乾いた、冬の部屋に、ありえない、匂いだった。
背中に、冷たい、汗が、にじんだ。
そんな、音だった。
俺は、眠気が、すっと、引いていくのを、感じた。
だが、体は、なぜか、動かなかった。
金縛りに、あったように、指、一本、動かせなかった。
ラジカセの、赤い、録音ランプだけが、闇の中で、にじんでいた。
※
波の音が、ふと、止んだ。
そして、テープから、声が、聞こえた。
男の、声だった。
低く、抑揚の、まったく、ない声だった。
「では、わたしから」
俺の、心臓が、跳ねた。
「海に、浮かんでいるもので、しりとりを、してみようか」
え、と、俺は、思った。
しりとり?
こんな、夜中に。
誰と。
続いて、別の声が、聞こえた。
小さな、女の子の、声だった。
「うん」と、その子は、答えた。
あどけない、けれど、どこか、力のない、声だった。
「では、わたしから。海に、浮かぶもの。流木」
男の声が、そう、言った。
「く……海月(くらげ)」と、女の子が、続けた。
「げ……下駄」
「た……樽」
「る……ルアー」
俺は、息を、殺して、聞いていた。
二人の、声は、まるで、すぐ、耳元で、しているようだった。
どの言葉も、冷たく、湿って、聞こえた。
男の声には、感情が、まるで、なかった。
女の子の声には、なぜか、諦めの、ようなものが、にじんでいた。
まるで、何度も、同じ遊びを、させられている、かのような。
「あ……」
女の子の声が、そこで、止まった。
少しの、沈黙が、あった。
ぴちゃ、と、また、水の、滴る音が、した。
「どうした。海に、浮かぶもの」
男の声が、静かに、促した。
「答えられるかな」
女の子は、しばらく、黙っていた。
それから、ぽつりと、こう、答えた。
「……人間」
その瞬間だった。
バチーン!
と、停止ボタンが、跳ね上がった。
凄まじい、勢いだった。
ラジカセが、がたん、と、机の上で、揺れた。
俺は、布団の中で、声にならない、悲鳴を、あげた。
どれくらい、そうしていたか、分からない。
俺は、布団に、もぐったまま、息を、殺していた。
ラジカセは、もう、何の音も、立てなかった。
ただ、部屋の、磯の匂いだけが、いつまでも、消えなかった。
遠くで、また、犬が、長く、吠えた。
俺は、その声が、やむまで、目を、つむっていた。
早く、朝が、来てほしい。
あの、女の子の声が、頭の中で、何度も、繰り返した。
……人間。
その、二文字が、耳から、離れなかった。
※
気づくと、朝に、なっていた。
俺は、布団を、頭から、かぶったまま、震えていた。
カーテンの隙間から、白い光が、差し込んでいた。
夢だったのか、と、自分に、言い聞かせようとした。
だが、机の上の、ラジカセには、あのテープが、入ったままだった。
停止ボタンは、上がりきって、いた。
俺は、おそるおそる、巻き戻して、再生ボタンを、押した。
だが、もう、何も、聞こえなかった。
テープは、伸びきって、ぐにゃぐにゃに、なっていた。
二度と、まともに、再生は、できなかった。
あの、波の音も、あの、声も、もう、どこにも、なかった。
俺は、そのテープを、捨てることが、できなかった。
かといって、もう一度、聞く、勇気も、なかった。
結局、机の、いちばん奥の、引き出しに、しまい込んだ。
それから、しばらく、俺は、ラジオの録音を、やめた。
あの、ラジカセも、押し入れの、奥に、しまった。
夜、布団に、入ると、耳の、奥で、あの、波の音が、聞こえる、気が、した。
ざざ……、ざざ……。
そのたびに、俺は、電気を、つけて、朝まで、起きていた。
親には、ただの、寝不足だと、言っておいた。
本当のことなど、言えるはずが、なかった。
月曜日、俺は、啓介に、そのことを、話した。
「お前、霊感とか、あったっけ」と、啓介は、笑った。
「借りたテープ、駄目にした、言い訳だろ」
俺は、必死で、本当の話だと、訴えた。
だが、啓介は、まるで、信じなかった。
「人間、で、しりとりが、終わったんだ」
俺が、そう言うと、啓介の、笑いが、ふっと、消えた。
※
啓介が、急に、黙り込んだので、俺は、聞いた。
「どうした」
啓介は、少し、ためらってから、こう、言った。
「叔父さんな、海で、死んだんだ」
「夜釣りに、出て、そのまま、帰ってこなかった」
「見つかったのは、ずっと、あとだって」
俺の、背筋が、ぞくりと、冷えた。
「叔父さん、子どもは」
「いなかったよ。ずっと、独り身だった」
啓介は、そう、言ってから、ふと、付け加えた。
「ただ……」
「ただ、何だ」と、俺は、聞いた。
「叔父さんが、死ぬ、何年か前にな」
「近くの、浜で、女の子が、一人、溺れて、死んだらしいんだ」
「叔父さんが、第一発見者、だったって、聞いた」
「それから、叔父さん、人が、変わったように、海に、入り浸るように、なったって」
俺は、言葉を、失った。
あの、力のない、諦めたような、声。
まさか、と、思った。
では、あの、女の子の声は、誰だったのか。
海に、浮かんでいたのは、何だったのか。
海に、浮かぶものの、答えが、人間だなんて。
その、答えを、知っているのは。
それを、知っていて、子どもに、言わせたのは、いったい、誰なのか。
考えれば、考えるほど、分からなく、なった。
ただ、一つだけ、はっきりと、分かることが、あった。
啓介の、叔父は、消したつもりに、なって、いただけなのだ。
本当は、何も、消えて、いなかった。
いや、消せる、ものでは、なかったのかもしれない。
録音、消去では、決して、消えない、何かが。
あのテープは、空では、なかったのだ。
啓介の、叔父が、消しきれなかった、何かが。
あの、すり切れたテープには、残っていたのだ。
俺は、後日、図書館で、古い、地方紙を、調べた。
二十年ほど、前の、夏の、記事だった。
「○○海岸で、女児、水死」と、小さな、囲み記事が、あった。
名前は、伏せられ、年齢だけが、七歳と、書かれていた。
発見者は、近所に住む、男性、とだけ、あった。
俺は、その、男性が、誰なのかを、もう、知っていた。
叔父は、その子を、見つけて、しまった。
そして、その子の、最後の遊び相手に、ならされて、しまったのかもしれない。
いくら、考えても、答えは、出なかった。
※
あれから、もう、二十年以上が、過ぎた。
俺は、今でも、海へ、行くのが、苦手だ。
波の音を、聞くと、決まって、あの夜のことを、思い出す。
夏に、家族で、海へ行くたび、俺は、波打ち際から、少し、離れて、座る。
子どもたちが、海に、入っていくのを、ただ、見ている。
「お父さんは、泳がないの」と、聞かれる。
「ああ、お父さんは、見てるだけで、いいんだ」と、答える。
本当は、怖いのだ。
あの、ざざ、という音の、向こうから。
誰かが、しりとりに、誘ってくる、気が、して。
ざざ……、ざざ……、という、あの音を。
そして、あの、抑揚のない、男の声を。
「海に、浮かんでいるもので、しりとりを、してみようか」
あの引き出しの、テープは、引っ越しのときに、処分した。
燃えるゴミに、出す、その朝。
俺は、最後に、一度だけ、それを、手に取った。
すり切れた角が、なぜだか、少し、湿っているように、感じた。
気のせいだ、と、思いたかった。
だが、その日は、よく、晴れていたのに。
俺の、手のひらには、かすかに、潮の、匂いが、残った。
今でも、しりとりで、誰かが、「に」で、つまると。
俺は、つい、身構えてしまう。
その次に、続く言葉を、口にする者が、いないことを。
ただ、祈るばかりだ。
それでも、俺は、子どもたちには、何も、言わない。
ただ、一つだけ、約束させている。
「ひとりで、海に、入っちゃ、だめだ」と。
「呼ばれても、絶対に、返事を、しちゃ、いけない」と。
子どもたちは、不思議そうな、顔を、する。
それでいい。
この、意味が、一生、分からないままで、いてほしい。
海に、浮かぶものの、答えを。
この子たちが、知ることの、ないように。