誰かの足音

廊下

三年前の春、俺は都内のワンルームマンションに引っ越した。築四十年以上の古い建物で、外壁のタイルはところどころ剥がれ、エントランスの蛍光灯は常にちらついていた。だが、駅から徒歩五分で家賃は相場の三割ほど安い。社会人二年目の俺には、それだけで十分な条件だった。

内見のとき、不動産屋の担当者が「少し古いですが、住めば都ですよ」と妙に早口で言っていたのが少し引っかかったが、気にしないことにした。

異変に気づいたのは、引っ越して三日目の夜だった。

深夜一時を少し過ぎた頃、廊下を歩く足音が聞こえた。革靴のような、硬い音。コツ、コツ、コツと一定のリズムで、廊下の端のほうから近づいてくる。

足音は俺の部屋の前で、ぴたりと止まった。

息を殺して玄関のドアを見つめた。しんとした部屋の中で、自分の心臓の音だけが耳に響いていた。数秒の沈黙。それから足音はまた同じリズムで歩き出し、廊下の奥へ消えていった。

翌朝、気のせいだと思うことにした。古いマンションだ。住人が夜遅くに帰ってきただけだろう。壁が薄いから音が響くのだ、と自分に言い聞かせた。

しかし、それは毎晩続いた。

決まって深夜一時過ぎ。同じリズム、同じ足音。そして必ず、俺の部屋の前で一度止まる。数秒の間を置いて、また歩き出す。まるで、部屋の前で立ち止まることが決められた手順であるかのように。

試しにスマートフォンで録音してみたことがある。翌朝再生すると、自分の寝息と冷蔵庫の低い唸りの間に、確かに硬い靴音が規則正しく刻まれていた。空耳ではなかった。

一週間ほど経った夜、意を決してドアスコープを覗いた。

廊下には、誰もいなかった。

足音は確かに聞こえている。ドアのすぐ向こう側で止まっている。なのに、魚眼レンズ越しに映るのは、蛍光灯に照らされた薄暗い廊下と、向かいの部屋のドアだけだった。

レンズから目を離し、もう一度耳を澄ませた。足音が再び歩き出す。遠ざかっていく。廊下の突き当たりまで行くと、ふっと消えた。

翌日、隣の部屋の住人に思い切って声をかけた。四十代くらいの男性で、このマンションに三年住んでいるという。

足音のことを話すと、男性はあっさりと頷いた。まるで天気の話をするように。

「ああ、足音ね。俺も最初の頃は気になって仕方なかったけど、もう慣れちまったよ。毎晩来るでしょう、一時過ぎに」

「聞こえてるんですか、やっぱり」

「このフロアの住人はみんな知ってるよ。でも誰も気にしてない。害はないからさ」

男性はそう言って苦笑いした。その表情に「害はない」という言葉とは裏腹な、何か諦めのようなものが滲んでいるように俺には見えた。

「ただ、一つだけ。深夜にドアを開けないほうがいい。開けたところで誰もいないし、開けないほうがいいんだ」

理由は教えてくれなかった。

それからも足音は続いた。俺は少しずつ慣れていった。毎晩の足音が、時計のアラームのようにただの日常の一部になっていく。慣れるものだな、と自分でも不思議に思うほどだった。

だが、引っ越して二ヶ月が経った夜、変化が起きた。

いつものように足音が廊下の端から近づいてきて、俺の部屋の前で止まった。ここまでは同じだ。しかし、その夜はいつまで経っても歩き出す気配がなかった。

一分。二分。

布団の中で身動きが取れなくなった。五分が過ぎても、足音の主はドアの前に立ち続けていた。

そして、ドアノブがゆっくりと回った。

金属が軋む小さな音が、静まり返った部屋に響いた。鍵はかけていた。ノブは回りきらず、少しの抵抗を受けて、やがて静かに元の位置に戻った。

数秒の間があった。それから足音は、何事もなかったように廊下の奥へ歩き去っていった。いつもと同じリズムで。

その夜は朝まで眠れなかった。隣人の言葉が頭の中を回り続けていた。開けないほうがいい。その意味が、少しだけわかった気がした。

翌朝、マンションの管理会社に電話をかけ、建物の履歴を尋ねた。担当者は少し言いにくそうに長い間を置いてから、教えてくれた。

このマンションは、もともと病院だった建物を改装したものだという。昭和四十年代に建てられた中規模の病院で、閉院後に住居として改装された。

俺の部屋がある三階は、かつて入院病棟だった。そして俺の部屋の前の廊下は、夜間の巡回ルートにあたるらしい。

「深夜の見回りをされていた看護師さんがいたそうです。各部屋を一つ一つ確認して回る、それは真面目な方だったと聞いています。患者さんからも信頼されていたそうですよ」

その看護師がどうなったのかは、担当者は教えてくれなかった。ただ、「もう何十年も前のことですから」とだけ言って、電話は終わった。

あれから二年が経った。結局、俺はまだこのマンションに住んでいる。引っ越す理由がないと言えば嘘になるが、不思議と引っ越すほどの理由にもならない。

足音は今も毎晩やってくる。深夜一時を過ぎると廊下の端から歩いてきて、俺の部屋の前で一度立ち止まり、またどこかへ歩いていく。

ドアノブが回ったのは、あの一度きりだった。

ただ、一つだけずっと気になっていることがある。足音が俺の部屋の前で止まるとき、ドアの下の隙間から、ほんの少しだけ冷たい風が入ってくるのだ。まるで、廊下の向こう側で誰かがしゃがみ込んで、隙間から部屋の中を覗いているかのように。

俺は最近、ふと思うことがある。

あの看護師は、まだ夜勤を続けているのかもしれない。病棟はとうの昔になくなったのに、かつて患者がいた部屋を、今も律儀に一つ一つ見回っているのかもしれない。

だとしたら、あの夜ドアノブを回したのは、中にいる患者の容態を確かめようとしたのだろうか。鍵がかかっていて入れなかったから、翌日からはまた、立ち止まるだけにしているのだろうか。

そう考えたら、少しだけ怖くなくなった。ほんの少しだけ。

ただ、一つだけ確かめたくないことがある。あの足音が止まっている間、ドアの向こうに立っているのが本当に看護師なのかどうか。それだけは、知らないままでいたい。

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