
三年前の春、俺は都内のワンルームマンションに引っ越した。
築四十年以上の、古い建物だった。
外壁のタイルは、ところどころ剥がれていた。
エントランスの蛍光灯は、いつもちらついていた。
それでも、駅から徒歩五分で、家賃は相場の三割ほど安い。
社会人二年目の俺には、それだけで十分な条件だった。
これは、その部屋で毎晩聞いた、廊下の足音の話だ。
怖がらせたいわけではない。
ただ、誰かに知っておいてほしかった。
あの廊下の足音を、俺はおそらく一生忘れられない。
同じ部屋に住む人や、これから部屋を探す人の役に立てば、とも思う。
読み終えたあとで、深夜の廊下に耳を澄ませたくなっても、責任は取れない。
特に、安すぎる物件には、一度立ち止まってほしい。
俺はそれを、身をもって知ったからだ。
古いマンションの内見
内見の日は、よく晴れた平日の午後だった。
不動産屋の担当者は、三十代半ばの小柄な男性だった。
エレベーターは、一基だけで、扉が重たかった。
三階の廊下は、端から端まで見通せるほど長かった。
床は薄い緑色のビニールシートで、継ぎ目が擦り切れていた。
壁も天井も、病院の廊下のように白かった。
天井の蛍光灯は、半分ほどが黄ばんでいた。
カバーの内側には、小さな虫の影が溜まっていた。
各部屋のドアは、同じ形の鉄製で、並ぶ間隔が妙に狭かった。
表札の代わりに、部屋番号の金属プレートが打ち付けられていた。
プレートの下には、四角く色の違う跡が残っていた。
以前は、別の何かが掛けられていたのかもしれない。
そのときは、ただ古いだけだと思った。
エレベーターを降りるとき、担当者は一度だけ後ろを振り返った。
廊下の奥を、ちらりと見て、すぐに視線を戻した。
その仕草の意味に、俺は気づかなかった。
「少し古いですが、住めば都ですよ」
担当者は、妙に早口でそう言った。
その言い方が、少し引っかかった。
けれど、俺は気にしないことにした。
部屋は三階の、廊下の中ほどにあった。
六畳のワンルームで、窓は南向きだった。
玄関の靴箱には、前の住人が忘れた古い傘が一本、残されていた。
柄の部分に、小さな名札が付いていた。
名前は、かすれて読めなかった。
俺は、その傘を、そのまま管理人室に届けた。
キッチンは狭いが、コンロは二口あった。
風呂とトイレは別で、収納も思ったより広かった。
壁紙は、新しく貼り替えられたばかりのように白かった。
「前の方は、短い期間で退去されまして」
担当者は、聞いてもいないのに、そう付け加えた。
「そうですか」
俺は、深く考えずに頷いた。
家賃の安さの前では、そんな一言は小さな雑音でしかなかった。
日当たりが良く、風も抜けるのが気に入った。
ドアの下には、細い隙間が空いていた。
ドアの下の隙間は、いつも少しだけ空いていた。
古い建物だから仕方ない、と思った。
契約書には、その日のうちに判を押した。
帰り道、駅前の喫茶店で、ひとりで祝杯をあげた。
安くて、駅に近くて、日当たりの良い部屋。
職場の先輩にも、すぐに写真を送った。
「いい部屋だな。家賃、本当にその値段か」
先輩の返事は、それだけだった。
そのときの俺は、嫉妬だろうと軽く受け流した。
こんな掘り出し物は、そうそうないと浮かれていた。
母にも電話をして、良い部屋が見つかったと報告した。
「古い建物なんでしょう。大丈夫なの」
「平気だよ。住めば都だって」
言ってから、担当者と同じ台詞だと気づいて、少し笑った。
荷物は少なく、引っ越しは半日で終わった。
夜は、近所の店で買った弁当を食べた。
窓の外では、電車の音が遠くに聞こえていた。
静かな部屋だ、とそのとき思った。
荷解きを終えると、時刻は夜の十時を回っていた。
段ボールの山の隙間で、俺は缶ビールを一本だけ開けた。
新しい生活が、始まるのだと思った。
窓を少し開けると、夜風がカーテンを揺らした。
廊下側からは、物音ひとつ聞こえなかった。
隣の部屋の気配さえ、驚くほど薄かった。
その静けさが、あとで違う意味を持つことになる。
毎晩続く廊下の足音
異変に気づいたのは、引っ越して三日目の夜だった。
深夜一時を少し過ぎた頃だった。
廊下を歩く足音が、聞こえた。
革靴のような、硬い音だった。
コツ、コツ、コツと、一定のリズムで刻まれる。
廊下の端のほうから、ゆっくり近づいてくる。
俺は、布団の中で息を止めた。
足音は、俺の部屋の前で、ぴたりと止まった。
しんとした部屋に、自分の心臓の音だけが響いた。
数秒の沈黙が、やけに長く感じられた。
暗闇の中で、天井の染みが、じっと俺を見下ろしていた。
足音の主は、ドアの外から、部屋の中の気配を窺っているようだった。
こちらが動かないのを、確かめているようにも思えた。
息をひそめることしかできなかった。
それから、足音はまた同じリズムで歩き出した。
廊下の奥へ、静かに消えていった。
翌朝、気のせいだと思うことにした。
古いマンションだから、壁が薄いのだろう。
住人が夜遅く帰ってきただけだ、と自分に言い聞かせた。
けれど、冷静に考えれば、おかしなところがあった。
革靴の足音なのに、ドアの開閉の音が一度もしない。
鍵を回す音も、荷物を置く音も、何も続かない。
帰宅した人間なら、必ずどこかの部屋に入るはずだ。
なのに、足音は、いつも廊下を通り過ぎるだけだった。
そのことには、気づかないふりをしていた。
しかし、それは毎晩続いた。
決まって、深夜一時過ぎだった。
同じリズムで、同じ硬い靴音が近づいてくる。
そして必ず、俺の部屋の前で一度止まる。
数秒の間を置いて、また歩き出す。
カーテンの隙間から、街灯の光が細く差し込んでいた。
その光の筋の中を、埃がゆっくりと舞っていた。
足音が近づくたび、その埃が、わずかに震えた気がした。
部屋の前で立ち止まることが、決められた手順のようだった。
試しに、スマートフォンで録音してみた。
翌朝、再生してみると、驚いた。
自分の寝息と、冷蔵庫の低い唸りの間に、靴音が刻まれていた。
規則正しい、硬い音だった。
波形のグラフを拡大して、何度も確かめてみた。
音は、一分間に六十歩ほどのゆっくりした歩調だった。
歩幅も、ほぼ一定で、乱れというものがなかった。
夜勤で疲れた人間の足取りなら、どこかに揺らぎが出るはずだ。
この足音には、それがなかった。
まるで、同じ一歩を、何度も繰り返しているかのようだった。
急いでいる人間の歩き方ではない。
何かを丁寧に確認しながら歩く、慎重な足取りに聞こえた。
同僚に聞かせると、「古い建物の配管じゃないか」と笑われた。
配管が、革靴の音を立てるだろうか。
俺は、それ以上、同僚に話すのをやめた。
空耳ではなかった。
一週間ほど経った夜、俺は意を決した。
足音が近づいてくるのを待って、ドアスコープを覗いた。
廊下には、誰もいなかった。
足音は、確かに聞こえている。
ドアのすぐ向こうで、止まっている。
なのに、魚眼レンズに映るのは、薄暗い廊下だけだった。
蛍光灯に照らされた、向かいの部屋のドアだけが見えた。
レンズから目を離して、耳を澄ませた。
足音が、再び歩き出した。
遠ざかり、廊下の突き当たりで、ふっと消えた。
その夜から、俺はスコープを覗くのをやめた。
見えないものを確かめる勇気は、俺にはなかった。
見えてしまったときのほうが、きっと怖い。
そう思うことで、自分を納得させていた。
朝になれば、廊下には、新聞配達の気配と、出勤する住人の足音が戻る。
その足音は柔らかく、夜の足音とは、まるで違っていた。
隣人の忠告と回るノブ
翌日、隣の部屋の住人に声をかけた。
四十代くらいの男性で、三年住んでいるという。
足音のことを話すと、男性はあっさりと頷いた。
まるで、天気の話でもするような顔だった。
「ああ、足音ね。もう慣れちまったよ」
「毎晩来るでしょう、一時過ぎに」
「聞こえてるんですか、やっぱり」
「このフロアの住人は、みんな知ってるよ」
男性は、廊下の端を、顎で指した。
その指の先には、誰も使っていないような、古い扉が見えた。
「あそこの前では、足音が少しだけ長く止まるんだ」
「そうなんですか」
「理由は、俺にも分からないけどな」
「一番奥の部屋の婆さんなんか、挨拶までしてるぜ」
「挨拶、ですか」
「おやすみなさい、ってな。毎晩、ドア越しに」
冗談かと思ったが、男性の目は笑っていなかった。
「でも、誰も気にしてない。害はないからさ」
男性は、そう言って苦笑いした。
その表情には、あきらめのようなものが滲んでいた。
「ただ、一つだけ。深夜にドアを開けないほうがいい」
「開けたところで、誰もいないし」
男性は、そこで言葉を切って、少し考える顔をした。
「いや、誰もいない、と言い切れないのかもしれないな」
そう呟いて、自分の部屋へ戻っていった。
理由は、教えてくれなかった。
それからも、足音は続いた。
俺は、少しずつ慣れていった。
毎晩の足音が、時計のアラームのような日常になっていく。
慣れるものだな、と自分でも不思議に思った。
仕事から帰ると、まず時計を見る癖がついた。
十二時を過ぎると、そわそわと耳が廊下に向く。
一時を回って足音が聞こえると、なぜか、ほっとした。
今夜も、いつも通りだ、と思えた。
そんな自分が、少しおかしかった。
ある夜、ふと思いついて、足音に向かって小さく声をかけてみた。
「お疲れさまです」
当然、返事はなかった。
けれど、足音が少し、ゆっくりになった気がした。
それ以来、声をかけることは、していない。
だが、引っ越して二ヶ月が経った夜、変化が起きた。
いつものように、足音が近づいてきて、止まった。
ここまでは、同じだった。
しかし、その夜は、いつまで経っても歩き出さなかった。
一分。二分。
布団の中で、身動きが取れなくなった。
五分が過ぎても、足音の主は、ドアの前に立ち続けていた。
そして、ドアノブが、ゆっくりと回った。
金属が軋む小さな音が、部屋に響いた。
鍵は、かけてあった。
後から思えば、あれは偶然の施錠だった。
いつもなら、寝る前に一度確認する程度のものだ。
その夜に限って、二重にかけていた記憶がある。
もし、かけ忘れていたら、ドアは開いていたのだろうか。
その先を想像するのは、やめておいた。
ノブは回りきらず、少しの抵抗を受けた。
やがて、静かに元の位置へ戻っていった。
数秒の間があった。
足音は、何事もなかったように歩き去った。
いつもと同じリズムで、廊下の奥へ消えた。
その夜は、朝まで眠れなかった。
隣人の言葉が、頭の中を回り続けていた。
開けないほうがいい。
その意味が、少しだけ分かった気がした。
翌日から、帰宅するとすぐ、二つの鍵を確かめるようになった。
チェーンも、必ず、掛けた。
それが気休めにすぎないことは、分かっていた。
けれど、何もしないよりは、ましだった。
病院だった建物の記録
翌朝、マンションの管理会社に電話をかけた。
建物の履歴を、尋ねてみた。
担当者は、言いにくそうに、長い間を置いた。
それから、ゆっくりと教えてくれた。
このマンションは、もともと病院だった。
昭和四十年代に建てられた、中規模の病院だという。
閉院したあと、住居として改装されたそうだ。
「三階は、入院病棟だったと聞いています」
俺の部屋があるのは、その三階だった。
廊下は、夜間の巡回ルートにあたるらしい。
「深夜の見回りをされていた看護師さんがいたそうです」
「各部屋を一つ一つ確認して回る、真面目な方だったと聞いています」
「患者さんからも、信頼されていたそうですよ」
その看護師が、どうなったのかは聞けなかった。
担当者は、それ以上、何も教えてくれなかった。
俺は、電話を切る前に、もう一つ尋ねた。
「入居前に、そのことは説明されないんですか」
「告知事項には、当たらないものですから」
担当者の声は、丁寧だったが、どこか遠かった。
受話器の向こうで、書類をめくる音がした。
古い台帳を、確認しているようだった。
その音が止まったとき、担当者は小さく息を吐いた。
「古い建物には、いろいろありますので」
それで、会話は終わった。
「もう何十年も前のことですから」
そう言って、電話は終わった。
その言葉に、悪意はなかった。
ただ、触れてほしくない、という空気だけが伝わった。
受話器を置いたあとも、しばらく動けなかった。
病棟の白い廊下が、頭に浮かんだ。
昭和の病院の廊下は、きっと今よりずっと暗かっただろう。
その暗い廊下を、懐中電灯ひとつで歩く看護師の姿が見えた。
白い靴の音は、硬い革靴の音には、聞こえなかったはずだ。
けれど、俺の聞く足音は、確かに硬い。
そのずれが、かえって現実味を帯びて、胸に引っかかった。
もしかすると、足音は、今の俺の世界にだけ硬く響いているのかもしれない。
昔の廊下は、板張りだったのだろうか。
改装されたビニールシートの床が、その音を変えているのかもしれない。
そんな理屈をいくつも並べて、自分を落ち着かせようとした。
あれから、二年が経った。
結局、俺はまだ、このマンションに住んでいる。
引っ越す理由がないと言えば、嘘になる。
けれど、不思議と、出ていくほどの理由にもならない。
足音は、今も毎晩やってくる。
深夜一時を過ぎると、廊下の端から歩いてくる。
俺の部屋の前で一度立ち止まり、またどこかへ歩いていく。
ドアノブが回ったのは、あの一度きりだった。
ただ、一つだけ、ずっと気になっていることがある。
足音が止まるとき、ドアの下の隙間から、冷たい風が部屋の中へ流れ込んでくる。
まるで、廊下の向こうで誰かがしゃがみ込んで、隙間から覗いているようだ。
最近、ふと思うことがある。
あの看護師は、まだ夜勤を続けているのかもしれない。
病棟はとうの昔になくなったのに、律儀に見回りを続けているのかもしれない。
だとしたら、あの夜ノブを回したのは、患者の容態を確かめるためだったのか。
鍵がかかっていて入れなかったから、今は立ち止まるだけにしているのか。
そう考えると、少しだけ怖くなくなった。
ほんの少しだけ。
ただ、一つだけ、確かめたくないことがある。
足音が止まっている間、ドアの向こうに立っているのは、本当に看護師なのか。
それだけは、知らないままでいたい。
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