
私は福祉関係の事業所に勤める、三十代の女性です。
三年ほど前、新しいシステム導入に関する研修のため、地方の小さな市に五日間出張することになりました。
宿泊先はほぼ満室状態で、ようやく取れたのが駅前の古い個人経営のビジネスホテルでした。チェーン系ではなく、四階建ての小さな建物で、客室は全部で二十室ほど。フロントには年配のご夫婦がいて、チェックインの際のていねいな対応に、ほっと安堵したのを覚えています。
割り当てられた部屋は、最上階の303号室でした。
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最初の二晩は、何も起きませんでした。
ただ、部屋のドアを開けた瞬間、空気が少し淀んでいるような感じがしました。使われていない部屋独特のこもった匂い、とでも言うのでしょうか。古い建物だからかな、と自分に言い聞かせて気にしないようにしました。
窓の外は夜の駅前で、時折タクシーが通り過ぎる音がするだけ。静かでよく眠れました。
変わったことが起きたのは、三晩目のことです。
その日は研修が夜まで長引いて、夕食も遅くなり、部屋に戻ったのは夜の十一時を回っていました。疲れていたので、シャワーを浴びてすぐにベッドに入り、テレビもつけずに眠りました。
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どのくらい眠ったかはわかりません。
ふと目が覚めて、枕元の時計を見ると、午前三時二十分でした。
部屋が、妙に明るかった。
テレビが点いていたのです。映像ではなく、入力切換のままの真っ青なスタンバイ画面が、薄暗い室内をぼんやりと照らしていました。
私はテレビのタイマーをセットした覚えはありませんでした。でも、うとうとしながら無意識に電源ボタンを押したのかもしれない、と自分に言い聞かせ、リモコンで消しました。
再び横になりながら、ふと気づきました。
部屋の空気が、さっきと違う気がする。
窓を開けたわけでも、空調が急に変わったわけでもない。うまく説明できないのですが、誰かが部屋の中を通り抜けたような、そういう空気の動きがありました。もちろん部屋には私しかおらず、鍵もチェーンもかけていました。
しばらく目を開けたまま天井を見ていましたが、やがて眠気が戻ってきて、また眠りにつきました。
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翌朝、洗面台に向かったとき、違和感がありました。
昨晩置いたはずの歯ブラシとコップの並び順が、逆になっていたのです。
私は几帳面な方で、旅先でも歯ブラシは必ず右側に置きます。なのに、目の前にはコップが右で歯ブラシが左。
気のせいかな、と思いながら鏡を見ると、洗面台の縁に細かな水滴の跡がありました。完全に乾いてはおらず、ほんの少し濡れている。昨夜シャワーを使った跡には見えませんでした。まるで、誰かが夜中に顔でも洗ったような。
ドアにはチェーンをかけていました。解錠された形跡もない。
気持ち悪くなって、それ以上は考えないようにしました。
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四晩目も、深夜三時過ぎにテレビが点きました。
今度は、まるで呼ばれたように目が覚めました。寝ぼけていたのではなく、完全に意識がはっきりした状態で。
テレビを消してから、部屋の中を見回しました。
誰もいない。何もない。
ただ、部屋の空気が、体温を帯びているような感じがしました。誰かがすぐそこに座っていた直後の、ほんのりとした温かさ。言葉にすると変に聞こえるのですが、確かにそう感じました。
翌朝、フロントに下りる際、奥さんの方に話しかけました。
「夜中にテレビが勝手に点くことって、よくあるんですか?」
奥さんは一瞬だけ笑顔が止まって、それからいつもの穏やかな表情に戻りました。
「ご不便をおかけしましたか」
私の質問には答えずに、そう返ってきました。
「いえ、ちょっと気になって……」
「今夜が最終日ですね。ゆっくりお休みいただけると良いですね」
それ以上は聞けませんでした。
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最終日の朝。チェックアウト前に荷物をまとめていると、ベッドサイドのメモ帳が目に入りました。
私はそのメモ帳を一度も使っていませんでした。でも、表紙がめくれていました。
何気なく手に取って開いてみると、一ページ目に、ボールペンで小さく書かれていました。
「おやすみなさい」
筆跡は、明らかに私のものではありませんでした。
しばらくの間、その文字を見つめたまま動けませんでした。フロントに報告すべきか、とも思いました。でも、なぜか手が動かなかった。
結局、そのページを静かに切り取って、財布の奥にしまいました。なぜそうしたのか、自分でもうまく説明できません。
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帰宅してから、あのホテルのことを少しだけ調べてみました。
口コミはほとんど残っておらず、古い旅行サイトに数件のレビューが見つかっただけです。
その中の一件に、こんな記述がありました。
「303号室に泊まった。深夜にテレビが点いた。フロントに話したら、その部屋は長期間使っていなかったと言われた」
投稿日は、七年前でした。
財布の中のメモは、今もそこにあります。
「おやすみなさい」という文字だけが、小さく書かれたまま。
捨てられないでいます。