娘が描いた家

娘の家

あれは娘の美咲が四歳になったばかりの頃の話だ。

ある日、保育園から帰った美咲がリビングの床に座り込み、クレヨンで絵を描いていた。毎日のことなので気にも留めていなかったが、ふと手元を覗き込んで、私は手を止めた。

古い日本家屋の絵だった。茶色い木の壁に、青い瓦屋根。玄関の横に赤いポストがあり、庭には大きな柿の木が描かれている。屋根の瓦の重なり方や、玄関の引き戸の格子模様まで描き込まれていた。四歳にしては妙に具体的だった。

「これ、何の絵?」

「みさきの、まえのおうち」

私たちは美咲が生まれてからずっと、都内のマンションに住んでいる。実家も夫の実家もマンションだ。こんな日本家屋に住んだことは一度もない。

「前のおうちって?」

「まえに、みさきがいたとき」

美咲はそう言って、また黙々と絵を描き続けた。子供の想像だろうと思った。それ以上は聞かなかった。

しかし、美咲はその後も何度も同じ家の絵を描いた。保育園で描いてくることもあった。先生から「美咲ちゃん、最近いつも同じお家の絵を描いていますよ」と言われたこともある。

回を重ねるごとに細部が増えていった。庭を囲む石垣。裏手を流れる小さな川。家の前の緩い坂道。窓から見える山の稜線。どれも初めて描くのに、前に描いた絵と矛盾する部分が一つもない。まるで実在の風景を思い出しながら描いているようだった。

そしてある日、美咲がこう言った。

「おとなりにね、たなかのおばあちゃんがいたの。いつもおせんべいくれたんだよ」

田中という名前に心当たりはなかった。私にも夫にも、どちらの親戚にもだ。

それから私は、少しずつ美咲の話を聞き出すようになった。

「おにわにね、いどがあったの。ふたがしてあってね、あけちゃだめって言われたの」

「おへやからね、おおきいやまがみえたの。しろいところがあるやまだよ」

「かわでね、なつにあそんだの。まるいいしがいっぱいあってね、つめたかったの」

どの話も四歳の空想にしてはあまりに具体的だった。感触や温度まで覚えている。何より、同じことを日を置いて何度聞いても答えが変わらない。空想ならそのつど細部がぶれるはずなのに、美咲の話はいつも寸分たがわず同じだった。

夫は「子供の想像力ってすごいな」と笑っていたが、私にはもうそうは思えなくなっていた。

転機が訪れたのは、その年の秋だった。

夫の実家へ向かう途中、カーナビの案内を間違えて山あいの集落に迷い込んだ。紅葉が始まりかけた山の間を縫うように細い道が続いていて、すれ違う車もない。引き返せる場所を探していたときだ。

後部座席の美咲が突然、声を上げた。

「ここ、しってる」

美咲の目は窓の外に釘付けだった。流れていく田んぼや石垣を、まるで一つ一つ確認するように視線でなぞっている。

「まっすぐいって、さかをのぼるの」

夫と目を見合わせた。美咲がこの場所に来たことは絶対にない。生まれてから一度もだ。

何かに導かれるように、私たちは美咲の言うとおりに車を走らせた。緩い坂道を上った先に、それはあった。

古い日本家屋。茶色い木の壁。青い瓦屋根。庭には大きな柿の木が枝を広げ、実がたわわに色づいている。そして玄関の横に、塗装の剥げかけた赤いポスト。

美咲が何枚も描いてきた絵、そのままだった。

夫がハンドルを握ったまま固まっていた。私も声が出なかった。

家は空き家のようだった。庭は草が伸び放題で、石垣のあちこちに苔が生えている。それでも建物自体はまだしっかりしていて、かつては丁寧に手入れされていた名残があった。

車を降りた美咲は、迷いのない足取りで庭に向かった。門の脇の石を自然に避け、飛び石の上を歩き、柿の木の下をくぐる。まるで何百回も通ったことのある道のように。

私と夫は顔を見合わせたまま、黙ってついていった。

近くの畑で作業をしていた年配の男性が、私たちに気づいて近寄ってきた。

「何かご用ですか。このお宅はもう長いこと空き家ですが」

事情を説明するのは難しかった。うちの娘がこの家の絵を描いていまして、と言いかけたとき、男性の表情がわずかに変わった。

「この家はもう十五年以上、空き家ですよ。前に住んでいたご家族が越されてからずっと」

「どんなご家族だったんですか」

「ご夫婦と、小さな女の子がおってねえ。五つくらいだったかな。可愛らしい子で、よくこのあたりを走り回っていましたよ。柿の実が好きでねえ」

男性は目を細めて柿の木を見上げ、それから少し声を落とした。

「でもその子は、病気で亡くなったんです。急なことだったと聞いています。それからご夫婦もここにはおれなくなって、街のほうへ越していかれた」

私が言葉を失っている間に、美咲は庭の奥へ歩いていた。

柿の木の根元にしゃがみ込み、小さな手で土を掘り始めた。迷いなく、ある一点を。

「みさき、何してるの」

「ここにね、うめたの」

夫と二人で美咲の横にしゃがみ、一緒に土を掘った。乾いた秋の土を十センチほど掘ったところで、夫の指先に硬いものが触れた。

小さなブリキの缶だった。錆びて茶色くなっている。

蓋を開けると、色褪せたビー玉が三つと、四つ折りにされた紙切れが入っていた。紙を慎重に開くと、たどたどしい、覚えたばかりのひらがなで、こう書かれていた。

「またかえってくる」

畑の男性が、私たちの後ろで静かに手を合わせていた。

美咲はビー玉を手のひらに乗せて、秋の日差しにかざしながら、しばらくじっと見つめていた。青と緑と、透明なのが一つずつ。

それから私を見上げて、笑った。今まで見たことのないような、深く穏やかな顔だった。四歳の子供がする表情ではなかった。

「やっとみつけた」

帰りの車の中で、美咲はシートベルトに埋もれるようにして、すぐに眠った。ビー玉を小さな手で握りしめたまま。

それから、美咲が「前のおうち」の話をすることは一度もなくなった。あの家の絵も描かなくなった。保育園では花や動物や友達の絵を描いているらしい。まるで、ずっと気にかかっていた何かを、ようやく済ませたかのように。

ビー玉は今も、美咲の部屋の宝物箱に入っている。時々それを取り出して、窓からの光にかざして遊んでいる。なぜそれが大切なのかと聞いても、「きれいだから」としか答えない。

美咲はもうすぐ六歳になる。先日、あの日のことを覚えているか聞いてみた。美咲は首を傾げて、不思議そうにこう言った。

「なんのこと?」

美咲はもう、前のことを何も覚えていない。あのブリキの缶の中にあった紙切れだけが、確かにあったことの証として、私の引き出しの奥にしまってある。

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