閉館前夜の客

空の劇場と桜の花びら

その映画館が閉まると聞いたのは、閉館の二週間前のことだった。

私が勤めている地域誌の編集長に呼ばれ、「最後に一度、記録しておいてくれ」と言われたのが閉館前日の夕方だった。

私は三十五歳で、カメラマン兼ライターとして地域誌に関わっている。

地元を離れていた時期があり、この町に戻ってきたのはもう七年前のことだ。

蔦座に最後に来たのがいつだったか、正確には思い出せない。

ただ、父に連れられてきた記憶が何度かある。小学校の頃だったと思う。

座席のビロードが暗い赤で、ひじ掛けに子どもの手ではぎりぎり届くかどうかという感触があった。

上映が始まる直前のあの静かな時間が好きだった。

埃とフィルムと、誰かのコートの匂いが混ざったような、あの独特の空気。それは今でも体のどこかに残っている。

夕暮れの商店街は人が少なかった。

もう数十年前からシャッターが増え始めていて、今では看板の出ている店の方が少ないくらいだ。

その中で蔦座だけが、ずっと明かりをつけ続けていた。

看板に書かれた「昭和三十二年開館」という文字が、夕光の中で少しだけ光っていた。

六十八年間、ここで何万人が映画を観たのだろう。そういうことを、私はカメラを抱えながら考えた。

駅から歩いて十分、商店街の外れにある映画館は、夕方の六時過ぎに外から見ると、ちょうど古いブロマイドのような色をしていた。

オレンジに染まった壁、錆びたアルミの枠、小さな電飾の看板。「明日閉館。最終上映『愛の輪舞曲』」

中に入ると、ロビーの受付に若いアルバイトが二人いて、こちらに小さく頭を下げた。

私は挨拶して、取材の許可をもらっていることを告げた。

ロビーの壁には、歴代の上映ポスターが額装されて並んでいた。

いくつかは見覚えのある映画で、いくつかは知らない作品だった。

白黒の顔写真。色あせた赤と金。昔の俳優たちの視線が、ガラス越しにこちらを向いている。

その横に、縦長の年表パネルがあった。

開業から現在まで、蔦座の歴史が印刷されていた。

「昭和三十二年 開館。初めての上映作品は『愛の輪舞曲』」

その少し下に、もうひとつ項目があった。

「昭和三十二年 九月 ロビーにて小火発生、改修工事のため二週間休館」

私はなんとなくそれを読んだが、特に引っかかるものを感じないまま次の項目に目を移した。

上映は七時からだった。前売り券を購入して館内に入ると、百席近くある劇場の前半分に、十三人か十四人が散らばって座っていた。

年配の人が多かった。中には、昔からの常連らしい顔つきの老人が何人かいた。

私は最後列から二番目の席に陣取り、写真のチャンスを探しながらも、大半は映画に目を向けることにした。

上映されたのは昭和三十二年制作の古い邦画だった。

白黒映像で、音声は少し割れていた。それでも目が離せなかった。

主人公は若い女性で、地方から都会に出てきた踊り子だった。

不思議なことに、彼女の顔は一度も正面から映らなかった。

横顔か、背中か、暗がりの中の影だけ。それでも、物語のどの場面も、彼女の気持ちは痛いほど伝わってきた。

物語の中盤に、彼女が夜の街灯の下でひとり踊る長い場面があった。

ほとんど台詞のない、静かなシーンだった。

女は踊りながら、何かを少しずつ手放していくように見えた。

何を手放しているのかは、物語のなかで一度も説明されない。

私はいつの間にか息を詰めて観ていた。

六十年以上前の映画なのに、画面の外に染み出てくるような感覚があった。

何かがそこに漂っているような、そんな気がした。

ただそれだけのことなのに、目が潤んだ。自分でも理由がよく分からなかった。

エンドロールが流れ始めると、客がゆっくりと立ち上がった。

誰かが小さく拍手した。三人か四人がそれに続いた。

私は写真を撮るために席を立ち、スクリーンの前まで歩いた。

劇場の半分ほどが明るくなり、客たちが出口のほうへと歩いていく。

後ろを振り返ったとき、私は最後列の中央に、一人だけ座ったままの人物がいることに気づいた。

老婦人のようだった。

着物姿で、小さな背中をわずかに丸めて、スクリーンのほうを向いたまま動かない。

淡い色の着物だった。白に近い、薄い色。

着物の袖が、暗がりの中でかすかに揺れているように見えた。空調の風でも当たっているのかと思ったが、この時間、空調は止まっていたはずだった。

私はしばらく、その人を見ていた。

照明は入っている。周りの客は動いている。それでも、その人だけが動かなかった。

一歩踏み出そうとして、足が止まった。

近づいて良いのかどうか、確かめたいような、確かめたくないような、妙な気持ちがあった。

出口のそばにいたアルバイトのスタッフに声をかけた。

「最後列にまだお客さんがいます」

スタッフは振り返って、館内を確認した。それから私のほうを見た。

「いいえ。さっきご案内しながら、全員お出になるのを確認しましたが……」

私は振り向いた。

最後列の席は、すべて空だった。

一瞬、自分が何を見ていたのか分からなくなった。

暗さと疲れのせいかとも思ったが、それにしても、白い着物の後ろ姿はあまりに鮮明だった。あれが影や見間違いとは、どうしても思えなかった。

私はゆっくりと最後列まで歩いた。

人がいたはずの席の前に立ったが、何もない。

足元に目を落とすと、床に何かが落ちていた。

拾い上げると、古い紙だった。

チケットの半券のような形をしていたが、ひどく色あせていて、日付の数字は判読できなかった。

ただ、映画のタイトルだけが、かろうじて読めた。

「愛の輪舞曲」

私はしばらく、その紙を持ったまま立っていた。

それからポケットにしまって、スクリーンのほうを向いた。

明かりの落ちた白い布が、空調も止まっているのに、少しだけ揺れているような気がした。

気のせいだと思った。

気のせいだと思いながら、ずっと見ていた。

帰り際に、館長に挨拶した。

五十代の、がっしりした体格の男性で、父親から映画館を引き継いで三十年近く運営してきたと聞いていた。

取材のための質問をひととおり済ませてから、私はふと訊いてみた。

「閉館の最終上映に、どうして『愛の輪舞曲』を選ばれたんですか」

館長は少し驚いたような顔をして、それから静かに言った。

「あれはね、うちが一番最初に上映した映画なんですよ。昭和三十二年の秋でした」

彼はロビーの壁のほうを少し見てから、続けた。

「その初日に、小さな火事があったんです。ロビーのほうで起きた火で、幸い映写室には届かなかったんですが、お客さんが一人、逃げ遅れてしまいまして」

私は黙っていた。

「若い女性でした。着物を着ていたそうです。映画が好きな方だったらしくて、開館初日のその映画を楽しみにして来てくださっていたのに」

館長はしばらく口をつぐんだ。

「父から聞いた話なんですが、ずっと気になっていました。だから最後にもう一度、あの映画をかけてあげたかったんです。ちゃんと最後まで観ていただけたかどうか、分かりませんが」

私はポケットの中の半券に触れた。

薄い紙が、指先に確かにある。

「……そうでしたか」

それだけ言って、私は頭を下げた。

翌日、閉館の式典を撮影するために蔦座の前まで来ると、入口には薄いロープが張られていた。

前日と変わらない外観で、でも明かりは消えていた。

電飾の看板はまだそのままで、「長い間ありがとうございました」と書かれた手書きの紙が一枚、ガラス戸の内側に貼られていた。

しばらく外から眺めてから、私は立ち去った。

あの半券は今も財布の中に入れている。

返しに行こうとは思っているのだが、もう映画館はない。

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