赤い目
親父が酒の席で怖い話となると毎回話す体験談を一つ。
今から25年程前、親父が30代前半の頃の話。
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親父はヨットが趣味なのだが、当時はまだ自分のヨットを持っておらず、友人のヨットに乗せてもらうのが休日の楽しみだった。
ゴールデンウィークで一週間以上仕事が休みになり『海に出たいな~』と思っていたら、タイミング良く会社のヨット仲間のHさんがクルージングに誘ってきた。
Hさんはかなりの上役で、部署も違うし年齢も50代と親父とはかなり離れているが、趣味が同じで気も合うので、しょっちゅう一緒に飲みに行く仲だった。
自前の大きなヨットを持っており、当時は俺の家と家族ぐるみで付き合いがあったので、クルージングに誘われて一家で同行することも度々あった。
Hさんの誘いは、家族と一緒にちょっと遠出のクルージングに来ないかとのものだった。
しかし俺とオカンは生憎、オカンの友人一家とキャンプに行く予定があり、家族全員での参加は日程的に難しかった。
Hさんの家族も用事で参加できないらしく、親父とHさんが
「流石に男二人だけで行くのもつまらんしなぁ」
などと話し合っていると、親父の後輩でヨット仲間の一人のJさんが、
「良かったら、友人と参加してもいいですか」
と会話に入ってきた。
Jさんは高校時代からヨットをやっており、社会人になってすぐにローンを組んで自分のヨットを購入した筋金入りのヨット好きだ。
活動がレース中心の人で、ぶらぶらとクルージングしているのが好きな親父達とはあまり一緒に活動することがない。
ただ、ちょうど友人二人に海釣りをやりたいから船出してくれと頼まれて、困っていたとのことだった。
Jさんの所有しているヨットは、レース用の少人数が乗ることを想定した小型のもので、あまり快適とは言い難い。
素人を二人連れて自分一人が操縦するとなると正直疲れるので、便乗させてもらえるなら是非とも便乗させて欲しいと頼み込んできた。
Hさんは、
「どうせ他に行く人間も居ないんだから気にせず連れて来い」
と快諾し、早速三人でスケジュールを練り、最終的な目的地は小豆島となった。
道中、Hさんが知っている釣りポイントに寄り道するという感じで航路を決め、酒とつまみを大量に買い込んで出航となった。
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クルージング中の天気は週間予報でも快晴続きで、雨の心配は全く無い絶好の航海日和だった。
釣りも絶好調で、ヨット航行中はトローリングでハマチなどが面白いように釣れ、Hさんの知っていたポイントでも大漁で、Jさんの友人二人も大喜びだった。
そんなこんなで若干予定よりも早く最終目的地の小豆島に着き、二日ほど観光したり釣りしたりして過ごした。
しかし皆疲れが溜まってきたので、予定よりも一日早く帰途に着くこととなった。
真っ直ぐ帰る予定であったが、順調に進んで来ているし予定よりもかなり早い帰りになってしまったので、以前にHさん一家と俺の一家で行った小さな島に寄ってみようという話になった。
俺の記憶だと海の家が二軒ほどあるだけの島だが、停泊できる桟橋もしっかりしており、入り江の水も澄んでいる綺麗な所だった。
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島に着いて湾内に入っても全く船が泊まっておらず、どうやら海の家もやっていないようだった。
「あー、まだシーズンやなかったか…」
とHさんはかなり残念そうだったが、折角なので皆で釣りして、釣った魚で宴会しようという流れになった。
皆で誰も居ない島でそれぞれ適当なポイントを探して釣り始めると、これが今まで一番の爆釣れ状態。
うちの親父は堪え性がない性格で、全くと言って良いほど釣りに向いていない。
釣りのセンスもゼロだが、そんな親父でもそこそこ釣れるほどで、3時間ほど釣ればクーラーボックス一杯になるほどだったそうな。
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16時くらいに、少し早目の夕飯を食べてから出航しようという流れとなり、皆が釣った魚を大量に使って豪勢な夕食を作り宴会となった。
皆で酒を飲みながらヨットや釣りの話、仕事や家庭、子供の話で大いに盛り上がったが、酒好きだがそこまで強くない親父は途中からウトウトしてしまった。
ハッと気が付くと、高かった日が落ちて、僅かに水際が光っているくらいになっていた。
『しまった!』と飛び起きて見回すと、HさんとJさんがデッキに拵えたテーブルにグラスを持ったまま突っ伏して寝ている状態で、Jさんの友人二人は船内に入って寝ているようだった。
全員が酔って寝てしまっている状態に親父は苦笑し、
『取り敢えずHさんとJさんを起こして帰り支度するか』
と思い、立ち上がって寝てる二人を揺り起こそうとした。
その時、ヨットの船尾から「バシャ、バシャ、バシャ」と派手な水しぶきが上がった。
驚いた親父が船上から覗いてみると、暗いのでよく分からないが、恐らく魚が群れて跳ね回っているようだった。
小型のライトを着けて照らして確認すると、イカの群れだということが判った。
かなり近い位置でバシャバシャやっているから、備え付けてあるタモで掬えるのではないかと思い、船尾に降りてダメ元で群れにタモを突っ込んでみると凄い重い手応えで、引き上げてみると5匹ぐらいイカが入っている。
親父が思わず「おおっ!」と驚きの声を上げると、HさんとJさんも目が覚めたようで、船尾から上がってデッキでドタドタやっている親父の所に寄って来た。
親父が海水を汲んだバケツにイカを入れなが事情を説明すると、Hさんは
「じゃあ、ワシもやってみるわ」
と言い、タモを持って船尾に降りて行った。
親父とJさんが「アオリイカかな?」などとイカについて喋ってると、「ドボン!」と大きな水音がした。
『まさか!』と思い船尾を見るとHさんの姿がなく、バシャバシャやっていたイカの群れも消えている。
『これは身を乗り出し過ぎて落ちたな』と思いながらも親父は、Hさんは泳ぎも上手く、波も全くないので、すぐに浮き上がって泳いで帰って来るだろうと思い楽観していた。
しかしHさんが浮かび上がって来たのは何故かヨットから5メートル近くも離れた場所で、しかも懸命にもがいていた。
溺れたHさんを助けようと親父が反射的に海に飛び込もうとすると、Jさんが凄い力で親父の腕を押さえ付け、怖い顔で
「救命用の浮き輪を投げて引っ張りましょう!」
と言う。
親父はどう考えても飛び込んだ方が早いと思ったが、普段の冷静なJさんの様子が何かおかしく、鬼気迫るものがあった。
急いでデッキにある備え付けの救助浮き輪を外し、Hさんめがけて投げ付けた。
上手く近くに着水した浮き輪をHさんが掴んだのを確認し、親父とJさんは浮き輪に結び付けているロープを引っ張った。
しかしHさんがこちらに向かって泳いでいるのに、何かに流されているようでなかなか思うように引き上げられない。
しかも、Hさんの周りの波の動きが妙な感じで、何かが泳ぎ回っているようだった。
Jさんは引っ張りながら大声でヨットの中で寝ている友人二人を呼び、親父とJさんの作業を手伝ってもらい、大の男四人がかりで何とか引き上げに成功した。
親父が「大丈夫ですか!?」とHさんに呼びかけると、肩で息をしていたHさんが「出すぞ!!!」と周囲に響き渡るような大声を上げた。
それが合図になったかのかJさんは物凄い勢いで係留ロープを外し、ほぼ同時にHさんがエンジンをかけて、普段のHさんからは想像もできない荒い操縦でヨットは桟橋から離れた。
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親父にはHさんを引き上げたあたりからずっと、
「ンゥゥゥゥ~ゥゥン~ゥゥン…」
と牛蛙の鳴声のような男の鼻歌のような声が聞こえおり、入り江から出た後もずっと聞こえていた。
操縦しているHさんの様子も明らかにおかしく、只事ではない事態に巻き込まれたのは間違いない。
Hさんに何があったのか問い質そうとすると、Jさんが「あかん…追って来てますわ…」と震えながら言う。
JさんはHさんが落ちた時に、その周囲には人間の子供ぐらい大きさのの異様に白い『何か』が複数見えたそうだ。
親父が飛び込もうとした時にそいつらは一斉にJさんと親父の方を向いたが、目が真っ赤に光っていたらしい。
今は見えないが、気配だけは島から離れた今もずっと付いて来ている気がすると言う。
親父が妙な声が聞こえるかと尋ねると、無言で首を縦に振った。
Jさんの友人二人も声は聞こえているらしく、Jさんの話を聞いて明らかに狼狽している。
親父も肝が冷えて変な汗が止まらなかった。
Jさんが話し終わるとHさんが、
「俺には見えんかったけどな…タモの先を何かが引っ張りよったせいで落ちた。
気が付いたら海の中で、浮き上がろうとすると、見えんけど何かが足首や腕にしがみついてきた…」
と苦い顔をして言った。
親父やJさんの友人二人も、HさんやJさんが冗談を言っているようには見えなかったそうだ。
もう島からはかなり離れており、航路は取り敢えず出発したハーバーに向かっているが、妙な声がまだ聞こえる。
数分とも数時間とも時間感覚がないまま全員沈黙していたが、ふと考えが親父の頭を過ぎった。
その時、何故そんなことを思いついたのか解らないが、捕まえてバケツに入れていたイカを海に逃がそうと思ったらしい。
親父が心の中で『勝手に捕ってすまんかった。許してくれ』と念じながらイカを海に逃がしてやると、暫くしてずっと続いていた妙な声が急に聞こえなくなった。
全員が同じタイミングで聞こえなくなったらしく、皆で顔を見合わせて変な笑いが出た。
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その後、深夜過ぎに出発した地元のヨットハーバーに到着し、近くの24時間やっている健康ランドに全員なだれ込んで、風呂に入ってようやく生きた心地になった。
その時にHさんが「これ見てみ…」と皆に肩や腕を見せてくれたのだが、三本爪で引っ掻いたようなミミズ腫れが至る所にできており、改めて皆ゾッとしたそうだ。