もう七、八年も前になる。

確か、秋も終わりかけた、十一月の終わりごろのことだ。

前の晩、めずらしく早く寝たせいか、その日はやけに早く目が覚めた。

ちょうど、日の出の直後くらいだったと思う。

起きたとはいえ、頭にはまだ、霞がかかったようだった。

寝ぼけたまま、温かいコーヒーが飲みたくなった。

近くの自販機まで買いに行くかと、布団を出た。

当時、俺は親父と二人で、古い社宅に住んでいた。

築四十年は超える、薄暗い建物だった。

その社宅は、五階建ての、コンクリートの塊のような建物だった。

エレベーターはなく、薄暗い階段を、いつも歩いて上り下りしていた。

壁には、雨染みが、人の顔のように浮き出ていた。

夜になると、どこかの部屋から、低い物音が聞こえることもあった。

だが、長く住んでいると、そんなことには、いちいち驚かなくなる。

その朝も、ただの、いつもの古い社宅だった。

少なくとも、そのときは、そう思っていた。

居間を覗くと、親父はもう起きていた。

新聞を広げながら、朝飯を食っていた。

「ちょっと、コーヒー買ってくるわ」

玄関で靴を履きながら、そう声をかけた。

すると、親父の返事が返ってきた。

「今日はガガでぃうガ、だから気をガガ―ガガガ―つけろよ―」

妙だった。

何か、ノイズのようなものが、言葉の間に挟まっていた。

聞き取れないのに、言葉っぽい、変な返事だった。

いつもは「おう」くらいしか言わないのに、やけに長い。

だが、そのときは気にも留めず、「あいよ」と返して、外に出た。

外は、思ったより冷えていた。

白い息を吐きながら、自販機のほうへ歩いた。

外廊下に出ると、冷たい空気が、頬を刺した。

見上げた空が、ほんのり、赤く染まっていた。

いい朝焼けだな、と、寝ぼけた頭で、ぼんやり思った。

今思えば、あのとき、もっとよく見ておくべきだった。

あの赤の中には、すでに、わずかな紫が混じっていたのだ。

だが、霞のかかった頭では、それに気づけなかった。

足元の落ち葉を踏む、かさかさという音だけが、やけに大きく響いた。

頭は、相変わらず、ぼんやりしていた。

途中、社宅の掃除をしているおじさんとすれ違った。

「おはようございます」

いつものように、挨拶をした。

「おっ、ガガッガガ―ガガッガガ―ねえ。ガ、おはよう」

やはり、言葉が変だった。

だが、寝ぼけた俺は、それも気に留めなかった。

ほどなく、自販機にたどり着いた。

缶コーヒーを買い、一口飲んだ。

あの缶コーヒーは、結局、どこへ消えたのだろう。

気がついたとき、俺の手には、何も握られていなかった。

買った記憶も、飲んだ感覚も、確かにあったのに。

レシートも、小銭も、ポケットには残っていなかった。

まるで、あの一杯が、向こう側との、境い目だったかのようだ。

ひと口飲んだ瞬間、霞が晴れて、異変に気づいた。

あれは、目を覚ますための、合図だったのかもしれない。

温かいものが喉を通った瞬間、頭の霞が、すうっと晴れた。

そして同時に、周りの異変に、気がついた。

まず、自販機の数が、やけに増えていた。

いつ、こんなに増やしたのだろう。

だが、新しい自販機を見ると、見たこともない文字が並んでいた。

コインの投入口も、札を入れる場所も、どこにもなかった。

あの自販機のことも、ずっと頭に残っている。

並んでいた文字は、どこの国のものでもなかった。

見ていると、目の奥が、じんと痛くなった。

文字が、ゆっくりと、形を変えていくようにも見えた。

あれは、何かを買うための機械ではなかったのだろう。

では、何のために、あそこに並んでいたのか。

考えると、今でも、寒気がする。

二つ目の異変は、空だった。

さっきまで、きれいな朝焼けだと思っていた。

だが、見上げると、空は、どす黒い紫色に染まっていた。

血のような、毒々しい紫だった。

背筋が、ぞくりとした。

おまけに、周りの社宅の窓には、すべて電気がついていた。

一瞬、もう夕方なのかと思った。

だが、携帯を見ると、時刻はやはり、朝のままだった。

そして、なぜか、電波が一本も立っていなかった。

よく見れば、おかしなことは、ほかにもあった。

電柱が、一本も、立っていなかった。

電線も、どこにも見当たらない。

それなのに、家々の窓は、煌々と光っていた。

どこからか、低い、地鳴りのような音が響いていた。

耳の奥が、きいんと痛くなった。

空気が、やけに重く、まとわりつくようだった。

一歩進むごとに、足が、地面に沈み込む気がした。

とにかく、家に帰ろうと思った。

来た道を、急いで引き返した。

だが、行けども行けども、見慣れた景色が、出てこない。

さっきの掃除のおじさんも、もういなかった。

どこからか、生臭い、魚が腐ったような臭いが漂ってきた。

自分の住む社宅が、どこにも見つからない。

周りの建物が、少しずつ、形を変えているような気がした。

道を引き返しながら、俺は何度も、自分の頬を叩いた。

これは、まだ夢の続きなのではないか。

そう思いたかった。

だが、頬の痛みは、まぎれもなく本物だった。

足元のアスファルトが、ぬめぬめと、濡れていた。

その表面が、ときどき、生き物のように、かすかに脈打っていた。

見てはいけないものを見た気がして、俺は目を逸らした。

心臓が、嫌な音を立てて、早鐘を打っていた。

俺は、混乱の絶頂で、その場に立ち尽くした。

呆然と、うつむいていたときだ。

ふと、目の前に、誰かが立っているのに気づいた。

また、あの掃除のおじさんかと思った。

顔を上げて、ぎょっとした。

顔があるべき場所に、顔がなかった。

見えたのは、のっぺりとした、腹だか胸だかだった。

首を伸ばして、上を見上げた。

ずっと高い場所に、ようやく、顔があった。

何と言えばいいのか。

子どもが粘土で作った顔を、いくつも、ぐちゃぐちゃに混ぜたような顔だった。

ソレの体からは、あの生臭い臭いが、強く漂っていた。

近づくほどに、その臭いは、息ができないほど濃くなった。

体じゅうの毛が、ぞわりと逆立った。

逃げなければ、と頭では思った。

だが、脚が、根が生えたように、動かなかった。

ソレの、いくつもの顔が、いっせいに、こちらを向いた気がした。

無数の目が、俺を、じっと見ていた。

状況がつかめず、俺は口をぱくぱくさせていた。

そのソレが、こう言った。

「ここガガッガガ―ガガッガガ―、ない」

そう聞こえた、次の瞬間だった。

横から、すさまじい衝撃が来た。

ものすごい痛みと、衝撃。

(ああ、俺は死んだな)

妙に冷静に、そう思いながら、意識が途切れていった。

失神する間際、変な方向に曲がった自分の脚を、ソレがつかんで、引きずっていくのが見えた。

引きずられていく感覚は、今でも、はっきりと覚えている。

背中が、ざらついた地面を、ずるずると擦っていった。

視界の隅で、紫の空が、ぐるぐると回っていた。

このまま、どこか知らない場所へ、連れていかれる。

そう思った瞬間、ふっと、すべてが暗転した。

暗闇の中で、遠くから、誰かの声が聞こえた気がした。

それは、親父の声に、よく似ていた。

目を覚ます直前、俺は、奇妙な夢を見ていた。

紫の空の下、無数の人影が、こちらに背を向けて立っていた。

みな、ゆっくりと、どこかへ向かって歩いていた。

その中に、見覚えのある後ろ姿が、いくつもあった。

昔、行方不明になった近所の人。

ずっと前に、姿を消した同級生。

彼らは、一度も、振り返らなかった。

俺が声をかけようとした瞬間、掃除のおじさんの声で、目が覚めた。

次に気がついたとき、目の前に、あの掃除のおじさんがいた。

「あれ。さっき、通り過ぎたよねえ。あれ?」

そう、不思議そうに首をかしげていた。

体を確かめると、どこにも異常はなかった。

掃除のおじさんは、俺が倒れていたのを、見ていなかったらしい。

「ついさっき、そこを通り過ぎたよねえ」

そう、何度も繰り返していた。

おじさんの中では、俺は、一度も足を止めていなかったのだ。

だが、俺の感覚では、たっぷり何十分も、向こう側にいた。

時間の流れが、まるで、ずれていた。

その食い違いが、何より、恐ろしかった。

曲がっていたはずの脚も、何ともなかった。

周りを見れば、見慣れた社宅が、ちゃんと目の前にあった。

空は、もう、ただの灰色の朝空に戻っていた。

俺は、青ざめた顔で、家へ駆け込んだ。

家に入ると、妙なことがあった。

いつもなら、とっくに仕事へ出ているはずの親父が、まだ家にいた。

鏡の前で、ネクタイを直していた。

俺の顔を見て、親父は、一言こう言った。

「……だから、気をつけろって言ったろう」

「今日は『紫』なんだから」

俺は、ぞっとした。

「何か、知ってるのか」

「何があったか、分かってるのか」

そう問い詰めると、親父は面倒くさそうに言った。

「長い話になる。帰ってきたら話してやる」

そう言い残して、親父は、さっさと出かけてしまった。

あの朝、もし俺が、コーヒーを飲まなかったら。

霞のかかった頭のまま、もっと奥へ、歩いていたかもしれない。

そう思うと、ぞっとする。

目を覚ますきっかけが、ほんの偶然だったのだから。

日常と異界の境目は、案外、すぐ隣にある。

そのことを、俺はあの朝、思い知らされた。

親父が出かけたあと、俺は一日中、家から出られなかった。

カーテンを閉め切って、布団にくるまっていた。

窓の外が、また紫に変わるのではないかと、気が気でなかった。

昼を過ぎても、心臓の鼓動は、収まらなかった。

テレビをつけても、内容は、まるで頭に入らなかった。

ただ、ひたすら、親父が帰ってくるのを待っていた。

こんなに、人の気配が恋しかったことは、なかった。

夜、帰ってきた親父から、聞いた話だ。

うちの家系には、古い言い伝えがあるのだという。

朝焼けが紫色に染まった朝は、決して外を出歩くな、という家訓だ。

親父も若い頃、一度だけ、似たような目に遭ったらしい。

免許を取りたての頃、夜明け前にドライブをしていて、変な場所に迷い込んだ、と。

そのときも、空は、毒々しい紫色だったそうだ。

親父の若い頃の話は、思った以上に、不気味なものだった。

夜明け前の山道を、車で走っていたときだという。

カーラジオから、急に、ノイズだらけの音声が流れはじめた。

気づくと、空が、毒々しい紫に変わっていた。

見覚えのない、トンネルが現れた。

その中に入った瞬間、出口が、いつまでも来なかった。

対向車もなく、ただ、紫の光だけが、ぼんやりと続いていた。

親父は、無我夢中で、来た道を引き返したそうだ。

気がつくと、もとの、見慣れた峠道に戻っていた。

今朝は、その紫がかっていた。

だから親父は、わざと仕事の時間をずらして、様子を見ていたという。

親父の祖父も、同じ家訓を、子どもたちに伝えていたという。

いつから続く言い伝えなのか、誰も知らない。

ただ、紫の朝に消えた者は、二度と戻らない、とだけ伝わっている。

親父に、ひとつだけ、聞きそびれたことがある。

あの顔のない異形は、いったい、何だったのか。

あれが、人を連れていく者なのか。

それとも、ただ、迷い込んだ者を、追い払おうとしていたのか。

「ここはお前の来る場所じゃない」と。

あのとき聞こえた言葉は、そういう意味だったのかもしれない。

だとすれば、ソレは、俺を突き飛ばして、追い返してくれたのか。

本当のところは、今も分からない。

戻ってきた俺は、よほど運が良かったのだろう。

あるいは、あの暗闇で聞こえた親父の声が、俺を引き戻したのか。

それは、今となっては、確かめようがない。

そして、俺が出かけそうだったので、一応「気をつけろ」と言った、と。

だが、あのとき親父の言葉は、ノイズだらけで、まるで聞き取れなかった。

今思えば、あの瞬間、俺はもう、半分あちら側に、足を踏み入れていたのだろう。

そう考えると、今でも背筋が冷たくなる。

あれから、紫という色が、苦手になった。

夕暮れの空でさえ、紫が混じると、足がすくむ。

花屋の前を通るときも、紫の花からは、つい目を逸らしてしまう。

理屈ではないのだ。

体が、あの朝の恐怖を、はっきりと覚えている。

喉の奥に残る、あの生臭さも、忘れられない。

背中を擦った、地面の冷たさも。

ふとした瞬間に、それらが、よみがえってくる。

以来、俺は、朝焼けの色を、必ず確かめる癖がついた。

空が少しでも紫がかっていたら、その日は、絶対に外へ出ない。

それにしても、親父よ。

そんなに分かっていたなら、最初から、はっきり止めてくれと言いたい。

夜、親父と向き合って、俺は、その朝のことを話した。

「親父、あの返事、めちゃくちゃ変だったぞ」

「ノイズみたいなのが、間に挟まってた」

親父は、湯のみを置いて、低い声で言った。

「向こうに近い奴ほど、言葉が、うまく届かなくなる」

「お前は、半分、引っ張られてたんだ」

その言葉に、俺は、ぞくりとした。

「じゃあ、もし、あのまま気づかなかったら」

親父は、何も答えなかった。

ただ、湯気の立つ茶を、黙ってすすっていた。

あの社宅は、もう取り壊されて、今はない。

跡地には、新しいマンションが建っている。

だが、俺は今でも、あの場所には近づけない。

前を通るたびに、あの紫の空が、よみがえるからだ。

引っ越してからも、朝焼けを見る癖は、抜けない。

カーテンを開けて、まず空の色を確かめる。

赤ならいい。橙でもいい。

だが、ほんの少しでも紫が差していたら、その日は一歩も外へ出ない。

家族には、ただの験担ぎだと、笑って言っている。

本当の理由は、誰にも、話していない。

今でも、早起きした朝は、まず窓の外を確かめる。

空が普通の色をしているだけで、心の底から、ほっとする。

当たり前の朝が、これほどありがたいものだとは、あの日まで思いもしませんでした。

これが、俺が体験した、洒落にならない話だ。

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