もう七、八年も前になる。
確か、秋も終わりかけた、十一月の終わりごろのことだ。
前の晩、めずらしく早く寝たせいか、その日はやけに早く目が覚めた。
ちょうど、日の出の直後くらいだったと思う。
起きたとはいえ、頭にはまだ、霞がかかったようだった。
寝ぼけたまま、温かいコーヒーが飲みたくなった。
近くの自販機まで買いに行くかと、布団を出た。
当時、俺は親父と二人で、古い社宅に住んでいた。
築四十年は超える、薄暗い建物だった。
その社宅は、五階建ての、コンクリートの塊のような建物だった。
エレベーターはなく、薄暗い階段を、いつも歩いて上り下りしていた。
壁には、雨染みが、人の顔のように浮き出ていた。
夜になると、どこかの部屋から、低い物音が聞こえることもあった。
だが、長く住んでいると、そんなことには、いちいち驚かなくなる。
その朝も、ただの、いつもの古い社宅だった。
少なくとも、そのときは、そう思っていた。
※
居間を覗くと、親父はもう起きていた。
新聞を広げながら、朝飯を食っていた。
「ちょっと、コーヒー買ってくるわ」
玄関で靴を履きながら、そう声をかけた。
すると、親父の返事が返ってきた。
「今日はガガでぃうガ、だから気をガガ―ガガガ―つけろよ―」
妙だった。
何か、ノイズのようなものが、言葉の間に挟まっていた。
聞き取れないのに、言葉っぽい、変な返事だった。
いつもは「おう」くらいしか言わないのに、やけに長い。
だが、そのときは気にも留めず、「あいよ」と返して、外に出た。
※
外は、思ったより冷えていた。
白い息を吐きながら、自販機のほうへ歩いた。
外廊下に出ると、冷たい空気が、頬を刺した。
見上げた空が、ほんのり、赤く染まっていた。
いい朝焼けだな、と、寝ぼけた頭で、ぼんやり思った。
今思えば、あのとき、もっとよく見ておくべきだった。
あの赤の中には、すでに、わずかな紫が混じっていたのだ。
だが、霞のかかった頭では、それに気づけなかった。
足元の落ち葉を踏む、かさかさという音だけが、やけに大きく響いた。
頭は、相変わらず、ぼんやりしていた。
途中、社宅の掃除をしているおじさんとすれ違った。
「おはようございます」
いつものように、挨拶をした。
「おっ、ガガッガガ―ガガッガガ―ねえ。ガ、おはよう」
やはり、言葉が変だった。
だが、寝ぼけた俺は、それも気に留めなかった。
ほどなく、自販機にたどり着いた。
※
缶コーヒーを買い、一口飲んだ。
あの缶コーヒーは、結局、どこへ消えたのだろう。
気がついたとき、俺の手には、何も握られていなかった。
買った記憶も、飲んだ感覚も、確かにあったのに。
レシートも、小銭も、ポケットには残っていなかった。
まるで、あの一杯が、向こう側との、境い目だったかのようだ。
ひと口飲んだ瞬間、霞が晴れて、異変に気づいた。
あれは、目を覚ますための、合図だったのかもしれない。
温かいものが喉を通った瞬間、頭の霞が、すうっと晴れた。
そして同時に、周りの異変に、気がついた。
まず、自販機の数が、やけに増えていた。
いつ、こんなに増やしたのだろう。
だが、新しい自販機を見ると、見たこともない文字が並んでいた。
コインの投入口も、札を入れる場所も、どこにもなかった。
あの自販機のことも、ずっと頭に残っている。
並んでいた文字は、どこの国のものでもなかった。
見ていると、目の奥が、じんと痛くなった。
文字が、ゆっくりと、形を変えていくようにも見えた。
あれは、何かを買うための機械ではなかったのだろう。
では、何のために、あそこに並んでいたのか。
考えると、今でも、寒気がする。
※
二つ目の異変は、空だった。
さっきまで、きれいな朝焼けだと思っていた。
だが、見上げると、空は、どす黒い紫色に染まっていた。
血のような、毒々しい紫だった。
背筋が、ぞくりとした。
おまけに、周りの社宅の窓には、すべて電気がついていた。
一瞬、もう夕方なのかと思った。
だが、携帯を見ると、時刻はやはり、朝のままだった。
そして、なぜか、電波が一本も立っていなかった。
※
よく見れば、おかしなことは、ほかにもあった。
電柱が、一本も、立っていなかった。
電線も、どこにも見当たらない。
それなのに、家々の窓は、煌々と光っていた。
どこからか、低い、地鳴りのような音が響いていた。
耳の奥が、きいんと痛くなった。
空気が、やけに重く、まとわりつくようだった。
一歩進むごとに、足が、地面に沈み込む気がした。
※
とにかく、家に帰ろうと思った。
来た道を、急いで引き返した。
だが、行けども行けども、見慣れた景色が、出てこない。
さっきの掃除のおじさんも、もういなかった。
どこからか、生臭い、魚が腐ったような臭いが漂ってきた。
自分の住む社宅が、どこにも見つからない。
周りの建物が、少しずつ、形を変えているような気がした。
道を引き返しながら、俺は何度も、自分の頬を叩いた。
これは、まだ夢の続きなのではないか。
そう思いたかった。
だが、頬の痛みは、まぎれもなく本物だった。
足元のアスファルトが、ぬめぬめと、濡れていた。
その表面が、ときどき、生き物のように、かすかに脈打っていた。
見てはいけないものを見た気がして、俺は目を逸らした。
心臓が、嫌な音を立てて、早鐘を打っていた。
俺は、混乱の絶頂で、その場に立ち尽くした。
※
呆然と、うつむいていたときだ。
ふと、目の前に、誰かが立っているのに気づいた。
また、あの掃除のおじさんかと思った。
顔を上げて、ぎょっとした。
顔があるべき場所に、顔がなかった。
見えたのは、のっぺりとした、腹だか胸だかだった。
首を伸ばして、上を見上げた。
ずっと高い場所に、ようやく、顔があった。
何と言えばいいのか。
子どもが粘土で作った顔を、いくつも、ぐちゃぐちゃに混ぜたような顔だった。
※
ソレの体からは、あの生臭い臭いが、強く漂っていた。
近づくほどに、その臭いは、息ができないほど濃くなった。
体じゅうの毛が、ぞわりと逆立った。
逃げなければ、と頭では思った。
だが、脚が、根が生えたように、動かなかった。
ソレの、いくつもの顔が、いっせいに、こちらを向いた気がした。
無数の目が、俺を、じっと見ていた。
状況がつかめず、俺は口をぱくぱくさせていた。
そのソレが、こう言った。
「ここガガッガガ―ガガッガガ―、ない」
そう聞こえた、次の瞬間だった。
横から、すさまじい衝撃が来た。
ものすごい痛みと、衝撃。
(ああ、俺は死んだな)
妙に冷静に、そう思いながら、意識が途切れていった。
失神する間際、変な方向に曲がった自分の脚を、ソレがつかんで、引きずっていくのが見えた。
※
引きずられていく感覚は、今でも、はっきりと覚えている。
背中が、ざらついた地面を、ずるずると擦っていった。
視界の隅で、紫の空が、ぐるぐると回っていた。
このまま、どこか知らない場所へ、連れていかれる。
そう思った瞬間、ふっと、すべてが暗転した。
暗闇の中で、遠くから、誰かの声が聞こえた気がした。
それは、親父の声に、よく似ていた。
※
目を覚ます直前、俺は、奇妙な夢を見ていた。
紫の空の下、無数の人影が、こちらに背を向けて立っていた。
みな、ゆっくりと、どこかへ向かって歩いていた。
その中に、見覚えのある後ろ姿が、いくつもあった。
昔、行方不明になった近所の人。
ずっと前に、姿を消した同級生。
彼らは、一度も、振り返らなかった。
俺が声をかけようとした瞬間、掃除のおじさんの声で、目が覚めた。
※
次に気がついたとき、目の前に、あの掃除のおじさんがいた。
「あれ。さっき、通り過ぎたよねえ。あれ?」
そう、不思議そうに首をかしげていた。
体を確かめると、どこにも異常はなかった。
掃除のおじさんは、俺が倒れていたのを、見ていなかったらしい。
「ついさっき、そこを通り過ぎたよねえ」
そう、何度も繰り返していた。
おじさんの中では、俺は、一度も足を止めていなかったのだ。
だが、俺の感覚では、たっぷり何十分も、向こう側にいた。
時間の流れが、まるで、ずれていた。
その食い違いが、何より、恐ろしかった。
曲がっていたはずの脚も、何ともなかった。
周りを見れば、見慣れた社宅が、ちゃんと目の前にあった。
空は、もう、ただの灰色の朝空に戻っていた。
俺は、青ざめた顔で、家へ駆け込んだ。
※
家に入ると、妙なことがあった。
いつもなら、とっくに仕事へ出ているはずの親父が、まだ家にいた。
鏡の前で、ネクタイを直していた。
俺の顔を見て、親父は、一言こう言った。
「……だから、気をつけろって言ったろう」
「今日は『紫』なんだから」
俺は、ぞっとした。
「何か、知ってるのか」
「何があったか、分かってるのか」
そう問い詰めると、親父は面倒くさそうに言った。
「長い話になる。帰ってきたら話してやる」
そう言い残して、親父は、さっさと出かけてしまった。
※
あの朝、もし俺が、コーヒーを飲まなかったら。
霞のかかった頭のまま、もっと奥へ、歩いていたかもしれない。
そう思うと、ぞっとする。
目を覚ますきっかけが、ほんの偶然だったのだから。
日常と異界の境目は、案外、すぐ隣にある。
そのことを、俺はあの朝、思い知らされた。
※
親父が出かけたあと、俺は一日中、家から出られなかった。
カーテンを閉め切って、布団にくるまっていた。
窓の外が、また紫に変わるのではないかと、気が気でなかった。
昼を過ぎても、心臓の鼓動は、収まらなかった。
テレビをつけても、内容は、まるで頭に入らなかった。
ただ、ひたすら、親父が帰ってくるのを待っていた。
こんなに、人の気配が恋しかったことは、なかった。
※
夜、帰ってきた親父から、聞いた話だ。
うちの家系には、古い言い伝えがあるのだという。
朝焼けが紫色に染まった朝は、決して外を出歩くな、という家訓だ。
親父も若い頃、一度だけ、似たような目に遭ったらしい。
免許を取りたての頃、夜明け前にドライブをしていて、変な場所に迷い込んだ、と。
そのときも、空は、毒々しい紫色だったそうだ。
親父の若い頃の話は、思った以上に、不気味なものだった。
夜明け前の山道を、車で走っていたときだという。
カーラジオから、急に、ノイズだらけの音声が流れはじめた。
気づくと、空が、毒々しい紫に変わっていた。
見覚えのない、トンネルが現れた。
その中に入った瞬間、出口が、いつまでも来なかった。
対向車もなく、ただ、紫の光だけが、ぼんやりと続いていた。
親父は、無我夢中で、来た道を引き返したそうだ。
気がつくと、もとの、見慣れた峠道に戻っていた。
今朝は、その紫がかっていた。
だから親父は、わざと仕事の時間をずらして、様子を見ていたという。
※
親父の祖父も、同じ家訓を、子どもたちに伝えていたという。
いつから続く言い伝えなのか、誰も知らない。
ただ、紫の朝に消えた者は、二度と戻らない、とだけ伝わっている。
親父に、ひとつだけ、聞きそびれたことがある。
あの顔のない異形は、いったい、何だったのか。
あれが、人を連れていく者なのか。
それとも、ただ、迷い込んだ者を、追い払おうとしていたのか。
「ここはお前の来る場所じゃない」と。
あのとき聞こえた言葉は、そういう意味だったのかもしれない。
だとすれば、ソレは、俺を突き飛ばして、追い返してくれたのか。
本当のところは、今も分からない。
戻ってきた俺は、よほど運が良かったのだろう。
あるいは、あの暗闇で聞こえた親父の声が、俺を引き戻したのか。
それは、今となっては、確かめようがない。
そして、俺が出かけそうだったので、一応「気をつけろ」と言った、と。
※
だが、あのとき親父の言葉は、ノイズだらけで、まるで聞き取れなかった。
今思えば、あの瞬間、俺はもう、半分あちら側に、足を踏み入れていたのだろう。
そう考えると、今でも背筋が冷たくなる。
あれから、紫という色が、苦手になった。
夕暮れの空でさえ、紫が混じると、足がすくむ。
花屋の前を通るときも、紫の花からは、つい目を逸らしてしまう。
理屈ではないのだ。
体が、あの朝の恐怖を、はっきりと覚えている。
喉の奥に残る、あの生臭さも、忘れられない。
背中を擦った、地面の冷たさも。
ふとした瞬間に、それらが、よみがえってくる。
※
以来、俺は、朝焼けの色を、必ず確かめる癖がついた。
空が少しでも紫がかっていたら、その日は、絶対に外へ出ない。
それにしても、親父よ。
そんなに分かっていたなら、最初から、はっきり止めてくれと言いたい。
夜、親父と向き合って、俺は、その朝のことを話した。
「親父、あの返事、めちゃくちゃ変だったぞ」
「ノイズみたいなのが、間に挟まってた」
親父は、湯のみを置いて、低い声で言った。
「向こうに近い奴ほど、言葉が、うまく届かなくなる」
「お前は、半分、引っ張られてたんだ」
その言葉に、俺は、ぞくりとした。
「じゃあ、もし、あのまま気づかなかったら」
親父は、何も答えなかった。
ただ、湯気の立つ茶を、黙ってすすっていた。
※
あの社宅は、もう取り壊されて、今はない。
跡地には、新しいマンションが建っている。
だが、俺は今でも、あの場所には近づけない。
前を通るたびに、あの紫の空が、よみがえるからだ。
引っ越してからも、朝焼けを見る癖は、抜けない。
カーテンを開けて、まず空の色を確かめる。
赤ならいい。橙でもいい。
だが、ほんの少しでも紫が差していたら、その日は一歩も外へ出ない。
家族には、ただの験担ぎだと、笑って言っている。
本当の理由は、誰にも、話していない。
今でも、早起きした朝は、まず窓の外を確かめる。
空が普通の色をしているだけで、心の底から、ほっとする。
当たり前の朝が、これほどありがたいものだとは、あの日まで思いもしませんでした。
※
これが、俺が体験した、洒落にならない話だ。