ゆやみという駅

ゆやみという駅

これは、数年前に、私が実際に体験した、奇妙な出来事です。

その日、私は、仕事帰りに、在来線の各駅停車に乗っていました。

夜の九時を、少し回った頃でした。

車内は空いていて、私のほかに、数人が、座っているだけでした。

降りる駅は、自宅の最寄りの、田井という小さな駅でした。

ところが、その日は、ひどく疲れていました。

座席に身を預けると、すぐに、うとうとと、眠ってしまったのです。

電車の、規則正しい揺れが、心地よかったのです。

レールの継ぎ目を打つ音が、子守唄のように、聞こえました。

夢を、見ていた気がします。

でも、どんな夢だったかは、思い出せません。

ただ、誰かに、名前を、呼ばれていたような。

そんな、感覚だけが、残っていました。

※

はっと、目が覚めました。

ちょうど、電車のドアが、閉まるところでした。

窓の外を見ると、見慣れた田井の駅名標が、流れていきます。

寝過ごしたのだと、気づきました。

仕方がないので、次の駅で降りて、折り返すことにしました。

やがて、電車が、停まりました。

私は、ほかに降りた数人と一緒に、ホームへ降り立ちました。

そして、首をかしげました。

こんな駅、あっただろうか。

私は、戸惑いながら、ホームを、見回しました。

短い、二両分ほどの、古びたホームでした。

屋根は、ところどころ、朽ちて、穴が、開いています。

乗ってきた電車は、もう、闇の中へ、走り去っていました。

そのテールランプを、私は、ぼんやりと、見送りました。

今思えば、あれに、乗ったままで、いるべきでした。

ずいぶんと、ひなびた、無人駅でした。

駅員の姿は、どこにもありません。

鈍い色をした外灯が、ぼんやりと、ホームを照らしていました。

あたりは、嫌になるほど、静まり返っていました。

虫の声ひとつ、しませんでした。

夏の夜のはずなのに、空気は、ひんやりと、冷たいのです。

私と一緒に降りたはずの数人は、いつの間にか、消えていました。

改札のほうへ、行ったのだろう、と思いました。

でも、足音すら、聞こえなかったのです。

まるで、最初から、誰も、いなかったかのように。

ホームには、私と、あの老婆だけが、残っていました。

足元の、コンクリートは、ところどころ、苔むしていました。

長いあいだ、人が使っていない駅のように、見えました。

※

改札を出ると、目の前に、大きな鳥居が、立っていました。

夜目にも、古びて、黒ずんでいるのがわかりました。

駅の名前を、確かめようと、看板を、見上げました。

そこには、「ゆやみ」と、平仮名で、書かれていました。

聞いたことのない、駅名でした。

久しぶりに乗った路線だから、新しい駅でもできたのか。

けれど、新しい駅に、こんな古い鳥居が、あるはずもありません。

鳥居の奥は、真っ暗で、何も、見えませんでした。

参道らしき道が、闇の中へ、細く、続いているだけです。

そこから、かすかに、線香のような、匂いが、漂ってきました。

近づいては、いけない。

本能が、そう、告げていました。

そう、思おうとしました。

私は、ホームのベンチに座って、上りの電車を、待ちました。

けれど、待てども、待てども、電車は、来ません。

携帯で、時刻を調べようとしました。

ところが、電波が、まるで、入らないのです。

圏外、という文字すら、出ませんでした。

画面が、ただ、暗いまま、固まっていたのです。

時計の表示も、なぜか、止まっていました。

九時十七分。

その時刻から、針は、一向に、動きませんでした。

駅の構内を見回しても、時刻表すら、見当たりませんでした。

※

同じ電車から降りた、一人の老婆が、まだ、ベンチに座っていました。

私は、思い切って、声をかけました。

「すみません、次の電車の時間、わかりますか」

老婆は、うつむいたまま、ぽつりと答えました。

「じきに、来る」

とりあえず、お礼を言いました。

すると、老婆が、初めて、顔を上げました。

その目は、どこか、濁って、見えました。

白く、濁った目が、私を、まっすぐに、捉えました。

「ヌシサマが、泣いておられる。ゆっくり、しておゆき」

私は、その意味が、わかりませんでした。

老婆は、続けて、何かを、つぶやきました。

「サカサの国は、捨てよ」

「シオフリ」

「ナナマガリ」

「トヲザカリ」

「ヨマツリ」

ひどく、聞き取りづらく、これくらいしか、思い出せません。

ぼけているのだろうか。

私は、適当に、相槌を、打っていました。

けれど、その言葉の響きが、妙に、耳に、こびりつきました。

サカサの国。

逆さの、国。

それは、いったい、どこのことなのでしょう。

老婆の口調は、まるで、何かを、警告しているようでもありました。

今思えば、あれは、忠告だったのかもしれません。

早く、ここから、立ち去れ、という。

でも、そのときの私は、何も、気づきませんでした。

※

そのときでした。

小学生くらいの、男の子が、ふらりと、駅の中に入ってきました。

その子は、私のほうを見て、にこっと、手を振りました。

そして、すぐに、また、出ていってしまいました。

妙な子だな、と思いました。

その瞬間、その子が、何かを、落としたのが、見えました。

私は、拾ってあげようと、走りました。

けれど、駅の外には、もう、男の子の姿は、ありませんでした。

落とし物は、お守りでした。

古い、布のお守りです。

表には、龍だか、蛇だか、わからないものが、刺繍されていました。

どうしたものか、と、私は、立ち尽くしました。

※

すると、ベンチの老婆が、こちらへ、手招きをしました。

「それは、わしが、預かっておく」

「ばんばに、渡しておくれ」

知り合いなのだろう、と、私は思いました。

私は、何の疑いもなく、そのお守りを、老婆に手渡しました。

老婆は、お守りを受け取ると。

にたり、と、笑ったように、見えました。

その笑みを見て、私は、初めて、ぞっとしました。

渡しては、いけなかったのではないか。

そんな、後悔が、胸を、よぎりました。

けれど、お守りは、もう、老婆の手の中です。

取り返すことなど、できませんでした。

老婆の足音は、ぺた、ぺた、と、闇に、消えていきました。

そして、ゆっくりと、立ち上がり、駅から、出ていきました。

私は、また、一人に、なりました。

※

どこからか、低い音が、近づいてきました。

牛の、鳴き声のような、音でした。

地の底から、響いてくるような、重い音です。

ぞわり、と、腕に、鳥肌が立ちました。

ふと、駅の向こうの、山に、目をやりました。

いつの間にか、山の斜面に、明かりが、灯っていました。

提灯のような、赤い光が、点々と。

それが、一定の間隔で、山の全面に、並んでいるのです。

祭りでも、あるのだろうか。

いいえ。

こんな、夜更けの、山の中に。

そんなはずは、ないのです。

目を、こすって、もう一度、山を、見ました。

提灯は、確かに、そこにありました。

数えきれないほどの、赤い光。

それが、ゆっくりと、揺れているのです。

まるで、無数の人が、提灯を持って、立っているように。

私は、ようやく、この場所の、異様さに、気づき始めました。

あの提灯は、迎え火だったのかもしれません。

何かを、迎えるための。

あるいは、送るための。

牛のような音は、しだいに、大きく、なってきました。

何か、大きなものが、こちらへ、向かっている。

そんな気配が、ありありと、感じられました。

逃げなければ。

頭では、そう思うのに、足が、根が生えたように、動きません。

※

気がつくと、さっきの男の子が、すぐ横に、立っていました。

私は、びくりとしました。

いつから、そこに、いたのでしょう。

足音は、まったく、聞こえませんでした。

その子の、足元を、見ました。

暗くて、よく見えませんが、地面に、影が、ないように思えました。

気のせいだと、自分に、言い聞かせました。

私は、安心させようと、笑いかけました。

「さっき落とした、お守りね。あのおばあさんに、渡しといたよ」

その瞬間でした。

男の子の顔から、すうっと、表情が、消えました。

何とも言えない、嫌そうな、顔でした。

私は、わけもわからず、謝りました。

「ごめんね。まずかった、かな」

男の子は、しばらく、私を、にらんでいました。

それから、渋々、というように、私の手を、つかみました。

その手は、子どもとは思えないほど、冷たく、強い力でした。

※

男の子は、私の手を引いて、ぐいぐいと、歩きだしました。

気づくと、駅の、外に、出ていました。

「待って、電車を、待たないと」

私が言うと、男の子は、強く、首を振りました。

「電車は、来ない! こっち、来て!」

そう叫んで、道を、指さしました。

そして、さらに、強く、手を、引きました。

私は、引っぱられるまま、小走りに、ついていきました。

道の両側には、民家や、電柱が、並んでいます。

けれど、どの家も、薄暗く、ひどく、古ぼけていました。

灯りのついた家は、ひとつも、ありませんでした。

人の気配も、まるで、しないのです。

それでも、ところどころ、戸の隙間から、視線を感じました。

誰かが、暗い家の中から、こちらを、覗いている。

そんな気が、してならないのです。

振り返りたい衝動を、必死に、こらえました。

男の子は、一度も、後ろを、見ませんでした。

ただ、まっすぐ、前だけを見て、私を、引っぱり続けました。

その小さな背中だけが、唯一の、頼りでした。

歩くにつれ、道は、だんだんと、細く、なっていきました。

両側の家々が、こちらに、迫ってくるようでした。

軒先に、しおれた、提灯が、ぶら下がっていました。

どの提灯にも、見たことのない、家紋が、描かれていました。

風もないのに、それが、かすかに、揺れていました。

※

何分か、歩いたでしょうか。

前方に、小さな、橋が、見えてきました。

橋の向こうだけが、なぜか、ぼうっと、明るいのです。

男の子は、橋の手前で、ぴたりと、足を止めました。

そして、私の手を、放しました。

「ここから、先は、ひとりで、行って」

「ぜったいに、振り返っちゃ、だめ」

「ばいばい」

それだけ言うと、男の子は、ふいに、駆け出しました。

あっという間に、暗い道の、奥へと、消えていきました。

私は、言われたとおり、振り返らずに、橋を、渡りました。

背中で、あの、牛のような音が、遠ざかっていきました。

渡りながら、私は、何度も、振り返りたくなりました。

あの男の子は、無事だろうか。

あの音の正体は、何だったのか。

けれど、振り返ってはいけない。

あの子の言葉だけを、信じて、私は、足を、進めました。

橋の板が、一歩ごとに、ぎし、ぎし、と、鳴りました。

川の水音は、なぜか、まったく、聞こえませんでした。

※

橋を渡りきると。

少しずつ、明るい、店の灯りが、見えてきました。

コンビニの、看板も、ありました。

人の声が、車の音が、戻ってきました。

歩き続けると、やがて、見慣れた、大きな駅に、出ました。

自宅から、二駅ほど離れた、いつもの駅でした。

全身から、どっと、力が、抜けました。

私は、そのまま、タクシーで、家に帰りました。

※

家に着いてから、私は、すぐに、調べました。

「ゆやみ」という駅は、どこにも、存在しませんでした。

私が乗っていた路線にも、過去にも。

そんな名前の駅は、一度も、なかったのです。

後日、私は、同じ電車に、もう一度、乗ってみました。

田井の次の駅は、何の変哲もない、明るい有人駅でした。

「ゆやみ」などという駅は、影も、形も、ありません。

念のため、その路線の、古い地図も、調べてみました。

すると、ひとつだけ、気になることが、ありました。

昔、その辺りに、ダムで水没した、小さな集落があったのです。

その集落の名を、「湯闇(ゆやみ)」と、いいました。

湯の、闇、と書いて、ゆやみ。

かつては、湯治場として、栄えた土地だったそうです。

ダムの底に沈むとき、住民は、皆、立ち退きました。

けれど、社だけは、移せなかったのだと、地図の註にありました。

水没する前、そこには、古い社が、あったそうです。

私が見た鳥居は、あの社の、ものだったのでしょうか。

水没した集落が、夜だけ、よみがえるなどと。

そんなことが、あるはずも、ありません。

けれど、あの濁った目の老婆。

あの、影のない男の子。

そして、ポケットの、土くれ。

すべてが、夢ではないと、告げているようでした。

考えれば考えるほど、わからなくなります。

あの鳥居も、山の提灯も、何だったのか。

あの老婆に渡した、お守りは、誰のものだったのか。

そして、あの男の子は、なぜ、私を、逃がしてくれたのか。

今でも、何ひとつ、わかりません。

あの晩のことを、職場で、同僚に話したことがあります。

皆、夢でも見たんだろう、と、笑いました。

私も、そう思おうと、しました。

けれど、ひとつだけ、夢では、説明できないことがあります。

あの夜、私のスーツの、ポケットの中に。

小さな、土くれが、いくつも、入っていたのです。

湿った、黒い、土でした。

どこで、入ったのか、見当も、つきません。

その土を、私は、捨てられずに、今も、小さな袋に、入れています。

ただ、ひとつだけ、後から、気づいたことがあります。

あの男の子に、最後まで、私は、礼を、言えなかった。

あの子が、いなければ、私は、今頃、どうなっていたのか。

あの山の提灯の中に、私も、加わっていたのかもしれません。

赤い光の、ひとつに、なって。

二度と、帰れないまま。

それを思うと、今でも、背筋が、冷たくなるのです。

ひとつ、心残りなのは、あのお守りのことです。

龍だか蛇だかの、刺繍された、古いお守り。

あれを、私が、老婆に渡してしまった。

あの男の子の、嫌そうな顔が、忘れられません。

渡してはいけないものを、私は、渡してしまったのです。

そのことだけが、今も、胸の奥に、ひっかかっています。

あれは、あの土地に、返してはならないものだったのでしょう。

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