ゆやみという駅

これは、数年前に、私が実際に体験した、奇妙な出来事です。

その日、私は、仕事帰りに、在来線の各駅停車に乗っていました。

夜の九時を、少し回った頃でした。

車内は空いていて、私のほかに、数人が、座っているだけでした。

降りる駅は、自宅の最寄りの、田井という小さな駅でした。

ところが、その日は、ひどく疲れていました。

座席に身を預けると、すぐに、うとうとと、眠ってしまったのです。

電車の、規則正しい揺れが、心地よかったのです。

レールの継ぎ目を打つ音が、子守唄のように、聞こえました。

夢を、見ていた気がします。

でも、どんな夢だったかは、思い出せません。

ただ、誰かに、名前を、呼ばれていたような。

そんな、感覚だけが、残っていました。

はっと、目が覚めました。

ちょうど、電車のドアが、閉まるところでした。

窓の外を見ると、見慣れた田井の駅名標が、流れていきます。

寝過ごしたのだと、気づきました。

仕方がないので、次の駅で降りて、折り返すことにしました。

やがて、電車が、停まりました。

私は、ほかに降りた数人と一緒に、ホームへ降り立ちました。

そして、首をかしげました。

こんな駅、あっただろうか。

私は、戸惑いながら、ホームを、見回しました。

短い、二両分ほどの、古びたホームでした。

屋根は、ところどころ、朽ちて、穴が、開いています。

乗ってきた電車は、もう、闇の中へ、走り去っていました。

そのテールランプを、私は、ぼんやりと、見送りました。

今思えば、あれに、乗ったままで、いるべきでした。

ずいぶんと、ひなびた、無人駅でした。

駅員の姿は、どこにもありません。

鈍い色をした外灯が、ぼんやりと、ホームを照らしていました。

あたりは、嫌になるほど、静まり返っていました。

虫の声ひとつ、しませんでした。

夏の夜のはずなのに、空気は、ひんやりと、冷たいのです。

私と一緒に降りたはずの数人は、いつの間にか、消えていました。

改札のほうへ、行ったのだろう、と思いました。

でも、足音すら、聞こえなかったのです。

まるで、最初から、誰も、いなかったかのように。

ホームには、私と、あの老婆だけが、残っていました。

足元の、コンクリートは、ところどころ、苔むしていました。

長いあいだ、人が使っていない駅のように、見えました。

改札を出ると、目の前に、大きな鳥居が、立っていました。

夜目にも、古びて、黒ずんでいるのがわかりました。

駅の名前を、確かめようと、看板を、見上げました。

そこには、「ゆやみ」と、平仮名で、書かれていました。

聞いたことのない、駅名でした。

久しぶりに乗った路線だから、新しい駅でもできたのか。

けれど、新しい駅に、こんな古い鳥居が、あるはずもありません。

鳥居の奥は、真っ暗で、何も、見えませんでした。

参道らしき道が、闇の中へ、細く、続いているだけです。

そこから、かすかに、線香のような、匂いが、漂ってきました。

近づいては、いけない。

本能が、そう、告げていました。

そう、思おうとしました。

私は、ホームのベンチに座って、上りの電車を、待ちました。

けれど、待てども、待てども、電車は、来ません。

携帯で、時刻を調べようとしました。

ところが、電波が、まるで、入らないのです。

圏外、という文字すら、出ませんでした。

画面が、ただ、暗いまま、固まっていたのです。

時計の表示も、なぜか、止まっていました。

九時十七分。

その時刻から、針は、一向に、動きませんでした。

駅の構内を見回しても、時刻表すら、見当たりませんでした。

同じ電車から降りた、一人の老婆が、まだ、ベンチに座っていました。

私は、思い切って、声をかけました。

「すみません、次の電車の時間、わかりますか」

老婆は、うつむいたまま、ぽつりと答えました。

「じきに、来る」

とりあえず、お礼を言いました。

すると、老婆が、初めて、顔を上げました。

その目は、どこか、濁って、見えました。

白く、濁った目が、私を、まっすぐに、捉えました。

「ヌシサマが、泣いておられる。ゆっくり、しておゆき」

私は、その意味が、わかりませんでした。

老婆は、続けて、何かを、つぶやきました。

「サカサの国は、捨てよ」

「シオフリ」

「ナナマガリ」

「トヲザカリ」

「ヨマツリ」

ひどく、聞き取りづらく、これくらいしか、思い出せません。

ぼけているのだろうか。

私は、適当に、相槌を、打っていました。

けれど、その言葉の響きが、妙に、耳に、こびりつきました。

サカサの国。

逆さの、国。

それは、いったい、どこのことなのでしょう。

老婆の口調は、まるで、何かを、警告しているようでもありました。

今思えば、あれは、忠告だったのかもしれません。

早く、ここから、立ち去れ、という。

でも、そのときの私は、何も、気づきませんでした。

そのときでした。

小学生くらいの、男の子が、ふらりと、駅の中に入ってきました。

その子は、私のほうを見て、にこっと、手を振りました。

そして、すぐに、また、出ていってしまいました。

妙な子だな、と思いました。

その瞬間、その子が、何かを、落としたのが、見えました。

私は、拾ってあげようと、走りました。

けれど、駅の外には、もう、男の子の姿は、ありませんでした。

落とし物は、お守りでした。

古い、布のお守りです。

表には、龍だか、蛇だか、わからないものが、刺繍されていました。

どうしたものか、と、私は、立ち尽くしました。

すると、ベンチの老婆が、こちらへ、手招きをしました。

「それは、わしが、預かっておく」

「ばんばに、渡しておくれ」

知り合いなのだろう、と、私は思いました。

私は、何の疑いもなく、そのお守りを、老婆に手渡しました。

老婆は、お守りを受け取ると。

にたり、と、笑ったように、見えました。

その笑みを見て、私は、初めて、ぞっとしました。

渡しては、いけなかったのではないか。

そんな、後悔が、胸を、よぎりました。

けれど、お守りは、もう、老婆の手の中です。

取り返すことなど、できませんでした。

老婆の足音は、ぺた、ぺた、と、闇に、消えていきました。

そして、ゆっくりと、立ち上がり、駅から、出ていきました。

私は、また、一人に、なりました。

どこからか、低い音が、近づいてきました。

牛の、鳴き声のような、音でした。

地の底から、響いてくるような、重い音です。

ぞわり、と、腕に、鳥肌が立ちました。

ふと、駅の向こうの、山に、目をやりました。

いつの間にか、山の斜面に、明かりが、灯っていました。

提灯のような、赤い光が、点々と。

それが、一定の間隔で、山の全面に、並んでいるのです。

祭りでも、あるのだろうか。

いいえ。

こんな、夜更けの、山の中に。

そんなはずは、ないのです。

目を、こすって、もう一度、山を、見ました。

提灯は、確かに、そこにありました。

数えきれないほどの、赤い光。

それが、ゆっくりと、揺れているのです。

まるで、無数の人が、提灯を持って、立っているように。

私は、ようやく、この場所の、異様さに、気づき始めました。

あの提灯は、迎え火だったのかもしれません。

何かを、迎えるための。

あるいは、送るための。

牛のような音は、しだいに、大きく、なってきました。

何か、大きなものが、こちらへ、向かっている。

そんな気配が、ありありと、感じられました。

逃げなければ。

頭では、そう思うのに、足が、根が生えたように、動きません。

気がつくと、さっきの男の子が、すぐ横に、立っていました。

私は、びくりとしました。

いつから、そこに、いたのでしょう。

足音は、まったく、聞こえませんでした。

その子の、足元を、見ました。

暗くて、よく見えませんが、地面に、影が、ないように思えました。

気のせいだと、自分に、言い聞かせました。

私は、安心させようと、笑いかけました。

「さっき落とした、お守りね。あのおばあさんに、渡しといたよ」

その瞬間でした。

男の子の顔から、すうっと、表情が、消えました。

何とも言えない、嫌そうな、顔でした。

私は、わけもわからず、謝りました。

「ごめんね。まずかった、かな」

男の子は、しばらく、私を、にらんでいました。

それから、渋々、というように、私の手を、つかみました。

その手は、子どもとは思えないほど、冷たく、強い力でした。

男の子は、私の手を引いて、ぐいぐいと、歩きだしました。

気づくと、駅の、外に、出ていました。

「待って、電車を、待たないと」

私が言うと、男の子は、強く、首を振りました。

「電車は、来ない! こっち、来て!」

そう叫んで、道を、指さしました。

そして、さらに、強く、手を、引きました。

私は、引っぱられるまま、小走りに、ついていきました。

道の両側には、民家や、電柱が、並んでいます。

けれど、どの家も、薄暗く、ひどく、古ぼけていました。

灯りのついた家は、ひとつも、ありませんでした。

人の気配も、まるで、しないのです。

それでも、ところどころ、戸の隙間から、視線を感じました。

誰かが、暗い家の中から、こちらを、覗いている。

そんな気が、してならないのです。

振り返りたい衝動を、必死に、こらえました。

男の子は、一度も、後ろを、見ませんでした。

ただ、まっすぐ、前だけを見て、私を、引っぱり続けました。

その小さな背中だけが、唯一の、頼りでした。

歩くにつれ、道は、だんだんと、細く、なっていきました。

両側の家々が、こちらに、迫ってくるようでした。

軒先に、しおれた、提灯が、ぶら下がっていました。

どの提灯にも、見たことのない、家紋が、描かれていました。

風もないのに、それが、かすかに、揺れていました。

何分か、歩いたでしょうか。

前方に、小さな、橋が、見えてきました。

橋の向こうだけが、なぜか、ぼうっと、明るいのです。

男の子は、橋の手前で、ぴたりと、足を止めました。

そして、私の手を、放しました。

「ここから、先は、ひとりで、行って」

「ぜったいに、振り返っちゃ、だめ」

「ばいばい」

それだけ言うと、男の子は、ふいに、駆け出しました。

あっという間に、暗い道の、奥へと、消えていきました。

私は、言われたとおり、振り返らずに、橋を、渡りました。

背中で、あの、牛のような音が、遠ざかっていきました。

渡りながら、私は、何度も、振り返りたくなりました。

あの男の子は、無事だろうか。

あの音の正体は、何だったのか。

けれど、振り返ってはいけない。

あの子の言葉だけを、信じて、私は、足を、進めました。

橋の板が、一歩ごとに、ぎし、ぎし、と、鳴りました。

川の水音は、なぜか、まったく、聞こえませんでした。

橋を渡りきると。

少しずつ、明るい、店の灯りが、見えてきました。

コンビニの、看板も、ありました。

人の声が、車の音が、戻ってきました。

歩き続けると、やがて、見慣れた、大きな駅に、出ました。

自宅から、二駅ほど離れた、いつもの駅でした。

全身から、どっと、力が、抜けました。

私は、そのまま、タクシーで、家に帰りました。

家に着いてから、私は、すぐに、調べました。

「ゆやみ」という駅は、どこにも、存在しませんでした。

私が乗っていた路線にも、過去にも。

そんな名前の駅は、一度も、なかったのです。

後日、私は、同じ電車に、もう一度、乗ってみました。

田井の次の駅は、何の変哲もない、明るい有人駅でした。

「ゆやみ」などという駅は、影も、形も、ありません。

念のため、その路線の、古い地図も、調べてみました。

すると、ひとつだけ、気になることが、ありました。

昔、その辺りに、ダムで水没した、小さな集落があったのです。

その集落の名を、「湯闇(ゆやみ)」と、いいました。

湯の、闇、と書いて、ゆやみ。

かつては、湯治場として、栄えた土地だったそうです。

ダムの底に沈むとき、住民は、皆、立ち退きました。

けれど、社だけは、移せなかったのだと、地図の註にありました。

水没する前、そこには、古い社が、あったそうです。

私が見た鳥居は、あの社の、ものだったのでしょうか。

水没した集落が、夜だけ、よみがえるなどと。

そんなことが、あるはずも、ありません。

けれど、あの濁った目の老婆。

あの、影のない男の子。

そして、ポケットの、土くれ。

すべてが、夢ではないと、告げているようでした。

考えれば考えるほど、わからなくなります。

あの鳥居も、山の提灯も、何だったのか。

あの老婆に渡した、お守りは、誰のものだったのか。

そして、あの男の子は、なぜ、私を、逃がしてくれたのか。

今でも、何ひとつ、わかりません。

あの晩のことを、職場で、同僚に話したことがあります。

皆、夢でも見たんだろう、と、笑いました。

私も、そう思おうと、しました。

けれど、ひとつだけ、夢では、説明できないことがあります。

あの夜、私のスーツの、ポケットの中に。

小さな、土くれが、いくつも、入っていたのです。

湿った、黒い、土でした。

どこで、入ったのか、見当も、つきません。

その土を、私は、捨てられずに、今も、小さな袋に、入れています。

ただ、ひとつだけ、後から、気づいたことがあります。

あの男の子に、最後まで、私は、礼を、言えなかった。

あの子が、いなければ、私は、今頃、どうなっていたのか。

あの山の提灯の中に、私も、加わっていたのかもしれません。

赤い光の、ひとつに、なって。

二度と、帰れないまま。

それを思うと、今でも、背筋が、冷たくなるのです。

ひとつ、心残りなのは、あのお守りのことです。

龍だか蛇だかの、刺繍された、古いお守り。

あれを、私が、老婆に渡してしまった。

あの男の子の、嫌そうな顔が、忘れられません。

渡してはいけないものを、私は、渡してしまったのです。

そのことだけが、今も、胸の奥に、ひっかかっています。

あれは、あの土地に、返してはならないものだったのでしょう。

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