家族

五十嵐さんの机には、写真立てがひとつあった。

写真立ての話を、先にしておく。

俺が入社した日、机の並びを教わりながら、それが目に入った。

木の枠の、古い写真立てだ。

角が擦り切れて、白くなっている。

角度の関係で、中身は見えなかった。

その日の夕方、五十嵐さんが席を外したとき、俺は、つい覗いた。

悪気はなかった。

新人の、ただの好奇心だ。

中の写真は、白かった。

真っ白ではない。

うっすらと、部屋が写っていた。

畳の部屋だ。

座卓があって、湯呑みが三つ置いてある。

人は、いない。

誰もいない部屋を、わざわざ現像して、飾っている。

俺は、そのときは、変わった趣味の人だと思った。

本当に、そう思った。

製本という仕事は、静かなようでいて、うるさい。

断裁機の刃が落ちる音。

糊を熱する機械の、低い唸り。

その音の中で、みんな、耳元で怒鳴るように話す。

五十嵐さんだけが、大きな声を出さなかった。

それでも、なぜか聞こえる。

不思議な人だった。

「本はな、開くもんだから」

五十嵐さんは、よくそう言った。

「開いて、閉じて、また開く。だから、背が大事なんだ」

「背、ですか」

「背が丈夫なら、何回でも帰ってこられる」

そのときは、仕事の話だと思って聞いていた。

俺が入った会社は、地方の小さな製本所だった。

社員は十二人。

本の背を糊で固めて、表紙をつける。

それだけの仕事を、五十年やっている会社だ。

機械の音が大きくて、みんな声がでかくなる。

五十嵐さんは、そこの製本部の主任だった。

四十五歳。

仕事は、飛び抜けて速いわけではない。

ただ、絶対に間違えない。

背表紙の文字が、一ミリもずれない。

それで、取引先から名指しで仕事が来る。

面倒見もよかった。

俺が入って三日目に糊の量を間違えて、三百冊分をだめにしたときも、五十嵐さんは怒らなかった。

「これ、俺が最初にやったやつと、同じ間違い方だ」

そう言って、笑った。

そして、その三百冊を、二人で夜中まで剥がした。

ひとつだけ、困ったところがあった。

家族の話を、始めると止まらない。

奥さんと、娘さんの話だ。

「うちの妻が、また変なもん作ってさ」

「娘がね、今年で中学に上がるんだよ」

休み明けは、必ずそれだった。

写真も見せてくれた。

携帯ではなく、ちゃんと現像した写真だ。

胸ポケットから、大事そうに出す。

問題は、その写真に、誰も写っていないことだった。

公園の、なんでもない風景。

遊園地の、乗り物の前。

海の、砂浜。

人が、いない。

そういう写真を、五十嵐さんは指でなぞりながら、笑って話す。

「ほら、この日は暑くてさ。娘が、かき氷を三杯も」

指がなぞっているのは、誰もいないベンチだ。

奥さんと娘さんが、もう亡くなられていることは、俺が入る前から、みんな知っていた。

教えてくれたのは、経理の坂上さんだ。

「七年前。事故なの」

それだけ言って、坂上さんは口を閉じた。

「五十嵐さん、それから」

「うん。それから、ずっと」

「病院とかは」

「勧めたわよ。何度も」

坂上さんは、伝票を揃えながら言った。

「でも、仕事は完璧なの。一度も間違えない。困ってる人が、誰もいないの」

だから、誰も触らない。

それが、この会社の暗黙の了解だった。

俺も、そうした。

「そうなんですね」と相槌を打って、写真を見て、「いい笑顔ですね」と言った。

誰も写っていない写真に。

五十嵐さんは、そのたびに、嬉しそうにした。

気になることは、いくつかあった。

最初は、弁当だ。

昼になると、五十嵐さんは弁当を広げる。

毎日、二段の弁当箱。

下の段は、自分で食べる。

上の段は、開けて、しばらく置いて、そのまま蓋を閉める。

食べない。

「五十嵐さん、それ」

「ああ、これ。俺の分じゃないんだ」

そう言って、笑う。

夕方、そのままの弁当箱を、鞄に入れて持って帰る。

翌朝、洗って、また二段で持ってくる。

次は、土産だ。

五十嵐さんは、出張の帰りに必ず土産を買う。

社員全員に配ったあと、必ず、三つ、自分の鞄に入れる。

ひとつではない。

三つだ。

一度、俺は聞いてしまった。

「五十嵐さん、それ、多くないですか」

五十嵐さんは、鞄のファスナーを閉めながら、こう言った。

「うち、三人だから」

その言い方が、あまりに普通だった。

普通すぎて、俺は何も返せなかった。

四つめは、電気だ。

これは、あとから思い出したことだ。

五十嵐さんは、残業をしない。

定時になると、きっちり帰る。

一度だけ、大きな納期で、全員が遅くまで残った日があった。

夜の十時を回っていた。

五十嵐さんは、その日も、六時に帰った。

社長も、何も言わなかった。

翌朝、俺は、その理由を、なんとなく察した。

五十嵐さんの机の上に、置き手紙のようなメモがあった。

自分で書いたものだ。

こう書いてあった。

「六時までに、電気をつける」

それだけ。

日付も、宛名もない。

俺は、そのメモを、見なかったことにした。

今なら分かる。

あの家は、誰かが帰らないと、真っ暗なままだ。

真っ暗な家で、七年、待っている。

だから、五十嵐さんは、六時に帰る。

なのに、あの慰労会の夜だけは、遅くなった。

遅くなって、家は真っ暗だった。

それでも、玄関は、開いた。

三つめは、靴だ。

これは、あとの話になる。

その年の秋、会社が創業五十年を迎えた。

慰労会をやることになった。

それなりに大きな仕事も決まった年で、社長が奮発した。

駅前の、いちばん高い店を取った。

五十嵐さんは、上機嫌だった。

普段は絶対にしない飲み方をした。

コップの酒を、水みたいに空けていった。

「今日はいいんだ。うちの、許可も出てるから」

そう言って、笑っていた。

二時間もすると、椅子に座っているのも危なくなった。

それでも、帰ると言い張った。

「帰る。待ってるから」

社長が、俺と、同僚の日野を呼んだ。

「送ってやってくれ」

日野は下戸で、車で来ていた。

本当は日野ひとりでいいと言われたのだが、俺は、ついていった。

理由は、うまく言えない。

ついていったほうがいい気がした。

不思議なことに、五十嵐さんは、店を出るときには、持ち帰りの包みを抱えていた。

いつの間に頼んだのか、誰も見ていなかった。

折の箱が、三つ。

輪ゴムで、丁寧に留めてあった。

「これ、五十嵐さん、いつ」

「頼んだんだよ、さっき」

呂律が回っていないのに、その包みだけは、しっかり抱えていた。

車の中で、五十嵐さんは、ずっと窓の外を見ていた。

それから、こんなことを言った。

「娘はさ、雨の日が好きなんだ」

日野が、ハンドルを握ったまま、返事をしなかった。

俺も、しなかった。

「変な子だろ。長靴履いて、わざわざ外に出るんだよ」

その夜は、晴れていた。

星が、はっきり見えていた。

五十嵐さんの家は、川沿いの、古い一軒家だった。

車を停めると、家の中は、真っ暗だった。

当たり前だ。

「もう寝ちゃってるなー」

少し回復した五十嵐さんが、そう言って笑った。

玄関の前まで、俺たちは肩を貸した。

そのとき、俺は、玄関の横の窓を見た。

薄いカーテンの内側が、真っ暗だ。

何も見えない。

「お茶くらい出すから、上がってけ」

「いえ、もう日付変わってますし」

「そうか」

五十嵐さんは、鍵を出そうとして、ポケットを探った。

探っていた。

探している途中だった。

トタタタタタ。

音は、家の中から聞こえた。

廊下を、走ってくる音だった。

軽い。

子どもの足音だった。

ガチャ。

玄関の鍵が、内側から開いた。

扉が、少しだけ開いた。

中は、真っ暗なままだった。

灯りは、ひとつもついていない。

「なんだー、起きてたのか」

五十嵐さんの声が、急に、明るくなった。

「お土産あるぞー」

包みを抱え直して、五十嵐さんは、その隙間に体を入れていった。

扉が、閉まった。

中から、鍵のかかる音がした。

俺と日野は、走って車に戻った。

乗り込んで、鍵を閉めた。

エンジンをかけても、しばらく、誰も何も言わなかった。

歯が鳴った。

自分の歯の音が、こんなに大きいとは知らなかった。

「……なあ」

先に口を開いたのは、日野だった。

「五十嵐さんって、なにと住んでるんだ」

俺は、答えられなかった。

答えの代わりに、窓の外を見た。

そして、見てしまった。

玄関の、扉の横。

小さな三和土のところに、長靴が並べてあった。

子どもの、赤い長靴だ。

つま先を、外に向けて、きちんと揃えて。

それは、行きにはなかった。

断言できる。

肩を貸して、俺は、そこに足を置いたのだから。

玄関の隅で、小さな長靴が、濡れていた。

その夜、雨は、一滴も降っていない。

次の日、五十嵐さんは、いつもどおり出社した。

七時半に来て、機械の油を差していた。

二日酔いの気配もなかった。

「昨日は、悪かったな」

「いえ」

「うち、遠いのに」

「いえ」

俺は、それしか言えなかった。

昼になると、五十嵐さんは、二段の弁当を広げた。

上の段を開けて、しばらく置いて、蓋を閉めた。

その手つきを、俺は、初めてちゃんと見た。

乱暴でも、悲しそうでもない。

ただ、待っている手つきだった。

それから、俺は、五十嵐さんの靴箱を見るようになった。

更衣室の、いちばん端だ。

中には、作業靴と、通勤の革靴。

そして、いちばん下の段に、小さい長靴が入っていた。

赤い、子どもの長靴。

会社の靴箱に、なぜ。

聞けなかった。

一度だけ、雨の日に、その長靴が消えていたことがある。

その日、五十嵐さんは、朝から、やけに機嫌がよかった。

「今日は、いい日だな」

そう言って、機械を回していた。

夕方には、長靴は、また戻っていた。

乾いていた。

その冬の終わりに、俺は、五十嵐さんの家の前を、昼間に通ったことがある。

仕事の配達で、たまたま近くまで行った。

川沿いの、古い一軒家。

夜に見たときより、ずっと小さかった。

庭に、鉢植えがいくつも並んでいた。

どれも、きちんと世話がされていた。

洗濯物が、干してあった。

作業着と、シャツと。

そして、小さいスカートが、一枚。

風で、揺れていた。

俺は、車を停めずに、通り過ぎた。

通り過ぎてから、バックミラーを見た。

スカートは、まだ揺れていた。

その日は、風のない日だった。

会社に戻って、俺は、坂上さんに聞いた。

「五十嵐さんって、ひとり暮らし、ですよね」

坂上さんは、伝票から目を上げた。

「書類の上ではね」

「書類の上では」

「わたし、そういう言い方しかできないの」

坂上さんは、そう言って、少し笑った。

初めて見る笑い方だった。

「あのね。わたしも、去年の忘年会で、聞いたのよ」

「なにをですか」

「五十嵐さんの家の、中から。ピアノの音」

坂上さんは、それきり、何も言わなかった。

俺も、聞かなかった。

坂上さんに、そのことを話したのは、その冬だ。

坂上さんは、驚かなかった。

「知ってる」

「知ってるんですか」

「わたし、七年前から、ここにいるもの」

坂上さんは、少しだけ黙ってから、こう言った。

「あのね。事故のときね、あの子、家にいたの」

「え」

「留守番してたのよ。奥さんが迎えに行く途中だったの」

俺は、意味を掴むのに、時間がかかった。

「じゃあ、娘さんは」

「うん」

坂上さんは、伝票を揃える手を止めなかった。

「あの子だけは、家で、ずっと待ってたの。誰も帰ってこないのを」

坂上さんの話を聞いた夜、俺は、五十嵐さんの言葉を思い出していた。

背が丈夫なら、何回でも帰ってこられる。

本の話だと思っていた。

たぶん、本の話ではなかった。

あの人は、七年かけて、背をつけ直しているのだ。

ばらばらになった家族の紙を、一枚ずつ揃えて、糊を引いて、押さえて。

一ミリもずらさずに。

開いて、閉じて、また開く。

そういう作業を、毎日、家でしている。

それを狂気と呼ぶのは、たぶん、簡単だ。

でも、俺には呼べなかった。

あの人の仕事は、一度も間違えていない。

誰も、困っていない。

困っているのは、それを見ている俺たちのほうだ。

一度だけ、聞いてしまったことがある。

二人で残業した、春の夜だった。

機械が止まっていて、部屋が静かだった。

「五十嵐さん」

「ん」

「奥さんと、娘さんって」

言いかけて、俺は、口を閉じた。

五十嵐さんは、手を止めなかった。

背表紙に、細い刷毛で糊を引きながら、こう言った。

「うん。知ってるよ」

それだけだった。

知ってるよ、と。

俺は、そのあと、何も言えなかった。

五十嵐さんは、刷毛を置いて、初めて俺のほうを見た。

「でもさ。帰ったら、いるんだよ」

その目は、正気そのものだった。

正気の目で、そう言った。

そのことが、いちばん、怖かった。

俺は、それを聞いてから、五十嵐さんの話を、ちゃんと聞くようになった。

相槌ではなく、質問をするようになった。

「五十嵐さん、娘さん、今いくつですか」

「今年で、中学」

「じゃあ、部活とか」

「まだ決めてないんだと。バレーか、吹奏楽か」

五十嵐さんは、本当に楽しそうに話す。

七年前から、娘さんは、毎年ひとつ歳を取っている。

止まっていない。

そのことに気づいたとき、俺は、うまく息ができなかった。

あの家では、時間が、ちゃんと進んでいる。

進んでいるのだ。

誰かが、進めているのだ。

五十嵐さんは、今も同じ会社にいる。

背表紙は、一ミリもずれない。

相変わらず、写真を見せてくる。

誰も写っていない写真を。

去年、俺は、その一枚を、少し長く見た。

海の砂浜の写真だ。

波打ち際に、足跡があった。

小さい足跡が、二列。

片方は、大人のもの。

片方は、子どものものだ。

波打ち際まで続いて、そこで、消えている。

「五十嵐さん。この写真」

「ああ、去年の夏。娘が、貝を拾うって聞かなくてさ」

俺は、その写真を、五十嵐さんに返した。

返しながら、こう言った。

「いい写真ですね」

本当に、そう思った。

帰り道、俺は、自分の家の玄関で、少し立ち止まる癖がついた。

鍵を出す前に、一度、耳を澄ます。

何も聞こえない。

当たり前だ。

うちには、誰もいない。

けれど、五十嵐さんの家では、あの音がする。

トタタタタタ、と。

七年前から、毎晩。

待っている誰かが、走ってくる音が。

俺は、それを、怖いと思わなくなった。

思わなくなった自分のほうを、少しだけ、怖いと思っている。

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