五十嵐さんの机には、写真立てがひとつあった。
※
写真立ての話を、先にしておく。
俺が入社した日、机の並びを教わりながら、それが目に入った。
木の枠の、古い写真立てだ。
角が擦り切れて、白くなっている。
角度の関係で、中身は見えなかった。
その日の夕方、五十嵐さんが席を外したとき、俺は、つい覗いた。
悪気はなかった。
新人の、ただの好奇心だ。
中の写真は、白かった。
真っ白ではない。
うっすらと、部屋が写っていた。
畳の部屋だ。
座卓があって、湯呑みが三つ置いてある。
人は、いない。
誰もいない部屋を、わざわざ現像して、飾っている。
俺は、そのときは、変わった趣味の人だと思った。
本当に、そう思った。
※
製本という仕事は、静かなようでいて、うるさい。
断裁機の刃が落ちる音。
糊を熱する機械の、低い唸り。
その音の中で、みんな、耳元で怒鳴るように話す。
五十嵐さんだけが、大きな声を出さなかった。
それでも、なぜか聞こえる。
不思議な人だった。
「本はな、開くもんだから」
五十嵐さんは、よくそう言った。
「開いて、閉じて、また開く。だから、背が大事なんだ」
「背、ですか」
「背が丈夫なら、何回でも帰ってこられる」
そのときは、仕事の話だと思って聞いていた。
※
俺が入った会社は、地方の小さな製本所だった。
社員は十二人。
本の背を糊で固めて、表紙をつける。
それだけの仕事を、五十年やっている会社だ。
機械の音が大きくて、みんな声がでかくなる。
五十嵐さんは、そこの製本部の主任だった。
四十五歳。
仕事は、飛び抜けて速いわけではない。
ただ、絶対に間違えない。
背表紙の文字が、一ミリもずれない。
それで、取引先から名指しで仕事が来る。
面倒見もよかった。
俺が入って三日目に糊の量を間違えて、三百冊分をだめにしたときも、五十嵐さんは怒らなかった。
「これ、俺が最初にやったやつと、同じ間違い方だ」
そう言って、笑った。
そして、その三百冊を、二人で夜中まで剥がした。
※
ひとつだけ、困ったところがあった。
家族の話を、始めると止まらない。
奥さんと、娘さんの話だ。
「うちの妻が、また変なもん作ってさ」
「娘がね、今年で中学に上がるんだよ」
休み明けは、必ずそれだった。
写真も見せてくれた。
携帯ではなく、ちゃんと現像した写真だ。
胸ポケットから、大事そうに出す。
問題は、その写真に、誰も写っていないことだった。
公園の、なんでもない風景。
遊園地の、乗り物の前。
海の、砂浜。
人が、いない。
そういう写真を、五十嵐さんは指でなぞりながら、笑って話す。
「ほら、この日は暑くてさ。娘が、かき氷を三杯も」
指がなぞっているのは、誰もいないベンチだ。
※
奥さんと娘さんが、もう亡くなられていることは、俺が入る前から、みんな知っていた。
教えてくれたのは、経理の坂上さんだ。
「七年前。事故なの」
それだけ言って、坂上さんは口を閉じた。
「五十嵐さん、それから」
「うん。それから、ずっと」
「病院とかは」
「勧めたわよ。何度も」
坂上さんは、伝票を揃えながら言った。
「でも、仕事は完璧なの。一度も間違えない。困ってる人が、誰もいないの」
だから、誰も触らない。
それが、この会社の暗黙の了解だった。
俺も、そうした。
「そうなんですね」と相槌を打って、写真を見て、「いい笑顔ですね」と言った。
誰も写っていない写真に。
五十嵐さんは、そのたびに、嬉しそうにした。
※
気になることは、いくつかあった。
最初は、弁当だ。
昼になると、五十嵐さんは弁当を広げる。
毎日、二段の弁当箱。
下の段は、自分で食べる。
上の段は、開けて、しばらく置いて、そのまま蓋を閉める。
食べない。
「五十嵐さん、それ」
「ああ、これ。俺の分じゃないんだ」
そう言って、笑う。
夕方、そのままの弁当箱を、鞄に入れて持って帰る。
翌朝、洗って、また二段で持ってくる。
※
次は、土産だ。
五十嵐さんは、出張の帰りに必ず土産を買う。
社員全員に配ったあと、必ず、三つ、自分の鞄に入れる。
ひとつではない。
三つだ。
一度、俺は聞いてしまった。
「五十嵐さん、それ、多くないですか」
五十嵐さんは、鞄のファスナーを閉めながら、こう言った。
「うち、三人だから」
その言い方が、あまりに普通だった。
普通すぎて、俺は何も返せなかった。
※
四つめは、電気だ。
これは、あとから思い出したことだ。
五十嵐さんは、残業をしない。
定時になると、きっちり帰る。
一度だけ、大きな納期で、全員が遅くまで残った日があった。
夜の十時を回っていた。
五十嵐さんは、その日も、六時に帰った。
社長も、何も言わなかった。
翌朝、俺は、その理由を、なんとなく察した。
五十嵐さんの机の上に、置き手紙のようなメモがあった。
自分で書いたものだ。
こう書いてあった。
「六時までに、電気をつける」
それだけ。
日付も、宛名もない。
俺は、そのメモを、見なかったことにした。
今なら分かる。
あの家は、誰かが帰らないと、真っ暗なままだ。
真っ暗な家で、七年、待っている。
だから、五十嵐さんは、六時に帰る。
なのに、あの慰労会の夜だけは、遅くなった。
遅くなって、家は真っ暗だった。
それでも、玄関は、開いた。
※
三つめは、靴だ。
これは、あとの話になる。
※
その年の秋、会社が創業五十年を迎えた。
慰労会をやることになった。
それなりに大きな仕事も決まった年で、社長が奮発した。
駅前の、いちばん高い店を取った。
五十嵐さんは、上機嫌だった。
普段は絶対にしない飲み方をした。
コップの酒を、水みたいに空けていった。
「今日はいいんだ。うちの、許可も出てるから」
そう言って、笑っていた。
二時間もすると、椅子に座っているのも危なくなった。
それでも、帰ると言い張った。
「帰る。待ってるから」
社長が、俺と、同僚の日野を呼んだ。
「送ってやってくれ」
日野は下戸で、車で来ていた。
本当は日野ひとりでいいと言われたのだが、俺は、ついていった。
理由は、うまく言えない。
ついていったほうがいい気がした。
※
不思議なことに、五十嵐さんは、店を出るときには、持ち帰りの包みを抱えていた。
いつの間に頼んだのか、誰も見ていなかった。
折の箱が、三つ。
輪ゴムで、丁寧に留めてあった。
「これ、五十嵐さん、いつ」
「頼んだんだよ、さっき」
呂律が回っていないのに、その包みだけは、しっかり抱えていた。
車の中で、五十嵐さんは、ずっと窓の外を見ていた。
それから、こんなことを言った。
「娘はさ、雨の日が好きなんだ」
日野が、ハンドルを握ったまま、返事をしなかった。
俺も、しなかった。
「変な子だろ。長靴履いて、わざわざ外に出るんだよ」
その夜は、晴れていた。
星が、はっきり見えていた。
※
五十嵐さんの家は、川沿いの、古い一軒家だった。
車を停めると、家の中は、真っ暗だった。
当たり前だ。
「もう寝ちゃってるなー」
少し回復した五十嵐さんが、そう言って笑った。
玄関の前まで、俺たちは肩を貸した。
そのとき、俺は、玄関の横の窓を見た。
薄いカーテンの内側が、真っ暗だ。
何も見えない。
「お茶くらい出すから、上がってけ」
「いえ、もう日付変わってますし」
「そうか」
五十嵐さんは、鍵を出そうとして、ポケットを探った。
探っていた。
探している途中だった。
※
トタタタタタ。
音は、家の中から聞こえた。
廊下を、走ってくる音だった。
軽い。
子どもの足音だった。
ガチャ。
玄関の鍵が、内側から開いた。
扉が、少しだけ開いた。
中は、真っ暗なままだった。
灯りは、ひとつもついていない。
「なんだー、起きてたのか」
五十嵐さんの声が、急に、明るくなった。
「お土産あるぞー」
包みを抱え直して、五十嵐さんは、その隙間に体を入れていった。
扉が、閉まった。
中から、鍵のかかる音がした。
※
俺と日野は、走って車に戻った。
乗り込んで、鍵を閉めた。
エンジンをかけても、しばらく、誰も何も言わなかった。
歯が鳴った。
自分の歯の音が、こんなに大きいとは知らなかった。
「……なあ」
先に口を開いたのは、日野だった。
「五十嵐さんって、なにと住んでるんだ」
俺は、答えられなかった。
答えの代わりに、窓の外を見た。
そして、見てしまった。
※
玄関の、扉の横。
小さな三和土のところに、長靴が並べてあった。
子どもの、赤い長靴だ。
つま先を、外に向けて、きちんと揃えて。
それは、行きにはなかった。
断言できる。
肩を貸して、俺は、そこに足を置いたのだから。
玄関の隅で、小さな長靴が、濡れていた。
その夜、雨は、一滴も降っていない。
※
次の日、五十嵐さんは、いつもどおり出社した。
七時半に来て、機械の油を差していた。
二日酔いの気配もなかった。
「昨日は、悪かったな」
「いえ」
「うち、遠いのに」
「いえ」
俺は、それしか言えなかった。
昼になると、五十嵐さんは、二段の弁当を広げた。
上の段を開けて、しばらく置いて、蓋を閉めた。
その手つきを、俺は、初めてちゃんと見た。
乱暴でも、悲しそうでもない。
ただ、待っている手つきだった。
※
それから、俺は、五十嵐さんの靴箱を見るようになった。
更衣室の、いちばん端だ。
中には、作業靴と、通勤の革靴。
そして、いちばん下の段に、小さい長靴が入っていた。
赤い、子どもの長靴。
会社の靴箱に、なぜ。
聞けなかった。
一度だけ、雨の日に、その長靴が消えていたことがある。
その日、五十嵐さんは、朝から、やけに機嫌がよかった。
「今日は、いい日だな」
そう言って、機械を回していた。
夕方には、長靴は、また戻っていた。
乾いていた。
※
その冬の終わりに、俺は、五十嵐さんの家の前を、昼間に通ったことがある。
仕事の配達で、たまたま近くまで行った。
川沿いの、古い一軒家。
夜に見たときより、ずっと小さかった。
庭に、鉢植えがいくつも並んでいた。
どれも、きちんと世話がされていた。
洗濯物が、干してあった。
作業着と、シャツと。
そして、小さいスカートが、一枚。
風で、揺れていた。
俺は、車を停めずに、通り過ぎた。
通り過ぎてから、バックミラーを見た。
スカートは、まだ揺れていた。
その日は、風のない日だった。
※
会社に戻って、俺は、坂上さんに聞いた。
「五十嵐さんって、ひとり暮らし、ですよね」
坂上さんは、伝票から目を上げた。
「書類の上ではね」
「書類の上では」
「わたし、そういう言い方しかできないの」
坂上さんは、そう言って、少し笑った。
初めて見る笑い方だった。
「あのね。わたしも、去年の忘年会で、聞いたのよ」
「なにをですか」
「五十嵐さんの家の、中から。ピアノの音」
坂上さんは、それきり、何も言わなかった。
俺も、聞かなかった。
※
坂上さんに、そのことを話したのは、その冬だ。
坂上さんは、驚かなかった。
「知ってる」
「知ってるんですか」
「わたし、七年前から、ここにいるもの」
坂上さんは、少しだけ黙ってから、こう言った。
「あのね。事故のときね、あの子、家にいたの」
「え」
「留守番してたのよ。奥さんが迎えに行く途中だったの」
俺は、意味を掴むのに、時間がかかった。
「じゃあ、娘さんは」
「うん」
坂上さんは、伝票を揃える手を止めなかった。
「あの子だけは、家で、ずっと待ってたの。誰も帰ってこないのを」
※
坂上さんの話を聞いた夜、俺は、五十嵐さんの言葉を思い出していた。
背が丈夫なら、何回でも帰ってこられる。
本の話だと思っていた。
たぶん、本の話ではなかった。
あの人は、七年かけて、背をつけ直しているのだ。
ばらばらになった家族の紙を、一枚ずつ揃えて、糊を引いて、押さえて。
一ミリもずらさずに。
開いて、閉じて、また開く。
そういう作業を、毎日、家でしている。
それを狂気と呼ぶのは、たぶん、簡単だ。
でも、俺には呼べなかった。
あの人の仕事は、一度も間違えていない。
誰も、困っていない。
困っているのは、それを見ている俺たちのほうだ。
※
一度だけ、聞いてしまったことがある。
二人で残業した、春の夜だった。
機械が止まっていて、部屋が静かだった。
「五十嵐さん」
「ん」
「奥さんと、娘さんって」
言いかけて、俺は、口を閉じた。
五十嵐さんは、手を止めなかった。
背表紙に、細い刷毛で糊を引きながら、こう言った。
「うん。知ってるよ」
それだけだった。
知ってるよ、と。
俺は、そのあと、何も言えなかった。
五十嵐さんは、刷毛を置いて、初めて俺のほうを見た。
「でもさ。帰ったら、いるんだよ」
その目は、正気そのものだった。
正気の目で、そう言った。
そのことが、いちばん、怖かった。
※
俺は、それを聞いてから、五十嵐さんの話を、ちゃんと聞くようになった。
相槌ではなく、質問をするようになった。
「五十嵐さん、娘さん、今いくつですか」
「今年で、中学」
「じゃあ、部活とか」
「まだ決めてないんだと。バレーか、吹奏楽か」
五十嵐さんは、本当に楽しそうに話す。
七年前から、娘さんは、毎年ひとつ歳を取っている。
止まっていない。
そのことに気づいたとき、俺は、うまく息ができなかった。
あの家では、時間が、ちゃんと進んでいる。
進んでいるのだ。
誰かが、進めているのだ。
※
五十嵐さんは、今も同じ会社にいる。
背表紙は、一ミリもずれない。
相変わらず、写真を見せてくる。
誰も写っていない写真を。
去年、俺は、その一枚を、少し長く見た。
海の砂浜の写真だ。
波打ち際に、足跡があった。
小さい足跡が、二列。
片方は、大人のもの。
片方は、子どものものだ。
波打ち際まで続いて、そこで、消えている。
「五十嵐さん。この写真」
「ああ、去年の夏。娘が、貝を拾うって聞かなくてさ」
俺は、その写真を、五十嵐さんに返した。
返しながら、こう言った。
「いい写真ですね」
本当に、そう思った。
※
帰り道、俺は、自分の家の玄関で、少し立ち止まる癖がついた。
鍵を出す前に、一度、耳を澄ます。
何も聞こえない。
当たり前だ。
うちには、誰もいない。
けれど、五十嵐さんの家では、あの音がする。
トタタタタタ、と。
七年前から、毎晩。
待っている誰かが、走ってくる音が。
俺は、それを、怖いと思わなくなった。
思わなくなった自分のほうを、少しだけ、怖いと思っている。