それは、私が三十代の終わりに、経験したことです。
仕事も家庭も失い、私は、逃げるように、北の森へ入りました。
会社が潰れ、その混乱の中で、妻とも、別れました。
都会にいると、息が、できませんでした。
人の顔を見るのが、こわかったのです。
誰もいない場所へ、行きたい。
その一心で、私は、この仕事に、飛びつきました。
人恋しさなど、微塵も、ありませんでした。
むしろ、人が、疎ましかった。
今思えば、それが、間違いの、始まりでした。
孤独は、心の扉を、少しずつ、こじ開けます。
そして、その隙間から、良くないものが、入り込むのです。
深い針葉樹の森の奥に、古い山小屋が、ありました。
冬のあいだ、その小屋を管理する、住み込みの仕事でした。
築五十年ほどの、丸太を組んだ、頑丈な小屋です。
相棒は、佐伯という、無口な年上の男でした。
二人で、雪に埋もれる冬を、越すはずでした。
佐伯とは、その日、初めて、顔を合わせました。
言葉数は少ないが、山慣れした、頼もしい男でした。
「無理はするな。冬の山は、人を、選ぶ」
私は、その言葉に、黙って、うなずきました。
佐伯の横顔は、どこか、影が、薄く見えました。
疲れているのだろうと、そのときは、思いました。
それが、彼の、最初の言葉でした。
小屋へ入る前日、麓の集落で、一人の老猟師に会いました。
熊を追って、この森に生きてきた人でした。
老人は、私を見て、低い声で言いました。
「最初の大雪の前に、里へ下りろ」
「森が閉じたら、人の心も、閉じる」
老人の目は、濁った湖のように、静かでした。
「この森にはな、飢えた精霊が、住んでいる」
「昔の言葉で、それを、ウェンディゴと呼ぶ」
「冬に長く籠もると、そいつが、人の腹に、入り込む」
「入られた者は、体の内から凍え、やがて、人の肉を、欲しがる」
私は、その荒唐無稽な話に、思わず、苦笑しました。
「本気で、言っているんですか」
老人は、答えず、ただ、私の目を、じっと見ました。
その目が、あまりに真剣で、私は、笑いを、引っ込めました。
私は、迷信だろうと、笑って聞き流しました。
別れぎわ、老人は、一つの壺を、押しつけてきました。
「熊の脂だ。おかしくなったら、これを、飲ませろ」
その意味が分かったのは、ずっと、後のことです。
壺は、ずしりと、重かった。
蓋を開けると、獣くさい脂の匂いが、鼻を、突きました。
私は、それを、小屋の棚の隅に、押し込みました。
使うことなど、あるまいと、思いながら。
※
最初のひと月は、何事も、ありませんでした。
薪を割り、雪を掻き、湯を沸かす。
単調だが、穏やかな、日々でした。
夜は、暖炉を囲んで、佐伯と、少しだけ、話しました。
彼は、若い頃、遭難しかけた話を、ぽつりと、しました。
「あのとき、俺は、自分の指を、食おうとした」
「飢えってのは、人を、獣に変えるんだ」
私は、その話を、ただの、昔話として、聞いていました。
まさか、自分の身に、起きるとは、思わずに。
外では、風が、唸りを、あげていました。
小屋の窓は、内側から、白く、凍っていました。
世界には、この小屋と、私たちだけが、残されたようでした。
その閉ざされた感覚は、初めのうち、心地よくさえ、ありました。
けれど、雪は、来る日も、来る日も、降り続けました。
小屋は、少しずつ、白い塊に、飲まれていきました。
窓の外は、ただ、白一色の、無でした。
見つめていると、その白さに、心が、吸い込まれそうでした。
静寂も、また、異様でした。
雪は、あらゆる音を、吸い取ります。
自分の、心臓の音だけが、やけに、大きく、聞こえました。
その鼓動さえ、次第に、遠のいていくようでした。
異変は、二度目の大雪の後から、始まりました。
まず、食欲が、なくなりました。
あれほど旨かった、干し肉の煮込みが、砂のように感じられました。
「食わんと、体が持たんぞ」と、佐伯が言いました。
「ええ、そうですね」と、私は、答えました。
けれど、匙を持つ手が、動きませんでした。
皿の湯気を見るだけで、胸が、むかつくのです。
私は、食べたふりをして、肉を、雪に、捨てました。
佐伯に、心配を、かけたくなかったのです。
体は、日に日に、痩せていきました。
鏡に映る自分の頬が、げっそりと、こけていました。
目だけが、やけに、ぎらぎらと、光っていました。
佐伯は、そんな私を、じっと、見ていました。
「その目は、いかんな」と、彼は、つぶやきました。
「昔、遭難した仲間が、そんな目を、していた」
私は、その言葉の意味を、深く、考えませんでした。
食べられないのに、腹だけは、鳴りました。
けれど、それは、胃の飢えでは、ありませんでした。
もっと、奥深く。
魂そのものが、飢えているような、感覚でした。
何を食べても、決して満たされない、底なしの、渇きでした。
私は、雪を、口に、詰め込みました。
薪の皮を、噛みました。
何も、効きませんでした。
満たされないほどに、飢えは、鋭く、なりました。
※
次に来たのは、寒さでした。
暖炉を、どれほど焚いても、体が、温まらないのです。
寒さは、外からではなく、体の内側から、来ました。
骨の芯が、凍りついていくような、感覚でした。
「妙だな。今日は、そんなに冷えんはずだが」
佐伯は、額の汗を拭いながら、そう言いました。
同じ部屋にいて、彼は暑がり、私だけが、震えていました。
毛布を、何枚、重ねても、無駄でした。
歯の根が、合わず、かちかちと、鳴りました。
指先は、青白く、感覚が、ありませんでした。
まるで、体の中に、氷の塊を、抱えているようでした。
夜、私は、眠れなくなりました。
吹雪の音の中に、何か、声が、混じるのです。
「はら、へった」
「はら、へった」
低く、掠れた声が、風に乗って、聞こえました。
それが、外からなのか、自分の内からなのか、分かりませんでした。
耳を、塞いでも、声は、消えませんでした。
頭の芯に、直接、響くのです。
「くえ」「くえ」と、それは、命じました。
私は、布団の中で、震えるしか、ありませんでした。
朝が来ても、太陽は、雲に、隠れたままでした。
昼と夜の、区別が、なくなっていきました。
時間の感覚が、溶けて、崩れていきました。
自分が、何日、ここにいるのかも、分からなくなりました。
鏡を見るのを、やめました。
そこに映る顔が、自分のものだと、思えなかったからです。
頬はこけ、唇は裂け、目だけが、獣のように、光っていました。
老人の言った、ウェンディゴの姿が、脳裏を、よぎりました。
私は、あれに、なりかけていたのです。
手足の指先が、黒ずんで、きました。
凍傷ではなく、内側から、腐るような、色でした。
触れると、感覚が、ありませんでした。
自分の体が、少しずつ、人でないものに、変わっていく。
その実感が、何よりの、恐怖でした。
やがて、恐ろしい変化が、訪れました。
暖炉で焼ける肉の匂いが、突然、たまらなく、いい匂いに感じたのです。
けれど、皿の肉には、まるで、食指が動きません。
私が食べたいのは、皿の上の、それでは、なかったのです。
自分が、何を欲しているのか。
認めることが、こわくて、私は、目を、逸らしました。
けれど、体は、正直でした。
佐伯が、薪を運ぶ、その腕を。
その、肉の付いた腕を、私の目は、追っていました。
※
ある夜のことです。
佐伯が、暖炉の前で、うたた寝を、していました。
火に照らされた、その頬を、私は、じっと、見つめていました。
そして、気づいたのです。
隣の男が、旨そうに、見えた。
私は、自分の考えに、心底、震え上がりました。
喉が、鳴りました。
口の中に、唾が、あふれていました。
人を、食べ物として、見ている。
そんな自分が、いる。
私は、外へ、飛び出しました。
雪の中に、顔を、埋めました。
冷たさで、正気を、保とうとしたのです。
「はら、へった」
また、あの声が、しました。
今度は、はっきりと、自分の喉から、漏れていました。
私は、老人の言葉を、思い出しました。
森が閉じたら、人の心も、閉じる。
里へ、下りなければ。
けれど、外は、見渡すかぎりの、雪でした。
道は、とうに、消えていました。
私は、この森の、囚われ人でした。
戻る道も、逃げる道も、雪が、消していました。
空は、鉛色に、閉ざされていました。
この飢えと二人きりで、春まで、耐えるしか、ないのです。
私は、初めて、心の底から、恐怖しました。
自分が、自分でなくなる、という恐怖に。
私は、日記を、つけようとしました。
けれど、ペンを持つ手が、震えて、字に、なりません。
書けたのは、ただ一言、「はらがへった」だけでした。
その頁を見て、私は、自分の正気を、疑いました。
書いた覚えが、まるで、なかったのです。
ある夜、私は、夢を、見ました。
私が、佐伯に、覆いかぶさっている夢です。
口の端から、赤いものが、垂れていました。
はっと目覚めると、口の中に、鉄の味が、残っていました。
自分の唇を、噛み破っていたのです。
枕は、私の血で、赤く、染まっていました。
それでも、その血の味に、私は、うっとりと、してしまったのです。
私は、自分を、殺そうと、思いました。
獣に、なる前に。
誰かを、傷つける前に。
薪割りの斧に、手を、伸ばしました。
そのとき、佐伯が、私の手を、押さえたのです。
「早まるな」と、彼は、言いました。
「まだ、間に合う」
彼の手は、氷のように、冷たかった。
生きた人間の、体温では、ありませんでした。
けれど、そのとき私は、それに、気づきませんでした。
ただ、縋りつくように、彼の言葉に、従いました。
※
どれほど、そうしていたでしょう。
気づくと、佐伯が、私を、羽交い締めにしていました。
「しっかりしろ。お前、俺に、噛みつこうとしたぞ」
彼の腕には、歯型の、赤い痕が、ありました。
佐伯は、老人の壺を、私の口に、押しつけました。
どろりとした、熊の脂が、喉を、流れ落ちました。
獣くさい、脂の味でした。
その瞬間、体の芯の氷が、ほんの少し、溶けた気がしました。
内側から、じんわりと、熱が、戻ってきました。
それから、佐伯は、毎晩、私に、脂を、飲ませました。
無理やり、口を、こじ開けて。
「戻ってこい。お前は、まだ、人間だ」
その声だけを、頼りに、私は、耐えました。
獣くさい脂だけが、私を、人間に、繋ぎとめていました。
夜ごと、私は、佐伯の腕に、縄で、縛られました。
自分が、彼に、襲いかからないように。
「すまない」と、私は、泣きました。
「気にするな。俺も、昔、こうして、助けられた」
佐伯は、静かに、そう言いました。
その言葉の、本当の意味を、私は、まだ知りませんでした。
縛られた夜、私は、佐伯に、尋ねました。
「あなたは、どうやって、治ったんですか」
佐伯は、長い、沈黙のあとで、答えました。
「誰かが、俺を、繋ぎとめてくれた」
「今度は、俺が、お前を、繋ぎとめる番だ」
その言葉は、まるで、遠い約束の、履行のようでした。
あの声も、いつしか、聞こえなく、なっていました。
雪が解け、私は、命からがら、里へ下りました。
老人は、私を見て、ただ、うなずきました。
「間に合ったか」と、それだけ、言いました。
「佐伯という男に、礼を言え」と、老人は、続けました。
私は、はっとしました。
その名を出したとき、老人の顔に、奇妙な影が、差したのです。
「佐伯? そんな男は、この森の管理人に、おらんぞ」
「お前は、一人で、入って、一人で、下りてきた」
背筋が、凍りつきました。
では、あの冬、私に脂を飲ませ続けた男は、誰だったのか。
私を、人間に、繋ぎとめてくれた、あの声は。
今も、分かりません。
佐伯は、私の遭難した仲間だったのか。
それとも、かつて、この森で、飢えに憑かれ、消えた誰かか。
自らは救われぬまま、次に憑かれた者を、救い続ける存在なのか。
森が生んだ、私自身の、影だったのか。
どれも、確かめる術は、ありません。
ただ、彼が飲ませてくれた脂の、獣くさい味だけは、今も、舌に、残っています。
里へ下りたあと、私は、あの壺を、探しました。
小屋から、持ち帰ったはずの、熊の脂の壺です。
けれど、私の荷物の中に、それは、ありませんでした。
麓の老人に聞くと、彼は、こう言いました。
「壺は、渡しておらん。お前が、勝手に、そう思い込んだんだ」
私は、言葉を、失いました。
では、あの獣くさい脂は、いったい、何だったのか。
私を、正気に、引き戻したものの、正体は。
考えるほどに、背筋が、寒くなります。
あれから、私は、街へ戻り、細々と、暮らしています。
人の中で生きる大切さを、あの冬が、教えてくれました。
孤独こそが、あの精霊の、餌なのだと、今は分かります。
だから私は、努めて、人と関わるように、しています。
けれど、冬が来るたび、あの声が、遠くで、囁くのです。
「はら、へった」と。
その声を聞くと、私は、慌てて、灯りを、点けます。
そして、誰かに、電話を、かけるのです。
たとえ、用が、なくても。
人の声を、聞いていないと、危ういからです。
受話器の向こうの、他愛ない笑い声が、私を、人間に、留めます。
あの脂の代わりに、今は、人の温もりが、私を、守っています。
森を出た者は、二度と、一人には、なってはいけない。
それが、あの冬が、私に刻んだ、たった一つの、掟です。
窓の外を、また、雪が、降り始めました。
私は、そっと、受話器に、手を伸ばします。
指先が、また、少しだけ、冷たくなった気がします。
気のせいだと、自分に、言い聞かせながら。
今夜も、私は、誰かの声を、探すのです。
あれから、何年も、経ちました。
私は、もう、あの森へは、近づきません。
けれど、厳しく冷え込んだ夜には、今も、思うのです。
体の芯が、ふと、冷たくなる。
そして、隣で眠る者が、一瞬、旨そうに、見える。
あの飢えは、まだ、私の奥のどこかで、眠っているだけなのかもしれません。