湯札は、ひとりに一枚だった
あの宿の下駄箱には、客ひとりにつき、木の湯札が一枚ずつ差してありました。
厚さ五ミリほどの、杉の札です。
表に部屋番号、裏に何も書かれていない、素っ気ないものでした。
湯へ行くときは、それを持って出ます。
帰ってきたら、下駄箱の自分の桝に戻す。
それだけの決まりでした。
私はそれを、ただの人数確認だと思っていました。
神隠しというものは、たいてい、人を不幸にします。
突然、子どもが消える。
連れていかれた者は、二度と戻らない。
そういう暗い話ばかりだと、私は思っていました。
けれど、あの夏に聞いたのは、まるで逆の話でした。
人の病を、治してしまう神隠しの話です。
そして、その代わりに何が引かれるのかという話です。
※
谷の奥の、湯治のための宿
学生だった頃、私はひと夏を、山あいの温泉宿で過ごしました。
住み込みの、賄いと下働きのアルバイトです。
観光地ではありません。
湯治のための、古い宿でした。
最寄りの駅からバスを乗り継いで、さらに谷沿いの道を一時間も登ります。
対向車も、めったに来ない細い道でした。
窓の外は、どこまでも深い緑の谷です。
携帯の電波は、ろくに届きませんでした。
客の多くは、何週間も逗留する湯治客でした。
胃の腑を病んだ人。
足を悪くした人。
肌を患った人。
みな口数が少なく、湯と山の静けさに身をゆだねていました。
宿は、黒く煤けた木造の三階建てでした。
廊下を歩くたびに、板がぎしぎしと鳴ります。
夜になると、谷を流れる川の音だけが、ずっと聞こえていました。
硫黄の匂いが、布団にまで染みついていました。
新聞は二日遅れで届きます。
私は、時代から取り残されたような気分になりました。
仕事は、朝の五時に始まります。
釜に火を入れて、味噌汁の出汁を取る。
客の朝食を運んで、それから風呂の掃除。
昼は谷まで下りて、水を汲みに行くこともありました。
「学生さん、水は重いけど、これがいちばん体にええで」
女将は、そう言って笑いました。
五十半ばの、小柄な人でした。
手の甲だけが、妙に日に焼けていました。
※
縁側の老人
その夏、ひとりの老人の客がいました。
毎年、夏になるとこの宿へ来るのだといいます。
痩せた、物静かな人でした。
いつも湯上がりに、二階の縁側で、ぼんやりと山を眺めていました。
私が茶を運ぶと、決まって礼儀正しく頭を下げます。
もう、長くはないのかもしれない。
そう思わせる、どこか儚げな人でした。
けれど、その目だけは、不思議と若々しいのです。
老人は、白い薄荷の飴をいつも持っていました。
私が通ると、一つくれます。
「学生さんは、汗をかくからな」
そう言って、袂から出すのです。
私は、いつしかその人と、よく話すようになりました。
老人は、若い私の話を、にこにこと聞いてくれました。
そして、土地に伝わる古い話を、いくつも教えてくれました。
山の神の話。
谷で行方の分からなくなった木こりの話。
雨の晩にだけ、橋を渡る女の話。
どれも私は、夜更けに息をひそめて聞き入りました。
その中に、あの神隠しの話がありました。
※
眠り窪の決まり
ある晩、老人は声をひそめて言いました。
「この奥山にはな、不思議な窪地があるんだよ」
地元の者は、その場所を眠り窪と呼ぶのだそうです。
苔むした、すり鉢のような小さな窪地らしい。
そこへ、たったひとりで行く。
連れがいてはいけないのだといいます。
案内も地図もない。
「呼ばれた者だけが、たどり着けるんだ」
そして、その窪地の底で横になって眠る。
うまくいけば、ちょうど一日ほど経った頃に目が覚める。
「目が覚めるとな」と、老人は言いました。
「体のどこかに、皮を引き毟ったような痕ができている」
「そして、その時わずらっていた病が、きれいに消えているんだ」
私は半分、冗談だと思って聞いていました。
「もし、うまくいかなければ」と、老人は続けました。
「普通に、二、三時間で目が覚めるだけだ」
「病も、そのまま何も変わらん」
「あの窪地が、その人を受け入れるかどうか、なんだろうな」
「受け入れられた者だけが、まる一日、眠ることを許される」
「その間、何を見ているのかは、誰にもわからん」
「目覚めた者は、皆、それを覚えていないのだ」
それから、老人は一つだけ、決まりを付け足しました。
「行くときはな、湯札を置いていくんだ」
「持ったまま行っては、いかん」
私は、その意味がわかりませんでした。
「なぜですか」
老人は、答えませんでした。
ただ、山のほうを見て、少し笑っただけでした。
※
袖の下の痕
作り話にしては、老人の口ぶりは妙に淡々としていました。
恐ろしがらせようとも、信じさせようともしていません。
ただ、知っている事実を述べているだけ、という調子でした。
私が半信半疑の顔をしていると、老人は静かに笑いました。
「信じられんのも、無理はないさ」
そして、おもむろに着物の袖をまくり上げました。
私は、その腕を見て、言葉を失いました。
冗談や作り話の痕ではありませんでした。
痩せた腕に、いくつもの傷痕があったのです。
古い、皮の引き攣れたような白い痕でした。
火傷とも、切り傷とも違います。
確かに、皮を無理やり引き毟ったような痕でした。
老人は襟をくつろげて、脇腹のほうも見せてくれました。
そこにも、同じような痕がいくつもありました。
数えようとして、私は途中でやめました。
数えきれなかったのです。
「これだけ、世話になったってことさ」
老人は、何でもないことのように言いました。
胃を病んだ年も。
肺を病んだ年も。
そのたびに、あの窪地が受け入れてきたのだ。
そう考えると、痕の多さが、私にはたまらなく恐ろしく思えました。
※
女将が語らなかったこと
その話を、私は女将にもしてみました。
女将の顔から、すっと笑みが消えました。
「あんた、あの場所のことは、口にするんじゃないよ」
低い声で、たしなめられました。
「ましてや、近づくなんて、とんでもない」
地元の者は、誰ひとりあの窪地に近づかないのだといいます。
道は、わざとわかりにくくしてあるとも言いました。
「治るったって、ね」
女将は、言葉を濁しました。
「ただで、病が消えるわけがないだろう」
その先を、女将は決して語りませんでした。
ただ、ひとつだけ付け加えました。
「行ったきり、戻らない人もいるんだからね」
「戻らないって、どうなるんですか」
「戻らないんだよ」
それだけでした。
私は、それ以上訊けませんでした。
帳場を離れるとき、女将が背中越しに言いました。
「札を持ったまま行った者は、こっちの数に戻れんのです」
私は、振り返りました。
女将は、もう帳面に目を落としていました。
※
帳面の、空いた欄
何かと引き換えに。
その言葉が、私の頭にこびりついて離れませんでした。
治った病のかわりに、あの窪地に人は何を置いてくるのか。
皮を引き毟ったような痕は、何のしるしなのか。
考えても、答えは出ませんでした。
その夜、私はなかなか寝つけませんでした。
薄い壁の向こうで、老人の静かな寝息が聞こえていました。
その寝息さえ、なぜか人のものではないように思えてきました。
翌日、私は帳場の手伝いを頼まれました。
宿帳に、客の名前と逗留日数を書き写す仕事です。
名前、住所、部屋、そして泊まった日数。
どの客の欄も、きちんと数字で埋まっていました。
三泊。
十二泊。
二十一泊。
湯治の宿ですから、桁の大きい数字が並びます。
ところが、老人の欄だけが違いました。
名前と部屋番号はあります。
日数の欄だけが、空白なのです。
私は、前の年の綴りもめくってみました。
同じでした。
その前の年も。
さらにその前の年も。
老人の日数の欄は、どの年も白いままでした。
私は、女将に訊きました。
「この方の日数、書き忘れているようですが」
女将は、手を止めませんでした。
「あの方のぶんは、書かんでええことになっとる」
「どうしてですか」
「そう決まっとるんです」
それきり、女将は口をききませんでした。
※
咳の止まった朝
その夏の終わり頃のことです。
老人は、ひどい咳をするようになっていました。
夜じゅう、隣の部屋まで苦しそうな咳が聞こえてきます。
胸の奥から絞り出すような、重い咳でした。
聞いているだけで、こちらの胸まで痛くなりました。
医者にかかるよう、女将も勧めていました。
けれど老人は、ただ穏やかに笑うだけでした。
ある朝、老人の部屋はもぬけの殻でした。
布団は、きちんと畳まれていました。
履物も、杖もなくなっていました。
私は、なぜかすぐにあの窪地のことを思いました。
胸騒ぎがして、女将に知らせに走りました。
女将は、窓の外の奥山をじっと見つめていました。
そして、ひとこと言いました。
「行ったね」
捜しに行こうとは、誰も言いませんでした。
私は、下駄箱を見に行きました。
老人の桝に、杉の湯札が一枚、きちんと差してありました。
言いつけどおり、置いていったのです。
その札が、なぜか、ひどく心細く見えました。
※
新しい痕
老人が宿に戻ってきたのは、まる一日が経った翌日の夕方でした。
ふらりと、何ごともなかったように玄関をくぐってきました。
あれほどひどかった咳が、ぴたりと止まっていました。
顔色も、来たときよりずっとよくなっていました。
そして、老人の首筋に。
皮を引き毟ったような、生々しい痕がひとつ増えていました。
まだ赤い、新しい痕です。
傷の縁が、まだじくじくと湿っていました。
私は、その痕から目をそらせませんでした。
老人は、私と目が合うと、ただにっこりと笑いました。
何も訊くな、というように。
私は、何も訊けませんでした。
老人は下駄箱へ行き、自分の湯札を手に取りました。
そして、湯へ向かいました。
帳場の女将が、宿帳を開いて、老人の欄を見ていました。
日数の欄は、その日も空白のままでした。
私は、そこでようやく、ひとつのことに思い当たりました。
帳面に日数が書かれないということは、この宿に泊まった記録がないということです。
記録がないということは、その人はここで日を過ごしていないということです。
日を過ごしていない人は、年を取りません。
病が消える代わりに、暦から外されるのです。
背筋が、すっと冷えました。
※
三十年前の写真
アルバイトを終えて宿を発つ、前の日のことです。
私は帳場の壁に、古い写真が何枚も飾られているのに気づきました。
宿の昔の様子を写したものです。
いちばん古い一枚は、三十年以上前のものだと女将が言いました。
宿の主人や客たちが、縁側に並んで写っています。
「みんな、もういらっしゃらない方ばかりよ」
女将は、そう言いました。
白黒の、色あせた写真でした。
何気なくそれを眺めていて。
私は、背筋が冷たくなりました。
三十年前の写真の中に、今と寸分変わらぬ姿の、あの老人が写っていたのです。
痩せた体も、物静かな笑みも、何ひとつ変わっていません。
まるで、時がその人だけを避けて流れたように。
ほかの誰もが年を取り、いなくなっていく中で。
その人だけが、三十年前のまま、そこにいました。
私は、震える声で女将に訊きました。
この人は、いったい何者なのか、と。
女将は写真をちらりと見て、それから目を伏せました。
「さあ、ねえ」
「あの方は、私が嫁に来た頃から、毎年いらしてるよ」
「ちっとも、お変わりにならないねえ」
そう言って、女将は口をつぐみました。
私は、もう一度写真を見ました。
老人の隣に、若い娘が写っています。
割烹着を着て、恥ずかしそうに笑っていました。
目もとが、今の女将にそっくりでした。
そして、その娘の首筋に。
白く引き攣れた、細い痕がひとつ、はっきりと写っていました。
私は、写真から顔を上げました。
女将の首には、いつも手ぬぐいが巻いてありました。
夏でも、一度もそれを外すのを見たことがありません。
※
下駄箱に二枚
その晩、私は荷物をまとめました。
翌朝のいちばん早いバスで、山を下りるつもりでした。
最後にもう一度、湯に浸かっておこうと思いました。
下駄箱へ行って、自分の桝に手を伸ばしました。
指先に、かちりと硬いものが二つ当たりました。
私の湯札は、下駄箱に、二枚ありました。
同じ部屋番号が、二つ。
同じ杉の板が、二枚。
私は、そこから動けなくなりました。
帳場から、女将が出てきました。
私の手元を見て、女将は何も言いませんでした。
ただ、二枚のうちの一枚を、静かに抜き取りました。
そして、それを自分の割烹着の袂に入れました。
「湯は、やめときなさい」
「今夜は、部屋におりなさい」
私は、うなずくことしかできませんでした。
部屋に戻る廊下で、二階の縁側を見上げました。
老人が、いつものように座っていました。
月の明るい晩でした。
老人は、こちらを見ていました。
そして、ゆっくりと、首を横に振りました。
行くな、という意味に見えました。
あるいは、まだ早い、という意味だったのかもしれません。
※
確かめずに、山を下りた
翌朝、私は始発のバスに乗りました。
見送りに出てきたのは、女将だけでした。
「また、おいで」
そう言ってから、女将は少し考えて、言い直しました。
「いや、来んでええわ」
それが、あの人からの最後の言葉でした。
バスが谷を下りていくあいだ、私は窓に額をつけていました。
病を治す神隠し。
確かに、それは人を不幸にはしません。
病は消えます。
咳も、痛みも消えます。
けれど、そのかわりに。
あの老人は、年を取ることさえできなくなっていました。
帳面に日数のない人は、暦から外れてしまうのです。
外れてしまえば、進むことも、終えることもできません。
あの人が毎年あの宿へ来るのは、湯のためではないのでしょう。
自分の名前が、まだどこかの帳面に書かれているのを、確かめに来ているのだと思います。
そして女将は、その帳面を書かない役目を、嫁に来た年から負っていた。
首の痕は、その約束のしるしだったのでしょう。
私は、とうとうあの場所を確かめずに山を下りました。
確かめなくてよかったのだと、今でも思っています。
もし私があの窪地に呼ばれていたら。
私もまた、年を取ることを忘れてしまっていたかもしれません。
病が治るというのは、聞こえはいいものです。
けれど、人の摂理から外れてしまうことが、はたして幸せなのでしょうか。
あれから、ずいぶん経ちました。
あの宿は、十年ほど前に畳んだと聞いています。
女将がどうなったのかは、知りません。
知らないままにしています。
ひとつだけ、いまだに気になっていることがあります。
あの夜、女将が袂に入れた、二枚目の湯札です。
あれは、誰の分だったのでしょうか。
夏になると、ふと思います。
皮を引き毟ったような痕は、今、いくつになっただろう。
そして、あの人はいまだに、どこかの縁側に座って、山を眺めているのだろうか、と。
土地の決まりごとが人を縛る話は、壁の中で数えられた指にも書いています。数を合わせるという禁忌については、写してはいけない鳥居もあわせてお読みください。