眠り窪の老人

神隠しというものは、たいてい、人を、不幸にする。

突然、子供が消える。

連れていかれた者は、二度と、戻らない。

そういう、暗い話ばかりだと、私は、思っていた。

だが、私が聞いたのは、まるで逆の話だった。

人の、病を、治してしまう、神隠しの話だ。

学生だった頃、私は、ひと夏を、山あいの温泉宿で、過ごした。

住み込みの、賄いと下働きの、バイトだった。

そこは、観光地ではない、湯治のための、古い宿だった。

バスを乗り継いで、さらに、谷沿いの道を、一時間も登った先にある。

対向車も、めったに、来ない、細い山道だった。

窓の外は、どこまでも、深い、緑の谷だった。

携帯の電波も、ろくに、届かない場所だ。

客の多くは、何週間も、長く逗留する、湯治客だった。

胃の腑を病んだ人、足を悪くした人、肌を患った人。

みな、口数少なく、湯と、山の静けさに、身を、ゆだねていた。

体の悪いところを、温泉で、ゆっくりと、癒しに来る人たちだ。

宿は、黒く煤けた、木造の建物だった。

廊下を歩くたびに、板が、ぎしぎしと、鳴った。

夜になると、谷を流れる川の音だけが、ずっと、聞こえていた。

硫黄の匂いが、布団にまで、染みついていた。

都会の喧騒を忘れるには、これ以上ない場所だった。

けれど、その静けさは、時に、ぞくりとするほど、深かった。

静かで、どこか、この世から、隔てられたような場所だった。

携帯も通じず、新聞でさえ、二日遅れで、届いた。

私は、まるで、時代から、取り残されたような、気分になった。

その夏、ひとりの、老人の客がいた。

毎年、夏になると、この宿へ来るのだという。

痩せた、物静かな人だった。

いつも、湯上がりに、縁側で、ぼんやりと山を眺めていた。

私が茶を運ぶと、決まって、礼儀正しく、頭を下げた。

もう、長くは、ないのかもしれない。

そう思わせる、どこか、儚げな人だった。

けれど、その目だけは、不思議と、若々しかった。

私は、いつしか、その老人と、よく話すように、なった。

老人は、若い私の話を、にこにこと、聞いてくれた。

そして、土地に伝わる、古い話を、いくつも、教えてくれた。

山の神の話。

谷で消えた、木こりの話。

雨の晩にだけ、橋を渡る、女の話。

どれも、私は、夜更けに、息をひそめて、聞き入った。

その中に、あの、神隠しの話が、あった。

ある晩、老人は、声をひそめて、こう言った。

「この奥山にはな、不思議な窪地が、あるんだよ」

地元の者は、その場所を、眠り窪、と呼ぶのだという。

苔むした、すり鉢のような、小さな窪地らしい。

そこへ、たったひとりで、行く。

連れがいては、いけないのだという。

案内も、地図も、ない。

ただ、呼ばれた者だけが、たどり着けるのだ、と老人は、言った。

そして、その窪地の底で、横になって、眠る。

うまく、いけば。

ちょうど、一日ほど、経った頃に、目が、覚める。

「目が覚めるとな」と、老人は、言った。

「体のどこかに、皮を、引き毟ったような、痕ができている」

「そして、その時わずらっていた病が、きれいに、消えているんだ」

私は、半分、冗談だと思って、聞いていた。

「もし、うまくいかなければ」と、老人は、続けた。

「普通に、二、三時間で、目が覚めるだけだ」

「病も、そのまま、何も、変わらない」

「あの窪地が、その人を、受け入れるかどうか、なんだろうな」

「受け入れられた者だけが、まる一日、眠ることを、許される」

「その間、何を、見ているのかは、誰にも、わからん」

「目覚めた者は、皆、それを、覚えていないのだ」

作り話にしては、老人の口ぶりは、妙に、淡々としていた。

恐ろしがらせようとも、信じさせようとも、していない。

ただ、知っている事実を、述べているだけ、という調子だった。

私が、半信半疑の顔をしていると、老人は、静かに、笑った。

「信じられんのも、無理は、ないさ」

そして、おもむろに、着物の袖を、まくり上げた。

私は、その腕を見て、言葉を、失った。

冗談や、作り話の、痕では、なかった。

老人の、痩せた腕には、いくつもの、傷痕があった。

古い、皮の引き攣れたような、白い痕だ。

火傷とも、切り傷とも、違う。

確かに、皮を、無理やり、引き毟ったような、痕だった。

老人は、襟をくつろげて、脇腹のほうも、見せてくれた。

そこにも、同じような、痕が、いくつも、あった。

腕にも、脇腹にも、皮を引き毟ったような古い痕が、数えきれぬほど、刻まれていた。

「これだけ、世話に、なったってことさ」と、老人は、言った。

何でも、ないことのように。

私は、ぞっとした。

数えようとしても、数えきれない、痕だった。

これだけの数、ということは。

胃を病んだ年も。

肺を病んだ年も。

そのたびに、あの窪地が、彼を、受け入れてきたのだ。

そう考えると、その傷痕の多さが、私には、たまらなく、恐ろしかった。

この老人は、何度も、何度も、あの窪地で、眠ってきたということだ。

その話を、私は、宿の女将にも、してみた。

女将の顔から、すっと、笑みが、消えた。

「あんた、あの場所のことは、口にするんじゃ、ないよ」

そう、低い声で、たしなめられた。

「ましてや、近づくなんて、とんでも、ない」

地元の者は、誰ひとり、あの窪地には、近づかないのだという。

道は、わざと、わかりにくく、してあるとも、言った。

「治るったって、ね」と、女将は、言葉を、濁した。

「ただで、病が、消えるわけが、ないだろう」

その先を、女将は、決して、語らなかった。

ただ、ひとつだけ、こう、付け加えた。

「行ったきり、戻らない人も、いるんだからね」

受け入れられなかった者が、どうなるのかは、私には、訊けなかった。

何かと、引き換えに。

私の頭に、その言葉が、こびりついて、離れなかった。

治った病の、かわりに。

あの窪地に、人は、何を、置いてくるのだろう。

皮を引き毟ったような、あの痕は、何の、しるしなのだろう。

考えても、答えは、出なかった。

私は、その夜、なかなか、寝つけなかった。

薄い壁の向こうで、老人の、静かな寝息が、聞こえていた。

その寝息さえ、なぜか、人のものでは、ないように、思えてきた。

老人は、それきり、その話を、しなかった。

縁側で山を眺める、その横顔は、いつもどおり、おだやかだった。

だが、私は、もう、その横顔を、前のようには、見られなくなっていた。

その夏の、終わり頃のことだ。

老人は、ひどい、咳を、するようになっていた。

夜じゅう、隣の部屋まで、苦しそうな咳が、聞こえてきた。

胸の奥から、絞り出すような、重い咳だった。

聞いているだけで、こちらの胸まで、痛くなった。

医者にかかるよう、女将も、勧めていた。

けれど、老人は、ただ、おだやかに、笑うだけだった。

ある朝、老人の部屋は、もぬけの殻だった。

布団は、きちんと、畳まれていた。

履物も、杖も、なくなっていた。

私は、なぜか、すぐに、あの窪地のことを、思った。

胸騒ぎがして、私は、女将に、知らせた。

女将は、窓の外の、奥山を、じっと、見つめていた。

そして、ひとこと、「行ったね」と、言った。

捜しに行こうとは、誰も、言わなかった。

老人が、宿に戻ってきたのは、まる一日が、経った、翌日の夕方だった。

ふらりと、何ごとも、なかったように、玄関を、くぐってきた。

あれほど、ひどかった咳が、ぴたりと、止まっていた。

顔色も、来たときより、ずっと、よくなっていた。

そして、老人の、首筋に。

皮を、引き毟ったような、生々しい痕が、ひとつ、増えていた。

まだ、赤い、新しい痕だった。

傷の縁が、まだ、じくじくと、湿っていた。

首筋の、その痕から、私は、目を、そらせなかった。

老人は、私と目が合うと、ただ、にっこりと、笑った。

何も、訊くな、というように。

私は、何も、訊けなかった。

バイトを終えて、宿を発つ、前の日のことだ。

私は、帳場の壁に、古い写真が、何枚も、飾られているのに、気づいた。

宿の、昔の様子を、写したものだ。

いちばん古い一枚は、三十年以上も前のものだと、女将が、言った。

宿の主人や、客たちが、縁側に並んで、写っていた。

みな、もう、亡くなった人ばかりだ、と女将は、言った。

白黒の、色あせた写真だった。

何気なく、それを、眺めていて。

私は、背筋が、冷たくなった。

三十年前の宿の写真の中に、今と寸分変わらぬ姿の、あの老人が、写っていた。

痩せた体も、物静かな笑みも、何ひとつ、変わっていない。

まるで、時が、その人だけを、避けて、流れたように。

ほかの誰もが、年を取り、亡くなっていく中で。

その人だけが、三十年前のまま、そこに、いた。

私は、震える声で、女将に、訊いた。

この人は、いったい、何者なのか、と。

女将は、写真を、ちらりと見て、それから、目を、伏せた。

「さあ、ねえ」

「あの方は、私が、嫁に来た頃から、毎年、いらしてるよ」

「ちっとも、お変わりに、ならないねえ」

そう言って、女将は、それきり、口を、つぐんだ。

それ以上は、訊くな、という、横顔だった。

私は、写真の中の老人と、今の老人を、何度も、見比べた。

どう見ても、同じ、人だった。

病を、治す、神隠し。

確かに、それは、人を、不幸にはしない。

病は、消える。

咳も、痛みも、消える。

けれど、そのかわりに。

あの老人は、年を取ることさえ、できなくなって、いた。

治った病のかわりに、あの窪地に、何を置いてきたのか。

老人は、最後まで、語らなかった。

そして、私も、とうとう、その場所を、確かめずに、山を、下りた。

確かめなくて、よかったのだと、今でも、思っている。

もし、私が、あの窪地に、呼ばれていたら。

私もまた、年を取ることを、忘れて、しまっていたかもしれない。

病が治るというのは、聞こえは、いい。

だが、人の摂理から、はずれてしまうことが、はたして、幸せなのだろうか。

あれから、ずいぶんと、経つ。

今でも、夏になると、ふと、思う。

あの皮を引き毟ったような痕は、今、いくつに、なっただろう。

そして、あの老人は、いまだに、あの宿の縁側に、座っているのだろうか。

あの老人は、まだ、あの静かな宿の縁側で。

少しも変わらぬ姿のまま、山を、眺めているのだろうか、と。

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