神隠しというものは、たいてい、人を、不幸にする。
突然、子供が消える。
連れていかれた者は、二度と、戻らない。
そういう、暗い話ばかりだと、私は、思っていた。
だが、私が聞いたのは、まるで逆の話だった。
人の、病を、治してしまう、神隠しの話だ。
※
学生だった頃、私は、ひと夏を、山あいの温泉宿で、過ごした。
住み込みの、賄いと下働きの、バイトだった。
そこは、観光地ではない、湯治のための、古い宿だった。
バスを乗り継いで、さらに、谷沿いの道を、一時間も登った先にある。
対向車も、めったに、来ない、細い山道だった。
窓の外は、どこまでも、深い、緑の谷だった。
携帯の電波も、ろくに、届かない場所だ。
客の多くは、何週間も、長く逗留する、湯治客だった。
胃の腑を病んだ人、足を悪くした人、肌を患った人。
みな、口数少なく、湯と、山の静けさに、身を、ゆだねていた。
体の悪いところを、温泉で、ゆっくりと、癒しに来る人たちだ。
宿は、黒く煤けた、木造の建物だった。
廊下を歩くたびに、板が、ぎしぎしと、鳴った。
夜になると、谷を流れる川の音だけが、ずっと、聞こえていた。
硫黄の匂いが、布団にまで、染みついていた。
都会の喧騒を忘れるには、これ以上ない場所だった。
けれど、その静けさは、時に、ぞくりとするほど、深かった。
静かで、どこか、この世から、隔てられたような場所だった。
携帯も通じず、新聞でさえ、二日遅れで、届いた。
私は、まるで、時代から、取り残されたような、気分になった。
※
その夏、ひとりの、老人の客がいた。
毎年、夏になると、この宿へ来るのだという。
痩せた、物静かな人だった。
いつも、湯上がりに、縁側で、ぼんやりと山を眺めていた。
私が茶を運ぶと、決まって、礼儀正しく、頭を下げた。
もう、長くは、ないのかもしれない。
そう思わせる、どこか、儚げな人だった。
けれど、その目だけは、不思議と、若々しかった。
私は、いつしか、その老人と、よく話すように、なった。
老人は、若い私の話を、にこにこと、聞いてくれた。
そして、土地に伝わる、古い話を、いくつも、教えてくれた。
山の神の話。
谷で消えた、木こりの話。
雨の晩にだけ、橋を渡る、女の話。
どれも、私は、夜更けに、息をひそめて、聞き入った。
その中に、あの、神隠しの話が、あった。
※
ある晩、老人は、声をひそめて、こう言った。
「この奥山にはな、不思議な窪地が、あるんだよ」
地元の者は、その場所を、眠り窪、と呼ぶのだという。
苔むした、すり鉢のような、小さな窪地らしい。
そこへ、たったひとりで、行く。
連れがいては、いけないのだという。
案内も、地図も、ない。
ただ、呼ばれた者だけが、たどり着けるのだ、と老人は、言った。
そして、その窪地の底で、横になって、眠る。
うまく、いけば。
ちょうど、一日ほど、経った頃に、目が、覚める。
「目が覚めるとな」と、老人は、言った。
「体のどこかに、皮を、引き毟ったような、痕ができている」
「そして、その時わずらっていた病が、きれいに、消えているんだ」
私は、半分、冗談だと思って、聞いていた。
「もし、うまくいかなければ」と、老人は、続けた。
「普通に、二、三時間で、目が覚めるだけだ」
「病も、そのまま、何も、変わらない」
「あの窪地が、その人を、受け入れるかどうか、なんだろうな」
「受け入れられた者だけが、まる一日、眠ることを、許される」
「その間、何を、見ているのかは、誰にも、わからん」
「目覚めた者は、皆、それを、覚えていないのだ」
※
作り話にしては、老人の口ぶりは、妙に、淡々としていた。
恐ろしがらせようとも、信じさせようとも、していない。
ただ、知っている事実を、述べているだけ、という調子だった。
私が、半信半疑の顔をしていると、老人は、静かに、笑った。
「信じられんのも、無理は、ないさ」
そして、おもむろに、着物の袖を、まくり上げた。
私は、その腕を見て、言葉を、失った。
冗談や、作り話の、痕では、なかった。
※
老人の、痩せた腕には、いくつもの、傷痕があった。
古い、皮の引き攣れたような、白い痕だ。
火傷とも、切り傷とも、違う。
確かに、皮を、無理やり、引き毟ったような、痕だった。
老人は、襟をくつろげて、脇腹のほうも、見せてくれた。
そこにも、同じような、痕が、いくつも、あった。
腕にも、脇腹にも、皮を引き毟ったような古い痕が、数えきれぬほど、刻まれていた。
「これだけ、世話に、なったってことさ」と、老人は、言った。
何でも、ないことのように。
私は、ぞっとした。
数えようとしても、数えきれない、痕だった。
これだけの数、ということは。
胃を病んだ年も。
肺を病んだ年も。
そのたびに、あの窪地が、彼を、受け入れてきたのだ。
そう考えると、その傷痕の多さが、私には、たまらなく、恐ろしかった。
この老人は、何度も、何度も、あの窪地で、眠ってきたということだ。
※
その話を、私は、宿の女将にも、してみた。
女将の顔から、すっと、笑みが、消えた。
「あんた、あの場所のことは、口にするんじゃ、ないよ」
そう、低い声で、たしなめられた。
「ましてや、近づくなんて、とんでも、ない」
地元の者は、誰ひとり、あの窪地には、近づかないのだという。
道は、わざと、わかりにくく、してあるとも、言った。
「治るったって、ね」と、女将は、言葉を、濁した。
「ただで、病が、消えるわけが、ないだろう」
その先を、女将は、決して、語らなかった。
ただ、ひとつだけ、こう、付け加えた。
「行ったきり、戻らない人も、いるんだからね」
受け入れられなかった者が、どうなるのかは、私には、訊けなかった。
※
何かと、引き換えに。
私の頭に、その言葉が、こびりついて、離れなかった。
治った病の、かわりに。
あの窪地に、人は、何を、置いてくるのだろう。
皮を引き毟ったような、あの痕は、何の、しるしなのだろう。
考えても、答えは、出なかった。
私は、その夜、なかなか、寝つけなかった。
薄い壁の向こうで、老人の、静かな寝息が、聞こえていた。
その寝息さえ、なぜか、人のものでは、ないように、思えてきた。
老人は、それきり、その話を、しなかった。
縁側で山を眺める、その横顔は、いつもどおり、おだやかだった。
だが、私は、もう、その横顔を、前のようには、見られなくなっていた。
※
その夏の、終わり頃のことだ。
老人は、ひどい、咳を、するようになっていた。
夜じゅう、隣の部屋まで、苦しそうな咳が、聞こえてきた。
胸の奥から、絞り出すような、重い咳だった。
聞いているだけで、こちらの胸まで、痛くなった。
医者にかかるよう、女将も、勧めていた。
けれど、老人は、ただ、おだやかに、笑うだけだった。
ある朝、老人の部屋は、もぬけの殻だった。
布団は、きちんと、畳まれていた。
履物も、杖も、なくなっていた。
私は、なぜか、すぐに、あの窪地のことを、思った。
胸騒ぎがして、私は、女将に、知らせた。
女将は、窓の外の、奥山を、じっと、見つめていた。
そして、ひとこと、「行ったね」と、言った。
捜しに行こうとは、誰も、言わなかった。
※
老人が、宿に戻ってきたのは、まる一日が、経った、翌日の夕方だった。
ふらりと、何ごとも、なかったように、玄関を、くぐってきた。
あれほど、ひどかった咳が、ぴたりと、止まっていた。
顔色も、来たときより、ずっと、よくなっていた。
そして、老人の、首筋に。
皮を、引き毟ったような、生々しい痕が、ひとつ、増えていた。
まだ、赤い、新しい痕だった。
傷の縁が、まだ、じくじくと、湿っていた。
首筋の、その痕から、私は、目を、そらせなかった。
老人は、私と目が合うと、ただ、にっこりと、笑った。
何も、訊くな、というように。
私は、何も、訊けなかった。
※
バイトを終えて、宿を発つ、前の日のことだ。
私は、帳場の壁に、古い写真が、何枚も、飾られているのに、気づいた。
宿の、昔の様子を、写したものだ。
いちばん古い一枚は、三十年以上も前のものだと、女将が、言った。
宿の主人や、客たちが、縁側に並んで、写っていた。
みな、もう、亡くなった人ばかりだ、と女将は、言った。
白黒の、色あせた写真だった。
何気なく、それを、眺めていて。
私は、背筋が、冷たくなった。
三十年前の宿の写真の中に、今と寸分変わらぬ姿の、あの老人が、写っていた。
痩せた体も、物静かな笑みも、何ひとつ、変わっていない。
まるで、時が、その人だけを、避けて、流れたように。
ほかの誰もが、年を取り、亡くなっていく中で。
その人だけが、三十年前のまま、そこに、いた。
※
私は、震える声で、女将に、訊いた。
この人は、いったい、何者なのか、と。
女将は、写真を、ちらりと見て、それから、目を、伏せた。
「さあ、ねえ」
「あの方は、私が、嫁に来た頃から、毎年、いらしてるよ」
「ちっとも、お変わりに、ならないねえ」
そう言って、女将は、それきり、口を、つぐんだ。
それ以上は、訊くな、という、横顔だった。
私は、写真の中の老人と、今の老人を、何度も、見比べた。
どう見ても、同じ、人だった。
※
病を、治す、神隠し。
確かに、それは、人を、不幸にはしない。
病は、消える。
咳も、痛みも、消える。
けれど、そのかわりに。
あの老人は、年を取ることさえ、できなくなって、いた。
治った病のかわりに、あの窪地に、何を置いてきたのか。
老人は、最後まで、語らなかった。
そして、私も、とうとう、その場所を、確かめずに、山を、下りた。
確かめなくて、よかったのだと、今でも、思っている。
もし、私が、あの窪地に、呼ばれていたら。
私もまた、年を取ることを、忘れて、しまっていたかもしれない。
病が治るというのは、聞こえは、いい。
だが、人の摂理から、はずれてしまうことが、はたして、幸せなのだろうか。
あれから、ずいぶんと、経つ。
今でも、夏になると、ふと、思う。
あの皮を引き毟ったような痕は、今、いくつに、なっただろう。
そして、あの老人は、いまだに、あの宿の縁側に、座っているのだろうか。
あの老人は、まだ、あの静かな宿の縁側で。
少しも変わらぬ姿のまま、山を、眺めているのだろうか、と。