空き家の板壁

空き家の板壁

たぶん、怖い話では、ないのだと思う。

ただ、今でも、思い出すと、ひどく嫌な気持ちになる話だ。

私は、あれ以来、あの道だけは、通らないようにしている。

理由を話しても、たいていの人は、怪訝な顔をするだけだ。

それでも、私にとっては、忘れられない、ひと晩の出来事だった。

※

当時、私は、町外れの印刷工場で、夜勤の仕事をしていた。

輪転機の油の匂いと、紙の匂いに、いつも、体じゅうが染まっていた。

仕事が終わるのは、決まって、夜中の二時を過ぎた頃だった。

終電など、とうに、なかった。

だから私は、毎晩、人気のない暗い道を、歩いて帰っていた。

四十分ほどの、長い、夜道だ。

街灯と街灯の間隔が、ひどく広い、寂しい道だった。

すれ違う人も、ほとんど、いなかった。

その道の途中に、一軒の、古い理髪店があった。

私が越してくる、ずっと前に、店を畳んだらしい。

色のあせた看板と、もう回らなくなったサインポールが、そのまま、残されていた。

赤と青の縞は、すっかり、灰色に、くすんでいた。

店のまわりだけは、新しいマンションが、次々と、建っていった。

真新しいタイルの壁に、囲まれて。

その一角だけが、時代に取り残されたように、ぽつんと、沈んでいた。

夜になると、その闇は、いっそう、濃くなった。

マンションの明かりも届かず、そこだけが、黒く、沈んでいた。

店の裏手は、腐りかけた、板壁になっていた。

ところどころ、板が反り返り、黒い隙間が、口を開けていた。

昼間でも、その前を通ると、なぜか、ひやりとした。

犬を連れた人が、その前だけは、足早に通り過ぎるのを、何度か、見た。

近所の子供たちも、あの店には、近づこうとは、しなかった。

※

あれは、梅雨の、終わりの晩だった。

その日は、夕方まで雨が降って、道は、まだ、ぐっしょりと濡れていた。

工場を出たのは、いつもより、少し遅い、二時半頃だった。

その日は、機械の調子が悪く、残業に、なっていた。

街灯の灯りも、半分は、切れていた。

私は、水たまりを避けながら、いつもの道を、歩いていた。

雨上がりの空気は、土と、どぶの匂いが、混じっていた。

遠くで、野良猫が、一度だけ、鳴いた。

理髪店の角を、曲がろうとした、そのときだ。

濡れた路面に張り出した、何かの根に、私は、足を取られた。

体が、ぐらりと、前へ、泳いだ。

とっさに、私は、両手を、前へ突き出した。

その手が、理髪店の、腐った板壁に、まともに、ぶつかった。

ぐしゃり、と、湿った、いやな音がした。

右手が、板を突き破って、手首の近くまで、壁の中に、めり込んでしまった。

ばきっ、という乾いた音と、湿った木のくずれる感触が、同時に、手に伝わった。

※

壊してしまったか、と、私は、まず、そう思った。

あわてて、手を、引き抜こうとした。

ところが、抜けない。

抜こうとすると、割れた板の先が、手首に、ぎちぎちと、食い込んでくる。

無理に引けば、肉が、裂けそうだった。

私は、痛みに、顔をしかめた。

手首の傷から、生暖かいものが、つたうのが、わかった。

壁の中は、墨を流したように、真っ暗で、何も見えなかった。

擦り傷だらけになった手首が、じんじんと、脈打って、痛んだ。

私は、壁に半身をもたせかけるような格好で、しばらく、もがいた。

早く、抜いて、帰りたい。

汗が、こめかみを、つたって、落ちた。

夜の静けさの中で、自分の荒い息だけが、やけに、大きく、聞こえた。

その一心だった。

※

そのときだった。

壁の、内側で。

私の、突き出した手に、何かが、触れた。

指の先に、ぬるりとした、やわらかいものが、当たった。

最初は、朽ちた木の、ささくれだと思った。

違った。

それは、人の、手のひらの感触だった。

暗がりの向こうから、誰かの手が、私の手を、そっと、撫でたのだ。

指の背を、確かめるように、ゆっくりと、なぞった。

私は、思わず、息を、止めた。

何かの、勘違いだ。

そう、自分に言い聞かせた。

けれど、次の瞬間、その手は、はっきりと、私の指に、からみついてきた。

生暖かい、汗ばんだ、手だった。

五本の指が、私の指の間に、一本ずつ、滑り込んできた。

まるで、長いあいだ、その瞬間を、待っていたかのようだった。

ためらいの、ない動きだった。

私の手の形を、はじめから、知っていたかのように。

壁の中には、誰も、いるはずが、なかった。

※

その手は、だんだんと、力を、強めてきた。

私の指を、一本ずつ、丁寧に、確かめるように、握っていく。

親指の付け根を、爪で、ひっかくように、なぞられた。

その爪は、長く、伸びているようだった。

振りほどこうと、手を引くと、よけいに、強く、握り返してくる。

まるで、放すまい、と、するように。

手のひらの汗が、ぬるぬると、私の指の間に、まとわりついた。

何より、嫌だったのは、その手に、体温が、あったことだ。

冷たい、死人の手なら、まだ、よかった。

そうではなかった。

確かに、生きた人と、同じ、ぬくもりが、あった。

その生々しさが、私を、芯から、怖がらせた。

幽霊なら、まだ、心のどこかで、信じずに、済む。

けれど、この手は、あまりにも、生きていた。

生きた誰かが、あの朽ちた壁の中に、潜んでいる。

そのほうが、よほど、恐ろしかった。

声を、出そうとした。

助けを呼ぼうにも、こんな時間、この道には、誰も、いない。

けれど、喉が、ひきつって、かすれた息しか、出なかった。

※

ズボンのポケットには、ライターが、入っていた。

火をつければ、板の隙間から、中の様子が、見えるかもしれない。

そう、頭では、思った。

けれど、私は、どうしても、それが、できなかった。

もし、その小さな炎に、照らされて。

隙間の、すぐ向こうに、人の、目があったら。

こちらを、じっと、覗いている、目があったら。

そう考えただけで、ライターを握る手が、すくんで、動かなくなった。

見てしまったら、戻れない気が、した。

私は、ただ、目を、固くつむっていた。

見なければ、これは、ただの夢だ。

そう、自分に、言い聞かせ続けた。

※

どれくらいの間、そうしていたのか、わからない。

ほんの数分だったのか、もっと長かったのか。

遠くのほうから、小さな、エンジンの音が、近づいてきた。

ぱたぱたという、軽い、原付バイクの音だった。

新聞配達の、バイクだ。

ヘッドライトの光が、濡れた路面を、ゆっくりと、なめるように、流れてくる。

その白い光が、理髪店の板壁を、ぼんやりと、照らした。

その、瞬間だった。

私の手を、握っていた感触が、すうっと、消えた。

潮が引くように、跡形もなく。

同時に、私の右手は、嘘のように、すぽりと、壁から、抜けた。

私は、勢いあまって、濡れた路上に、尻もちを、ついた。

原付は、何ごとも、なかったように、私の脇を、通り過ぎていった。

配達の人は、私のことなど、見てもいなかった。

暗がりにうずくまる私の姿は、目に、入らなかったのだろう。

バイクの音は、すぐに、夜の奥へ、遠ざかっていった。

あとには、また、もとの、深い静けさが、戻ってきた。

※

しばらく、私は、地面に、座り込んだまま、動けなかった。

心臓が、ばくばくと、耳の奥で、鳴っていた。

ようやく、私は、右手を、街灯の灯りに、かざしてみた。

手首には、板で切った、生々しい傷が、何本も、走っていた。

血が、にじんでいた。

シャツの袖で、傷口を、きつく、押さえた。

しばらくは、血が、止まらなかった。

けれど、それ、だけだった。

私の突き破った穴は、確かに、板壁に、ぽっかりと、開いていた。

その黒い穴に、もう一度、顔を近づける勇気は、私には、なかった。

私は、立ち上がると、振り返りもせず、家まで、走って帰った。

途中、一度だけ、後ろで、板の、きしむ音が、聞こえた気がした。

確かめる気には、とても、なれなかった。

※

その晩は、明かりを、つけたまま、まんじりとも、しなかった。

翌日、私は、どうしても、確かめずには、いられなかった。

明るいうちに、もう一度、あの理髪店の前を、通ってみた。

板壁の穴は、夜に見たとおり、はっきりと、開いていた。

こぶし、ひとつ分ほどの、黒い穴だ。

私は、おそるおそる、その穴を、覗いてみた。

中は、がらんとした、暗い空間だった。

黴と、埃の匂いが、その穴から、かすかに、流れ出してきた。

昼の光の中で見ても、奥のほうは、よく見えなかった。

どう見ても、人が、住んでいる気配は、なかった。

屋根は、半分、抜け落ちていた。

窓ガラスは割れ、内側には、灰色の埃が、厚く積もっていた。

長年の雨漏りで、床板は、ぼろぼろに、腐っていた。

踏み込めば、すぐにでも、抜け落ちそうだった。

埃の積もった床に、足跡の、ひとつも、なかった。

こんなところに、人が、いられるはずが、なかった。

※

私は、近所で古くから店をやっている、八百屋の主人に、訊いてみた。

あの理髪店は、いったい、どういう家なのか、と。

主人は、少し、けげんな顔をして、こう答えた。

「ああ、あそこの夫婦かい」

「あの二人は、もう、十年も前に、遠くへ越していったよ」

「それから、ずっと、空き家の、はずだがね」

なぜ、そんなことを訊くんだ、という顔を、主人は、していた。

「まさか、あそこに、誰かいるとでも、思ったのかい」

冗談めかして、主人は、そう言って、笑った。

私は、うまく、笑い返すことが、できなかった。

私は、礼を言って、何も話さずに、その場を、離れた。

背中に、あの黒い穴の気配を、感じながら。

あの晩のことは、誰にも、言えなかった。

※

空き家の、はず。

誰も、住んでいない、はず。

それなのに、あの晩。

誰も住んでいないはずの壁の中に、確かに、汗ばんだ手が、あった。

私の指を、一本ずつ、放すまいと、握った手が。

確かな、体温を、もって。

※

ホームレスでも、入り込んでいたのかもしれない。

野犬か、何かの、悪戯だったのかもしれない。

そう、無理にでも、思おうとした。

けれど、どんな理屈をつけても、ひとつだけ、どうしても、説明のつかないことがある。

私が突き破った穴は、こぶし、ひとつ分ほどの、小さなものだった。

あの小さな穴の奥から、どうやって、大人の手が、伸びてきたのか。

それだけは、今も、わからない。

けれど、あの手の、生暖かさだけは、どうしても、忘れられない。

あの手の主が、生きていても、いなくても。

そのどちらでも、ありえないことに、変わりは、ない。

どちらだとしても、私は、やはり、ぞっとする。

私は、その後、ほどなくして、夜勤の仕事を、辞めた。

今でも、あの理髪店の、板壁の前だけは、通らないようにしている。

あの黒い穴が、まだ、口を開けて、私を待っている気が、するからだ。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

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