空き家の板壁

たぶん、怖い話では、ないのだと思う。

ただ、今でも、思い出すと、ひどく嫌な気持ちになる話だ。

私は、あれ以来、あの道だけは、通らないようにしている。

理由を話しても、たいていの人は、怪訝な顔をするだけだ。

それでも、私にとっては、忘れられない、ひと晩の出来事だった。

当時、私は、町外れの印刷工場で、夜勤の仕事をしていた。

輪転機の油の匂いと、紙の匂いに、いつも、体じゅうが染まっていた。

仕事が終わるのは、決まって、夜中の二時を過ぎた頃だった。

終電など、とうに、なかった。

だから私は、毎晩、人気のない暗い道を、歩いて帰っていた。

四十分ほどの、長い、夜道だ。

街灯と街灯の間隔が、ひどく広い、寂しい道だった。

すれ違う人も、ほとんど、いなかった。

その道の途中に、一軒の、古い理髪店があった。

私が越してくる、ずっと前に、店を畳んだらしい。

色のあせた看板と、もう回らなくなったサインポールが、そのまま、残されていた。

赤と青の縞は、すっかり、灰色に、くすんでいた。

店のまわりだけは、新しいマンションが、次々と、建っていった。

真新しいタイルの壁に、囲まれて。

その一角だけが、時代に取り残されたように、ぽつんと、沈んでいた。

夜になると、その闇は、いっそう、濃くなった。

マンションの明かりも届かず、そこだけが、黒く、沈んでいた。

店の裏手は、腐りかけた、板壁になっていた。

ところどころ、板が反り返り、黒い隙間が、口を開けていた。

昼間でも、その前を通ると、なぜか、ひやりとした。

犬を連れた人が、その前だけは、足早に通り過ぎるのを、何度か、見た。

近所の子供たちも、あの店には、近づこうとは、しなかった。

あれは、梅雨の、終わりの晩だった。

その日は、夕方まで雨が降って、道は、まだ、ぐっしょりと濡れていた。

工場を出たのは、いつもより、少し遅い、二時半頃だった。

その日は、機械の調子が悪く、残業に、なっていた。

街灯の灯りも、半分は、切れていた。

私は、水たまりを避けながら、いつもの道を、歩いていた。

雨上がりの空気は、土と、どぶの匂いが、混じっていた。

遠くで、野良猫が、一度だけ、鳴いた。

理髪店の角を、曲がろうとした、そのときだ。

濡れた路面に張り出した、何かの根に、私は、足を取られた。

体が、ぐらりと、前へ、泳いだ。

とっさに、私は、両手を、前へ突き出した。

その手が、理髪店の、腐った板壁に、まともに、ぶつかった。

ぐしゃり、と、湿った、いやな音がした。

右手が、板を突き破って、手首の近くまで、壁の中に、めり込んでしまった。

ばきっ、という乾いた音と、湿った木のくずれる感触が、同時に、手に伝わった。

壊してしまったか、と、私は、まず、そう思った。

あわてて、手を、引き抜こうとした。

ところが、抜けない。

抜こうとすると、割れた板の先が、手首に、ぎちぎちと、食い込んでくる。

無理に引けば、肉が、裂けそうだった。

私は、痛みに、顔をしかめた。

手首の傷から、生暖かいものが、つたうのが、わかった。

壁の中は、墨を流したように、真っ暗で、何も見えなかった。

擦り傷だらけになった手首が、じんじんと、脈打って、痛んだ。

私は、壁に半身をもたせかけるような格好で、しばらく、もがいた。

早く、抜いて、帰りたい。

汗が、こめかみを、つたって、落ちた。

夜の静けさの中で、自分の荒い息だけが、やけに、大きく、聞こえた。

その一心だった。

そのときだった。

壁の、内側で。

私の、突き出した手に、何かが、触れた。

指の先に、ぬるりとした、やわらかいものが、当たった。

最初は、朽ちた木の、ささくれだと思った。

違った。

それは、人の、手のひらの感触だった。

暗がりの向こうから、誰かの手が、私の手を、そっと、撫でたのだ。

指の背を、確かめるように、ゆっくりと、なぞった。

私は、思わず、息を、止めた。

何かの、勘違いだ。

そう、自分に言い聞かせた。

けれど、次の瞬間、その手は、はっきりと、私の指に、からみついてきた。

生暖かい、汗ばんだ、手だった。

五本の指が、私の指の間に、一本ずつ、滑り込んできた。

まるで、長いあいだ、その瞬間を、待っていたかのようだった。

ためらいの、ない動きだった。

私の手の形を、はじめから、知っていたかのように。

壁の中には、誰も、いるはずが、なかった。

その手は、だんだんと、力を、強めてきた。

私の指を、一本ずつ、丁寧に、確かめるように、握っていく。

親指の付け根を、爪で、ひっかくように、なぞられた。

その爪は、長く、伸びているようだった。

振りほどこうと、手を引くと、よけいに、強く、握り返してくる。

まるで、放すまい、と、するように。

手のひらの汗が、ぬるぬると、私の指の間に、まとわりついた。

何より、嫌だったのは、その手に、体温が、あったことだ。

冷たい、死人の手なら、まだ、よかった。

そうではなかった。

確かに、生きた人と、同じ、ぬくもりが、あった。

その生々しさが、私を、芯から、怖がらせた。

幽霊なら、まだ、心のどこかで、信じずに、済む。

けれど、この手は、あまりにも、生きていた。

生きた誰かが、あの朽ちた壁の中に、潜んでいる。

そのほうが、よほど、恐ろしかった。

声を、出そうとした。

助けを呼ぼうにも、こんな時間、この道には、誰も、いない。

けれど、喉が、ひきつって、かすれた息しか、出なかった。

ズボンのポケットには、ライターが、入っていた。

火をつければ、板の隙間から、中の様子が、見えるかもしれない。

そう、頭では、思った。

けれど、私は、どうしても、それが、できなかった。

もし、その小さな炎に、照らされて。

隙間の、すぐ向こうに、人の、目があったら。

こちらを、じっと、覗いている、目があったら。

そう考えただけで、ライターを握る手が、すくんで、動かなくなった。

見てしまったら、戻れない気が、した。

私は、ただ、目を、固くつむっていた。

見なければ、これは、ただの夢だ。

そう、自分に、言い聞かせ続けた。

どれくらいの間、そうしていたのか、わからない。

ほんの数分だったのか、もっと長かったのか。

遠くのほうから、小さな、エンジンの音が、近づいてきた。

ぱたぱたという、軽い、原付バイクの音だった。

新聞配達の、バイクだ。

ヘッドライトの光が、濡れた路面を、ゆっくりと、なめるように、流れてくる。

その白い光が、理髪店の板壁を、ぼんやりと、照らした。

その、瞬間だった。

私の手を、握っていた感触が、すうっと、消えた。

潮が引くように、跡形もなく。

同時に、私の右手は、嘘のように、すぽりと、壁から、抜けた。

私は、勢いあまって、濡れた路上に、尻もちを、ついた。

原付は、何ごとも、なかったように、私の脇を、通り過ぎていった。

配達の人は、私のことなど、見てもいなかった。

暗がりにうずくまる私の姿は、目に、入らなかったのだろう。

バイクの音は、すぐに、夜の奥へ、遠ざかっていった。

あとには、また、もとの、深い静けさが、戻ってきた。

しばらく、私は、地面に、座り込んだまま、動けなかった。

心臓が、ばくばくと、耳の奥で、鳴っていた。

ようやく、私は、右手を、街灯の灯りに、かざしてみた。

手首には、板で切った、生々しい傷が、何本も、走っていた。

血が、にじんでいた。

シャツの袖で、傷口を、きつく、押さえた。

しばらくは、血が、止まらなかった。

けれど、それ、だけだった。

私の突き破った穴は、確かに、板壁に、ぽっかりと、開いていた。

その黒い穴に、もう一度、顔を近づける勇気は、私には、なかった。

私は、立ち上がると、振り返りもせず、家まで、走って帰った。

途中、一度だけ、後ろで、板の、きしむ音が、聞こえた気がした。

確かめる気には、とても、なれなかった。

その晩は、明かりを、つけたまま、まんじりとも、しなかった。

翌日、私は、どうしても、確かめずには、いられなかった。

明るいうちに、もう一度、あの理髪店の前を、通ってみた。

板壁の穴は、夜に見たとおり、はっきりと、開いていた。

こぶし、ひとつ分ほどの、黒い穴だ。

私は、おそるおそる、その穴を、覗いてみた。

中は、がらんとした、暗い空間だった。

黴と、埃の匂いが、その穴から、かすかに、流れ出してきた。

昼の光の中で見ても、奥のほうは、よく見えなかった。

どう見ても、人が、住んでいる気配は、なかった。

屋根は、半分、抜け落ちていた。

窓ガラスは割れ、内側には、灰色の埃が、厚く積もっていた。

長年の雨漏りで、床板は、ぼろぼろに、腐っていた。

踏み込めば、すぐにでも、抜け落ちそうだった。

埃の積もった床に、足跡の、ひとつも、なかった。

こんなところに、人が、いられるはずが、なかった。

私は、近所で古くから店をやっている、八百屋の主人に、訊いてみた。

あの理髪店は、いったい、どういう家なのか、と。

主人は、少し、けげんな顔をして、こう答えた。

「ああ、あそこの夫婦かい」

「あの二人は、もう、十年も前に、遠くへ越していったよ」

「それから、ずっと、空き家の、はずだがね」

なぜ、そんなことを訊くんだ、という顔を、主人は、していた。

「まさか、あそこに、誰かいるとでも、思ったのかい」

冗談めかして、主人は、そう言って、笑った。

私は、うまく、笑い返すことが、できなかった。

私は、礼を言って、何も話さずに、その場を、離れた。

背中に、あの黒い穴の気配を、感じながら。

あの晩のことは、誰にも、言えなかった。

空き家の、はず。

誰も、住んでいない、はず。

それなのに、あの晩。

誰も住んでいないはずの壁の中に、確かに、汗ばんだ手が、あった。

私の指を、一本ずつ、放すまいと、握った手が。

確かな、体温を、もって。

ホームレスでも、入り込んでいたのかもしれない。

野犬か、何かの、悪戯だったのかもしれない。

そう、無理にでも、思おうとした。

けれど、どんな理屈をつけても、ひとつだけ、どうしても、説明のつかないことがある。

私が突き破った穴は、こぶし、ひとつ分ほどの、小さなものだった。

あの小さな穴の奥から、どうやって、大人の手が、伸びてきたのか。

それだけは、今も、わからない。

けれど、あの手の、生暖かさだけは、どうしても、忘れられない。

あの手の主が、生きていても、いなくても。

そのどちらでも、ありえないことに、変わりは、ない。

どちらだとしても、私は、やはり、ぞっとする。

私は、その後、ほどなくして、夜勤の仕事を、辞めた。

今でも、あの理髪店の、板壁の前だけは、通らないようにしている。

あの黒い穴が、まだ、口を開けて、私を待っている気が、するからだ。

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