ロシアの軍事教練所
バルチック爺さんが日露戦争中に見聞した話です。
彼はその後、関西の都市部で衛星看護兵の訓練に携わりました。
そこで知り合った医務教官から聞いた話だという事です。
その教官は佐世保の収容所で、バルチック艦隊の生き残りの兵士の管理とケアを行っていたそうです。
島根県に漂着したロシア人乗組員(捕虜)の中にインテリの士官が居て、そのロシア人はフランス語が流暢で、ドイツ語も喋る事ができたそうです。
その兵士は教官に以下の話をしました。
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そのロシア人士官の出身地は、ロシアのウラル地方にあるエカチェリンブルグでした。
その当時、近郊の村(から離れた森の中)に帝国による軍事教練所があり、そこに地元の人間ではない『子供たち』が多く集められていたそうです。
不定期に人員は補充されて来て、その教練所の規模は少しずつ大きくなりました。
地元の人間は教練所に近付いたり、そこの人間と接触する事は固く禁じられていました。
その訓練は厳しいらしく、偶にそこから少年が逃げ出し、近くの村に出没する事があったそうです。
しかし、周辺の村ではその逃亡兵を歓迎せず、時には秘密裏に殺害した事もあったそうです。
なぜか?
「あの教練所の連中は、人を食っている」という噂が立っていました。
文字通り『人肉を喰らう食人』という意味です。
「あそこにいる連中は子供だが、人の肉を喰らうヴィーだ。脱走した子供に、村人が殺された(喰われた)」
そのような噂は表立って話す事は禁じられていて、憲兵による流言者の逮捕もあったそうです。
これでは何かと不都合が多いので、村の有力者などが地元の役人にどういう事かを尋ねる事もあったそうですが、
「あそこでは、帝国兵士の育成をしていて…」
というような曖昧な返答しかなかったとか。
恐らく本当に何も知らなかったのではないでしょうか。
「あそこは、帝国学士院(科学アカデミーと思われますが)も関与していて、我々にはどうにも…」
というくらいの事しか聞き出せませんでした。
村人が命令されて、生きた牛や馬、羊などを食料として納める時も、ベトンで作られた高い壁に囲まれたその敷地には入れなかったそうです。