
毎年、七月の下旬に、平日の有給休暇を取る。
行き先は決まっていて、湘南の海だ。
三つの湯呑みを見たのも、その海沿いの食堂だった。
土日は人が多いし、彼女や友達と行くのも悪くないけれど、一人のほうがいい。
砂浜に寝そべって、缶ビールを開けて、日頃の雑多なことを全部海に流してしまえる。
だから、もう十年近く、自分だけの恒例行事にしている。
行きの電車は空いていて、窓の外を、住宅街の屋根が流れていく。
家々の洗濯物が、朝の風で揺れていた。
その光景を見ていると、日常のことが、少しずつ遠ざかっていく。
会社のこと、締め切りのこと、携帯電話の通知のこと。
全部、砂の上に置いてくるつもりで、俺は海へ向かうのだ。
湘南の海は、俺にとって、一年に一度だけ、何も考えなくてよい場所だった。
あの日までは。
ビールを飲むので、車ではなく電車で行く。
この話は、四年前の夏の朝に、その海沿いの食堂で聞いた会話から始まる。
あの日以来、俺は食堂でお茶を頼むとき、ほんの少しだけ間が空くようになった。
あの日、窓際の席に並んだ三つの湯呑みを、俺はいまも忘れられない。
二つは母と娘のもので、残りの一つは、誰のためのものでもなかった。
少なくとも、あの朝の俺には、そう見えた。
その間の理由を、これから書く。
三つの湯呑みの席
駅を降りてから海岸へ続く一本道には、食堂や土産物屋が並んでいる。
朝のうちはまだシャッターを半分だけ上げた店も多い。
その中の一軒に、遅い朝食を摂るために入った。
平日とはいえ、学校は夏休みに入っている。
店内は思ったより混んでいた。
案内されたのは、窓際の二人掛けの席だった。
隣の席には、母と娘の親子連れが座っていた。
娘は小学校の三、四年生くらいに見えた。
半袖の水玉のワンピースに、麦わら帽子を膝に抱えていた。
母親は、ゆるくまとめた髪に、白い日傘を椅子の背に掛けていた。
注文を済ませてから、俺は生シラス丼を待った。
店のなかは、ざわざわとしていた。
窓の外では、観光客が日傘を傾けて、土産物屋の店先を覗き込んでいた。
扇風機が首を振るたびに、メニューの端が小さくめくれた。
氷の鳴る音。皿の触れ合う音。厨房から漂う、醤油の焦げた匂い。
聞くつもりはないのに、隣の席の声が、嫌でも耳に入ってきた。
「お母さん、お父さんと離れてどれくらいたつ?」
娘の質問に、母親は少し間を置いてから答えた。
「……もう、四年になるわね」
ああ、単身赴任かな、と俺は思った。
それとも、何か事情があって別居しているのか。
どうでもいい想像を巡らせながら、運ばれてきた丼に箸を入れた。
そのとき、母親が店員を呼び止めた。
「すみません、お茶をもう一つ、お願いします」
店員は、不思議そうな顔をした。
テーブルには、すでに湯呑みが二つ置かれていた。
「お連れ様、いらっしゃいますか?」
「いえ。陰膳です。主人の分を」
母親は、静かに笑った。
店員は、一瞬だけ言葉に詰まって、それから「かしこまりました」と頭を下げた。
三つ目の湯呑みは、窓際の、誰も座っていない椅子の前に置かれた。
湯呑みの縁には、淡い茶渋の輪が、年輪のようにこびりついていた。
長く使われてきた店の器なのだと思った。
その前に座る人間のいない椅子が、窓の光に半分だけ照らされていた。
椅子の脚は、ゴムのキャップのせいで、少しも音を立てなかった。
湯気が、ゆっくりと立ちのぼっていた。
俺は、箸を止めた。
陰膳。
遠くにいる人の無事を祈って、食事を一人分、余分に用意することだ。
子どもの頃、祖母の家でそんな習慣を見た記憶があった。
「お父さん、淋しくないかな?」
娘が、麦わら帽子のつばを指でいじりながら言った。
「ユカとお母さんと、ずっと離れ離れで、淋しくないかな?」
単身赴任ではないな、と思った。
単身赴任なら年に何度かは帰省するだろうし、「ずっと」離れ離れではないはずだ。
「お父さんは強い人だから、大丈夫よ。きっと、元気よ」
「きっと」という言葉に、俺はひっかかった。
ああ、離婚したのか。
それで母娘で海水浴か。
なんだか、淋しい話だな。
渋いお茶をすすりながら、俺は勝手にそう結論づけた。
会計をしようと立ち上がったとき、背中のほうから、娘の声が聞こえた。
「お母さん、お父さんは、別の世界でもタバコやめてないのかな」
「どうかしら」
「ユカは、やめてって、いつも言ってたのに」
「お父さんにも、それくらいの楽しみがあっていいんじゃない」
母親の声は、驚くほど穏やかだった。
別の世界。
ああ、父親は亡くなっていたのか、と俺は思った。
足が止まり、少しのあいだ、動けなくなった。
背中で、氷がからんと鳴った。
誰かが、お茶を飲み干したのだろう。
振り返る勇気はなかった。
そのまま会計を済ませて、店を出た。
外の日差しが、やけに白く感じられた。
パラソルの下の三人
コンビニで缶ビールを四本買い込んで、海岸へ向かった。
海パンに着替えて、砂浜にレジャーシートを広げる。
プシュッと一本目を開けて、しばらく海を眺めた。
波の音が、耳の奥の疲れをほどいていく。
遠くの沖で、サーフボードが小さく揺れている。
「あー、やっぱ海はいいな」
さっきの親子のことは、もうすっかり忘れかけていた。
束の間のバカンスを満喫するのが、この日の唯一の目的だ。
砂が足の裏に熱かった。
ビニールのシートの端で、ビールの缶が結露して、小さな水たまりを作っていた。
それが砂に染みていくのを、俺はぼんやりと見ていた。
眠気が、波のように寄せては引いた。
二本目の缶を開けたのは、数時間後のことだ。
ふと横を見ると、三メートルほど先に、さっきの母娘がいた。
青いビーチパラソルの下に、座っている。
その横に、中年の男が一人、座っていた。
二人で来ていたんじゃなかったのか。
駅からの道で、俺は母娘とすれ違った記憶がなかった。
あの食堂から出てくる姿も、見ていない。
それなのに、いつの間にか、そこにいる。
小さな疑問が、ビールの泡のように浮かんでは消えた。
それとも母親の、再婚相手だろうか。
なんとなく気になって、横目で観察した。
母と娘と、その男は、どう見ても家族にしか見えなかった。
男は、パラソルの日陰で、白いシャツの袖をまくり、海を見ていた。
母親が、男のほうを向いて何か言った。
男は、うなずいたように見えた。
けれど、男の口は動いていなかった。
ひとつ目の違和感が、小さな針のように胸に刺さった。
再婚したのだろうか。
それにしては、あの食堂に、どうしてこの男はいなかったのだろう。
砂浜で合流したのかもしれない。
そう考えて、俺は缶の残りを飲み干した。
母と娘は、やがて手を繋いで、浮き輪を持って海へ入っていった。
砂浜には、男が一人きりで残った。
波打ち際で戯れる母娘の背中を、俺はぼんやりと眺めていた。
そのとき、ふっと、妙な考えが頭に浮かんだ。
さっき食堂で、母親は何と言った。
「主人の分を」と言った。
そして、娘は「お父さんは、別の世界でもタバコをやめてない」と言った。
日差しの強烈な真夏の海辺で、背中に冷たいものが走った。
腕の産毛が、一本残らず立っていた。
もしかして、この男は。
俺は、恐る恐る横を見た。
男も、こちらを見ていた。
目が合った。
「うっ」と、思わず声が出た。
男は、咥えタバコをしていた。
火は、点いていなかった。
そのまま、砂の上を、四つん這いでこちらへ近づいてきた。
やめてくれ、来るな。
心のなかで、懸命に念じた。
胸がバクバクと鳴った。
それでも、男は止まらない。
熱い砂を、掌と膝で掻くようにして、じりじりと迫ってくる。
目の前まで来て、男は言った。
「すみません。火、貸してもらえますか」
俺は男の顔を、まじまじと見た。
幽霊でも何でもない。
どこにでもいる、日に焼けた、ただのおっさんだった。
荷物の中からジッポーを取り出して、火を点けてやった。
男は、美味そうに一口吸って、煙を海のほうへ吐き出した。
恐怖から解放された反動で、俺は妙に饒舌になった。
天気のこと、海のこと、混んでいる食堂のこと。
他愛もない世間話を、男は笑いながら聞いてくれた。
「でも、こうして一人で海でゆっくりするのも、いいもんですね」
男が言った。
「そうですね。でも、そちらさんはご家族連れで羨ましいですよ。僕なんか、一人もいいけど、たまには友達と海でワイワイやりたいですね」
社交辞令のつもりで、俺はそう返した。
男は、そこで、ぴたりと動きを止めた。
四年前のこの日
男は、じっと俺の顔を見ていた。
カッと、目を見開いていた。
その表情に、俺は思わず、ギョッとした。
「……家族連れって、どういうことですか」
低い声だった。
「何かの、嫌味ですかね」
「え、いや、そんな」
「女房と娘は、もういません」
男の声は、波の音に溶けるように、静かだった。
「四年前の、ちょうど今日です。この浜で、二人とも、波にのまれて」
「は? だって、さっきまで、そこに……」
言いかけて、俺はハッとした。
男の尻の下に敷かれていたはずの、大きなレジャーシートがない。
男は、直接、熱い砂の上に座っていた。
ごまかしようのない事実だけが、目の前に並んでいた。
喉が渇いて、唾も飲み込めなかった。
カラン、と空き缶が風で転がる音が、やけに大きく響いた。
ビーチバッグも、ポーチも、青いパラソルも、跡形もなかった。
砂の上には、男の足跡と、俺の足跡しか残っていなかった。
男は、じっと俺を見つめていた。
目の奥に、水底のような静けさがあった。
怒っているのではない。
責めているのでもない。
ただ、深く沈んだものが、そこに溜まっていた。
俺は、慌てて海のほうを見た。
浮き輪を持った母娘の姿を探した。
家族連れの多い浜だった。
水着の人影が、いくつも波間に揺れていた。
探しても、探しても、水玉のワンピースは見つからなかった。
代わりに聞こえてくるのは、親子連れの甲高い笑い声ばかりだった。
浮き輪が弾む音。
かき氷を頬張る子どもの、冷たそうな悲鳴。
夏の浜辺は、どこまでも賑やかで、どこまでも普通だった。
その普通のなかで、俺だけが、取り残されていた。
「あの」
言いかけて、横を向いた。
男は、いなかった。
帰ったのか、と思った。
いつの間にか、ひとつ呼吸のあいだに、男の姿は砂浜のどこにもなくなっていた。
男がいた場所には、火を点けたばかりのタバコの吸い殻が、砂に突き刺さっていた。
その隣に、紙コップが三つ、砂に埋められて並んでいた。
二つは、麦茶で満たされたまま。
もう一つは、半分だけ飲まれていた。
吹いてきた風で、満たされた麦茶の水面が、小さく揺れた。
あの母娘は、幽霊だったのか。
いや、違う。
俺は、はっきりと、あの二人の会話を聞いたのだ。
店員とも話していた。
陰膳のお茶まで、運ばれていた。
そもそも、この世に幽霊なんているはずがない。
そう言い聞かせながら、俺は缶ビールの三本目を開けた。
味は、しなかった。
酔いと、考え疲れで、そのまま砂浜の上で眠りに落ちた。
目を覚ましたとき、日は傾いていた。
紙コップは、三つとも、風に転がって消えていた。
古い新聞の社会面
一週間後、気になって、近くの図書館へ足を運んだ。
四年前のその日の新聞を、縮刷版で探した。
司書の女性が、地下の書庫から、重い縮刷版を台車で運んできてくれた。
紙の黄ばんだ匂いと、カビの混じった冷気が、鼻をついた。
「お探しの日付は、こちらですね」
「ええ。……ありがとうございます」
頁をめくる指先が、少し湿っていた。
気にしすぎかもしれない。
何もなければ、笑い話で済む。
それでも、刑事にでもなったつもりで、社会面のページを一枚ずつめくった。
その記事は、すぐに見つかった。
小さな見出しだった。
『海水浴場で母子が波にのまれ、帰らぬ人に 父親は救助』
記事は、短かった。
海水浴に来ていた三人家族のうち、母親と小学三年生の長女が、離岸流に流されたこと。
父親が助けに入ったが、間に合わなかったこと。
父親は一人、浜に引き上げられたこと。
記事の横に、小さな顔写真が三つ並んでいた。
父親の写真だけが、少しだけ笑っていた。
家族旅行の記念に撮られたものだったのかもしれない。
俺は、思わず、その写真を指で覆い隠した。
見たくなかった。
けれど、覆い隠した指の隙間から、水玉のワンピースの襟が見えた。
図書館の窓の外では、蝉が鳴いていた。
あの二人は、父親が「別の世界」にいるのだと思っていた。
母親は、あの穏やかな声で、毎年、夫の無事を祈ってきたのだ。
四年間、同じ席で、同じように。
陰膳を置き、タバコの心配をして、遠くの人の無事を祈っていた。
その父親は、同じ浜で、二人のために麦茶を注いでいた。
お互いに、相手のほうが、遠い場所にいると信じていたのだ。
本当に向こう側にいたのは、どちらだったのか。
三つの湯呑みを置いたのは、母親だけではなかったのかもしれない。
俺は、その答えを、考えたくなかった。
俺は縮刷版を閉じて、図書館の外のベンチに座った。
自動販売機で、冷えた麦茶を買った。
缶の冷たさが、手のひらに痛いほどだった。
プルタブを引く指が、なかなか動かなかった。
向かいの木陰で、制服姿の高校生が、友達と笑い合っていた。
その笑い声の向こうに、波の音が重なって聞こえた気がした。
別の世界に迷い込む話なら、これまでにも、いくつも読んできた。
けれど、あれは物語として読んだから、怖いだけで済んだ。
今回は、俺が砂の上で火を貸した相手の話だった。
帰り道、湿った風が、駅前の商店街を吹き抜けた。
駅のホームで電車を待つあいだ、携帯電話の画面を何度も点けては消した。
誰かに話そうとして、結局、誰にも連絡できなかった。
夕焼けが、ホームの屋根を赤く染めていた。
俺は、その赤さを、しばらく見ていた。
夕立の前触れの、湿った風だった。
遠くで、雷が一度だけ鳴った。
食堂の前を通りかかると、のれんが、風で揺れていた。
あの窓際の席には、誰も座っていなかった。
三つの湯呑みは、そこにはなかった。
それなのに、湯気だけが、ガラスの向こうに見えた気がした。
今年も、俺は七月に休みを取る。
三つの湯呑みを前にして、俺は何を話せばいいのか、まだ分からない。
あの食堂にも、入るつもりだ。
注文のとき、少し間を空けて、こう言う予定だ。
「お茶を、三つ、お願いします」