
これは、高三のときの生物の先生から聞いた話だ。
俺自身が体験したわけではない。
ただ、先生の語り口があまりに具体的だったので、現場にいた気持ちで書き留めておく。
先生が出た国立大学には、三つ目の墓標という噂があった。
先生がこの話をしたのは、期末試験の前の、最後の授業だった。
生物室のカーテンが、夕方の風で膨らんでいた。
先生はチョークを置いて、黒板に「三」とだけ書いた。
「試験範囲は全部終わった。ここからは、余談だ」
教室が、少しだけ静かになった。
「先生が大学生のときに探した、三つのものの話をしよう」
俺たちは笑いながら、椅子を引いた。
笑っていられたのは、最初のうちだけだった。
先生の話し方は静かで、教室の誰も口を挟まなかった。
俺はノートの端に、無意識に小さな四角を三つ描いていた。
大学に伝わる噂
その大学は、山の上にあった。
昔は基地として使われていたらしく、今も地下通路の一部が残っているという。
キャンパスの端には、鉄の扉で塞がれた入り口が、いくつも残っていた。
そこから吹き出す風は、真夏でも、ひどく冷たかった。
地下通路は、戦時中の名残だと言われていた。
入学したばかりの先生たちは、その扉の前で、よく肝試しをした。
夜の構内は、街灯が少なく、木々の影が建物の壁にまで伸びていた。
誰かが懐中電灯を消すたびに、笑い声が、一瞬だけ止まった。
新入生の頃、先輩から教わる噂が、一つあった。
「校内に、墓標が三つある」
「三つ目を見た人は、戻ってこられない」
ベタな噂だと、先生は笑った。
当時の先生は、新入生だった。
探検がてら、友達数人と、三つの墓標を探すことになった。
一つ目は、すぐに見つかった。
増設工事の足場から落ちて亡くなった人の、碑だった。
工事中の建物の裏手に、小さな石が置かれている。
碑は、工事用のフェンスの陰にあった。
刻まれた日付は、先生たちが生まれる前のものだった。
碑の裏側には、鉛筆で書いたような小さな字で、人の名前が列になっていた。
先生は、その名前を声に出して読もうとして、やめた。
その前には、いつも誰かが新しい花を供えていた。
二つ目は、地下通路を探検していて、酸欠で亡くなった人の碑だった。
通路の入り口の近くに、ひっそりと立っていた。
この二つは有名で、学生なら誰でも場所を知っていた。
二つ目の碑の前には、いつも缶コーヒーが置かれていた。
「三つ目は、誰も供えないから見つからないんだよ」
先輩は、冗談めかして言った。
先生たちは、一週間かけて、キャンパスの隅々まで探した。
探索の最終日、友達のひとりが言った。
「もしかしたら、三つ目は、一つ目より古いんじゃないか」
「どうして」
「誰も供えないってことは、誰も覚えてないってことだろ」
その言葉が、妙に先生の耳に残った。
けれど三つ目は、どうしても見つからなかった。
そのうち、噂は噂のまま、日常に埋もれていった。
年末の大掃除
それから、約一年が過ぎた年の暮れ。
先生は教授の助手として、研究棟の一室を与えられていた。
噂のことなど、すっかり忘れていた。
十二月の終わり、実家に帰る前の昼下がり。
助手部屋には、古いストーブと、電気ポットと、背の高い本棚があった。
本棚は、先生が入るずっと前から、そこに置かれていたらしい。
窓際の机は、日が傾くと、床に長い影を落とした。
助手部屋でごろごろしていると、教授から電話が入った。
「年末だし、部屋の大掃除でもしておけ」
同じ部屋を使うもう一人の助手は、すでに帰省していた。
大学に残っているのは、先生ひとりだった。
渋々、掃除に取りかかった。
電気ポットの湯が沸く音が、やけに大きく聞こえた。
ストーブの上の薬缶が、時々かたりと鳴った。
午後四時を過ぎる頃には、窓の外はもう暗くなっていた。
冬の山の日没は早い。
本棚の掃除に入って、先生は棚を壁から離そうとした。
ずしりと重い本棚が、床をこすって動いた。
その裏に、ドアがあった。
本棚の裏の扉
ここまで話して、先生は窓の外を見た。
夕焼けが、生物室を橙に染めていた。
後ろの席で、誰かが小さく息を呑んだ。
先生は気づかないふりをして、話を続けた。
ノブに手をかけると、鍵はかかっていなかった。
「なんでこんなところに」
最初はそう思ったが、すぐに納得した。
研究棟の部屋は、廊下を挟んで両側に並んでいる。
教授の部屋と助手の部屋は、隣同士で内側から繋がっているものだ。
ただ、不自然なことが一つあった。
どの部屋にも、廊下側の出入り口が、一つずつあるはずだった。
ところが、この扉の向こうの部屋は、廊下側のドアに立入禁止の札が貼られ、鍵がかかっている。
先生は、そこでふと思い出した。
「あの部屋の教授は、何かをやらかして、追放されたらしい」
そんな噂を、誰かが話していた。
好奇心が、頭をもたげた。
武勇伝のネタになるかもしれない。
研究棟の廊下は、年末の夕方になると、人の気配が一つもなくなる。
蛍光灯の一部は、切れたままになっていた。
自分の足音が、遠くまで響いて、誰のものか分からなくなる。
先生は、いったん自分の机に戻って、懐中電灯を取ってきた。
扉を開けると、冷えた空気が顔にかかった。
電気は点かなかった。
懐中電灯の光が、部屋の中を舐めるように動いた。
引越しの荷造りをしたままのような、段ボール箱が、壁際まで積まれている。
一つを開けると、鼻を刺す薬品の匂いがした。
中には、液体の入ったフィルムケースが、底に隙間なく並べられていた。
箱の側面には、手書きのラベルが貼られていた。
日付と、数字だけの短い文字列。
番号は、一つの箱だけで、百を超えていた。
光に透かしても、中身は見えない。
蓋を開けた途端、ホルマリンの匂いが広がった。
先生は慌てて蓋を閉じた。
その匂いは、鼻の奥に何日も残ったそうだ。
あとで先生は、同じ匂いを、実家の仏間でも嗅いだ気がしたと言った。
別の箱を、いくつか開けてみた。
どれも、同じ中身だった。
箱を調べるのは、やめにした。
それよりも、この奥の部屋のほうが気になった。
次の部屋へ続く扉が、もう一つあった。
こちらも廊下側は施錠されているが、内側のドアは開いた。
その部屋も、段ボール箱で埋まっていた。
この部屋は、さっきの部屋よりさらに冷えていた。
自分の息が白くならないことが、かえって不気味だった。
どこかで、水の滴る音がしていた。
ぽつ、ぽつ、と一定の間隔で。
懐中電灯の光を向けても、水の気配はなかった。
何も起きないことに、先生は少しだけ拍子抜けした。
出口のほうへ光を向けて、踵を返しかけたときだった。
ドアの足元で、何かが光を跳ね返した。
靴の裏が埃を踏む音だけが、部屋に残っていた。
三つ目の墓標の前
先生は、あとでこう言っていた。
「好奇心というのは、恐怖の少し手前で、いちばん元気になるんだよ」
「引き返す理由は、いつも、見つけたあとにしか分からない」
先生は、おもむろに懐中電灯を向けた。
膝の高さほどの、小さな石碑が立っていた。
その前に、色褪せた風車が三つ、供えられていた。
窓も閉め切られた部屋だ。
風は、ない。
それなのに、風車の羽根が、ゆっくりと回っていた。
懐中電灯の光に合わせるように、ゆっくりと。
三つ目の墓標だった。
見つけてしまった、と先生は思った。
とりあえず友達に電話しよう、と携帯を取り出したとき、石碑の文字に気づいた。
「水子供養」
一気に、背筋が冷えた。
慌てて、段ボール箱に光を戻した。
底の隙間に、びっしりとお札が貼られているのが見えた。
全部の箱の底に、同じようにお札が貼られていた。
先生は「うおわあああ」と叫んで、部屋を飛び出したそうだ。
本棚は、そのままにして帰省した。
帰りの電車の中で、先生は何度も携帯を取り出した。
友達に電話をかけようとして、そのたびに画面を伏せた。
話せば、あの部屋の空気が、自分の口からこぼれ出るような気がしたという。
お望み通りの武勇伝ができた先生は、年が明けて、友達に酒の席でその話をしたという。
後日、年配の技官の人が、こっそり教えてくれた。
あの部屋の教授は、世間に出せない形の研究をしていたらしい。
それが明るみに出て、大学から追放されたのだと。
詳しいことは、誰も語りたがらなかったそうだ。
学校や校内に残る碑の話は、苔の生えた墓と祖母の迎えのように、土地と人の関わりを語るものが多い。
水辺の体験談なら、沖のブイと弟の左腕の傷も、似た後味を残す。
あの夜、先生が見つけたのは、たしかに三つ目の墓標だった。
先生は話し終えると、黒板の「三」を、ゆっくり消した。
「だから、年末の大掃除は、本棚の裏までやるなよ」
そう言って、先生は少し笑った。
チャイムが鳴っても、しばらく誰も席を立たなかった。
風車の羽根が止まったかどうかは、あの夜、確かめていないという。