祖父の通夜の晩のことです。
故郷は、山あいの、小さな集落でした。
祖父の家は、築百五十年を超える、古い庄屋屋敷です。
黒く煤けた梁が、天井で、太く交差していました。
廊下は、磨かれた板張りで、歩くたびに、低く軋みました。
その長い廊下の、突き当たり。
奥座敷に、祖父は、白い布をかけられて、安置されていました。
親戚や弔問の客は、みな、表側の広間に集まっていました。
線香の煙が、座敷を、青くかすませていました。
私は、人いきれが少し苦手で、そっと、その輪を抜けました。
案内されたのは、屋敷のいちばん奥の、小さな和室でした。
三方の壁が、ガラス張りになった、不思議な造りの部屋です。
祖父が、晩年、盆栽を眺めるために、改築した部屋だと聞きました。
その夜、私は、その部屋に、一人でいました。
ガラスには、カーテンの一枚もありません。
外は、ただ、墨を流したような、闇でした。
裏手の山には、江戸の頃からの、一族の墓が並んでいます。
集落のはずれには、古い祠が一つ、ありました。
幼い頃、祖父に、その由来を聞いたことがあります。
「昔な、この土地で、ひどい飢饉があったんだ」
祖父は、静かな声で、そう言いました。
「逃げ遅れた者を、弔うために、あの祠は立てられた」
「だから、夜に山へ入ってはいけないよ」
子ども心に、その話は、妙に、耳に残りました。
その祠のことを、私は、その晩、ふと、思い出していました。
※
最初の異変は、光でした。
山の上のほうから、白い光が、ゆっくりと、なぎ払うように動いたのです。
獣よけの、サーチライトか何かだろう、と思いました。
けれど、その光が、ガラス越しに、壁を撫でるたび。
部屋の壁に、見たことのない影が、ゆらりと、踊りました。
人の形にも、木の形にも、見える影でした。
二つ目の異変は、空気でした。
ふいに、部屋の温度が、すとんと、下がりました。
真夏だというのに、首すじが、ひやりとしたのです。
そして、かすかに、土と、線香の混じったような匂いがしました。
奥座敷の、祖父の枕元の匂いと、同じ匂いでした。
その部屋は、廊下を、ずいぶん隔てているはずでした。
三つ目の異変は、音でした。
長い廊下の、向こうの端から。
何かを、ずるり、ずるりと、引きずるような足音が、聞こえ始めたのです。
私は、息を、止めました。
客はみな、表の広間にいるはずです。
誰かが、部屋を間違えて、迷い込んできたのか。
足音は、一定の間隔で、近づいてきました。
ずるり。
ずるり。
歩幅が、人のものにしては、どこか、おかしいのです。
何かを引きずる音と、足音とが、別々に、聞こえました。
私は、ガラスに映る自分の顔から、目をそらせませんでした。
※
足音が、近づくにつれて。
廊下と部屋を仕切る襖が、異変を起こしました。
ブワン、ブワン、と。
その足音に合わせて、襖が、波打ち始めたのです。
風など、どこにもありません。
閉めきった、奥の部屋でした。
やがて、三方のガラスが、ビリビリと、共振を始めました。
低い、地鳴りのような震えでした。
部屋全体が、揺れていました。
まるで、舟の上に、いるようでした。
足音は、ついに、襖の、すぐ向こうまで来ました。
私は、声も、出せませんでした。
襖の、二十センチ向こう。
そこに、何かが、立っている気配がありました。
私は、ただ、畳の一点を、見つめていました。
開けてはいけない。
理屈ではなく、体の芯が、そう叫んでいました。
指一本、動かせませんでした。
気配は、しばらく、襖の前に、留まっていました。
それから、また、ずるり、と。
行きつ、戻りつ。
廊下を、何度も、往復しはじめました。
その音が、完全に消えるまで。
ずいぶん、長い時間が、かかりました。
※
足音が消えたあとも、私は、動けませんでした。
夜が明けて、表が騒がしくなってから、ようやく、襖を開けました。
廊下には、何も、ありませんでした。
引きずった跡も、足跡も、何一つ。
私は、表の広間へ行き、親戚に、震える声で尋ねました。
「ゆうべ、奥のほうへ行った人は、いますか」
親戚たちは、顔を見合わせました。
裏へ回った者は、誰一人、いないというのです。
代わりに、年老いた伯父が、こう言いました。
「ああ、それはな、イタチの仕業だよ」
「この家には、昔から、野生のイタチが棲みついていてな」
「夜に、廊下を、歩き回るんだ」
「大きな、低い声で、唸ることもある」
「ごくたまに、人を傷つけることもあってな」
「だから、夜に、襖を不意に開けてはいけないと、言い伝えられてきた」
伯父は、そう言って、深くうなずきました。
納得した、という顔でした。
私だけが、納得できずに、いました。
イタチが、襖を波打たせるでしょうか。
イタチが、三方のガラスを、震わせるでしょうか。
何かを引きずる、あの音は、何だったのでしょう。
私は、どう考えても、あれが、イタチの仕業だとは、思えないのです。
伯父の言う「言い伝え」が、いつ、誰によって、作られたのか。
それを思うと、今でも、背すじが、冷たくなります。
祖父は、言いました。
夜に、山へ入ってはいけない、と。
あの晩、私が見た山の光が、本当に、獣よけだったのか。
飢饉で逃げ遅れた者を、弔う祠が、なぜ、山にあるのか。
イタチ、という言葉だけが、その問いに、優しく、蓋をしていました。
あの家の襖を、私は、二度と、不意には、開けません。
訃報を受けて、私が故郷へ向かったのは、八月の半ばでした。
最寄りの駅から、車で、さらに一時間。
道は、次第に細くなり、両脇から、夏草が、車体を擦りました。
集落へ入る手前で、川を、古い石橋で渡ります。
その橋のたもとに、苔むした道祖神が、半ば、草に埋もれていました。
ヘッドライトに照らされたその顔は、笑っているようにも、泣いているようにも見えました。
祖父の屋敷は、集落のいちばん奥、山の懐に、抱かれるように建っていました。
門をくぐると、広い土間と、黒光りする大黒柱が、出迎えます。
間取りは、田の字に並んだ、四つの座敷を基本にしていました。
その四つを、ぐるりと、長い廊下が、取り囲んでいます。
廊下の角を曲がるたび、空気の質が、変わる気がしました。
古い家とは、そういうものだと、その時は、思っていました。
祖父は、八十八で、亡くなりました。
長く、この集落の、世話役を務めた人でした。
寡黙で、めったに、昔話をしませんでした。
ただ一度だけ、酒の入った晩に、こう漏らしたことがあります。
「この家はな、預かりものなんだ」
「わしらは、ただ、留守を、守っているだけさ」
その言葉の意味を、私は、長いあいだ、考えませんでした。
通夜の席は、しめやかでした。
集落の老人たちが、かわるがわる、祖父の顔を、覗き込みました。
「いい顔をしとる」
「ちゃんと、迎えに来てもろうたんだな」
そんな言葉が、あちこちで、交わされていました。
迎えに、とは、誰のことだろう。
その時は、深く、気に留めませんでした。
夜が更けて、表の話し声も、まばらになりました。
私は、ガラス張りの部屋で、膝を抱えていました。
祖父が眺めたという盆栽は、もう、そこにはありません。
空いた棚が、闇の中で、白く浮かんで見えました。
時計の針が、深夜の一時を、回ったところでした。
集落には、街灯の一つも、ありません。
震えるガラスに、私の顔が、ぼやけて映っていました。
その背後の闇に。
一瞬、もう一つの輪郭が、重なった気がしました。
私の肩越しに、こちらを、覗き込むような。
振り返る勇気は、ありませんでした。
瞬きすら、惜しんで、私は、畳を見つめ続けました。
襖の向こうの気配は、ひどく、辛抱強いものでした。
急ぐでもなく。
去るでもなく。
ただ、私が、襖を開けるのを、待っているようでした。
開けたら、終わりだ。
なぜか、そう、確信していました。
通夜の翌朝、私は、一人で、集落のはずれの祠まで、歩きました。
明るい陽の下でも、その一画だけは、空気が、湿っていました。
祠の前には、新しい花が、供えられていました。
誰が供えたのか、尋ねても、誰も、知りませんでした。
古びた木札には、かすれた文字で、こう、刻まれていました。
「許されよ、留まる者たちよ」
私は、その晩のうちに、屋敷を、辞しました。
帰りの石橋で、もう一度、道祖神を、見ました。
その顔は、やはり、笑っているようにも、泣いているようにも、見えました。
祖父の言葉が、耳の奥で、よみがえりました。
わしらは、ただ、留守を、守っているだけ。
あの晩、留守宅に、本当の主が、帰ってきたのだとしたら。
思えば、この家には、幼い頃の、忘れがたい記憶があります。
夏休みに、泊まりに来た夜のことです。
奥のあの部屋で、私は、夜中に、目を覚ましました。
廊下を、誰かが、歩いている音がしたのです。
祖母に話すと、祖母は、静かに、私の頭を撫でました。
「気にせんでいい。あの音は、聞かんふりをするんだよ」
祖母は、それ以上、何も、教えてくれませんでした。
私は、その晩のことを、長い間、忘れていました。
通夜の席で、隣家の老婆が、私に、そっと囁いたことがあります。
「あんた、奥の部屋に、泊まるのかい」
私が、うなずくと、老婆は、口の中で、何かを唱えました。
「ご先祖さんが、賑やかなのが、好きな家だからね」
「ひとりにしたら、寂しがって、出てきなさる」
そう言って、老婆は、もう、何も話しませんでした。
その意味が、夜半に、私を、捉えることになります。
あの土と線香の匂いが、ふいに、濃くなりました。
すぐ、鼻先で、嗅いだような、近さでした。
そして、襖の向こうから。
ごく、低い声が、聞こえた気がしました。
言葉には、なっていませんでした。
唸るような、訴えるような、声でした。
老婆の言葉が、よみがえりました。
寂しがって、出てきなさる。
故郷から戻って、私は、土地の郷土史を、調べました。
古い記録に、この集落の、飢饉のことが、書かれていました。
逃げ遅れた者たちは、最後に、庄屋の屋敷へ、助けを求めて集まったといいます。
けれど、門は、開かれませんでした。
その者たちが、息絶えた場所が。
いまの、あの屋敷の、奥にあたるのだと、記録は、伝えていました。
ガラス張りの、あの部屋。
祖父が、晩年、わざわざ、改築した部屋です。
なぜ、いちばん奥の、その場所を選んだのか。
留守を守る、とは、何を、守ることだったのか。
問いは、増えるばかりで、答えは、一つも、出ません。
ただ、あの足音だけが、今も、耳の奥に、残っています。
屋敷の天井は、見上げると、闇に溶けるほど、高いものでした。
欄間には、波と千鳥の、古い透かし彫りがありました。
廊下の途中に、一枚だけ、開かずの板戸がありました。
子どもの頃、開けようとして、祖父に、強く叱られた戸です。
「そこは、開けるな」
祖父が、声を荒らげたのは、後にも先にも、その一度きりでした。
奥座敷の祖父の枕元では、蝋燭が、一晩中、灯されていました。
その火を、絶やしてはいけない、というのが、この家の決まりでした。
「火が消えると、道に、迷うからね」
伯母が、そう言って、新しい蝋燭を、継ぎ足していました。
道に迷う、とは、誰が。
問い返すのが、なぜか、はばかられました。
揺れる部屋の中で、私は、ふと、気づきました。
奥座敷の蝋燭の灯りが、廊下の先で、激しく、揺らいでいたのです。
風のない、夜でした。
その灯りが、ふっと、細くなった瞬間。
足音は、ぴたりと、止まりました。
代わりに、襖が、内側へ、わずかに、たわみました。
誰かが、向こうから、手を、ついたように。
夜が明けて、奥座敷を、覗きました。
一晩、灯されていたはずの蝋燭が、根元まで、燃え尽きていました。
芯の周りに、黒い、煤の輪が、残っていました。
伯母が、青ざめて、つぶやきました。
「夜明け前に、消えたんだね」
消えた火が、誰を、どこへ、導いたのか。
私には、確かめる勇気が、ありませんでした。
郷土史を読んだあと、私は、もう一つ、思い出したことがあります。
廊下の途中の、あの、開かずの板戸です。
祖父が、ただ一度、声を荒らげて、私を叱った戸。
あの戸の先が、どこへ続いているのか。
私は、ついに、確かめませんでした。
屋敷は、その後、人手に渡り、取り壊されたと聞きます。
あの板戸の向こうを知る者は、もう、誰も、いません。
あれから、何年も、経ちました。
今でも、夏の、寝苦しい夜に。
ふと、あの、ずるり、という音を、思い出すことがあります。
そんな夜、私は、決して、廊下のほうを、見ません。
見たら、何かと、目が、合ってしまう気がするのです。
イタチの仕業。
そう、口の中で、唱えてみます。
けれど、その言葉は、いつまでも、私を、安心させてはくれません。
後日、いちばん年長の伯父に、電話で、尋ねました。
あの晩の足音は、本当に、イタチだったのか、と。
伯父は、しばらく、黙っていました。
それから、低い声で、こう言いました。
「お前も、聞いたか」
「あれを聞いた者は、この家で、何代も、いるんだ」
「イタチということに、しておくのが、いちばんいいんだよ」
その「しておく」という言葉が、私の胸に、冷たく、残りました。
電話を切ったあと、私は、しばらく、受話器を握っていました。
何代も、聞いてきた者がいる。
その者たちも、みな、襖を、開けずに、やり過ごしたのでしょうか。
開けてしまった者は、どうなったのでしょうか。
考えても、答えの出ない問いだけが、増えていきます。
あの集落は、今も、地図の隅に、静かに、あります。
取り壊しの前に、一度だけ、屋敷を訪ねた、と従兄が言っていました。
がらんとした、奥の部屋に立つと、土と線香の匂いが、まだ、したそうです。
三方のガラスは、もう、外されていました。
それなのに、廊下の奥から、かすかに、軋む音が、聞こえたといいます。
従兄は、それきり、その話を、しなくなりました。