呼ぶ声

公開日: 不思議な体験 | 怖い話

北アルプス(フリー写真)

先日、私と登山仲間の先輩とが、北アルプス穂高連峰での山行中に経験した話です。

その日は、穂高連峰の北に位置する槍ヶ岳から稜線を伝って奥穂高岳へ抜ける縦走ルートを計画していました。

ルート上には南岳と北穂高岳を結ぶ、大キレットと呼ばれるV字状に切れ込んだ岩稜帯があります。

痩せた岩稜が連続するこのルートは、一般登山道としては屈指の難易度を誇り、毎年滑落による死者が絶えません。

当日の朝こそ太陽が顔を覗かせていましたが、南岳に達する頃には濃霧に覆われ、雨も滴り始めました。

予報より3時間も早い雨です。

私達は文句を垂れながら雨具を纏い、互いの身体をザイルで結びました。

キレットは岩肌に梯子や鎖が取り付く厳しい下りで始まり、一気に200メートル程下るとキレットの最下部、コルまでアップダウンが続きます。

足を踏み入れて1時間もしない内に雨風は強まり、私達の身体を容赦無く撃ち始めました。

ここで引き返す選択肢もありましたが、体力は十分であるし、今日中にはキレットを越えておきたい。

霧の中にぼんやりと浮かぶ岩山は私達を阻むように佇んでいましたが、私達はそれへ足を向けました。

岩肌に取り付くようにして岩山を登り始めると、頭上から微かに男の声が聞こえてきました。

登山シーズンは過ぎているし、このような天候です。

私達以外にも先を急ぐ者、物好きがいるんだなと考えながらも、私は久々の山行者との出会いに心を踊らせていました。

山頂に近付く頃にははっきりと男の声が聞こえましたが、山頂で見た光景は拍子抜けするものでした。

人影は無く、切り立った細い尾根が伸びているのみ。

今私達が通ってきたルートは人一人がやっと通れる細いものであり、すれ違う事は出来ません。

また、尾根は僅かばかりの足掛かりを残して鋭角に切り立ち、下方は霧に吸い込まれています。

「あれ、さっき男の人の声が聞こえましたよね?」

「お前も? 俺も聞こえた」

「落ちた…なんて事はないですよね」

「まさか。さっきも聞こえたし、落ちるような音も声もしなかっただろ…」

先輩の表情は不安と疑問が入り混じったようなものでした。

「空耳だろ。早く行くぞ」

空耳とは思えませんでしたが、反論しようとは思いませんでした。

足を滑らせれば即ち死を意味する岩崖の僅かな足場を頼りに尾根を通過していると、下方から風が吹き上げ、

「おおおおおお」

山と共鳴したのか気味の悪い音が響きました。

風の音とはいえ、幾千ものこの世の者では無い者の叫びに聞こえた私は、鳥肌が抑えられませんでした。

「集中しろよ。風で煽られる。絶対に身体を山側から離すな」

それを察してか、先輩がかけてくれた激励の言葉が心強く感じました。

キレットに足を踏み入れて2時間、最下部のコルを通過し、北穂高岳への登りの難所に差し掛かりました。

壁のようなその登りは、ピンが打たれる以前は高度なクライミング技術が必要であったと見て取れます。

先輩が先行し、私は下で確保を行います。

先輩が登り切った後、降りてきた確保のザイルを装着しピンに手をかけました。

中程まで登った時、耳元で虚ろな男の声が囁きました。

「おい」

私は全身の血が凍り付きました。

次の瞬間、何者かに右足を捕まれ、私は足を滑らせました。

「おい!大丈夫か!?」

確保のザイルが無ければ命は無かったでしょう。

先輩の声に答えようとしたところ、

「助けてくれ」

耳元で声が響き、私は身震いしました。

虚ろで生気のないあの声を忘れる事は出来ません。今でも想像すると鳥肌が抑えられません。

その日は奥穂高岳を諦め、北穂高岳の山小屋に宿泊する事にしました。

そこで出会った山のベテラン、50代の紳士にこの話をしたところ、彼も同じ様な経験をした事があると言います。

人の居ない筈の場所で声が聞こえたり、山小屋で女に足を捕まれる悪夢を見たが、仲間も全く同じ夢を見ていたなど。

山の経験が長いと少なからずそういった不思議な経験をするらしく、明日は山を降りた方が良いとの忠告を頂き、私達はそれに従いました。

朝の内は雨が残り、濃い霧が立ち込めていましたが、下まで降りてくると晴れ間も見えるようになりました。

私達は下山の前に遭難者を慰霊する穂高神社奥宮へ足を運び、今命が有ることの感謝と、遭難者の冥福を祈りました。

無事に帰宅した翌朝、先輩からの電話が鳴りました。

「おい、今のテレビのニュース見たか!?」

「何かあったんですか?」

ニュースは私達が2日前に通った道、北穂高岳の北側で早朝に男性が滑落し死亡したことを伝えていました。

北アルプスの犠牲者の中には『連れて行かれた』方も居るのではないでしょうか。

現実的ではないと分かっていても、あのような経験をした後ではそう思わざるを得ないのです。

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