呑まれた更地

小学校に上がったばかりの頃の話を、ひとつ、させてください。

あれから三十年以上が経つのに、いまだに、忘れられないのです。

私が育ったのは、瀬戸内の、古い窯業の町でした。

昔は、煉瓦や瓦を焼く窯が、あちこちにあったといいます。

私が子どもの頃には、その多くが、もう廃れていました。

町外れに、使われなくなった、大きなため池がありました。

瓦を作る土を、こねるために使っていた池だと聞きました。

その池が、ある年、土で埋め立てられて、広い更地になりました。

いずれ、家を建てるための土地にするのだ、と大人たちは言っていました。

工事は、半年ほどで、終わりました。

あれほど大きかった池が、平らな地面に、変わったのです。

子ども心に、不思議な、心細さを覚えました。

あった池が、なくなる。

そこにいた、何かは、どこへ行ったのだろう。

そんなことを、ぼんやりと、考えたのを覚えています。

更地のまわりには、錆びた鉄条網が、ぐるりと張られていました。

「危ないから、入っちゃいかん」

近所の大人は、口々に、そう言いました。

けれど、子どもにとって、そういう場所ほど、魅力的なものはありません。

放課後になると、私たちは鉄条網の隙間から、こっそり潜り込みました。

だだっ広い更地は、絶好の遊び場でした。

野球をしたり、秘密基地を作ったり。

埋め立てたばかりの土は、まだ黒々として、柔らかでした。

草の匂いと、土の匂いが、混じり合っていました。

夕方になると、赤とんぼが、すいすいと、飛び交いました。

私たちは、日が暮れるまで、時間を忘れて遊びました。

「また、明日な」

別れぎわ、タカシくんは、いつも、そう言いました。

明日も、当たり前に、来ると、信じて。

踏むと、ふかふかと、奇妙な感触が、足の裏に返ってきました。

雨が降った次の日などは、特に、地面が、ぬかるみました。

靴が、ずぶずぶと、土にもぐることもありました。

一度、置いていた野球のボールが、なくなったことがありました。

転がっていったはずなのに、どこにも、見当たらないのです。

「土に、もぐったんじゃないか」

タカシくんが、冗談めかして、そう言いました。

私たちは、笑いました。

今思えば、あれは、笑いごとでは、なかったのです。

地面の下では、何かが、静かに、口を開けていたのですから。

今思えば、あれは、地面の下が、まだ固まっていなかったのです。

いつも一緒に遊んでいたのは、隣の家の、タカシくんでした。

私より、ひとつ年上で、何でも知っている、頼れる存在でした。

虫の名前も、近道も、何でも、タカシくんが教えてくれました。

「お前は、まだ子どもだなあ」

そう言って笑う、その顔が、少し誇らしげでした。

私は、タカシくんの、後をついて歩くのが、好きでした。

二人で、いろんな場所を、探検しました。

あの更地も、タカシくんが、見つけた遊び場でした。

「ここ、誰も来ないから、俺たちの秘密基地にしよう」

そう言ったときの、得意げな顔を、今も覚えています。

その日も、私たちは、更地の真ん中で、駆け回っていました。

夕方の、長い影が、地面に伸びていました。

ふと、足元の感触が、いつもと違うことに気づきました。

土が、やけに、湿っているのです。

一歩、踏み出すごとに、靴が、ぬかるみに沈みました。

「なんか、ここ、やわらかくない?」

私が言うと、タカシくんも、足を止めました。

「ほんとだ。なんか、ぶよぶよする」

二人で、顔を見合わせました。

そのとき、ぐぐ、と、地面が、おかしな音を立てました。

水が、しみ出すような、低い音でした。

嫌な予感がして、私は、後ずさりしました。

足元から、つん、と、生臭い、泥の匂いが立ちのぼりました。

沼の底を、かき混ぜたような、匂いでした。

タカシくんは、その場から、動けずにいました。

「やばい、これ、やばいよ」

その声が、かすかに、震えていました。

次の瞬間でした。

私のすぐ前の地面が、ずぼっと、底を抜いたように陥没したのです。

私の片足が、たちまち、足首まで、土に飲まれました。

「うわっ!」

必死に、もがいて、私は、なんとか足を引き抜きました。

尻もちをついて、後ろへ、転がるように逃げました。

そして、振り返って、ぞっとしました。

私のいた場所のすぐ横で、タカシくんが、沈んでいたのです。

もう、膝の上まで、土に埋もれていました。

「タカシくん!」

私は、手を、伸ばしました。

けれど、指先は、ほんの少し、届きませんでした。

タカシくんは、もがこうとも、しませんでした。

ただ、真っ青な顔で、じっと、私を見つめていました。

何かを言いたげに、口を、わずかに開いて。

声は、出ませんでした。

そして、あっという間に。

その体は、ずぶずぶと、土の中へ沈んでいきました。

頭が、最後に、見えなくなりました。

あとには、黒い土が、何事もなかったように、残されただけでした。

波紋ひとつ、立ちませんでした。

ほんの数十秒の、出来事でした。

ついさっきまで、笑っていた友達が、消えたのです。

私は、自分の手のひらを、見つめました。

あと、指、一本ぶん。

それだけ、届いていれば。

その思いが、今も、私を、苦しめ続けています。

我に返って、私は、土を、掘ろうとしました。

素手で、必死に、黒い土を、かきました。

けれど、掘っても、掘っても、固い土が、出てくるだけ。

さっきまで、あんなに柔らかかったのが、嘘のようでした。

まるで、何かを、呑み込んだ後の、満足したような硬さでした。

指の爪が、割れて、血が、にじみました。

それでも、タカシくんは、出てきませんでした。

私は、しばらく、動けませんでした。

目の前で、起きたことが、信じられませんでした。

大人を、呼ばなければ。

頭では、そう思うのに。

なぜか、得体の知れない恐怖が、私の足を、すくませました。

私は、悲鳴も、あげられず。

鉄条網をくぐって、家まで、一目散に走って逃げました。

そして、誰にも、何も、言えませんでした。

その夜、タカシくんが、家に帰らない、と大騒ぎになりました。

近所じゅうの大人が、提灯を持って、探し回りました。

私は、布団の中で、震えていました。

窓の外を、提灯の灯りが、いくつも、ゆらゆらと過ぎていきました。

「タカシー」「タカシー」と、名を呼ぶ声が、夜通し、続きました。

大人たちは、近くの川まで、探しに行ったようでした。

まさか、あの更地の、土の下にいるなどとは。

誰一人、思いもしなかったのです。

私だけが、それを、知っていました。

知っていて、布団に、もぐり込んでいたのです。

あの更地のことを、言わなければ。

母が、心配そうに、私の顔を覗き込みました。

「あんた、タカシくんと、どこかで遊んでなかった?」

私は、とっさに、首を横に振りました。

「……知らない。一人で、帰ってきたもん」

生まれて初めて、私は、母に嘘をつきました。

その嘘が、喉の奥で、ずっと、つかえていました。

夜が更けるにつれ、外の騒ぎは、大きくなりました。

パトカーの、赤い光が、障子を、染めました。

私は、耳を、ふさぎました。

あの、ずぶずぶという音が、頭から、離れませんでした。

タカシくんの、最後の、青ざめた顔も。

目を、つぶっても、まぶたの裏に、焼きついていました。

あんなに、長い夜は、後にも先にも、ありませんでした。

朝が来るのを、私は、ただ、布団の中で、祈り続けました。

わかっているのに、唇が、凍りついたように、動きませんでした。

言えば、あの恐ろしい光景を、もう一度、思い出してしまう。

幼い私は、ただ、それが、怖かったのです。

タカシくんは、とうとう、見つかりませんでした。

何日も、何週間も、捜索は、続きました。

タカシくんのお母さんが、毎日、町を、歩いていました。

息子の名を、呼びながら。

やつれていく、その姿を、私は、見ていられませんでした。

道で会うたび、私は、うつむいて、逃げました。

「ぼくが、知ってます」

その一言が、どうしても、言えませんでした。

あのお母さんの顔も、私が背負った、罪の一部です。

何年か後、タカシくんの家は、町を、出ていきました。

引っ越しの日、私は、物陰から、それを見ていました。

トラックに、荷物が、積まれていきます。

タカシくんの、自転車も、運ばれていきました。

乗り手のいない、その自転車を見て、私は、また、泣きました。

ごめんなさい、と、心の中で、何度も、繰り返しながら。

何日かして、学校で、先生が、みんなを集めました。

タカシくんが、行方不明になったこと。

みんなで、無事を祈ろう、ということ。

先生の声が、どこか、遠くに聞こえました。

クラスのみんなは、しんと、静まり返っていました。

何人かの女の子は、すすり泣いていました。

私は、涙すら、出ませんでした。

ただ、ひたすら、恐ろしかったのです。

私は、うつむいて、机の木目を、ただ見つめていました。

本当のことを、知っているのは、私だけでした。

でも、言えませんでした。

言えば、自分も、あの土に、引きずり込まれる気がして。

教室の、タカシくんの席は、ずっと、空いたままでした。

机の上には、誰かが供えた、小さな花が、置かれていました。

私は、その席を、まともに、見られませんでした。

友達が、口々に、ささやき合っていました。

「タカシくん、どこ行ったんだろうね」

「神隠しじゃないか、って、うちのお母さんが言ってた」

神隠し。

その言葉が、妙に、胸に、ひっかかりました。

あれは、神隠しなんかでは、ありません。

でも、本当のことは、口が裂けても、言えませんでした。

後になって、町の古老から、聞いた話があります。

あのため池は、ただの、土をこねる池ではなかったそうです。

昔、窯で大きな火事があり、何人もの職人が、亡くなった。

その骨を、弔いきれずに、あの池のほとりに、埋めたのだ、と。

「あの土地は、もともと、人を呑む土地なんじゃ」

私が、思い切って、あの日のことを尋ねると。

古老は、長いあいだ、私の顔を、見つめました。

「お前さん、あそこで、何か、見たんじゃな」

見透かされて、私は、言葉を、失いました。

「言わんでいい。墓まで、持っていきなさい」

古老は、それだけ言って、静かに、目を伏せました。

その言葉に、私は、かえって、救われた気がしました。

古老は、しわがれた声で、そう言いました。

その目が、どこか、遠くを、見ているようでした。

「土地には、土地の、記憶がある」

「人が忘れても、土は、忘れんのじゃ」

低い声が、いつまでも、私の耳に、残りました。

埋め立てたことで、眠っていた何かが、目を覚ましたのかもしれません。

柔らかかったあの土は、誰かを、待っていたのでしょうか。

今となっては、確かめる、すべもありません。

古老は、もう一つ、不気味なことを、言いました。

火事で亡くなった職人たちは、皆、若い衆だったそうです。

「若いもんを、土が、ほしがるんじゃ」

だから、子どもが、呑まれたのではないか、と。

私は、その話を聞いて、何日も、眠れませんでした。

タカシくんが呑まれたのは、偶然では、なかったのかもしれない。

そう思うと、背筋が、凍りつきました。

あの柔らかい土は、ずっと、私たちを、見ていたのでしょうか。

考えるほどに、足元が、すうと、冷たくなるのを感じます。

あの更地は、その後、区画整理されました。

今では、どこにあったのかも、はっきりとしません。

新しい家々が建ち並び、子どもたちの声が、響いています。

工事のとき、何かが見つかった、という話は、聞きません。

タカシくんは、今も、あの土の下に、いるのでしょうか。

それとも、もっと、別の、どこかへ。

考えると、いつも、そこで、思考が止まってしまいます。

大人になってから、一度だけ、あの辺りを、訪ねたことがあります。

きれいな住宅街に、なっていました。

どこが、あの更地だったのか、もう、わかりませんでした。

それでも、ある一軒の家の前で、私の足は、止まりました。

理由は、わかりません。

ただ、足の裏が、あの、ぶよぶよした感触を、思い出したのです。

私は、逃げるように、その場を立ち去りました。

今でも、雨上がりの、湿った土を踏むと。

私の足は、無意識に、すくみます。

沈むのではないか、という恐怖が、いまだに、消えないのです。

舗装された道のほうが、私には、ずっと、安心できます。

地面というのは、いつも、私たちを、支えてくれている。

そう、誰もが、信じています。

でも、その下に、何が眠っているかは、誰も、知らないのです。

あの日の、生臭い泥の匂いが、よみがえります。

三十年以上も、前のことです。

それなのに。

ふとした拍子に、あのときの、タカシくんの顔が、よみがえるのです。

何かを言いたげに、私を見つめた、あの、青ざめた顔が。

そのたびに、私の心臓は、今でも、激しく打ち鳴ります。

今でも、ときどき、同じ夢を、見ます。

夢の中で、私は、あの更地に、立っています。

足元から、タカシくんの手が、にゅっと、伸びてくるのです。

その手を、私は、必死に、つかもうとします。

つかもうとするたび、その手は、冷たく、土に、まみれています。

「なんで、助けてくれなかったの」

夢の中の、タカシくんは、そう、私に、問いかけます。

私は、答えられず、ただ、立ち尽くすのです。

けれど、いつも、あと少しのところで、目が覚めます。

汗びっしょりで、心臓を、押さえながら。

あのとき、伸ばした指が、あと少し、届いていたら。

何度、そう、考えたか、わかりません。

あのとき、私が、すぐに大人を呼んでいたら。

何かが、変わっていたのでしょうか。

いいえ、きっと、何も、変わらなかった。

あの土は、最初から、タカシくんを、呑むと決めていた。

そう思うことでしか、私は、自分を、保てないのです。

その後悔だけは、三十年経った今も、消えてはくれないのです。

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