小学校に上がったばかりの頃の話を、ひとつ、させてください。
あれから三十年以上が経つのに、いまだに、忘れられないのです。
私が育ったのは、瀬戸内の、古い窯業の町でした。
昔は、煉瓦や瓦を焼く窯が、あちこちにあったといいます。
私が子どもの頃には、その多くが、もう廃れていました。
町外れに、使われなくなった、大きなため池がありました。
瓦を作る土を、こねるために使っていた池だと聞きました。
その池が、ある年、土で埋め立てられて、広い更地になりました。
いずれ、家を建てるための土地にするのだ、と大人たちは言っていました。
工事は、半年ほどで、終わりました。
あれほど大きかった池が、平らな地面に、変わったのです。
子ども心に、不思議な、心細さを覚えました。
あった池が、なくなる。
そこにいた、何かは、どこへ行ったのだろう。
そんなことを、ぼんやりと、考えたのを覚えています。
※
更地のまわりには、錆びた鉄条網が、ぐるりと張られていました。
「危ないから、入っちゃいかん」
近所の大人は、口々に、そう言いました。
けれど、子どもにとって、そういう場所ほど、魅力的なものはありません。
放課後になると、私たちは鉄条網の隙間から、こっそり潜り込みました。
だだっ広い更地は、絶好の遊び場でした。
野球をしたり、秘密基地を作ったり。
埋め立てたばかりの土は、まだ黒々として、柔らかでした。
草の匂いと、土の匂いが、混じり合っていました。
夕方になると、赤とんぼが、すいすいと、飛び交いました。
私たちは、日が暮れるまで、時間を忘れて遊びました。
「また、明日な」
別れぎわ、タカシくんは、いつも、そう言いました。
明日も、当たり前に、来ると、信じて。
踏むと、ふかふかと、奇妙な感触が、足の裏に返ってきました。
雨が降った次の日などは、特に、地面が、ぬかるみました。
靴が、ずぶずぶと、土にもぐることもありました。
一度、置いていた野球のボールが、なくなったことがありました。
転がっていったはずなのに、どこにも、見当たらないのです。
「土に、もぐったんじゃないか」
タカシくんが、冗談めかして、そう言いました。
私たちは、笑いました。
今思えば、あれは、笑いごとでは、なかったのです。
地面の下では、何かが、静かに、口を開けていたのですから。
今思えば、あれは、地面の下が、まだ固まっていなかったのです。
※
いつも一緒に遊んでいたのは、隣の家の、タカシくんでした。
私より、ひとつ年上で、何でも知っている、頼れる存在でした。
虫の名前も、近道も、何でも、タカシくんが教えてくれました。
「お前は、まだ子どもだなあ」
そう言って笑う、その顔が、少し誇らしげでした。
私は、タカシくんの、後をついて歩くのが、好きでした。
二人で、いろんな場所を、探検しました。
あの更地も、タカシくんが、見つけた遊び場でした。
「ここ、誰も来ないから、俺たちの秘密基地にしよう」
そう言ったときの、得意げな顔を、今も覚えています。
その日も、私たちは、更地の真ん中で、駆け回っていました。
夕方の、長い影が、地面に伸びていました。
ふと、足元の感触が、いつもと違うことに気づきました。
土が、やけに、湿っているのです。
一歩、踏み出すごとに、靴が、ぬかるみに沈みました。
「なんか、ここ、やわらかくない?」
私が言うと、タカシくんも、足を止めました。
「ほんとだ。なんか、ぶよぶよする」
二人で、顔を見合わせました。
そのとき、ぐぐ、と、地面が、おかしな音を立てました。
水が、しみ出すような、低い音でした。
嫌な予感がして、私は、後ずさりしました。
足元から、つん、と、生臭い、泥の匂いが立ちのぼりました。
沼の底を、かき混ぜたような、匂いでした。
タカシくんは、その場から、動けずにいました。
「やばい、これ、やばいよ」
その声が、かすかに、震えていました。
※
次の瞬間でした。
私のすぐ前の地面が、ずぼっと、底を抜いたように陥没したのです。
私の片足が、たちまち、足首まで、土に飲まれました。
「うわっ!」
必死に、もがいて、私は、なんとか足を引き抜きました。
尻もちをついて、後ろへ、転がるように逃げました。
そして、振り返って、ぞっとしました。
私のいた場所のすぐ横で、タカシくんが、沈んでいたのです。
もう、膝の上まで、土に埋もれていました。
「タカシくん!」
私は、手を、伸ばしました。
けれど、指先は、ほんの少し、届きませんでした。
タカシくんは、もがこうとも、しませんでした。
ただ、真っ青な顔で、じっと、私を見つめていました。
何かを言いたげに、口を、わずかに開いて。
声は、出ませんでした。
そして、あっという間に。
その体は、ずぶずぶと、土の中へ沈んでいきました。
頭が、最後に、見えなくなりました。
あとには、黒い土が、何事もなかったように、残されただけでした。
波紋ひとつ、立ちませんでした。
ほんの数十秒の、出来事でした。
ついさっきまで、笑っていた友達が、消えたのです。
私は、自分の手のひらを、見つめました。
あと、指、一本ぶん。
それだけ、届いていれば。
その思いが、今も、私を、苦しめ続けています。
我に返って、私は、土を、掘ろうとしました。
素手で、必死に、黒い土を、かきました。
けれど、掘っても、掘っても、固い土が、出てくるだけ。
さっきまで、あんなに柔らかかったのが、嘘のようでした。
まるで、何かを、呑み込んだ後の、満足したような硬さでした。
指の爪が、割れて、血が、にじみました。
それでも、タカシくんは、出てきませんでした。
※
私は、しばらく、動けませんでした。
目の前で、起きたことが、信じられませんでした。
大人を、呼ばなければ。
頭では、そう思うのに。
なぜか、得体の知れない恐怖が、私の足を、すくませました。
私は、悲鳴も、あげられず。
鉄条網をくぐって、家まで、一目散に走って逃げました。
そして、誰にも、何も、言えませんでした。
※
その夜、タカシくんが、家に帰らない、と大騒ぎになりました。
近所じゅうの大人が、提灯を持って、探し回りました。
私は、布団の中で、震えていました。
窓の外を、提灯の灯りが、いくつも、ゆらゆらと過ぎていきました。
「タカシー」「タカシー」と、名を呼ぶ声が、夜通し、続きました。
大人たちは、近くの川まで、探しに行ったようでした。
まさか、あの更地の、土の下にいるなどとは。
誰一人、思いもしなかったのです。
私だけが、それを、知っていました。
知っていて、布団に、もぐり込んでいたのです。
あの更地のことを、言わなければ。
母が、心配そうに、私の顔を覗き込みました。
「あんた、タカシくんと、どこかで遊んでなかった?」
私は、とっさに、首を横に振りました。
「……知らない。一人で、帰ってきたもん」
生まれて初めて、私は、母に嘘をつきました。
その嘘が、喉の奥で、ずっと、つかえていました。
夜が更けるにつれ、外の騒ぎは、大きくなりました。
パトカーの、赤い光が、障子を、染めました。
私は、耳を、ふさぎました。
あの、ずぶずぶという音が、頭から、離れませんでした。
タカシくんの、最後の、青ざめた顔も。
目を、つぶっても、まぶたの裏に、焼きついていました。
あんなに、長い夜は、後にも先にも、ありませんでした。
朝が来るのを、私は、ただ、布団の中で、祈り続けました。
わかっているのに、唇が、凍りついたように、動きませんでした。
言えば、あの恐ろしい光景を、もう一度、思い出してしまう。
幼い私は、ただ、それが、怖かったのです。
タカシくんは、とうとう、見つかりませんでした。
何日も、何週間も、捜索は、続きました。
タカシくんのお母さんが、毎日、町を、歩いていました。
息子の名を、呼びながら。
やつれていく、その姿を、私は、見ていられませんでした。
道で会うたび、私は、うつむいて、逃げました。
「ぼくが、知ってます」
その一言が、どうしても、言えませんでした。
あのお母さんの顔も、私が背負った、罪の一部です。
何年か後、タカシくんの家は、町を、出ていきました。
引っ越しの日、私は、物陰から、それを見ていました。
トラックに、荷物が、積まれていきます。
タカシくんの、自転車も、運ばれていきました。
乗り手のいない、その自転車を見て、私は、また、泣きました。
ごめんなさい、と、心の中で、何度も、繰り返しながら。
※
何日かして、学校で、先生が、みんなを集めました。
タカシくんが、行方不明になったこと。
みんなで、無事を祈ろう、ということ。
先生の声が、どこか、遠くに聞こえました。
クラスのみんなは、しんと、静まり返っていました。
何人かの女の子は、すすり泣いていました。
私は、涙すら、出ませんでした。
ただ、ひたすら、恐ろしかったのです。
私は、うつむいて、机の木目を、ただ見つめていました。
本当のことを、知っているのは、私だけでした。
でも、言えませんでした。
言えば、自分も、あの土に、引きずり込まれる気がして。
教室の、タカシくんの席は、ずっと、空いたままでした。
机の上には、誰かが供えた、小さな花が、置かれていました。
私は、その席を、まともに、見られませんでした。
友達が、口々に、ささやき合っていました。
「タカシくん、どこ行ったんだろうね」
「神隠しじゃないか、って、うちのお母さんが言ってた」
神隠し。
その言葉が、妙に、胸に、ひっかかりました。
あれは、神隠しなんかでは、ありません。
でも、本当のことは、口が裂けても、言えませんでした。
※
後になって、町の古老から、聞いた話があります。
あのため池は、ただの、土をこねる池ではなかったそうです。
昔、窯で大きな火事があり、何人もの職人が、亡くなった。
その骨を、弔いきれずに、あの池のほとりに、埋めたのだ、と。
「あの土地は、もともと、人を呑む土地なんじゃ」
私が、思い切って、あの日のことを尋ねると。
古老は、長いあいだ、私の顔を、見つめました。
「お前さん、あそこで、何か、見たんじゃな」
見透かされて、私は、言葉を、失いました。
「言わんでいい。墓まで、持っていきなさい」
古老は、それだけ言って、静かに、目を伏せました。
その言葉に、私は、かえって、救われた気がしました。
古老は、しわがれた声で、そう言いました。
その目が、どこか、遠くを、見ているようでした。
「土地には、土地の、記憶がある」
「人が忘れても、土は、忘れんのじゃ」
低い声が、いつまでも、私の耳に、残りました。
埋め立てたことで、眠っていた何かが、目を覚ましたのかもしれません。
柔らかかったあの土は、誰かを、待っていたのでしょうか。
今となっては、確かめる、すべもありません。
古老は、もう一つ、不気味なことを、言いました。
火事で亡くなった職人たちは、皆、若い衆だったそうです。
「若いもんを、土が、ほしがるんじゃ」
だから、子どもが、呑まれたのではないか、と。
私は、その話を聞いて、何日も、眠れませんでした。
タカシくんが呑まれたのは、偶然では、なかったのかもしれない。
そう思うと、背筋が、凍りつきました。
あの柔らかい土は、ずっと、私たちを、見ていたのでしょうか。
考えるほどに、足元が、すうと、冷たくなるのを感じます。
※
あの更地は、その後、区画整理されました。
今では、どこにあったのかも、はっきりとしません。
新しい家々が建ち並び、子どもたちの声が、響いています。
工事のとき、何かが見つかった、という話は、聞きません。
タカシくんは、今も、あの土の下に、いるのでしょうか。
それとも、もっと、別の、どこかへ。
考えると、いつも、そこで、思考が止まってしまいます。
大人になってから、一度だけ、あの辺りを、訪ねたことがあります。
きれいな住宅街に、なっていました。
どこが、あの更地だったのか、もう、わかりませんでした。
それでも、ある一軒の家の前で、私の足は、止まりました。
理由は、わかりません。
ただ、足の裏が、あの、ぶよぶよした感触を、思い出したのです。
私は、逃げるように、その場を立ち去りました。
今でも、雨上がりの、湿った土を踏むと。
私の足は、無意識に、すくみます。
沈むのではないか、という恐怖が、いまだに、消えないのです。
舗装された道のほうが、私には、ずっと、安心できます。
地面というのは、いつも、私たちを、支えてくれている。
そう、誰もが、信じています。
でも、その下に、何が眠っているかは、誰も、知らないのです。
あの日の、生臭い泥の匂いが、よみがえります。
三十年以上も、前のことです。
それなのに。
ふとした拍子に、あのときの、タカシくんの顔が、よみがえるのです。
何かを言いたげに、私を見つめた、あの、青ざめた顔が。
そのたびに、私の心臓は、今でも、激しく打ち鳴ります。
今でも、ときどき、同じ夢を、見ます。
夢の中で、私は、あの更地に、立っています。
足元から、タカシくんの手が、にゅっと、伸びてくるのです。
その手を、私は、必死に、つかもうとします。
つかもうとするたび、その手は、冷たく、土に、まみれています。
「なんで、助けてくれなかったの」
夢の中の、タカシくんは、そう、私に、問いかけます。
私は、答えられず、ただ、立ち尽くすのです。
けれど、いつも、あと少しのところで、目が覚めます。
汗びっしょりで、心臓を、押さえながら。
あのとき、伸ばした指が、あと少し、届いていたら。
何度、そう、考えたか、わかりません。
あのとき、私が、すぐに大人を呼んでいたら。
何かが、変わっていたのでしょうか。
いいえ、きっと、何も、変わらなかった。
あの土は、最初から、タカシくんを、呑むと決めていた。
そう思うことでしか、私は、自分を、保てないのです。
その後悔だけは、三十年経った今も、消えてはくれないのです。