干潟の白いもの

あれは、僕がまだ小学生だった頃の、ある夏の出来事だ。

毎年お盆になると、家族で母の実家へ帰省するのが習わしだった。

実家は、日本海に面した、ひなびた漁師町にあった。

潮の匂いと、絶え間ない油蝉の声と、日に焼けた祖父母の笑顔。

その全部が、子どもだった僕にとっての、夏そのものだった。

その年も、二つ年上の兄と二人で、朝から町じゅうを駆け回っていた。

都会のそれとは、空気の重さからして、まるで違うのだ。

乾いた潮風が、汗ばんだ肌の上を、さらりと撫でて通り抜けていく。

祖母の作る、塩むすびと、冷えた麦茶。

縁側に座って食べるそれが、何よりのごちそうだった。

何の不安もない、ただ楽しいだけの時間だった。

砂浜で貝を拾い、岩場の潮だまりで小魚を追いかけた。

兄は、僕より背が高く、足も速く、いつも一歩先を歩いていた。

それでも、何かあると必ず振り返って、僕の手を引いてくれた。

そういう、頼りになる兄だった。

あの夏も、二人でいれば、怖いものなど何もないと思っていた。

昼前の、いちばん暑い時刻のことだった。

僕らは古い防波堤の上に立って、ぼんやりと沖を眺めていた。

波頭が、夏の陽を弾いて、無数の鏡のように光っていた。

ふと、隣の兄が、ある一点をじっと見つめているのに気づいた。

その視線の先は、町外れに広がる、大きな干潟のほうだった。

潮がすっかり引いて、灰色のぬかるみが、どこまでも続いている。

「あの杭が、どうかしたの」

干潟には、使われなくなった漁の杭が、点々と打たれていた。

「いや、杭じゃない。その、ずっと向こうだ」

兄は、目を細めて、はるか遠くを見据えていた。

僕もつられて、まぶしさに目をすがめながら、その方角を凝らした。

確かに、何かが見える。

だが、あまりに遠すぎて、輪郭がはっきりとはわからない。

ちょうど、人ひとりほどの大きさの、白いものだった。

それが、くねり、くねりと、絶え間なく身をよじっている。

干潟には、ほかに人影など、見渡すかぎりどこにもない。

僕は一瞬だけ、その光景を、奇妙に感じた。

だが、すぐにこう解釈して、自分を納得させた。

「あれ、新しい鳥よけの案山子じゃないかな」

「きっと、風でひらひら揺れてるだけだよ」

兄も、その僕の説明に、半分はうなずきかけていた。

ところが、まさにその時のことだ。

それまで吹いていた潮風が、ぴたりと、嘘のように止んだ。

動くものは、何ひとつなくなった。

垂れ下がった旗も、伸びた夏草も、ぴくりともしない。

なのに、あの白いものだけは、相変わらず動いている。

くねり、くねりと、ひとときも休むことなく。

「おい……まだ、動いてるぞ。風が、止まってるのに」

兄の声が、わずかに、上ずっていた。

その動きの不自然さが、じわりと胸に這い上がってきた。

兄は、どうしても正体が気になったらしい。

「ちょっと、ここで待ってろ」

そう言い残して、家のほうへ駆けていった。

残された僕は、なんとなく、その白いものから目を離せずにいた。

見ていると、なぜか、首の後ろがすうすうと寒くなった。

あれほど暑かったのに、その一帯だけ、空気が冷えているようだった。

白いものは、だんだんと、こちらに近づいているようにも見えた。

いや、それは、僕の気のせいだったのかもしれない。

とにかく、目を離してはいけない気がして、僕は見続けた。

しばらくして、兄が息を切らして戻ってきた。

手にしていたのは、祖父の古い双眼鏡だった。

漁師だった祖父が、沖の魚影を探すのに使っていたものだ。

「よし、まずは俺が見てやる」

兄は、まだどこか、得意げな顔をしていた。

「お前は、俺が見終わってからな」

そして、レンズを、あの白いものへ、ゆっくりと向けた。

僕は、横で、わくわくしながらその時を待っていた。

早く僕にも見せてくれと、兄の腕を、軽く引っぱった。

兄は、「待て待て」と笑って、レンズの焦点を合わせていた。

その指先が、しだいに、ぴたりと止まった。

「お、いたいた」と、兄が、つぶやいた。

その声を、僕は、今でもはっきりと覚えている。

あれが、人間だった頃の兄の、最後の言葉になった。

何かを、捉えたのだ。

覗き込んだ兄の口元は、最初、かすかに緩んでいた。

――だが。

次の瞬間、その表情が、ぴたりと凍りついた。

兄の顔から、潮が引くように、みるみる血の気が失せていく。

額に、玉のような脂汗が、いくつも噴き出した。

半開きの唇が、わなわなと、小刻みに震えだした。

そして、手にしていた双眼鏡を、ぽとりと取り落とした。

「に……兄ちゃん? どうしたの」

僕は、その尋常でない変わりように、背筋が凍った。

「ねえ、何が、見えたの」

兄は、ぎこちなく、ゆっくりと口を開いた。

だが、そこから漏れ出てきたのは、兄の声ではなかった。

『みナいホうガ、いイ……』

水に濡れた紙のように、ひしゃげた、知らない声だった。

兄は、そのまま、ふらりと向きを変えて歩きだした。

ひた、ひた、と、家のほうへ。

その足音が、なぜか、やけに湿って聞こえた。

僕は、その背中に、何度も呼びかけた。

「兄ちゃん、待ってよ、兄ちゃんってば」

だが、兄は、一度も振り返らなかった。

肩を、奇妙に、左右に揺らしながら歩いていく。

その歩き方が、人のものではないように見えた。

玄関で、母が、ただならぬ兄の様子に、息を呑んだ。

「あんた、どうしたの、顔が真っ青よ」

兄は、母の問いには答えず、ただ、くすりと笑った。

その笑い方に、母の顔から、さっと血の気が引いた。

一人残された僕は、足元に転がる双眼鏡を見つめた。

兄を、あんなに変えてしまったものを、確かめてやりたかった。

だが、伸ばしかけた手が、どうしても動かない。

さっきの、あのひしゃげた声が、耳の奥にこびりついていた。

それでも、子どもの好奇心が、恐怖にわずかに勝った。

僕は、震える指で、双眼鏡を拾い上げようとした。

「見るな――っ!」

突然、背後で、雷のような怒鳴り声が炸裂した。

振り向くと、祖父が、血相を変えて駆けてくる。

「お前、それで、見たのか!」

「あの、白いのを、覗いたのか!」

祖父の日焼けした顔が、紙のように白くなっていた。

「ま、まだ……見てない、よ」

僕が、かろうじてそう答えると。

祖父は、その場に、へなへなと膝をついた。

「よかった……間に合った……本当に、よかった……」

そう繰り返しながら、年老いた肩を、激しく震わせていた。

僕は、わけもわからぬまま、家へと連れ戻された。

祖父は、僕の手から、双眼鏡を、もぎ取るように奪った。

そして、それを、ぼろ布で何重にもくるんで、納屋の奥にしまった。

「もう、二度と、出すんじゃないぞ」

低く、けれど有無を言わせぬ口調だった。

僕は、ただ、こくこくと、うなずくしかなかった。

その夜、祖父は、囲炉裏の前で、ぽつりぽつりと語った。

この土地には、昔から、ひとつの言い伝えがあるのだという。

干潟の沖には、見てはならぬものが、棲んでいる。

潮の引いた昼下がり、風の止んだ時にだけ、それは現れる。

年に何度も出るものではない、と祖父は言った。

何十年と、一度も見ずに終わる者のほうが、ずっと多い。

だが、ひとたび目が合えば、その者は、もう逃れられない。

運が悪かったのだ、としか、言いようがなかった。

遠くから眺めるぶんには、何も起こらない。

だが、近くで、はっきりと見てしまった者は。

その者の心は、あれと同じものに、入れ替わってしまう。

「だから、漁師は、引き潮の昼間は沖を見んのだ」

祖父の声は、低く、かすれていた。

「双眼鏡なんぞで覗くのは、いちばん、いかん」

昔も、この町で、何人かが、ああなったのだという。

祖父が子どもの頃にも、隣の漁師の倅が、ひとり、ああなった。

その子は、ある日の引き潮の昼に、沖を双眼鏡で覗いたのだそうだ。

それきり、まともに口をきくこともなく、何年か後に、姿を消した。

「沖のあれは、人の心の隙間に、入り込んでくるんだ」

祖父は、囲炉裏の火を見つめたまま、そう言った。

「だから、怖がって、目をそらしているうちは、まだいい」

「面白がって、よく見てやろうとした者から、やられる」

その言葉に、僕は、双眼鏡を覗こうとした自分を思い、ぞっとした。

あと少し祖父が遅ければ、座敷にいたのは、僕だったかもしれない。

その晩、僕は、祖父に、ひとつだけ尋ねた。

「兄ちゃんは、もう、戻らないの」

祖父は、長いあいだ、答えなかった。

火が、ぱちりと、爆ぜる音だけがした。

「……戻った者は、わしは、見たことがない」

絞り出すような、その声に、僕は何も言えなくなった。

窓の外では、波の音が、低く、絶え間なく響いていた。

その者たちは、皆、人知れず、どこかへ消えた。

祖父は、それが何なのかは、誰も知らないのだと言った。

海で死んだ者の、なれの果てだという者もいる。

もっと、古い、人ならぬものだという者もいる。

「名前をつけると、寄ってくる。だから、名は呼ばん」

この土地では、ただ『白いの』とだけ、呼ぶのだそうだ。

見た目は、人のようで、人ではない。

くねくねと動くのは、こちらを、手招きしているのだという。

僕は、兄の、あの真っ青な顔を思い出して、震えた。

家の中は、ずっと、異様な空気に満ちていた。

祖母も、母も、台所の隅で、声を殺して泣いていた。

最初は、僕のことを案じて泣いているのかと思った。

だが、そうではなかった。

廊下の奥にある、薄暗い座敷。

その障子の隙間から、覗くと。

そこに、兄がいた。

兄は、笑っていた。

げらげらと、喉の奥から、声をあげて。

そして、その細い体を、ぐにゃりと、くねらせていた。

あの、干潟の白いものと、寸分たがわぬ動きで。

くねり、くねりと、いつまでも踊り続けていた。

その顔は、笑っているのに、目だけが、ぽっかりと暗く虚ろだった。

僕の知っている兄の表情は、もう、そこには一片もなかった。

兄は、僕に気づくと、踊りながら、ゆっくりとこちらを向いた。

そして、あのひしゃげた声で、ひとこと、こう言った。

『おマえモ、ミてミろ』

背筋を、氷の塊が滑り落ちていくようだった。

僕は、思わず、悲鳴をあげて、その場から逃げ出した。

その夜、僕は、母にしがみついて眠った。

だが、家のどこからか、ずっと、笑い声が聞こえてくる。

げらげら、げらげらと、夜通し、それは止まなかった。

間に、ときおり、すすり泣くような声が混じった。

あれは、兄の中に、まだ残っている、本当の兄なのだろうか。

そう思うと、僕は、布団の中で、声を殺して泣いた。

祖父は、その夜、一睡もせず、座敷の前に座っていたという。

白い塩を、座敷の四隅に、盛っていたのを覚えている。

翌朝、その塩は、どれも、じっとりと黒く湿っていたという。

まるで、何かが、その塩の力を、吸い取っていったかのように。

祖父は、それを見て、深いため息をついた。

「やはり、もう、手遅れだったか」

その一言が、家じゅうに、重く沈んでいった。

とうとう、帰る日が来てしまった。

その朝、空は、嘘のように晴れわたっていた。

蝉の声も、潮の匂いも、来た日と何も変わらない。

変わってしまったのは、僕たち家族だけだった。

母は、ひと晩で、ずいぶん老けたように見えた。

兄は、最後まで、あの座敷から出てこなかった。

祖母が、僕の頭を、そっと撫でて言った。

「兄ちゃんは、しばらく、ここに置いていきな」

「あっちの町じゃ、人目が多くて、とても、もたんよ」

「ここで、何年か、ばあちゃんが見ててやるからな」

その言葉の、本当の意味を、僕は幼いなりに悟ってしまった。

以前の兄は、もう、どこにもいないのだ。

来年の夏、また会えたとしても。

それは、もう、僕の兄ではないのだ。

僕は、こらえきれず、声をあげて泣き叫んだ。

祖母は、そんな僕を、何も言わずに、ただ抱きしめてくれた。

その腕も、かすかに、震えていた。

大人たちもまた、この理不尽に、ただ耐えるしかなかったのだ。

どうして、こんなことになってしまったのだろう。

ついこの前まで、二人で笑って、遊んでいたのに。

祖父の運転する軽トラックが、ゆっくりと町を出ていく。

祖父母が、家の前で、いつまでも見送ってくれていた。

そして、その二人の隣に。

変わり果てた兄が、ぽつんと、立っていた。

その兄が、僕に向かって、ゆっくりと手を振ったように見えた。

僕は、膝の上で、あの双眼鏡を、固く握りしめていた。

遠ざかっていく兄の顔を、もう一度だけ、見たくて。

ためらいながら、僕は、そっとそれを覗いた。

レンズの中で、兄は、確かに笑っていた。

だが、その両の目からは、涙が、とめどなくこぼれていた。

今まで一度も見せたことのない、悲しい笑顔だった。

それはきっと、最初で、最後の。

角を曲がると、もう、兄の姿は見えなくなった。

それでも僕は、双眼鏡を、覗くのをやめられなかった。

「いつか……きっと、元に、戻るよね」

そう、自分に必死で言い聞かせながら。

灰色の干潟が、窓の外を、後ろへ後ろへと流れていく。

潮は、いつのまにか満ちはじめ、ぬかるみを静かに覆っていた。

あの白いものが立っていた場所も、もう、海の底に沈んでいる。

それなのに、胸の奥の、嫌な予感だけは、消えなかった。

双眼鏡の冷たい感触が、僕の手のひらに、じっとりと残っていた。

本当は、もう、覗くのをやめるべきだった。

祖父の言葉が、頭の中で、何度も鳴っていた。

面白がって、よく見ようとした者から、やられる、と。

それでも、兄の最後の姿を、目に焼きつけたかった。

その一心が、僕に、レンズを覗かせ続けた。

兄と過ごした、まぶしい夏の思い出を、たどりながら。

僕は、ただ、無心に、双眼鏡を覗いていた。

――その、時だった。

見てはいけないと、あれほど言われていたものを。

僕は、とうとう、間近で、はっきりと見てしまった。

くねり、と。

それは、もう、すぐ、窓の外にいた。

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