あれは、僕がまだ小学生だった頃の、ある夏の出来事だ。
毎年お盆になると、家族で母の実家へ帰省するのが習わしだった。
実家は、日本海に面した、ひなびた漁師町にあった。
潮の匂いと、絶え間ない油蝉の声と、日に焼けた祖父母の笑顔。
その全部が、子どもだった僕にとっての、夏そのものだった。
その年も、二つ年上の兄と二人で、朝から町じゅうを駆け回っていた。
都会のそれとは、空気の重さからして、まるで違うのだ。
乾いた潮風が、汗ばんだ肌の上を、さらりと撫でて通り抜けていく。
祖母の作る、塩むすびと、冷えた麦茶。
縁側に座って食べるそれが、何よりのごちそうだった。
何の不安もない、ただ楽しいだけの時間だった。
砂浜で貝を拾い、岩場の潮だまりで小魚を追いかけた。
兄は、僕より背が高く、足も速く、いつも一歩先を歩いていた。
それでも、何かあると必ず振り返って、僕の手を引いてくれた。
そういう、頼りになる兄だった。
あの夏も、二人でいれば、怖いものなど何もないと思っていた。
※
昼前の、いちばん暑い時刻のことだった。
僕らは古い防波堤の上に立って、ぼんやりと沖を眺めていた。
波頭が、夏の陽を弾いて、無数の鏡のように光っていた。
ふと、隣の兄が、ある一点をじっと見つめているのに気づいた。
その視線の先は、町外れに広がる、大きな干潟のほうだった。
潮がすっかり引いて、灰色のぬかるみが、どこまでも続いている。
「あの杭が、どうかしたの」
干潟には、使われなくなった漁の杭が、点々と打たれていた。
「いや、杭じゃない。その、ずっと向こうだ」
兄は、目を細めて、はるか遠くを見据えていた。
僕もつられて、まぶしさに目をすがめながら、その方角を凝らした。
確かに、何かが見える。
だが、あまりに遠すぎて、輪郭がはっきりとはわからない。
ちょうど、人ひとりほどの大きさの、白いものだった。
それが、くねり、くねりと、絶え間なく身をよじっている。
干潟には、ほかに人影など、見渡すかぎりどこにもない。
僕は一瞬だけ、その光景を、奇妙に感じた。
だが、すぐにこう解釈して、自分を納得させた。
「あれ、新しい鳥よけの案山子じゃないかな」
「きっと、風でひらひら揺れてるだけだよ」
兄も、その僕の説明に、半分はうなずきかけていた。
ところが、まさにその時のことだ。
それまで吹いていた潮風が、ぴたりと、嘘のように止んだ。
動くものは、何ひとつなくなった。
垂れ下がった旗も、伸びた夏草も、ぴくりともしない。
なのに、あの白いものだけは、相変わらず動いている。
くねり、くねりと、ひとときも休むことなく。
「おい……まだ、動いてるぞ。風が、止まってるのに」
兄の声が、わずかに、上ずっていた。
その動きの不自然さが、じわりと胸に這い上がってきた。
兄は、どうしても正体が気になったらしい。
「ちょっと、ここで待ってろ」
そう言い残して、家のほうへ駆けていった。
残された僕は、なんとなく、その白いものから目を離せずにいた。
見ていると、なぜか、首の後ろがすうすうと寒くなった。
あれほど暑かったのに、その一帯だけ、空気が冷えているようだった。
白いものは、だんだんと、こちらに近づいているようにも見えた。
いや、それは、僕の気のせいだったのかもしれない。
とにかく、目を離してはいけない気がして、僕は見続けた。
※
しばらくして、兄が息を切らして戻ってきた。
手にしていたのは、祖父の古い双眼鏡だった。
漁師だった祖父が、沖の魚影を探すのに使っていたものだ。
「よし、まずは俺が見てやる」
兄は、まだどこか、得意げな顔をしていた。
「お前は、俺が見終わってからな」
そして、レンズを、あの白いものへ、ゆっくりと向けた。
僕は、横で、わくわくしながらその時を待っていた。
早く僕にも見せてくれと、兄の腕を、軽く引っぱった。
兄は、「待て待て」と笑って、レンズの焦点を合わせていた。
その指先が、しだいに、ぴたりと止まった。
「お、いたいた」と、兄が、つぶやいた。
その声を、僕は、今でもはっきりと覚えている。
あれが、人間だった頃の兄の、最後の言葉になった。
何かを、捉えたのだ。
覗き込んだ兄の口元は、最初、かすかに緩んでいた。
――だが。
次の瞬間、その表情が、ぴたりと凍りついた。
兄の顔から、潮が引くように、みるみる血の気が失せていく。
額に、玉のような脂汗が、いくつも噴き出した。
半開きの唇が、わなわなと、小刻みに震えだした。
そして、手にしていた双眼鏡を、ぽとりと取り落とした。
「に……兄ちゃん? どうしたの」
僕は、その尋常でない変わりように、背筋が凍った。
「ねえ、何が、見えたの」
兄は、ぎこちなく、ゆっくりと口を開いた。
だが、そこから漏れ出てきたのは、兄の声ではなかった。
『みナいホうガ、いイ……』
水に濡れた紙のように、ひしゃげた、知らない声だった。
兄は、そのまま、ふらりと向きを変えて歩きだした。
ひた、ひた、と、家のほうへ。
その足音が、なぜか、やけに湿って聞こえた。
僕は、その背中に、何度も呼びかけた。
「兄ちゃん、待ってよ、兄ちゃんってば」
だが、兄は、一度も振り返らなかった。
肩を、奇妙に、左右に揺らしながら歩いていく。
その歩き方が、人のものではないように見えた。
玄関で、母が、ただならぬ兄の様子に、息を呑んだ。
「あんた、どうしたの、顔が真っ青よ」
兄は、母の問いには答えず、ただ、くすりと笑った。
その笑い方に、母の顔から、さっと血の気が引いた。
※
一人残された僕は、足元に転がる双眼鏡を見つめた。
兄を、あんなに変えてしまったものを、確かめてやりたかった。
だが、伸ばしかけた手が、どうしても動かない。
さっきの、あのひしゃげた声が、耳の奥にこびりついていた。
それでも、子どもの好奇心が、恐怖にわずかに勝った。
僕は、震える指で、双眼鏡を拾い上げようとした。
「見るな――っ!」
突然、背後で、雷のような怒鳴り声が炸裂した。
振り向くと、祖父が、血相を変えて駆けてくる。
「お前、それで、見たのか!」
「あの、白いのを、覗いたのか!」
祖父の日焼けした顔が、紙のように白くなっていた。
「ま、まだ……見てない、よ」
僕が、かろうじてそう答えると。
祖父は、その場に、へなへなと膝をついた。
「よかった……間に合った……本当に、よかった……」
そう繰り返しながら、年老いた肩を、激しく震わせていた。
僕は、わけもわからぬまま、家へと連れ戻された。
祖父は、僕の手から、双眼鏡を、もぎ取るように奪った。
そして、それを、ぼろ布で何重にもくるんで、納屋の奥にしまった。
「もう、二度と、出すんじゃないぞ」
低く、けれど有無を言わせぬ口調だった。
僕は、ただ、こくこくと、うなずくしかなかった。
※
その夜、祖父は、囲炉裏の前で、ぽつりぽつりと語った。
この土地には、昔から、ひとつの言い伝えがあるのだという。
干潟の沖には、見てはならぬものが、棲んでいる。
潮の引いた昼下がり、風の止んだ時にだけ、それは現れる。
年に何度も出るものではない、と祖父は言った。
何十年と、一度も見ずに終わる者のほうが、ずっと多い。
だが、ひとたび目が合えば、その者は、もう逃れられない。
運が悪かったのだ、としか、言いようがなかった。
遠くから眺めるぶんには、何も起こらない。
だが、近くで、はっきりと見てしまった者は。
その者の心は、あれと同じものに、入れ替わってしまう。
「だから、漁師は、引き潮の昼間は沖を見んのだ」
祖父の声は、低く、かすれていた。
「双眼鏡なんぞで覗くのは、いちばん、いかん」
昔も、この町で、何人かが、ああなったのだという。
祖父が子どもの頃にも、隣の漁師の倅が、ひとり、ああなった。
その子は、ある日の引き潮の昼に、沖を双眼鏡で覗いたのだそうだ。
それきり、まともに口をきくこともなく、何年か後に、姿を消した。
「沖のあれは、人の心の隙間に、入り込んでくるんだ」
祖父は、囲炉裏の火を見つめたまま、そう言った。
「だから、怖がって、目をそらしているうちは、まだいい」
「面白がって、よく見てやろうとした者から、やられる」
その言葉に、僕は、双眼鏡を覗こうとした自分を思い、ぞっとした。
あと少し祖父が遅ければ、座敷にいたのは、僕だったかもしれない。
その晩、僕は、祖父に、ひとつだけ尋ねた。
「兄ちゃんは、もう、戻らないの」
祖父は、長いあいだ、答えなかった。
火が、ぱちりと、爆ぜる音だけがした。
「……戻った者は、わしは、見たことがない」
絞り出すような、その声に、僕は何も言えなくなった。
窓の外では、波の音が、低く、絶え間なく響いていた。
その者たちは、皆、人知れず、どこかへ消えた。
祖父は、それが何なのかは、誰も知らないのだと言った。
海で死んだ者の、なれの果てだという者もいる。
もっと、古い、人ならぬものだという者もいる。
「名前をつけると、寄ってくる。だから、名は呼ばん」
この土地では、ただ『白いの』とだけ、呼ぶのだそうだ。
見た目は、人のようで、人ではない。
くねくねと動くのは、こちらを、手招きしているのだという。
僕は、兄の、あの真っ青な顔を思い出して、震えた。
※
家の中は、ずっと、異様な空気に満ちていた。
祖母も、母も、台所の隅で、声を殺して泣いていた。
最初は、僕のことを案じて泣いているのかと思った。
だが、そうではなかった。
廊下の奥にある、薄暗い座敷。
その障子の隙間から、覗くと。
そこに、兄がいた。
兄は、笑っていた。
げらげらと、喉の奥から、声をあげて。
そして、その細い体を、ぐにゃりと、くねらせていた。
あの、干潟の白いものと、寸分たがわぬ動きで。
くねり、くねりと、いつまでも踊り続けていた。
その顔は、笑っているのに、目だけが、ぽっかりと暗く虚ろだった。
僕の知っている兄の表情は、もう、そこには一片もなかった。
兄は、僕に気づくと、踊りながら、ゆっくりとこちらを向いた。
そして、あのひしゃげた声で、ひとこと、こう言った。
『おマえモ、ミてミろ』
背筋を、氷の塊が滑り落ちていくようだった。
僕は、思わず、悲鳴をあげて、その場から逃げ出した。
その夜、僕は、母にしがみついて眠った。
だが、家のどこからか、ずっと、笑い声が聞こえてくる。
げらげら、げらげらと、夜通し、それは止まなかった。
間に、ときおり、すすり泣くような声が混じった。
あれは、兄の中に、まだ残っている、本当の兄なのだろうか。
そう思うと、僕は、布団の中で、声を殺して泣いた。
祖父は、その夜、一睡もせず、座敷の前に座っていたという。
白い塩を、座敷の四隅に、盛っていたのを覚えている。
翌朝、その塩は、どれも、じっとりと黒く湿っていたという。
まるで、何かが、その塩の力を、吸い取っていったかのように。
祖父は、それを見て、深いため息をついた。
「やはり、もう、手遅れだったか」
その一言が、家じゅうに、重く沈んでいった。
※
とうとう、帰る日が来てしまった。
その朝、空は、嘘のように晴れわたっていた。
蝉の声も、潮の匂いも、来た日と何も変わらない。
変わってしまったのは、僕たち家族だけだった。
母は、ひと晩で、ずいぶん老けたように見えた。
兄は、最後まで、あの座敷から出てこなかった。
祖母が、僕の頭を、そっと撫でて言った。
「兄ちゃんは、しばらく、ここに置いていきな」
「あっちの町じゃ、人目が多くて、とても、もたんよ」
「ここで、何年か、ばあちゃんが見ててやるからな」
その言葉の、本当の意味を、僕は幼いなりに悟ってしまった。
以前の兄は、もう、どこにもいないのだ。
来年の夏、また会えたとしても。
それは、もう、僕の兄ではないのだ。
僕は、こらえきれず、声をあげて泣き叫んだ。
祖母は、そんな僕を、何も言わずに、ただ抱きしめてくれた。
その腕も、かすかに、震えていた。
大人たちもまた、この理不尽に、ただ耐えるしかなかったのだ。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
ついこの前まで、二人で笑って、遊んでいたのに。
※
祖父の運転する軽トラックが、ゆっくりと町を出ていく。
祖父母が、家の前で、いつまでも見送ってくれていた。
そして、その二人の隣に。
変わり果てた兄が、ぽつんと、立っていた。
その兄が、僕に向かって、ゆっくりと手を振ったように見えた。
僕は、膝の上で、あの双眼鏡を、固く握りしめていた。
遠ざかっていく兄の顔を、もう一度だけ、見たくて。
ためらいながら、僕は、そっとそれを覗いた。
レンズの中で、兄は、確かに笑っていた。
だが、その両の目からは、涙が、とめどなくこぼれていた。
今まで一度も見せたことのない、悲しい笑顔だった。
それはきっと、最初で、最後の。
角を曲がると、もう、兄の姿は見えなくなった。
それでも僕は、双眼鏡を、覗くのをやめられなかった。
「いつか……きっと、元に、戻るよね」
そう、自分に必死で言い聞かせながら。
灰色の干潟が、窓の外を、後ろへ後ろへと流れていく。
潮は、いつのまにか満ちはじめ、ぬかるみを静かに覆っていた。
あの白いものが立っていた場所も、もう、海の底に沈んでいる。
それなのに、胸の奥の、嫌な予感だけは、消えなかった。
双眼鏡の冷たい感触が、僕の手のひらに、じっとりと残っていた。
本当は、もう、覗くのをやめるべきだった。
祖父の言葉が、頭の中で、何度も鳴っていた。
面白がって、よく見ようとした者から、やられる、と。
それでも、兄の最後の姿を、目に焼きつけたかった。
その一心が、僕に、レンズを覗かせ続けた。
兄と過ごした、まぶしい夏の思い出を、たどりながら。
僕は、ただ、無心に、双眼鏡を覗いていた。
――その、時だった。
見てはいけないと、あれほど言われていたものを。
僕は、とうとう、間近で、はっきりと見てしまった。
くねり、と。
それは、もう、すぐ、窓の外にいた。