
祖母は、日本のものを家に一つも置かない人でした。
皿も、置物も、絵はがきも、一つもありません。
母が日本人と結婚したあとも、それは変わりませんでした。
ただ、遺品の箱の底に、日本のお守りが一つだけ入っていました。
祖母がそれを七十年間、一度も開けなかったことを、私は最近になって知りました。
母方の家のこと
私の母はアメリカ人で、父は日本人です。
母方の祖父母は、二人ともアメリカで生まれ育ちました。
祖母の名前はローザといいます。
去年、百五歳で亡くなりました。
最後の十年はほとんど喋らなくなっていましたが、私の名前だけは間違えませんでした。
父と母が出会ったのは、父の出張先です。
二人が付き合い始めたとき、いちばん強く反対したのが祖母でした。
日本人だけは駄目だ、と繰り返したそうです。
母は気の強い人です。
絶対に一緒になると言い張って、家を出ました。
祖母は絶縁だと怒鳴り、母は車で走り去りました。
それから一年近く、二人は連絡を取っていません。
※
祖母は、最後の四年を施設で過ごしました。
私は月に二度ほど通いました。
会話はほとんど成り立ちません。
それでも、窓のほうを向いて座っている祖母の隣にいるのは、嫌ではありませんでした。
一度だけ、妙なことがありました。
私がスマートフォンで日本の動画を流していたときです。
音は小さくしていました。
祖母が急に、こちらを向きました。
何か言おうとして、言葉が出ませんでした。
職員の方が、驚いていました。
その週、祖母が自分から人のほうを向いたのは、それが初めてだったそうです。
私はそのとき、日本語だから反応したのだとは考えませんでした。
音楽か、鳥の声にでも聞こえたのだろうと思ったのです。
※
空港で渡されたもの
母が日本へ行く費用を貯め終えたころ、祖母から連絡が来ました。
空港へ見送りに行きたい、と言われたそうです。
穏やかな声だったので、母はかえって身構えたといいます。
空港のロビーで、祖母は小さな紙包みを差し出しました。
中に入っていたのは、二つでした。
古びた写真が一枚。
それと、日本のお守りです。
布は色が抜けて、文字はほとんど読めませんでした。
母はお守りというものを知りませんでした。
だから、何のためらいもなく、紐をほどいて中を開けました。
袋の中には、皺だらけの小さな白い紙と、米粒がひとつだけ入っていました。
紙には、日本語で一行。
その下に、綺麗な字で英語が一行。
「ローザ、君を愛している」
「I love you」
母が顔を上げると、祖母が泣いていました。
その場では、何も説明されませんでした。
母は米粒を紙の上に転がして、袋に戻しました。
それだけです。
説明を聞いたのは、搭乗の直前だったといいます。
搭乗の案内が流れてから、祖母は早口で話したそうです。
母は、そのうちの半分も覚えていません。
けれど、最後の一言だけははっきり覚えていました。
「開けないで持っていて」
母は、もう開けたあとでした。
それを言えないまま、ゲートをくぐったといいます。
言えなかったことを、母はいまでも気にしています。
※
写真の中の人
写真には、若い祖母と、日本人の男性が写っていました。
背は祖母より低く、丸い眼鏡をかけていました。
笑うと目が細くなる人だったそうです。
名前は光男さんといいました。
光男さんは、大学で建築を学んでいたそうです。
アメリカに来ていたのは、父親の仕事の関係でした。
祖母とは、図書館の閲覧席で隣り合ったのが最初だといいます。
写真は、街の公園のベンチで撮られたものでした。
後ろに、大きな木が写っています。
桜ではありません。
私は最初、桜だと思って見ていました。
拡大すると、葉の形がまったく違いました。
祖母と光男さんは、二人とも、桜の下では一枚も写真を撮っていません。
それが約束の話につながっているのかどうかは、分かりません。
祖母が二十歳を少し過ぎたころ、二人は出会っています。
戦争が終わってまもない時期でした。
そのころのアメリカで、日本人と付き合うということが何を意味したのか、私にはうまく想像できません。
周りは、全員が反対したそうです。
日本にいる光男さんの両親も、猛烈に反対しました。
やがて彼の父親が海を渡ってきて、光男さんを連れ帰りました。
連れ帰った、という言い方を、祖母は最後まで変えなかったといいます。
その冬から、祖母はほとんど部屋を出ませんでした。
食べず、眠らず、何か月も泣いていたそうです。
祖父と出会うのは、そのずっとあとです。
※
日本から届いた一通
ある日、日本から手紙が届きました。
差出人の名前はありませんでした。
封筒の中に入っていたのが、あのお守りです。
お守りと一緒に、住所を書いた紙が入っていました。
封筒のことも、祖母は覚えていました。
宛名は、光男さんの字ではなかったそうです。
祖母は彼の字を知っていました。
紙に書かれた英語の一行が、その字だったからです。
宛名だけが、別の人の、少し震えた字でした。
切手が二枚貼ってありました。
一枚で足りるところに、二枚です。
足りないと戻ってきてしまうから、と誰かが考えたのでしょう。
その封筒は、いまも残っています。
消印の日付だけが、はっきり読めます。
祖母は日本語が読めません。
それでも、住所だけは読めました。
数字と、アルファベットで書き添えられていたからです。
祖母は、それだけを頼りに日本へ行きました。
船と汽車を乗り継いで、何日もかかったそうです。
その町に着いて、通りかかった人に紙を見せました。
相手の顔色が変わったのを、祖母は覚えていました。
その人は、英語をほとんど話せませんでした。
それでも、首を横に振って、こう言ったそうです。
「もう、いません」
祖母には、意味が分かりませんでした。
半信半疑のまま、住所の家にたどり着きました。
戸を開けたのは、光男さんのお母さんでした。
顔を見た瞬間に、祖母は理解したといいます。
光男さんは、連れ帰られた翌年の冬に、胸を悪くして療養所に入りました。
手紙を書いたのは、その療養所からです。
お守りが届く数日後には、もう息をしていませんでした。
両親の目をかいくぐって出せた、たった一通でした。
※
約束
アメリカに戻ってからの祖母のことは、町でも噂になったそうです。
何年もかけて、少しずつ元に戻りました。
日本のものを見ないようにして、日本語を聞かないようにして、光男さんの名前を口に出さないようにして。
そうやって、祖父と結婚しました。
母を産みました。
そして、その母が、日本人と恋に落ちたのです。
空港で、祖母は母にこう言ったそうです。
「私は、あの人を忘れるのに何年もかかった」
「日本が怖かったから、反対したの」
「あなたのためじゃなかった。ごめんね」
「でも、日本人を好きになったって聞いたとき、本当は嬉しかった」
それから、もう一つだけ教えてくれました。
光男さんが連れ帰られる前の晩の話です。
泣いている祖母に、光男さんはこう言ったそうです。
「もし引き裂かれて、離れ離れになっても」
「僕は、生まれ変わってでも、絶対に君に会いに行く」
「君がおばあちゃんになっていても、必ず行く」
「そのときの僕は、すました顔で、日本語で、初めまして、と笑うよ」
「それから、桜を見せてあげる」
「僕のことを忘れていても構わない」
「だけど、そのときは思い出してほしい」
※
初めまして
父が初めて祖母の家に来た日のことを、母は何度も話します。
父は英語が得意ではありません。
一週間、挨拶の文章を練習していったそうです。
それなのに、玄関で祖母を前にした瞬間、頭が真っ白になった。
そして、日本語で言ってしまったのです。
「初めまして」
言ってから、しまった、という顔をしたと母は言います。
それから、慌てて紙袋を差し出しました。
中身は、スノードームでした。
ガラスの中に日本の桜が入っていて、振ると花びらが舞うものです。
空港の売店で、なんとなく足が止まって買ったのだそうです。
父は、いまでも理由を説明できません。
祖母は、しばらく動きませんでした。
それから、玄関に座り込んで泣いたそうです。
約束の話は、祖母が誰にも話していないことでした。
母が聞いたのは、その何年もあとの空港でです。
母は、そのときの祖母の手を覚えているそうです。
玄関で泣いたあと、祖母は立ち上がって、父の顔を両手で挟みました。
父は身動きが取れず、目を白黒させていたといいます。
そのまま、しばらく動きませんでした。
祖母は英語で何か言いましたが、母には聞き取れませんでした。
「早口すぎて」
母はそう言います。
ただ、最後の一語だけは分かったそうです。
祖母は、名前を呼んでいました。
父の名前ではありませんでした。
その日から、家に日本のものが一つ増えました。
父が渡したスノードームです。
祖母はそれを、寝室の窓辺に置きました。
朝の光が当たる場所です。
母が「よく置いたね」と言うと、祖母はこう答えたそうです。
「これは日本のものじゃないの」
意味を聞いても、それ以上は説明しませんでした。
父は、いまも何も知りません。
※
百五年ぶんの箱
祖母が亡くなって、遺品を分けることになりました。
施設から戻ってきた荷物は、段ボール三箱ぶんでした。
百五年生きた人の持ち物としては、少ないと思います。
ほとんどが衣類と、写真のアルバムでした。
祖父と写っている写真は、別の箱にまとめてありました。
その箱の底に、平たい紙包みが入っていました。
包み紙は、日本の新聞でした。
祖母は日本のものを家に置かない人です。
それなのに、包み紙だけが日本語でした。
母は、それを見ても何も言いませんでした。
「あなたが持っておいて」
それだけ言って、台所へ行ってしまいました。
あとで理由を聞いたら、母はこう答えました。
「私が持っていたら、たぶん、また開けちゃうから」
母は、写真とお守りを私にくれました。
「あなたが持っておいて」
理由は言いませんでした。
私はそれを机の引き出しに入れて、半年ほど忘れていました。
去年の冬、部屋を片づけていて、また出てきました。
紐の結び方が、少し気になりました。
左右で結び方が違うのです。
片方は、しっかり締めた結びでした。
もう片方は、端を引くだけでほどける結びでした。
いつか誰かが開けることを、はじめから考えていた結び方に見えました。
そういう小さな引っかかりを、しばらく放っておけない性分です。
借りた覚えのない本の話を読んだときも、私は同じところで立ち止まりました。
私は袋を開けて、中身を机に出しました。
紙と、米粒です。
七十年前と、同じものです。
※
拡大してみた
紙のほうを先に読みました。
日本語の一行と、英語の一行。
それだけです。
そこで、私は妙なことに気づきました。
別れの言葉が、一つもないのです。
療養所から、両親の目をかいくぐって出した、たった一通の手紙です。
それなのに、さようならも、ごめんも、書いてありません。
紙を、明るいところで広げてみました。
折り目が四つついていました。
四つに折ると、ちょうど袋に収まる大きさになります。
偶然ではなく、袋に合わせて折られていました。
インクの色が、日本語の一行と英語の一行で違います。
日本語のほうが薄く、英語のほうが濃い。
書いた日が違うのだと思います。
それも、かなり離れた日です。
英語の一行は、書き慣れない人の字でした。
一文字ずつ、丁寧に形をなぞってあります。
祖母が読める言葉で書きたかったのでしょう。
紙の隅に、ごく薄い鉛筆の線が残っていました。
下書きの線です。
消しきれていないところが、一箇所だけありました。
その下書きにも、別れの言葉はありませんでした。
次に、米粒を手のひらに載せました。
祖母はこれを、日本のまじないの一種だと思っていたそうです。
だから、触らなかった。
母は空港で一度転がしただけで、それきりです。
私は、スマートフォンにつけるマクロレンズを持っています。
虫や花を撮るための、安いものです。
それで撮ってみました。
最初の三枚は、まったくピントが合いませんでした。
米粒は丸いので、真ん中しか合いません。
机の電気スタンドを引き寄せて、角度を変えながら十枚ほど撮りました。
そのうちの一枚に、筋のようなものが写りました。
傷だと思いました。
七十年ぶんの傷だろう、と。
指で転がして、その筋を上に向けて、もう一度撮りました。
そこで、手が止まりました。
筋には、規則がありました。
等間隔で、同じ深さで、同じ長さでした。
私は、画面を指で広げました。
画面に映ったものを見て、私は米粒を落としました。
米粒には、字が彫ってありました。
肉眼では、ただの筋にしか見えません。
拡大すると、はっきり読めました。
彫ってあったのは、はじめまして、の六文字でした。
※
底に書いてあった一
米粒に字を彫るという細工が、日本にあることは知っていました。
私が調べたのは、そこまでです。
誰が、いつ、どこで彫ったのかは調べませんでした。
けれど、たどって答えが出てしまうのが、なぜか嫌でした。
祖母が七十年開けなかったものを、私は一週間で開けてしまいました。
それ以上、急ぐ必要はないと思っています。
その字を彫ったのが誰なのかは、分かりません。
光男さんの手ではなかったはずです。
誰かに頼んだのでしょう。
写真の裏も、改めて見ました。
日付はありませんでした。
鉛筆で、数字の一だけが小さく書いてありました。
母に見せると、母は少し考えてから言いました。
「お母さん、知ってたのかな」
私には分かりません。
七十年、開けなかった人が、中身を知っていたのかどうか。
知らなかったのだと言い切ることも、できません。
実家に帰ったとき、父の書斎の棚を見ました。
あのスノードームが、いまも置いてあります。
祖母が亡くなったあと、母が持ち帰ったものです。
私はそれを持ち上げて、底を見ました。
油性ペンで、小さく数字が書いてありました。
一、とだけです。
父に聞くと、書いた覚えはないと言いました。
「売り物に、そんなの書いてあったかな」
父は本当に不思議そうでした。
数字が並んでいるだけのものが、あとから意味を持ってしまうことがあります。
二分だけ先を指す時計の話を読んで以来、私はそういうものを見るのが少し苦手になりました。
母は、いまも日本語をほとんど話せません。
それでも、はじめまして、だけは言えます。
父に教わったのではないそうです。
いつ覚えたのか、自分でも分からないと言っていました。
お守りは、また結び直して引き出しに戻しました。
ほどけるほうの結びは、そのままにしてあります。