
俺は、古いアパートで一人暮らしをしている。
二階建てで、各階に四部屋ずつ、ごく普通のアパートだ。
俺は一階の、104号室に住んでいる。
あの夜、受話器から聞こえた三文字の言葉を、俺は今も忘れられない。
築三十年を超えるアパートで、壁は薄く、隣の咳払いまで聞こえてくる。
各部屋には、入居したときから黒い固定電話が備え付けられていた。
普段はほとんど鳴らないその電話が、あの晩だけは、異様な数だけ鳴った。
その日の夕方、いつものスーパーへ晩メシを買いに出ようとして、足が止まった。
アパートの前に、パトカーが数台止まっていたのだ。
パトカーの並んだ夕方
赤い回転灯が、夕焼けの壁に鈍く映っていた。
制服の警官が、101号室の前を行ったり来たりしている。
黄色いテープが、101号室のドアの前に、風で小さく揺れていた。
隣の部屋の郵便受けには、昨日の夕刊が刺さったままになっている。
俺はなるべく目を合わせないように、足早に階段の前を通り過ぎた。
何があったのだろう。気にはなったが、買い物に出る足は止めなかった。
スーパーの惣菜コーナーで、隣に住むYさんと鉢合わせた。
Yさんは103号室の主婦で、四十代の気さくな人だ。
昔、空手を習っていたとかで、五段だと自慢している。
「あんた、いいところで会ったよ」
Yさんは、買い物かごを腕に下げたまま、声をひそめた。
「お宅の部屋、何ともない?」
「いえ、別に今のところは…。何かあったんですか」
俺が聞き返すと、Yさんは重たそうに口を開いた。
「昨日の夜中にね、201号室の人と、101号室の人が」
「ほとんど同じ時刻に、顔のあるべき場所が空っぽのまま、冷たくなってたんだって」
俺は、手に取ったパックの弁当を、思わず棚へ戻した。
「102の子が言ってたんだけどね。夜の十一時頃に、電話が鳴る音がしたんだって」
「電話、ですか」
「そう。しばらくして、その音がぱたりと消えて」
「そのあと、201から、数分遅れて101から、決まった三文字の言葉が聞こえたそうだよ」
「何て言ったかは、聞き取れなかったらしいけどね」
「それと同時に、意味のわからない叫び声がしたって」
Yさんは、周りを見回してから、もう一段、声を落とした。
「102の子、すっかり怯えてさ。次は自分なんじゃないかって」
「だから今夜は、うちに泊めてやることにしたのさ」
「若い女性が、一人でいるのは物騒だからね」
それから、急にいつもの調子に戻って、胸を張った。
「まあ、空手五段のバリバリ主婦のあたしがついてれば、まず大丈夫だよ」
「呼ばれたら、すぐ返事をしろって、うちの親父がよく言ってたもんさ。あたしは、鳴ったらすぐ出るよ」
「けど、もし何かあったら、助けに来るんだよ! 一応、お隣さんなんだからさ」
「は、はい…どうも…」
Yさんは、会計を済ませて、部屋へ戻っていった。
俺も弁当を買って、アパートに戻った。
十一時の呼び出し音
いつの間に、そんなことが起きていたのだろう。
俺は昨日、早く寝てしまって、夜中の物音には何も気づかなかった。
部屋の中は、いつもと変わらなかった。
黒い固定電話が、棚の上に置かれている。
普段は、ほとんど鳴らない電話だ。
ほぼ同時に、別々の部屋の電話が鳴ったこと。
それから、三文字の言葉。
どう考えても、ただの偶然とは思えなかった。
同じ棟に、Yさんたちがいるのだ。
何かあったら洒落にならない。
今夜は念のため、遅くまで起きていることにした。
弁当を食べ、雑誌を広げたが、活字は目を滑るばかりだった。
『引取り待ちの椅子が増えていく』という体験談を、以前に読んだことを思い出した。
静かな日常のすぐ隣に、説明のつかないものが座っている。そんな話だった。
もうひとつ、『席替えアンケートは月曜に届く』という話も思い出した。
決まった時刻に届くものには、必ず送り主がいる。そう書かれていたことが、妙に引っかかった。
俺は、その記憶を頭から追い払った。
気づけば、時計の針は十一時を指していた。
三十分ほど布団をかぶって待って、何もなければそのまま寝てしまおう。
そう決めて、電気を落とした。
暗闇の中で、冷蔵庫の低い唸りだけが聞こえている。
十分ほど経つと、まぶたが重くなってきた。
もう大丈夫だろうと思い、眠りに落ちかけた。
その瞬間だった。
「プルルルル」
ある音で、一瞬にして目が覚めた。
103号室からだ。
耳を澄ますと、斜め上の203号室、その隣の202号室からも聞こえる。
おそらく、102号室でも鳴っているだろう。
同時に四つの部屋の電話が鳴るなんて、こんなことがあるだろうか。
すると、上の階の電話の音が、ふっと消えた。
何も知らずに、受話器を取ったのだろうか。
受話器が置かれる音は、聞こえなかった。
代わりに、床板を何かが引きずるような音が、一度だけ響いた。
俺は布団の中で、息を止めていた。
自分の心臓の音さえ、うるさく感じられた。
天井の向こうから、微かに声が聞こえた。
確かに三文字だった。けれど、上の階だったから、よく聞き取れない。
何かをぼそりと呟くような、乾いた響きだった。
今まで半信半疑だった俺も、いよいよ怖くなってきた。
Yさんの言っていたことが、いま、現実に起きている。
それなら、Yさんたちはどうしているのだろう。
まだ、電話は鳴り続けている。
警戒して、取っていないのか。その方が、おそらく正解だ。
「上は、もう…」
何故か俺は、そう確信してしまっていた。
三文字の言葉が聞こえた夜
103と102は、まだ電話が鳴っている。
二人のいる103号室へ、行くことにした。
急いで靴を履き、外に出た。
廊下の蛍光灯が、ちかちかと点滅している。
足元のコンクリートが、ひどく冷たく感じられた。
どの部屋の電話の音も、同じ間隔で、息を合わせたように鳴っている。
誰かが、全部の部屋の受話器を、同時に見ているようだった。
受話器の呼び出し音が、薄い壁を通して、あちこちから重なって響いてくる。
お願いだ、取らないでくれ。
そう祈りながら、103のドアを開けた。
「その電話を取るな!」
けれど、もう遅かった。
恐怖に耐えかねたYさんが、受話器を取ってしまっていたのだ。
Yさんは、しばらく受話器に耳を当てていた。
やがて、例の三文字の言葉を、口にした。
「はたよ」
意味のわからない言葉だった。
それなのに、背筋に氷を当てられたような寒気が走った。
気がつくと、102の若い女性が、部屋からいなくなっていた。
自分の部屋へ、戻ってしまったのか。
危ない。102は、まだ電話が鳴っている。
取ったら、おそらく…。
そう思った矢先に、102の呼び出し音が、ぷつりと途切れた。
そして、壁の向こうから、また聞こえた。
「はたよ」
もう、終わりだ。
その時、俺の部屋からも、電話のベルが鳴り出した。
まさか、このアパート全体に。
いや、そんなのは取らなければいい。
まず、102の女性を助けなければ。
俺は、102号室のドアを蹴り開けた。
鳴りやまない受話器
女性は、無事だった。
それだけで、膝の力が抜けそうになった。
廊下の電話の音は、依然として止まない。
受話器を取ったあと、部屋の隅でうずくまっている。
毛布を頭からかぶって、膝を抱えている。
ベッドの脇には、飲みかけのペットボトルが転がっていた。
彼女の唇は、血の気を失って、青白く乾いていた。
「聞こえたんです」
女性は、毛布の中から、か細い声を出した。
「私にも、同じ言葉が」
それ以上は、何も言わなかった。
ひとまず、胸を撫で下ろした。
しかし、俺は忘れていた。Yさんは、どうなった。
急いで103号室へ戻り、ドアを開けると、驚いた。
主婦のYさんも、無事だった。
小刻みに震えながら、やはり部屋の隅にうずくまっている。
壁には、Yさんの空手の賞状が、額に入って掛けられていた。
その額が、細かく震えて、かたかたと音を立てている。
五段の主婦でさえ、立ち上がれないのだ。
俺は、逆に不思議に思った。
何故、電話を取った二人が助かったのだろう。
ただの悪戯だったのか。いや、それはない。
現に、101と201の人は、もう戻らない姿になっているのだ。
待てよ。
101と201の人は、電話を取ったのだろうか。
もしかして、取ったから、ではなく。
取らなかったから、そうなったのではないか。
背中に、冷たいものが走った。
まだ俺は、自分の電話を取っていない。
喉の奥が、ひりひりと乾いた。
受話器を取る、という簡単な動作が、これほど重いと感じたことはなかった。
遅れれば遅れるほど、何かが近づいてくる気がした。
部屋のほうから、ベルの音が聞こえ続けている。
「急げ!」
俺は、脇目も振らずに自分の部屋へ駆け戻った。
「プルルルル」
「プルルルル」
「プルルルル」
良かった。まだ鳴っている。
あれを取れば、助かる。助かるんだ。
俺は急いで電話を取った。だが、それは自分が予想していた三文字とは全く違う言葉だった。
「おそい」
そして、ノックの音がした。