
雪の年は、押入れの奥に戸を切る
新潟の中越、山寄りの小滝という集落で育ちました。
三十戸ほどの、細長い集落です。
冬になると、玄関が使えなくなります。
雪が屋根まで届く年は、二階の窓から出入りしました。
もうひとつ、あの土地には独特の決まりがありました。
雪道普請、と呼んでいました。
隣り合った家どうしで、押入れの奥の壁に板戸を切っておくのです。
雪が深くなって外を歩けない日でも、家の中を通って隣へ行ける。
そういう仕掛けです。
いまはもうやっていません。
除雪が入るようになって、必要がなくなりました。
ただ、私が子どものころは、まだ残っていました。
板戸には、決まりごとがついていました。
母は、押入れの奥の板戸を、必ず二度叩いてから開けました。
とんとん、と間を置いて二回。
それから、少し待つ。
向こうから、同じように二回返ってきたら、開ける。
返ってこなければ、開けない。
「なんで、待つん」
「そういうもんだすけ」
母の説明は、いつもそれだけでした。
※
誕生日の写真
平成九年の、二月でした。
私は小学五年で、その日は自分の誕生日でした。
家でホームパーティーというほどのものではありませんが、集まりをしました。
同級生が四人と、母と祖母。
父は出稼ぎで、その冬は家にいませんでした。
母が、使い捨てのカメラを買ってきていました。
フィルムのやつです。
私はそれを持って、居間じゅうを撮りました。
ケーキ。
友達の顔。
祖母の膝。
ストーブの上のやかん。
二十七枚、その日のうちに使い切りました。
現像に出したのは、三日後です。
山を下りた町の写真屋に、母が持っていきました。
戻ってきた袋を、居間で広げました。
そのうちの一枚で、私は手が止まりました。
友達三人が並んで、こちらを向いて笑っています。
その背後、部屋の隅の押入れの襖が、十センチほど開いていました。
そこから、女の顔が出ていました。
青白い顔でした。
笑ってはいません。
目だけが、まっすぐこちらを睨んでいます。
髪は、肩のあたりで切られていました。
誰なのか、まるで分かりませんでした。
集落の顔は、子どもでも全部覚えています。
その顔は、いませんでした。
※
八重さんの鑑定
母は写真を仏壇に伏せて置いて、その日は何も言いませんでした。
翌日、八重さんのところへ持っていきました。
八重さんは、集落の外れに住んでいた拝み屋です。
祈祷というほどのことはしません。
物をなくした人や、体の調子が続かない人が相談に行く程度の人でした。
八重さんは、写真を手に取ると、蛍光灯にかざしました。
そのまま、しばらく黙っていました。
「これはな」
「はい」
「霊気は、感じん」
「感じない、というと」
「心霊写真でも、なんでもねえ」
母は、ほっとした顔をしました。
私も、その場では安心しました。
安心して、写真をアルバムに貼りました。
その意味が分かるのに、二十年かかりました。
霊が写っていないということは、写っているのが霊ではないということです。
押入れから顔を出していたのは、生きている人間でした。
※
八重さんが、もう一言だけ言ったこと
八重さんの家は、集落の外れの、杉林の入口にありました。
土間に大きな長火鉢があって、猫が三匹いました。
拝み屋というと物々しく聞こえますが、実際には、干し柿をくれるおばあさんです。
母が写真を差し出したとき、八重さんは、まず干し柿の皿を私のほうへ押しました。
「食え」
「はい」
それから、写真を蛍光灯にかざしたのです。
霊気は感じん、と言ったあと、八重さんは写真を裏返しました。
裏に、現像所の日付が入っています。
それを、指でしばらく撫でていました。
「これ、いつの晩だ」
「二月の九日です」
「ふん」
八重さんは、母のほうを見ました。
「戸、開けたか」
母は、答えませんでした。
八重さんも、それ以上は訊きませんでした。
帰り道、母は私の手を引いて、坂を早足で下りました。
いつもは、ゆっくり歩く人です。
雪を踏む音が、二人分、ばらばらに鳴っていました。
※
友達が覚えていたこと
写真に写っていた三人のうち、一人とは、いまも年に一度は会います。
去年、酒の席でその話をしました。
彼は、覚えていました。
「あれな、おれ、見とった」
「見た、って」
「襖が、勝手に開いたんさ。ケーキ切る前」
「開いた」
「すう、って十センチくらい。誰も触っとらんのに」
彼は、それを地震だと思ったそうです。
雪の重みで家が軋むことは、あの土地ではよくあります。
だから、誰も気に留めませんでした。
ただ、その直後に、彼は妙なことを言われたと言うのです。
「おまえのばあちゃんが、こう言った」
「祖母が」
「うん。閉めんでいい、って」
私は、その場でグラスを置きました。
祖母は、あの晩、襖を閉めさせませんでした。
開けたままにしておいた、ということです。
いま思えば、祖母のほうが、母より事情に近いところにいました。
祖母は、叩き方を知っていた人です。
※
隣は、三年前から空き家だった
当時のうちの間取りを書いておきます。
居間の隅の押入れは、下段が布団、上段が季節の物でした。
下段のいちばん奥に、板戸があります。
隣の家の押入れに通じている、雪道普請の戸です。
ただ、その隣は、三年前から空き家でした。
住んでいた老夫婦が、町の息子さんのところへ移ったのです。
電気も水道も止まっていました。
雪囲いは集落で回して掛けていましたが、中に人が入ることはありませんでした。
私は、写真を見返してから、押入れを開けてみました。
布団をどけると、板戸があります。
掛け金は、こちら側から掛かっていました。
誰も通れません。
それで、その日はいったん忘れました。
忘れたのは、私だけでした。
母は、その冬、押入れの前に古い箪笥を移しました。
理由は言いませんでした。
※
朝になると、掛け金が外れている
三月に入って、私は妙なことに気づきました。
寝る前に掛け金を確かめる癖がついていました。
掛けてから寝ます。
朝、確かめると、外れています。
三日続きました。
四日目、私は掛け金に糸を巻いておきました。
朝、糸は切れていませんでした。
掛け金だけが、外れていました。
母に言いました。
「押入れの戸、朝になると開いとる」
母は、味噌汁の鍋から目を離さずに、こう言いました。
「開けとらんかったら、そのうち収まる」
「開けとらんよ」
「なら、いい」
その言い方に、私は初めて怖さを感じました。
母は、驚いていませんでした。
知っている人の反応でした。
※
雪囲いを掛けに行った日
空き家の雪囲いは、集落で順番に掛けていました。
私が中学二年の秋、うちの番が回ってきました。
父が出稼ぎから戻っていたので、二人で行きました。
板を運んで、窓に立てて、番線で留める。
半日の仕事です。
途中で、父が家の中を見たいと言いました。
鍵は、区長のところで預かっています。
玄関を開けると、埃と、乾いた畳の匂いがしました。
三年空けた家の匂いです。
父は、まっすぐ奥の部屋へ行きました。
押入れの前です。
襖を開けると、うちと同じように、いちばん奥に板戸がありました。
父は、その戸に手を当てました。
叩きませんでした。
ただ、手のひらを当てて、目を閉じていました。
「父ちゃん」
「しっ」
三十秒ほど、そうしていました。
それから、襖を閉めて、こう言いました。
「ここ、掛け金、向こうから掛かっとる」
空き家の側の掛け金が、家の内側からではなく、うちの側から掛けられていた。
という意味では、ありません。
父が言ったのは、その逆でした。
空き家の押入れの中に、誰かが入って、内側から掛けていったということです。
私たちは、その日、押入れの襖に番線を一本回して帰りました。
父は、帰り道でずっと黙っていました。
翌年から、うちは雪囲いの当番を、金を出して人に頼むようになりました。
※
板戸 二
集落には、雪道普請の帳面がありました。
区長の家で代々預かっている綴りです。
どの家とどの家に戸が切ってあるか、記録してあります。
雪の降る前に、掛け金の点検をするためです。
中学に上がった年、私はその帳面を見せてもらいました。
当時の区長は、細川さんという八十近い人でした。
うちの欄には、こう書いてありました。
「板戸 二」
私は、指で数えました。
うちの隣は、一軒しかありません。
反対側は崖で、家はありません。
「二って、なんですか」
細川さんは、湯呑みを置きました。
「戸が、二枚あるっつうことだ」
「でも、隣は一軒しか」
「昔は、もう一軒あった」
「どこに」
細川さんは、答えませんでした。
代わりに、綴りの前のほうをめくって、明治の年号のところを開きました。
そこには、いまはない家の名前が、五つほど並んでいました。
「大雪の年に、雪の下になった家がいくつかある」
「潰れたんですか」
「潰れたのもあるし、そのままのもある」
そのまま、という言い方が、私には分かりませんでした。
※
返事のない家の戸は、開けない
細川さんは、そこで初めて、決まりの意味を教えてくれました。
「二回叩くのは、知っとるな」
「はい」
「返事のない家の戸は、こっちから開けん。それが決まりだ」
「返事があったら」
「開けていい。人がいるっつうことだすけ」
私は、そこで手が冷たくなりました。
母は、返事があるから、開けていたのです。
三年前から空き家の側の戸を、母は毎冬、二回叩いて、開けていました。
叩いて、待って、返ってきたから、開けていた。
そういうことになります。
「細川さん」
「うん」
「返事するのは、誰なんですか」
細川さんは、綴りを閉じました。
「当番だ」
「当番」
「雪道普請の当番。雪の下になった家にも、当番はいる」
※
当番を、降りていない
細川さんの話は、こういうものでした。
雪道普請の当番は、家ごとに一人決めます。
冬のあいだ、板戸の掛け金を管理し、隣が困っていないか確かめる役です。
春になって雪が消えると、役目は終わります。
終わりの日に、集落の寄り合いで名前を読み上げて、当番を降ろす。
それで、その年の普請は解散です。
明治の大雪の年、その読み上げができませんでした。
集落が二つに分断されて、寄り合い自体が開けなかったのです。
降ろされないまま、雪が消えました。
降ろされなかった当番が、何人いたのか、帳面には書いてありません。
ただ、そのあとの年から、うちの欄が「板戸 二」になっていました。
「おまえんとこのじいさまの、そのまたじいさまがな」
「はい」
「二軒ぶんの当番を、引き受けた」
「二軒ぶん、というのは」
「降ろされんかった家のぶんも、うちで見るっつうことだ」
私は、写真の顔を思い出していました。
青白い、髪を肩で切った女の顔です。
睨んでいたのではないのかもしれません。
あれは、確かめる顔だったのかもしれません。
この家に、まだ当番がいるかどうかを。
あの人は、まだ、当番を降りていなかったのです。
※
母が教えなかったこと
祖母は、私が高校のときに亡くなりました。
母は、そのあと五年ほどして、集落を出ました。
いまは町のアパートで、一人で暮らしています。
去年の冬、私はその話を持ち出しました。
母は、湯呑みを両手で持って、しばらく黙っていました。
「知っとったんか」
「細川さんに聞いた」
「あの人、ようしゃべる」
母は、少し笑いました。
それから、こう言いました。
「おまえには、教えんかった」
「なんで」
「教えたら、継がなならんくなる」
二度叩く作法を、母は私に一度も教えませんでした。
私が真似をしたことはありましたが、母はそのたびに手を止めさせました。
叩き方を知らない者は、当番になれない。
そういう仕組みだったのだと思います。
母は、自分の代で終わらせるつもりでした。
「ほんで、母ちゃんは、いま」
「降ろしてもらった」
「誰に」
母は、答えませんでした。
湯呑みを置いて、窓の外を見ました。
町のアパートの、三階の窓です。
雪は、その年は少なめでした。
※
細川さんは、五年前に亡くなりました。
葬儀のあと、遺族から連絡がありました。
雪道普請の綴りを、うちで預かってほしいという話です。
私は、断りました。
理由は言いませんでした。
綴りは、いま公民館の書庫にあります。
去年、確かめに行きました。
いちばん新しい頁には、平成十四年の記録までありました。
そこで、雪道普請は解散しています。
解散の頁には、当番の名前が並んでいて、一人ずつ、横に線が引いてありました。
降ろした印です。
うちの母の名前にも、線が引いてありました。
その下に、もう一行だけ、名前のない欄がありました。
横の線は、引かれていませんでした。
※
いまも、二回だけ
小滝の家は、五年前に取り壊しました。
更地にして、集落の共同の土地に戻しました。
解体のとき、私は立ち会いました。
押入れの奥の壁を外したところで、業者の人が呼びました。
板戸が、二枚ありました。
一枚は、隣家に向いています。
もう一枚は、崖のほうを向いていました。
その向こうには、土しかありません。
戸を外すと、板の裏に、掛け金の跡が二つありました。
こちら側に一つ。
向こう側にも、一つ。
向こう側から掛けられるようになっていました。
私は、業者の人に頼んで、その一枚だけ持ち帰りました。
いま、自宅の物置に立てかけてあります。
あの写真も、まだ持っています。
アルバムから外して、封筒に入れました。
雪の季節に、家の中で写真を撮ることは、もうありません。
それだけが、私の決めたことです。
ただ、去年の二月に、物置のほうから音がしました。
とんとん、と間を置いて、二回。
私は、返しませんでした。
返し方を、母が教えてくれなかったからです。
教えてくれなかったことに、いまは感謝しています。
音は、二月のあいだ、何度か続きました。
三月に入ると、止みました。
今年も、たぶん鳴ります。
家の中で誰かの気配が動く感覚については、この体験談にも近い手触りがあります。
また、こちらとあちらの境目が天候で曖昧になる話としては、こちらの一編を思い出します。
あの写真は、心霊写真ではありません。
八重さんの言ったとおりです。
霊気は、ありません。
だから、怖いのです。