もう時効だと思うので、結婚を前に、ひとつだけ、打ち明けておきたい話がある。
わたしの生まれた家には、奇妙なものが、代々、伝わっている。
「相手に悪夢を見せる歌」というものだ。
※
わたしの実家は、山あいの、古い集落にある。
築百年を超える、黒い柱の家だ。
梁は煤で艶を帯び、土間は、夏でも、ひやりと冷たい。
その家には、母から娘へ、口伝てだけで受け継がれてきた、短い歌があった。
何語なのか、誰も知らない。
詩吟に少し似た、低く、こもった節回し。
長さは、ラジオ体操の歌くらい。
文字にすると、「あ゛ーしぃ……ふっひ……ったはぁ、がぁっ」というような、息を吐く音と、痰を切るような音の連なりだ。
とにかく、人の歌には、聞こえない。
※
祖母は、その歌に、こんな由来を添えて、わたしに教えた。
戦のあった遠い昔、わたしの先祖は、仕えていた主君を、ある武将に討たれた。
先祖の女は、その武将の家に、乳母として入り込んだ。
そして、跡取りの赤子に、毎晩、この歌を、子守唄として、聞かせ続けた。
赤子は、夜ごと、悪い夢にうなされ、やがて、衰えて、死んだという。
「だからね」と、祖母は、わたしの耳もとで、ささやいた。
「この歌は、けっして、人を寝かしつけるために、歌ってはいけないよ」
幼いわたしは、その夜、ひとりで、便所にも行けなかった。
家の奥には、開かずの仏間があった。
年に一度、盆の入りにだけ、母が、襖を開けた。
中には、古い位牌が、ずらりと並んでいた。
そのいちばん端に、戒名のない、黒い木札が、ひとつ、混じっていた。
「あれには、触れちゃいけない」と、母は言った。
理由は、教えてくれなかった。
ただ、その木札の前にだけ、母は、必ず、塩を、ひとつまみ、供えた。
※
正直、わたしは、半分は、作り話だと思っていた。
けれど、子どものころは、それが、こわくて、こわくて、たまらなかった。
母が、しつけで、「言うことを聞かないと、子守唄を歌うよ」と口にすると、わたしは、泣いて、あやまった。
歌の中身ではなく、歌うときの、母の、平坦な声が、こわかった。
あの家の人間は、誰も、その歌を、面白半分には、扱わなかった。
その歌の力を、わたしが、初めて、垣間見たのは、八つの夏だった。
近所の悪童が、わたしの飼っていた兎を、面白半分に、棒で叩き殺した。
わたしは、泣きながら、その子の家の前で、聞き覚えた節を、口の中で、繰り返した。
意味も、わからないまま。ただ、祖母の声を、真似ただけだった。
その夜、その子は、高い熱を出した。
うわごとで、「兎が、追ってくる」と、叫び続けたという。
偶然だ、と、大人たちは言った。
けれど、祖母だけは、わたしの顔を、長いこと、黙って、見つめていた。
そして、ひとことだけ、言った。
「もう、二度と、歌うんじゃないよ」
※
わたしには、大学のころから、四年ほど付き合った、恋人がいた。
穏やかで、優しい人だと、思っていた。
両親にも紹介し、来年あたり、という話も、出ていた。
彼とは、大学の、写真サークルで、知り合った。
わたしの、何気ない横顔を、彼は、よく、撮った。
「君は、笑うより、ぼんやりしてるときのほうが、いいよ」
そんなふうに言われて、悪い気は、しなかった。
卒業して、彼は、地元の、印刷会社に勤めた。
わたしも、近くで、仕事を、見つけた。
将来のことを、二人で、よく、話した。
あの古い家の話も、わたしは、彼にだけは、隠さずに、した。
そのころ、わたしたちは、半分、同棲のような暮らしをしていた。
思えば、彼との暮らしにも、小さな前触れは、いくつもあった。
台所の、味噌汁の出汁の取り方を、ある日から、彼が、やたらと、けなすようになった。
わたしの実家の話を、彼は、「気味が悪い」と、笑うようになった。
以前は、興味深そうに、聞いていたのに。
浮気の相手は、彼の、職場の後輩だった。
わたしが、それを知ったのは、二人が、駅前を、腕を組んで歩いているのを、偶然、見かけたからだ。
彼は、わたしには、決して見せたことのない、ゆるんだ顔で、笑っていた。
わたしは、その場で、声を、かけられなかった。
ただ、足が、地面に、縫いつけられたように、動かなかった。
家に帰って、彼の、伏せられた携帯を、初めて、勝手に、開いた。
そこには、わたしの知らない、二人の時間が、何か月分も、積み重なっていた。
※
最初の違和感は、彼の携帯の、震え方だった。
夜中になると、彼の枕もとで、画面が、何度も、青白く光った。
彼は、わたしに背を向けて、それを、伏せた。
「仕事の連絡だよ」と、彼は言った。
声が、ほんの少しだけ、上ずっていた。
※
次の違和感は、匂いだった。
彼の上着から、わたしの知らない、甘い香りが、漂うようになった。
わたしが、近づくと、彼は、決まって、上着を、椅子の背に、裏返してかけた。
わたしは、気づかないふりを、続けた。
気づいてしまうのが、こわかったからだ。
※
決定的だったのは、彼の、寝言だった。
ある夜、隣で眠る彼が、わたしのものではない、女の名を、はっきりと、呼んだ。
わたしは、暗い天井を見上げたまま、朝まで、一睡もできなかった。
あの古い家の、煤けた梁が、なぜか、瞼の裏に、浮かんでいた。
※
問い詰めると、彼は、最初、しらを切った。
けれど、証拠を並べると、やがて、態度を、一変させた。
逆に、彼のほうが、激昂したのだ。
「おまえが、つまらないからだろう」
「重いんだよ、おまえは。一緒にいて、息が詰まる」
彼は、そう吐き捨てると、酒をあおって、ふて寝を、決め込んだ。
問い詰めた夜、彼は、酔っていた。
わたしの言葉に、最初は、面倒くさそうに、舌打ちをした。
そして、だんだんと、声を、荒らげていった。
「いちいち、うるさいんだよ」
グラスを、流しに、叩きつけるように置いて、彼は、布団に、もぐり込んだ。
その背中を、わたしは、長いこと、見ていた。
心の中で、何かが、すうっと、冷えていくのが、わかった。
怒りでは、なかった。もっと、静かな、決定的な、何かだった。
※
わたしは、怒りで、手が、震えていた。
いや、怒り、というより、もっと、底の冷たい、別の感情だった。
気づくと、わたしは、眠りこけた彼の、枕もとに、座っていた。
そして、生まれて初めて、あの歌を、口ずさんでいた。
あ゛ーしぃ……ふっひ……ったはぁ、がぁっ。
低く、こもった声で、三度、繰り返した。
自分の喉から出る音とは、思えなかった。
あとから思えば、わたしは、あのとき、自分ではなかった。
歌っているあいだ、自分の声が、自分のものに、聞こえなかった。
喉の奥から、別の、もっと古い、誰かの声が、漏れ出てくるようだった。
歌い終えたとき、わたしの口の中には、土のような、苦い味が、残っていた。
あの家の、ひやりと冷たい土間の、匂いがした。
窓の外で、犬が、ひと晩じゅう、遠吠えを、やめなかった。
※
歌い終えた、その瞬間だった。
眠っていた彼が、かっと、目を見開いた。
そして、その場で、激しく、嘔吐した。
わたしは、ぞっとして、後ずさった。
彼は、吐くだけ吐くと、また、汚れた布団の上で、うとうとと、眠りはじめた。
歌のせいか、酒のせいか。
その時点では、わたしにも、わからなかった。
わたしは、何も言わずに、その部屋を出て、実家へ帰った。
実家に帰った晩、わたしは、なかなか、寝つけなかった。
自分が、何をしてしまったのか、わかっていなかった。
ただ、胸の奥に、得体の知れない、満足感のようなものが、あった。
それが、何より、こわかった。
わたしの中の、どこかが、あの歌を、歓んでいた。
歌を口ずさんだあの夜から、わたしの夢にも、ときどき、変化が起きる。
知らない、低い声が、耳もとで、あの節を、なぞるのだ。
目覚めると、喉が、ひどく、渇いている。
そして、口の中に、あの、土の味が、かすかに、残っている。
※
彼とは、結局、彼の親が、慰謝料を払うかたちで、きっぱりと、別れた。
それで、終わったはずだった。
※
別れて、しばらくして。
彼の友人から、妙な話を、聞かされた。
あの男が、毎晩、同じ悪夢を、見続けているというのだ。
内容も、教えてもらった。
自分の身体が、内側から、ゆっくりと腐っていく夢だという。
指先から、皮膚が、黒く、ふやけて、剥がれていく。
その感触まで、はっきりと、わかるのだと、彼は、おびえていたらしい。
※
彼は、夢のせいで、まともに、眠れなくなった。
食事も、喉を、通らなくなった。
みるみる、痩せていった。
頬がこけ、目だけが、ぎょろぎょろと、落ちくぼんだ。
あの、わたしを罵った、自信に満ちた顔は、もう、どこにもなかった。
風の便りに聞く、彼の様子は、会うたびに、ひどくなっていった。
夜、目を閉じるのが、こわい、と、彼は、友人に漏らしていたらしい。
目を閉じれば、すぐに、あの腐る夢が、始まるからだ。
だから、明かりを、煌々とつけたまま、椅子に座って、夜を明かす。
それでも、うとうとすれば、夢は、待ち構えていた。
鏡を見るのを、極端に、嫌がるようにも、なったという。
自分の肌が、本当に、腐っていないか、確かめるのが、こわかったのだろう。
※
さらに、一年ほど、経ったころ。
彼が、会社を辞めて、入院した、と聞いた。
心を、病んでしまったのだという。
共通の知人を通して、彼の写真を、一枚、見せられたことがある。
別れてから、半年ほど後の、彼だった。
それは、わたしの知っている人とは、別人だった。
頬は、げっそりとこけ、肌は、土気色をしていた。
目の下には、黒い隈が、べったりと、貼りついていた。
そして、その目は、何か、見えないものに、おびえるように、宙を、見ていた。
わたしは、その写真を、すぐに、伏せた。
これ以上、見ては、いけない気がした。
彼の写真を、撮るのが、好きな人だった。
わたしの横顔ばかりを、撮っていた、あの人。
いま、彼は、自分の顔を、鏡で見ることさえ、できないでいる。
因果、というものを、わたしは、信じていなかった。
けれど、いまは、少しだけ、信じている。
信じざるを、得ないのだ。
そのあと、わたしは、転職して、地元を離れた。
だから、彼が、その後、どうなったのかは、知らない。
知ろうとも、思わなかった。
※
あれが、あの子守唄のせいだったのか。
それとも、ただ、彼自身の、後ろめたさが、見せた夢だったのか。
わたしには、わからない。
わからないからこそ、こわい。
わたしは、別れたあと、一度だけ、あの古い家の、祖母の部屋を、訪ねた。
祖母は、もう、床に伏せっていた。
わたしが、彼に歌を歌ったことを、打ち明けると。
祖母は、しわだらけの手で、わたしの手を、強く、握った。
「歌は、相手にだけ、効くんじゃない」
祖母の、落ちくぼんだ目が、わたしを、まっすぐに見た。
「歌った者の喉に、棲みつくんだよ。一生、抜けやしない」
その手の、冷たさを、わたしは、いまでも、覚えている。
祖母は、その冬に、亡くなった。
葬儀の日、わたしは、あの開かずの仏間の、黒い木札を、初めて、間近で見た。
戒名のない、その札の裏に、小さな、女文字で、何かが、彫られていた。
「歌、止メラレズ」
それだけだった。
わたしの、何代前かの先祖も、きっと、この歌を、止められなかったのだ。
そして、わたしの番が、来た。
※
これから、わたしは、新しい人と、家庭を築く。
きっと、子どもも、生まれるだろう。
あれから、何年も、経った。
わたしは、もう、あの歌を、二度と、歌っていない。
歌わないように、している、というほうが、正しい。
なぜなら、ふとした拍子に、あの節が、喉もとまで、せり上がってくることが、あるからだ。
嫌なことが、あった日。誰かを、許せないと、思った日。
そんな夜は、決まって、あの低い節が、口の中で、疼く。
わたしは、唇を、固く、噛んで、それを、こらえる。
先日、姪が、わたしの家に、泊まりに来た。
夜泣きをする姪を、妹が、子守唄で、あやしていた。
その、ありふれた、優しい旋律を、聞いていたとき。
わたしの喉の奥で、別の節が、ぴくり、と、動いた。
わたしは、慌てて、その場を、離れた。
洗面所で、口を、何度も、ゆすいだ。
鏡の中の自分が、ほんの一瞬、祖母の顔に、見えた気がした。
そして、その子が、夜泣きをする夜が、来るだろう。
そのとき、わたしは、その子を、抱いて、あやす。
婚約者には、この話を、まだ、していない。
優しい人だ。きっと、笑い話として、聞き流してくれるだろう。
でも、わたしは、知っている。
あれは、笑い話では、ない。
祖母も、その母も、きっと、こうして、誰にも言えずに、喉の奥の歌を、抱えたまま、生きてきたのだ。
塩を供えていた、あの黒い木札の主のように。
母に、一度だけ、電話で、訊いたことがある。
お母さんも、誰かに、あの歌を、歌ったことが、あるのか、と。
電話の向こうで、母は、長いこと、黙っていた。
そして、低い声で、こう言った。
「そういうことは、訊くもんじゃない」
それきり、母は、その話を、二度と、しなかった。
答えなかったことが、何よりの、答えだった。
わたしの家の女は、みな、喉の奥に、同じものを、飼っている。
あの古い家は、いまは、誰も住んでいない。
母が、月に一度、風を通しに、戻るだけだ。
それでも、開かずの仏間の、黒い木札の前には、いつも、新しい塩が、供えられている。
わたしは、もう、十年近く、あの家に、帰っていない。
帰れば、きっと、あの土間の、ひやりとした冷たさが、わたしを、待っている。
そして、煤けた梁の、暗がりの奥から、低い節が、聞こえてくる気が、するのだ。
おまえも、いつか、歌うだろう、と。
――ふと、考えてしまうのだ。
あの歌の、最初の一節を、うっかり、口ずさんでしまわないか、と。
わたしの喉は、いつでも、あの歌を、思い出せる。
それが、何より、こわい。