
もう時効だと思うので、結婚を前に、ひとつだけ打ち明けておきたい話がある。
わたしの生まれた家には、奇妙なものが代々伝わっている。
「相手に悪夢を見せる歌」というものだ。
そして、その歌と対になるように、家の奥に一枚の黒い木札がある。
戒名のない、掌ほどの大きさの札だ。
母は年に一度、その前にだけ塩を供えた。
理由は、最後まで教えてくれなかった。
わたしが黒い木札の裏を見たのは、祖母の葬儀の日だった。
それから十年近く、あの家には帰っていない。
帰らない理由を、婚約者にはまだ説明できていない。
だから、こうして順番に書いておくことにした。
書いておけば、少しは他人ごとになる気がしたのだ。
実際には、書いているあいだも喉の奥が落ち着かない。
それも含めて、記録しておく。
煤けた梁と土間
わたしの実家は、山あいの古い集落にある。
築百年を超える、黒い柱の家だ。
梁は煤で艶を帯びている。
土間は夏でもひやりと冷たい。
その家には、母から娘へ、口伝てだけで受け継がれてきた短い歌があった。
何語なのか、誰も知らない。
詩吟に少し似た、低くこもった節回しだ。
長さはラジオ体操の歌くらい。
文字にすると、息を吐く音と痰を切るような音の連なりになる。
とにかく、人の歌には聞こえない。
教わったのは、六つか七つのころだ。
場所は決まって、仏間の手前の四畳半だった。
祖母は障子を閉め、電気をつけずに正座した。
「声に出すのは一回だけ。あとは口の中でおさらいしなさい」
そう言われて、わたしは三年かけて覚えた。
節は、覚えようとしなくても勝手に残った。
忘れる子はいない、と祖母は言った。
祖母は、その歌にこんな由来を添えてわたしに教えた。
戦のあった遠い昔、わたしの先祖は仕えていた主君を、ある武将に討たれた。
先祖の女は、その武将の家に乳母として入り込んだ。
そして跡取りの赤子に、毎晩この歌を子守唄として聞かせ続けた。
赤子は夜ごと悪い夢にうなされた。
やがて衰えて、床から起き上がれなくなったという。
「だからね」と、祖母はわたしの耳もとでささやいた。
「この歌は、けっして人を寝かしつけるために歌ってはいけないよ」
幼いわたしは、その夜ひとりで便所にも行けなかった。
正直なところ、半分は作り話だと思っていた。
それでも、こわくてたまらなかった。
母がしつけで「言うことを聞かないと子守唄を歌うよ」と口にすると、わたしは泣いてあやまった。
歌の中身ではない。
歌うときの母の、平坦な声がこわかった。
あの家の人間は、誰もその歌を面白半分には扱わなかった。
歌の力を初めて垣間見たのは、八つの夏だった。
近所の悪童が、わたしの飼っていた兎を棒で打った。
兎は、その日のうちに動かなくなった。
わたしは庭の梅の木の下に、小さな穴を掘って埋めた。
掘っているあいだ、手が震えて何度も土がこぼれた。
わたしは泣きながら、その子の家の前で聞き覚えた節を口の中で繰り返した。
意味もわからないまま、祖母の声を真似ただけだった。
その夜、その子は高い熱を出した。
うわごとで「兎が追ってくる」と叫び続けたという。
偶然だと大人たちは言った。
けれど祖母だけは、わたしの顔を長いこと黙って見つめていた。
そして、ひとことだけ言った。
「もう、二度と歌うんじゃないよ」
そのとき祖母は、わたしの喉に手を当てた。
骨ばった指が、冷たかった。
確かめるような触り方だった。
いま思えば、あれは心配ではなかったのかもしれない。
塩を供える黒い木札
家の奥には開かずの仏間があった。
年に一度、盆の入りにだけ母が襖を開けた。
中には古い位牌がずらりと並んでいた。
そのいちばん端に、戒名のない黒い木札がひとつ混じっていた。
位牌より薄く、角が丸くなっていた。
表には何も書かれていない。
「あれには触れちゃいけない」と母は言った。
理由は教えてくれなかった。
ただ、その木札の前にだけ、母は必ず塩をひとつまみ供えた。
小皿ではなく、白い紙の上に直接置くのだ。
襖を閉める前に、母は必ず一度だけ手を合わせた。
位牌のほうには、手を合わせなかった。
子どもの目にも、順番がおかしいと思った。
仏間の襖は、建て付けが悪くて重かった。
開けるときだけ、母は必ず両手を使った。
閉めるときは、片手で一気に引いた。
中の空気は、廊下より二度ほど低い気がした。
盆の入り以外に襖が開いているのを、わたしは一度も見たことがない。
わたしには、大学のころから四年ほど付き合った恋人がいた。
穏やかで優しい人だと思っていた。
両親にも紹介し、来年あたり、という話も出ていた。
彼とは大学の写真サークルで知り合った。
わたしの何気ない横顔を、彼はよく撮った。
「君は、笑うよりぼんやりしてるときのほうがいいよ」
そんなふうに言われて、悪い気はしなかった。
卒業して、彼は地元の印刷会社に勤めた。
わたしも近くで仕事を見つけた。
そのころ、わたしたちは半分同棲のような暮らしをしていた。
あの古い家の話も、彼にだけは隠さずにした。
黒い木札のことまで話したのは、彼が一人めだった。
彼は面白がって、一度だけ実家に行きたいと言った。
わたしは笑って、盆にね、とだけ答えた。
結局、彼をあの家に連れて行くことはなかった。
彼は暗室を借りて、自分で現像をする人だった。
赤い電球の下で、薬品の匂いのなかに立っているのが好きだったらしい。
わたしはその部屋の隅で、よく居眠りをした。
現像液の中に、わたしの横顔が少しずつ浮かんでくる。
あのころは、それを幸せだと思っていた。
思えば、彼との暮らしにも小さな前触れはいくつもあった。
最初の違和感は、彼の携帯の震え方だった。
夜中になると、枕もとで画面が何度も青白く光った。
彼はわたしに背を向けて、それを伏せた。
「仕事の連絡だよ」
声が、ほんの少しだけ上ずっていた。
次の違和感は匂いだった。
彼の上着から、わたしの知らない甘い香りが漂うようになった。
わたしが近づくと、彼は決まって上着を椅子の背に裏返してかけた。
以前は、脱いだまま床に放っておく人だった。
わたしは気づかないふりを続けた。
気づいてしまうのがこわかったからだ。
台所の味噌汁の出汁の取り方を、ある日からやたらとけなすようになった。
わたしの実家の話も、「気味が悪い」と笑うようになった。
以前は興味深そうに聞いていたのに。
決定的だったのは、彼の寝言だった。
ある夜、隣で眠る彼が、わたしのものではない女の名をはっきりと呼んだ。
わたしは暗い天井を見上げたまま、朝まで一睡もできなかった。
あの古い家の煤けた梁が、なぜか瞼の裏に浮かんでいた。
相手は彼の職場の後輩だった。
わたしがそれを知ったのは、二人が駅前を腕を組んで歩いていたからだ。
彼はわたしには見せたことのない、ゆるんだ顔で笑っていた。
わたしはその場で声をかけられなかった。
ただ、足が地面に縫いつけられたように動かなかった。
家に帰って、伏せられた携帯を初めて勝手に開いた。
そこには、わたしの知らない二人の時間が何か月分も積み重なっていた。
枕もとの三度の節
問い詰めた夜、彼は酔っていた。
最初は面倒くさそうに舌打ちをした。
証拠を並べると、やがて態度を一変させた。
逆に、彼のほうが声を荒らげたのだ。
「おまえがつまらないからだろう」
「重いんだよ。一緒にいて息が詰まる」
グラスを流しに叩きつけるように置いて、彼は布団にもぐり込んだ。
その背中を、わたしは長いこと見ていた。
心の中で、何かがすうっと冷えていくのがわかった。
怒りではなかった。
もっと静かな、決定的な何かだった。
気づくと、わたしは眠りこけた彼の枕もとに座っていた。
そして、生まれて初めてあの歌を口ずさんでいた。
低くこもった声で、三度繰り返した。
最初の一節を出したとき、自分の耳が詰まった。
部屋の音が、すっと遠のいたのを覚えている。
冷蔵庫の低い唸りも、途中から聞こえなくなった。
二度目からは、口が勝手に動いた。
節の切れ目で、息を吸うところまで決まっていた。
三年かけて覚えたものは、二十年経っても一音も抜けていなかった。
歌いながら、彼の顔は一度も見なかった。
見てはいけないと、どこかで知っていたのだと思う。
目を落としていた畳の目だけを、いまも覚えている。
その夜の畳は、実家の仏間と同じ匂いがした。
自分の喉から出る音とは思えなかった。
歌っているあいだ、自分の声が自分のものに聞こえなかった。
喉の奥から、もっと古い誰かの声が漏れ出てくるようだった。
歌い終えたとき、口の中には土のような苦い味が残っていた。
あの家の、ひやりと冷たい土間の匂いがした。
その瞬間だった。
眠っていた彼が、かっと目を見開いた。
そして、その場で激しく嘔吐した。
わたしはぞっとして後ずさった。
彼は吐くだけ吐くと、また汚れた布団の上でうとうとと眠りはじめた。
歌のせいか、酒のせいか。
その時点では、わたしにもわからなかった。
窓の外で、犬がひと晩じゅう遠吠えをやめなかった。
わたしは何も言わずにその部屋を出て、実家へ帰った。
その晩、なかなか寝つけなかった。
自分が何をしてしまったのか、わかっていなかった。
ただ、胸の奥に得体の知れない満足感のようなものがあった。
それが何よりこわかった。
わたしの中のどこかが、あの歌を歓んでいた。
翌朝、わたしは喉の渇きで目を覚ました。
枕もとの水を飲んでも、味が変わらなかった。
土の味は、三日ほど残った。
それ以来、わたしの夢にも小さな変化が起きている。
知らない低い声が、耳もとであの節をなぞるのだ。
目覚めると、口の中にあの味がかすかに残っている。
歯を磨いても、うがいをしても、消えるまでに小一時間かかる。
婚約者と暮らすようになってからは、先に起きるようにしている。
寝言を聞かれたくないからだ。
自分が寝ているあいだに何を言っているのか、わたしは知らない。
喉に棲みつくもの
彼とは結局、彼の親が慰謝料を払うかたちできっぱりと別れた。
それで終わったはずだった。
しばらくして、彼の友人から妙な話を聞かされた。
あの男が毎晩、同じ悪夢を見続けているというのだ。
自分の身体が内側からゆっくりと傷んでいく夢だという。
指先から皮膚が黒くふやけて剥がれていく。
その感触まではっきりわかるのだと、彼はおびえていたらしい。
夢のせいで、まともに眠れなくなった。
食事も喉を通らなくなった。
みるみる痩せていった。
夜、目を閉じるのがこわいと友人に漏らしていたという。
だから明かりを煌々とつけたまま、椅子に座って夜を明かす。
それでも、うとうとすれば夢は待ち構えていた。
鏡を見るのを極端に嫌がるようにもなったらしい。
一年ほど経ったころ、彼が会社を辞めて入院したと聞いた。
共通の知人を通して、彼の写真を一枚見せられたことがある。
それは、わたしの知っている人とは別人だった。
頬はげっそりとこけ、肌は土気色をしていた。
目の下には黒い隈がべったりと貼りついていた。
その目は、見えないものにおびえるように宙を見ていた。
わたしはその写真をすぐに伏せた。
これ以上は見てはいけない気がした。
知人は、彼の実家が遠方へ移ったことも教えてくれた。
わたしはその町の名前を、わざと覚えないようにした。
写真を撮るのが好きな人だった。
わたしの横顔ばかりを撮っていた、あの人だ。
いまは、自分の顔を鏡で見ることさえできないでいる。
別れたあと、一度だけあの古い家の祖母の部屋を訪ねた。
秋の終わりで、土間には干し柿が吊るされていた。
部屋には薬の匂いと、線香の匂いが混じっていた。
祖母はもう床に伏せっていた。
彼に歌を歌ったことを打ち明けると、祖母はしわだらけの手でわたしの手を強く握った。
「歌は、相手にだけ効くんじゃない」
落ちくぼんだ目が、わたしをまっすぐに見た。
「歌った者の喉に棲みつくんだよ。一生、抜けやしない」
その手の冷たさを、わたしはいまでも覚えている。
祖母は、その冬に息を引き取った。
最後の一週間は、ほとんど言葉が出なかったと母から聞いた。
それでも、喉だけは動いていたそうだ。
看ていた叔母が「何か歌っとるみたいやった」と言った。
母はその話を、わたしの前で二度としなかった。
葬儀の日、わたしは開かずの仏間の黒い木札を初めて間近で見た。
戒名のないその札の裏に、小さな女文字で何かが彫られていた。
「歌、止メラレズ」
それだけだった。
わたしの何代前かの先祖も、きっとこの歌を止められなかったのだ。
札の木口は、何度も手で撫でられたように丸かった。
触れてはいけないと言われていたのに、である。
誰かが、長いあいだ、あれを握っていたことになる。
葬儀のあと、母は無言でその札の前に塩を置いた。
指の動きが、祖母のものとまったく同じだった。
わたしは廊下からそれを見ていた。
新しい塩の白さ
あれから何年も経った。
わたしは、もうあの歌を二度と歌っていない。
歌わないようにしている、というほうが正しい。
ふとした拍子に、あの節が喉もとまでせり上がってくることがあるからだ。
嫌なことがあった日。
誰かを許せないと思った日。
そんな夜は決まって、あの低い節が口の中で疼く。
わたしは唇を固く噛んで、それをこらえる。
先日、姪がわたしの家に泊まりに来た。
夜泣きをする姪を、妹が子守唄であやしていた。
そのありふれた優しい旋律を聞いていたとき。
わたしの喉の奥で、別の節がぴくりと動いた。
わたしは慌ててその場を離れた。
洗面所で口を何度もゆすいだ。
鏡の中の自分が、ほんの一瞬だけ祖母の顔に見えた気がした。
妹は何も気づかず、姪を寝かしつけて戻ってきた。
「どうしたん、顔色悪いで」
「水を飲みすぎた」
そう答えるのが、精いっぱいだった。
あの古い家は、いまは誰も住んでいない。
母が月に一度、風を通しに戻るだけだ。
それでも、黒い木札の前には、いつも新しい塩が供えられている。
盆に妹が撮ってきた写真にも、白い塩がはっきり写っていた。
先月、わたしは母に電話をかけた。
塩は誰が替えているのかと、遠回しに訊いたのだ。
母は少し黙ってから、こう言った。
受話器の向こうで、テレビの音が急に小さくなった。
「わたしは、去年の秋に足を痛めてから、あっちには行っとらん」
母があの家の風を通しに行ったのは、半年以上も前が最後だった。
わたしは、それ以上は訊かなかった。
訊けば、答えが返ってくる気がしたからだ。
母も、それ以上は何も言わなかった。
電話を切ったあと、受話器を持った手が汗ばんでいた。
旧い家の決めごとが人を縛る話は、かんぬきは下りていなかったのほうが詳しい。
母親が黙って続けていたことについては、いちばん下の引き出しだけ取っ手がないも読んでみてほしい。
婚約者には、この話をまだしていない。
優しい人だ。
きっと笑い話として聞き流してくれるだろう。
でも、わたしは知っている。
あれは笑い話ではない。
これから、きっと子どもも生まれるだろう。
その子が夜泣きをする夜が、いつか来る。
そのとき、わたしはその子を抱いてあやすことになる。
わたしの喉は、いつでもあの歌を思い出せる。
それが何よりこわい。