
これは私が幼い頃、秋田の祖母の家で見たものの話である。
後に兄と私が、くねくねと呼ぶようになったものだ。
今も、あれが何だったのかは分からない。
お盆の田んぼ道
祖母の実家には、年に一度、お盆の時期にしか行かなかった。
東京から新幹線と在来線を乗り継いで、半日がかりの道のりである。
駅からバスに揺られ、最後は舗装の切れた道を歩いた。
降りるとき、バスの運転手が「どこの子だい」と尋ねた。
祖母の名前を出すと、運転手は帽子を取って頭を下げた。
理由は、そのときの私には分からなかった。
道の両側には、背の低い石の地蔵が並んでいた。
どの地蔵も、顔が風雨で削れて平らになっていた。
私は八歳で、兄は十二歳だった。
家に着くと、祖母が縁側で麦茶を出してくれた。
氷の鳴る音と、蚊取り線香の匂いを覚えている。
座敷の仏壇には、白い花が供えられていた。
壁の高いところに、色褪せた農協のカレンダーが掛かっていた。
「田んぼの奥の方には、あまり行かんようにな」
祖母は麦茶を注ぎながら、独り言のように言った。
私は生返事をして、氷をかじっていた。
荷物を置くなり、私は兄の腕を引いて外へ駆け出した。
大都会の喧騒とは、まるで違う空気だった。
遠くまで続く青い稲が、風に合わせて同じ方向へ傾いた。
田んぼの畦を、兄と二人で走り回った。
サンダルの裏に泥がつき、足首まで跳ねた。
蛙が足元から飛び出すたびに、私は声を上げた。
兄は笑いながら、いちばん大きな蛙を追いかけていた。
兄は私の三歩先を、時々振り返りながら走った。
「あんまり遠くへ行くなよ」と、何度も言った。
約束を破ったのは、その日の私たちのほうである。
畦のところどころに、古い案山子が立っていた。
着物のぼろ布を巻いた、顔のない案山子ばかりだった。
祖母は、案山子に会ったら挨拶をするものだ、と言っていた。
私たちは半分ふざけて、ひとつずつ頭を下げて回った。
太陽が高くなり、影が足元に縮んでいった。
昼が近づいていたと思う。
止まった風と白い影
突然、風が止んだ。
それまで揺れていた稲が、一斉に静かになった。
蝉の声だけが、やけに大きく聞こえた。
風鈴の音も、遠くの犬の声も、いつの間にか消えていた。
空は晴れているのに、日差しが薄い膜をかぶったように鈍く見えた。
しばらくして、ねっとりとした熱い風が吹き始めた。
肌にまとわりつくような、湯気のような風である。
「こんなに暑いのに、なんでこんなに温かい風なんだよ」
私は文句を言った。
さっきまでの爽快感が奪われて、不機嫌になっていたのだ。
兄は返事をしなかった。
遠くのある一点を、じっと見つめていた。
そこには案山子が一本立っていた。
「何かあったのか」と私は尋ねた。
「いや、その向こうの……」
兄はそう言ったきり、目を凝らし続けた。
私も視線を追った。
案山子のさらに奥の、稲の上に、白いものが見えた。
人が着物を干したような、細長い白だった。
それが、うねうねと動いていた。
辺りは田んぼばかりで、人影はひとつもない。
農作業の人も、犬も、車も見当たらなかった。
私は戸惑ったが、すぐに答えを思いついた。
「新型の案山子じゃないか。この風で動いてるんだよ」
動く案山子など聞いたことがなかったので、誰かが新しく作ったのだと考えたのである。
兄は一瞬、納得した顔をした。
けれど、風が止んだ瞬間に、その顔が曇った。
風が止んでも、白いものは止まらなかったのである。
「おい、まだ動いてるぞ」
兄の声が、少しかすれていた。
「あれは、いったい何なんだ」
風のない田んぼの上で、白い影だけが同じ調子で動いていた。
関節がないような、どこが頭かも分からない動きだった。
白い布を風に振るような、といえば近いかもしれない。
けれど、布を振る人の姿は、どこにもなかった。
風が止んでいるのだから、布が揺れる理由もない。
理屈を並べるほど、足が前に出なくなった。
私は急に、足の裏が冷たくなるのを感じた。
双眼鏡のレンズ越し
兄は黙って家へ走って戻った。
しばらくして、祖父の古い双眼鏡を提げて帰ってきた。
どこか楽しそうな顔だった。
「俺が先に見るから、お前はちょっと待ってろ」
そう言って、兄は双眼鏡を目に当てた。
私は畦に立ったまま、兄の横顔を見ていた。
最初のうちは、口元に笑みがあった。
やがて、その笑みがゆっくりと消えていった。
首筋に汗が流れ、顔色が白くなっていくのが分かった。
双眼鏡を持つ手が、小刻みに揺れ始めた。
次の瞬間、兄は双眼鏡を取り落とした。
レンズが畦の石に当たって、乾いた音を立てた。
「何が見えた」
私は兄の袖をつかんで尋ねた。
兄は、すぐには答えなかった。
やがて、口が動いた。
聞こえてきたのは、兄の声ではなかった。
低く、平らで、抑揚のない声だった。
何を言ったのか、私は今も思い出せない。
兄はそれきり何も言わなかった。
そのまま背を向けて、家の方へ歩き出した。
呼びかけても、兄は振り返らなかった。
私は追いかけようとして、足が動かないことに気づいた。
畦の草が、足首に絡みついているように感じた。
実際には、ただ足がすくんでいただけである。
汗が背中を伝い、シャツが張りついた。
ひたひた、と草履のような足音がした。
兄はサンダルを履いていたはずである。
私は一人、畦に取り残された。
蝉の声が、さっきより近くで鳴いている気がした。
祖母の家の屋根が、遠くに小さく見えた。
戻るにも、進むにも、白いものの前を通らなければならない道に思えた。
私は兄の背中が玄関に消えるのを、ただ見ていた。
足元に落ちた双眼鏡が、日に光っていた。
見てはいけない、と体のどこかが言っていた。
それでも、私は双眼鏡を拾い上げた。
夢に出るくねくね
手に取った双眼鏡は、兄の汗で濡れていた。
私は震える手で、それを目に当てた。
最初は、緑ばかりが視界を埋めた。
ピントを合わせると、案山子の影が見えた。
その向こうで、白いものが動いていた。
近くで見ても、やはり人の形をしていた。
布のようにも見えたが、布にしては重たげに揺れていた。
骨がないのか、あるいは骨が多すぎるのか、判断がつかなかった。
私は唾を飲み込んだ。
喉の鳴る音が、自分の耳にだけ大きく響いた。
けれど、人にはあり得ない角度で曲がっていた。
腕のようなものが、ゆっくりと身をよじっている。
顔があるはずの場所は、白く塗りつぶされていた。
くねくねと、いつまでも同じ動きを繰り返していた。
私の全身を、寒気が走った。
それは生き物のようでもあり、そうでないようでもあった。
見ているうちに、目が離せなくなった。
まばたきをするのが、惜しいような気さえした。
見続ければ、何かが分かりそうだった。
同時に、分かってしまえば戻れない、とも思った。
どれくらいそうしていたのか、分からない。
気がつくと、祖母の手が私の肩に置かれていた。
祖母は何も言わなかった。
祖母の掌は、真夏だというのに冷たかった。
爪の間に、乾いた泥が詰まっていた。
玄関に入ると、祖母は戸口に塩を撒き、「もう見たらいかん」と小さく言った。
ただ、私の手から双眼鏡をそっと取り上げた。
そして、白いものの方を一度も見ずに、私を家へ連れて帰った。
その夜、兄は夕飯の席に現れなかった。
座敷には、私と祖母だけが座った。
祖母は兄の膳を、黙って奥の部屋へ運んだ。
私はその晩、祖母の隣の布団で眠った。
夜中に目が覚めると、廊下の向こうで兄が小さな声で何かを繰り返していた。
聞き取れたのは、同じ調子の短い言葉が、何度も続いていることだけだった。
朝になっても、布団の中から天井をぼんやり見ているだけだった。
翌朝には、いつもの兄に戻っていた。
けれど、あの日のことを聞くと、目をそらした。
私たちは、その後二度と秋田を訪れていない。
あの日から、私たち兄弟は、あれをくねくねとしか呼べなくなった。
祖母の家に行く話が出ると、兄は決まって別の用事を作った。
それから何年も、あの白い影は夢に出てきた。
夢の中でも、私は双眼鏡を覗いている。
田んぼの上で、くねくねと動くものを見ている。
ふとした瞬間に、今でもその光景が頭をよぎる。
私は今、東京で暮らしている。
田んぼのない街でも、夏の昼に風が止む瞬間がある。
そのたびに、遠くの一点を見てしまう癖がついた。
窓の向こうの、ビルの屋上の、白い洗濯物を。
熱い風の匂いと、蝉の声と一緒に。
祖母は私が高校に入る前に、静かに亡くなった。
葬儀の日、私は一度だけ、祖母の枕元で尋ねた。
あの白いものは、何だったのか、と。
返事はなかった。
祖母の家を継いだ叔父は、今もそこで米を作っている。
電話をするたびに、田んぼの奥には行くなと言う。
理由を聞いても、叔父は笑って話を変えてしまう。
ただ、祖母の家の裏の田んぼには、今も案山子が立っているという。
一本だけ、向きの違う案山子が。