水槽の中に入っていたもの

私は、もう十年ほど、自宅で淡水魚を飼っている。

幅九十センチほどの、それなりに大きな水槽だ。

水草を植え込んで、小さな魚たちが泳ぐ様子を眺めるのが、唯一の趣味だった。

その水槽に、私はある日、よけいなものを入れてしまった。

今思えば、あれを拾ってこなければ、何も起こらなかったのだ。

仕事で疲れて帰った夜、水槽の前に座るのが、私の唯一の安らぎだった。

青い光の中を、小さな魚が音もなく行き交う。

水の流れる、かすかな音だけが、部屋に満ちている。

その静けさが、ささくれた心を、いつも静かに鎮めてくれた。

だからこそ、その安らぎの場所で起きたことが、よけいに、私を打ちのめしたのだ。

その夏、私は車で、山間のダム湖まで足を延ばした。

水草を採取できる場所があると、知人に聞いたからだ。

湖はひどく静かで、岸辺には、流れ着いた木の枝が、いくつも転がっていた。

その中に、形のいい沈み木が一本あって、私はそれを水槽に入れようと思いついた。

水によくなじんだ、ほどよく黒ずんだ、いい枝だった。

拾い上げるとき、枝の節のところに、何か絡まっているのに気づいた。

はじめは、水草の根か、釣り糸の切れ端だろうと思った。

けれど、指でつまんで引っぱると、それは、長い髪の毛だった。

黒く、艶のある、女の髪のような数本が、枝にきつく巻きついていた。

湖は、釣りやキャンプもできる場所だったし、私は深く考えなかった。

その髪を引き抜いて捨て、枝だけを持ち帰ったのだ。

後になって、その髪のことが、どうしても気になった。

私は、ダム湖の近くに住む、知人に尋ねてみた。

すると知人は、少し言葉を濁してから、こう教えてくれた。

あの湖では昔、若い女の人が、身を投げたことがあるのだという。

遺体は、ずいぶん経ってから、岸辺の流木の間で見つかったらしい。

私が枝を拾った、ちょうどあのあたりだ、と知人は言った。

その話を聞いてから、私は、あの数本の髪のことを、思い出さずにいられなくなった。

沈み木は、煮沸してアク抜きをし、水槽の中ほどに据えた。

魚たちは、新しい隠れ家を喜ぶように、その周りを泳ぎ回った。

私の水槽は、日中、雨戸を閉めた薄暗い部屋に置いてある。

照明は、私の帰宅時刻に合わせて、タイマーで点くようにしてあった。

私の仕事は遅番で、帰り着くのは、いつも深夜だった。

だから水槽は、私が帰るまで、ずっと暗闇の中で息をしている。

枝を入れてからというもの、夜中に、ふと目が覚めることが増えた。

目を開けると、決まって、水槽のほうから、ちゃぷ、と小さな水音がした。

魚がはねたのだろうと、その時は思っていた。

今になって思えば、あれも、何かの前触れだったのかもしれない。

暗い部屋で、青白く光る水槽だけが、いつも私を見ているようだった。

その枝を入れて、何日かが過ぎた、ある晩のことだ。

残業で、いつもより遅く、私は部屋に帰り着いた。

部屋はまだ真っ暗で、私は手探りで、壁のスイッチを探した。

その時、暗闇の中で、水槽のフィルターが、突然、嫌な音を立てた。

ガ、ガガガッ、と、モーターが空気を噛むような、濁った音だった。

魚を飼う者なら分かるが、それは、水位が下がったときに起こる音だ。

フィルターが水を吸い込めず、空気を巻き込んでいるのだ。

暗く、静まり返った部屋で、その音は、ぞっとするほど大きく響いた。

だが、おかしい。

昨日、たっぷり水を足したばかりで、水位が下がるはずがなかった。

まさか、水漏れか。

私は、嫌な予感に駆られて、暗い床を、手のひらで探った。

絨毯は乾いていて、水のこぼれた様子はなかった。

床を探っているちょうどそのとき、タイマーが作動した。

かちり、という音とともに、水槽の照明が、ぱっと点いた。

暗闇の中に、水槽だけが、青白く浮かび上がる。

いつもなら、それは幻想的で、美しい光景のはずだった。

私は中腰のまま、顔だけを上げて、反射的に水槽を見た。

そして、息が止まった。

水槽の中に、人間の頭が、ひとつ、入っていた。

「……え」

間の抜けた声が、ひとつ、口から漏れただけだった。

見た瞬間は、本当に、それ以外の言葉が出てこなかった。

水の中で、長い髪が、水草のように、ゆらゆらと漂っていた。

顔は、こちらを向いているようだったが、髪が邪魔で、よく見えなかった。

肌は、淡い緑色に変わり、ところどころが、赤黒く滲んでいた。

わずかに開いた唇だけが、やけにはっきりと見えた。

私が拾ってきた、あの沈み木のすぐそばに、それは漂っていた。

枝に巻きついていた、あの数本の髪。

あれは、この頭の、髪だったのだ。

そのとき、再び、フィルターが空気を噛む音を立てた。

見ると、髪の毛が一房、フィルターの吸い込み口に、吸い寄せられていた。

水流に引かれて、漂う髪が、ゆっくりとめくれていく。

髪に隠れていた、その目が、今にも、こちらに現れようとしていた。

見てはいけない、と、全身が叫んだ。

逃げ出す間際、私は、どうしても気になって、もう一度だけ水槽を見そうになった。

だが、体が、それを許さなかった。

見れば、何か取り返しのつかないことになる。

理屈ではない、本能のような確信が、私の首を、無理やり別の方へ向けさせた。

あの目だけは、絶対に、見てはいけない。

そう思った瞬間、私は弾かれるように、玄関へ走っていた。

私は、とっさに、目をそらした。

視線を水槽に合わせないまま、後ずさりに、部屋を出た。

鞄を肩にかけたまま、靴も履かずに、私はアパートの外へ飛び出した。

心臓が、痛いほど、激しく打っていた。

夜の空気は生ぬるく、それでも私は、震えが止まらなかった。

大通りまで出て、私は一度だけ、自分の部屋の窓を見上げた。

水槽の照明がついたままなので、カーテンが、青白く光っていた。

その青白いカーテンの端が、なぜか、内側から、ぐにゃりと盛り上がっていた。

誰かが、内側から、そっと覗いているような。

私は、それ以上は見ないことにして、足早にその場を離れた。

その夜は、近くの終夜営業の店で、朝までぼんやりと過ごした。

明るい店内にいても、あの緑色の顔が、まぶたの裏に焼きついて離れなかった。

何かの見間違いだ、疲れているのだ、と、私は何度も自分に言い聞かせた。

けれど、あのフィルターの音だけは、はっきりと、耳に残っていた。

店の窓ガラスに、自分の顔が、ぼんやりと映っていた。

その後ろの暗がりに、ふと、誰かが立っているような気がして、何度も振り返った。

もちろん、そこには、誰もいなかった。

私は、温かい缶コーヒーを両手で握りしめて、震えをこらえていた。

あの盛り上がったカーテンの内側に、何がいたのか。

考えれば考えるほど、背筋が、冷たくなっていった。

夜が明けるのが、これほど待ち遠しかったことはなかった。

朝になって、私は意を決して、部屋に戻った。

玄関のドアを開け放したまま、テレビの音量を、わざと大きくした。

いつでも逃げ出せるように、靴も履いたままだった。

そして、思いきって、水槽のある部屋の襖を開けた。

水槽は、何事もなかったように、静かに稼働していた。

魚たちは、いつものように、沈み木の周りを泳いでいた。

水位も、きちんと元通りで、減ってなどいなかった。

そして、あの頭は、どこにもなかった。

水草が、ゆらゆらと揺れているだけだった。

私は、しばらく、その場に立ち尽くした。

やはり、見間違いだったのだろうか。

そう思おうとしても、心の底では、どうしても、そうは思えなかった。

私は、あの沈み木を、その日のうちに、燃えるゴミに出した。

魚たちも、悪いとは思ったが、近くの店に、すべて引き取ってもらった。

沈み木を燃えるゴミに出した朝、私は念のため、袋を二重にして固く縛った。

それでも、収集車が来るまでの間、その袋から、なぜか目を離せなかった。

風もないのに、袋の口のあたりが、かさり、と一度だけ動いた気がした。

気のせいだと、私は何度も自分に言い聞かせた。

だが、本当に気のせいなら、なぜ今も、髪は現れ続けるのだろう。

枝を持ち帰ったあの日、私は確かに、髪を引き抜いて、その場に捨てた。

捨てたはずの髪が、なぜ、水槽の中まで、ついてきたのか。

いや、ついてきたのは、髪だけではなかったのかもしれない。

気味が悪くて、私は水槽を、念入りに掃除した。

濾過槽のふたを開けると、中から、髪の毛が、どっと出てきた。

黒く、長い、女のものらしい髪が、何十本も、絡み合っていた。

私は吐き気をこらえて、それをすべて、捨てた。

これで終わりだと、自分に言い聞かせた。

知人の話を聞いてから、私は一度だけ、あの湖を、ネットで調べてみた。

古い記事に、行方不明者の名前と、見つかった日付が、短く載っていた。

私が枝を拾った日は、奇しくも、その人の命日に近かった。

偶然だと、思いたかった。

だが、濾過槽に現れ続ける髪が、それを偶然だと、許してくれなかった。

だが、終わりではなかった。

あれから、もう何年も経つというのに。

魚はもう、一匹も飼っていないのに。

それでも、今でもフィルターを掃除すると、必ず髪の毛が、数本だけ入っているのだ。

黒く、艶のある、あの湖で見たのと、同じ髪が。

髪が現れるのは、決まって、雨の続く時期だった。

梅雨のころや、長雨の夜に掃除をすると、ほとんど必ず、それは入っていた。

一度、思いきって濾過槽を密閉し、目張りまでしてみたことがある。

それでも、次に開けたとき、やはり髪は、数本だけ、そこにあった。

水道の水を使っているだけの、ただの濾過槽に。

あの湖の水など、もう一滴も残っていないはずなのに。

どこから入り込むのか、いくら考えても、分からない。

窓も閉めきった部屋の、密閉された濾過槽の中に。

なぜ、髪だけが、絶えることなく、現れ続けるのか。

濾過槽の髪を捨てるたびに、私は、あの緑色の顔を思い出す。

水の中で、こちらを向こうとしていた、あの顔を。

あのとき、もし目をそらさず、その目を見てしまっていたら。

今ごろ、私はどうなっていたのだろうと、考えてしまう。

見なかったから、私はまだ、こうして無事でいられるのかもしれない。

そう思うと、あの瞬間、首を背けさせた何かに、私は感謝すらしている。

私は、もう、水槽そのものを、手放そうかと考えている。

けれど、それを捨てたとして、本当に終わるのかどうか、それすら、私には分からないのだ。

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