私は、もう十年ほど、自宅で淡水魚を飼っている。
幅九十センチほどの、それなりに大きな水槽だ。
水草を植え込んで、小さな魚たちが泳ぐ様子を眺めるのが、唯一の趣味だった。
その水槽に、私はある日、よけいなものを入れてしまった。
今思えば、あれを拾ってこなければ、何も起こらなかったのだ。
仕事で疲れて帰った夜、水槽の前に座るのが、私の唯一の安らぎだった。
青い光の中を、小さな魚が音もなく行き交う。
水の流れる、かすかな音だけが、部屋に満ちている。
その静けさが、ささくれた心を、いつも静かに鎮めてくれた。
だからこそ、その安らぎの場所で起きたことが、よけいに、私を打ちのめしたのだ。
※
その夏、私は車で、山間のダム湖まで足を延ばした。
水草を採取できる場所があると、知人に聞いたからだ。
湖はひどく静かで、岸辺には、流れ着いた木の枝が、いくつも転がっていた。
その中に、形のいい沈み木が一本あって、私はそれを水槽に入れようと思いついた。
水によくなじんだ、ほどよく黒ずんだ、いい枝だった。
※
拾い上げるとき、枝の節のところに、何か絡まっているのに気づいた。
はじめは、水草の根か、釣り糸の切れ端だろうと思った。
けれど、指でつまんで引っぱると、それは、長い髪の毛だった。
黒く、艶のある、女の髪のような数本が、枝にきつく巻きついていた。
湖は、釣りやキャンプもできる場所だったし、私は深く考えなかった。
その髪を引き抜いて捨て、枝だけを持ち帰ったのだ。
後になって、その髪のことが、どうしても気になった。
私は、ダム湖の近くに住む、知人に尋ねてみた。
すると知人は、少し言葉を濁してから、こう教えてくれた。
あの湖では昔、若い女の人が、身を投げたことがあるのだという。
遺体は、ずいぶん経ってから、岸辺の流木の間で見つかったらしい。
私が枝を拾った、ちょうどあのあたりだ、と知人は言った。
その話を聞いてから、私は、あの数本の髪のことを、思い出さずにいられなくなった。
※
沈み木は、煮沸してアク抜きをし、水槽の中ほどに据えた。
魚たちは、新しい隠れ家を喜ぶように、その周りを泳ぎ回った。
私の水槽は、日中、雨戸を閉めた薄暗い部屋に置いてある。
照明は、私の帰宅時刻に合わせて、タイマーで点くようにしてあった。
私の仕事は遅番で、帰り着くのは、いつも深夜だった。
だから水槽は、私が帰るまで、ずっと暗闇の中で息をしている。
※
枝を入れてからというもの、夜中に、ふと目が覚めることが増えた。
目を開けると、決まって、水槽のほうから、ちゃぷ、と小さな水音がした。
魚がはねたのだろうと、その時は思っていた。
今になって思えば、あれも、何かの前触れだったのかもしれない。
暗い部屋で、青白く光る水槽だけが、いつも私を見ているようだった。
その枝を入れて、何日かが過ぎた、ある晩のことだ。
残業で、いつもより遅く、私は部屋に帰り着いた。
部屋はまだ真っ暗で、私は手探りで、壁のスイッチを探した。
その時、暗闇の中で、水槽のフィルターが、突然、嫌な音を立てた。
ガ、ガガガッ、と、モーターが空気を噛むような、濁った音だった。
※
魚を飼う者なら分かるが、それは、水位が下がったときに起こる音だ。
フィルターが水を吸い込めず、空気を巻き込んでいるのだ。
暗く、静まり返った部屋で、その音は、ぞっとするほど大きく響いた。
だが、おかしい。
昨日、たっぷり水を足したばかりで、水位が下がるはずがなかった。
※
まさか、水漏れか。
私は、嫌な予感に駆られて、暗い床を、手のひらで探った。
絨毯は乾いていて、水のこぼれた様子はなかった。
床を探っているちょうどそのとき、タイマーが作動した。
かちり、という音とともに、水槽の照明が、ぱっと点いた。
※
暗闇の中に、水槽だけが、青白く浮かび上がる。
いつもなら、それは幻想的で、美しい光景のはずだった。
私は中腰のまま、顔だけを上げて、反射的に水槽を見た。
そして、息が止まった。
水槽の中に、人間の頭が、ひとつ、入っていた。
※
「……え」
間の抜けた声が、ひとつ、口から漏れただけだった。
見た瞬間は、本当に、それ以外の言葉が出てこなかった。
水の中で、長い髪が、水草のように、ゆらゆらと漂っていた。
顔は、こちらを向いているようだったが、髪が邪魔で、よく見えなかった。
※
肌は、淡い緑色に変わり、ところどころが、赤黒く滲んでいた。
わずかに開いた唇だけが、やけにはっきりと見えた。
私が拾ってきた、あの沈み木のすぐそばに、それは漂っていた。
枝に巻きついていた、あの数本の髪。
あれは、この頭の、髪だったのだ。
※
そのとき、再び、フィルターが空気を噛む音を立てた。
見ると、髪の毛が一房、フィルターの吸い込み口に、吸い寄せられていた。
水流に引かれて、漂う髪が、ゆっくりとめくれていく。
髪に隠れていた、その目が、今にも、こちらに現れようとしていた。
見てはいけない、と、全身が叫んだ。
※
逃げ出す間際、私は、どうしても気になって、もう一度だけ水槽を見そうになった。
だが、体が、それを許さなかった。
見れば、何か取り返しのつかないことになる。
理屈ではない、本能のような確信が、私の首を、無理やり別の方へ向けさせた。
あの目だけは、絶対に、見てはいけない。
そう思った瞬間、私は弾かれるように、玄関へ走っていた。
私は、とっさに、目をそらした。
視線を水槽に合わせないまま、後ずさりに、部屋を出た。
鞄を肩にかけたまま、靴も履かずに、私はアパートの外へ飛び出した。
心臓が、痛いほど、激しく打っていた。
夜の空気は生ぬるく、それでも私は、震えが止まらなかった。
※
大通りまで出て、私は一度だけ、自分の部屋の窓を見上げた。
水槽の照明がついたままなので、カーテンが、青白く光っていた。
その青白いカーテンの端が、なぜか、内側から、ぐにゃりと盛り上がっていた。
誰かが、内側から、そっと覗いているような。
私は、それ以上は見ないことにして、足早にその場を離れた。
※
その夜は、近くの終夜営業の店で、朝までぼんやりと過ごした。
明るい店内にいても、あの緑色の顔が、まぶたの裏に焼きついて離れなかった。
何かの見間違いだ、疲れているのだ、と、私は何度も自分に言い聞かせた。
けれど、あのフィルターの音だけは、はっきりと、耳に残っていた。
店の窓ガラスに、自分の顔が、ぼんやりと映っていた。
その後ろの暗がりに、ふと、誰かが立っているような気がして、何度も振り返った。
もちろん、そこには、誰もいなかった。
私は、温かい缶コーヒーを両手で握りしめて、震えをこらえていた。
あの盛り上がったカーテンの内側に、何がいたのか。
考えれば考えるほど、背筋が、冷たくなっていった。
夜が明けるのが、これほど待ち遠しかったことはなかった。
※
朝になって、私は意を決して、部屋に戻った。
玄関のドアを開け放したまま、テレビの音量を、わざと大きくした。
いつでも逃げ出せるように、靴も履いたままだった。
そして、思いきって、水槽のある部屋の襖を開けた。
※
水槽は、何事もなかったように、静かに稼働していた。
魚たちは、いつものように、沈み木の周りを泳いでいた。
水位も、きちんと元通りで、減ってなどいなかった。
そして、あの頭は、どこにもなかった。
水草が、ゆらゆらと揺れているだけだった。
※
私は、しばらく、その場に立ち尽くした。
やはり、見間違いだったのだろうか。
そう思おうとしても、心の底では、どうしても、そうは思えなかった。
私は、あの沈み木を、その日のうちに、燃えるゴミに出した。
魚たちも、悪いとは思ったが、近くの店に、すべて引き取ってもらった。
沈み木を燃えるゴミに出した朝、私は念のため、袋を二重にして固く縛った。
それでも、収集車が来るまでの間、その袋から、なぜか目を離せなかった。
風もないのに、袋の口のあたりが、かさり、と一度だけ動いた気がした。
気のせいだと、私は何度も自分に言い聞かせた。
だが、本当に気のせいなら、なぜ今も、髪は現れ続けるのだろう。
※
枝を持ち帰ったあの日、私は確かに、髪を引き抜いて、その場に捨てた。
捨てたはずの髪が、なぜ、水槽の中まで、ついてきたのか。
いや、ついてきたのは、髪だけではなかったのかもしれない。
気味が悪くて、私は水槽を、念入りに掃除した。
濾過槽のふたを開けると、中から、髪の毛が、どっと出てきた。
黒く、長い、女のものらしい髪が、何十本も、絡み合っていた。
私は吐き気をこらえて、それをすべて、捨てた。
これで終わりだと、自分に言い聞かせた。
※
知人の話を聞いてから、私は一度だけ、あの湖を、ネットで調べてみた。
古い記事に、行方不明者の名前と、見つかった日付が、短く載っていた。
私が枝を拾った日は、奇しくも、その人の命日に近かった。
偶然だと、思いたかった。
だが、濾過槽に現れ続ける髪が、それを偶然だと、許してくれなかった。
だが、終わりではなかった。
あれから、もう何年も経つというのに。
魚はもう、一匹も飼っていないのに。
それでも、今でもフィルターを掃除すると、必ず髪の毛が、数本だけ入っているのだ。
黒く、艶のある、あの湖で見たのと、同じ髪が。
※
髪が現れるのは、決まって、雨の続く時期だった。
梅雨のころや、長雨の夜に掃除をすると、ほとんど必ず、それは入っていた。
一度、思いきって濾過槽を密閉し、目張りまでしてみたことがある。
それでも、次に開けたとき、やはり髪は、数本だけ、そこにあった。
水道の水を使っているだけの、ただの濾過槽に。
あの湖の水など、もう一滴も残っていないはずなのに。
どこから入り込むのか、いくら考えても、分からない。
窓も閉めきった部屋の、密閉された濾過槽の中に。
なぜ、髪だけが、絶えることなく、現れ続けるのか。
濾過槽の髪を捨てるたびに、私は、あの緑色の顔を思い出す。
水の中で、こちらを向こうとしていた、あの顔を。
あのとき、もし目をそらさず、その目を見てしまっていたら。
今ごろ、私はどうなっていたのだろうと、考えてしまう。
見なかったから、私はまだ、こうして無事でいられるのかもしれない。
そう思うと、あの瞬間、首を背けさせた何かに、私は感謝すらしている。
私は、もう、水槽そのものを、手放そうかと考えている。
けれど、それを捨てたとして、本当に終わるのかどうか、それすら、私には分からないのだ。