産婆だった祖母の違和感

赤ちゃん(フリー写真)

私の母方の祖母は、むかし産婆をしていました。

祖母の違和感について聞いたのは、祖母が亡くなってから、一年半が過ぎた春のことです。

それは、母が十年ほど前に、祖母本人から打ち明けられた話でした。

祖母の違和感の正体は、誰にも説明のつかないものでした。

ただ、聞いた日から、私は人に肩を叩かれるのが少し苦手になりました。

産婆の仕事の明るい話

産婆というのは、今で言う助産師のことです。

祖母が働いていたのは、今から五十年ほど前のことになります。

「どんな子も、小さいときは、まるで天使みたいにかわいいもんだ」

幼い私に、祖母はよくそう話してくれました。

縁側で麦茶を飲みながら聞く、その話が私は大好きでした。

熱いお湯を、たっぷりと用意すること。

清潔なシーツと毛布を、枕元に揃えておくこと。

赤ちゃんが生まれた瞬間の、部屋の空気が変わる感じ。

お母さんが涙を流して喜ぶ姿。

そんな場に居合わせられることが、産婆をしていて何よりも幸せなのだと、祖母は言いました。

幼い私に聞かせる話ですから、当然のことです。

祖母は、産婆という仕事の明るい部分だけを、おもしろおかしく語ってくれました。

産婆の鞄の中身も、見せてもらったことがあります。

黒い革の鞄には、さらしの布と、小さなはさみと、糸の束が入っていました。

「これが、命の入口の道具だよ」

鞄の底には、お守りの小さな袋も入っていました。

「お産はね、いつも、あっち側とこっち側の境目なんだよ」

祖母は、そんな不思議なことも、さらりと言う人でした。

祖母はそう言って、誇らしそうに鞄を撫でていました。

そんな祖母も、一年半前に亡くなりました。

最近になって、母がようやく、祖母の思い出話を笑ってできるようになりました。

「そういえば、おばあちゃん、よく産婆の話をしてくれたよね」

私がそう言うと、母は少し黙ってから、湯呑みを置きました。

「あんたには話さなかった、暗い部分の話があるのよ」

そう言って、母は静かに語り始めました。

夜通しの交代番

その日、祖母は朝から、今にも生まれそうな産婦さんの家にいました。

その村では、お産は自宅の奥の部屋でするものでした。

産婦さんは、風邪をこじらせていました。

奥の部屋には、行灯のような薄い灯りがひとつだけ点いていました。

障子の外では、虫の声が途切れ途切れに聞こえていたそうです。

湯を沸かす大きな釜の匂いが、廊下まで流れてきていました。

出産の日だというのに、熱で頬が赤くなっていたそうです。

周りの人は、母子の無事を案じて、落ち着かない様子でした。

祖母のほかに、もう一人、産婆が手伝いに来ていました。

Sさんという、当時三十五歳の産婆さんです。

背筋のまっすぐな人で、指がすらりと長く、動きに無駄がありませんでした。

笑うと目尻が下がるのに、目だけは笑っていないような人だった、と祖母は言いました。

「家が近いし、何かと人手もいるでしょう」

Sさんは、そう言って、自分から手伝いを申し出たそうです。

親切な人でした。

祖母はSさんと、何度か一緒に仕事をしたことがありました。

だから、とても心強かったといいます。

産婦のご家族や近所の人は、今か今かと、その時を待っていました。

けれど、昼になっても、夜になっても、なかなか生まれません。

やがて、みんなで一度落ち着こうということになりました。

祖母とSさんは、相談して、ご家族にこう伝えました。

「夜は私たち産婆が近くにつきます。代わり番こに眠りますから、任せてください」

産婦さんのお母さんは、「私もそばにいます」と言いました。

けれど、祖母とSさんは、やんわりと断りました。

「ご心配でお疲れでしょう。それに、そのときが来たら、すぐにお起こししますから」

お母さんは、渋々、了解しました。

廊下に出ていくその背中は、ひどく小さく見えたそうです。

襖が閉まる音が、やけに長く耳に残ったといいます。

家の中は、急に静かになりました。

二時間ずつの交代で、見守ることになりました。

祖母がSさんから番を受け、また二時間が経つと、今度は祖母がSさんに番を預けます。

それを、何度も繰り返しました。

このとき祖母は、ひとつだけ、いつもの習慣に気づいていました。

Sさんは、番を替わるたびに、必ず祖母の肩を、そっと二度叩いて起こしたのです。

とん、とん、と。

その手の温度は、少し冷たかったそうです。

「おばさん、交代ですよ」

小声で言われると、不思議と、すっと目が覚めたそうです。

祖母は、産婦さんの熱が夜中に上がるのではないかと、心配していました。

けれど、思ったほどには上がりませんでした。

このまま無事に乗り切れますようにと、祖母は祈っていたそうです。

目が覚めた朝

夜明け前のことでした。

祖母は、産婦さんの苦しそうな声で、はっと目を覚ましました。

陣痛が、始まっていたのです。

産婦さんの息づかいが、障子を震わせるほど荒くなっていました。

ぱっと見ると、Sさんは既に、真剣な顔で分娩の手助けをしていました。

部屋には、鉄のような匂いと、汗の匂いが混じっていました。

行灯の灯りが、Sさんの横顔に、長い影を落としていました。

祖母は、何となく違和感を覚えながら、急いで取り上げの手伝いに加わりました。

物音に気づいて、産婦さんのお母さんが、飛んで来ました。

その村には、暗黙の了解がありました。

お母さん以外の家族は、分娩をする部屋には入らない、というものです。

ほかの家族は、別の部屋で、ひたすら待っているのでした。

お母さんは、娘さんの手を、強く握っていました。

やがて、赤ん坊が取り上げられました。

どうにか、無事に生まれたのです。

産婦さんも、意識がはっきりしていました。

お母さんと祖母が、ほっと胸を撫で下ろしたときです。

Sさんが、ぽつりと言いました。

「この子、目ん玉が無いわ……」

部屋の空気が、凍りつきました。

祖母は、頭が半分、母親の体から出てきたときの、赤ん坊の顔を見ていました。

顔や指の数を確認するのは、取り上げた産婆の役目です。

今回、それを確かめるのはSさんでした。

けれど祖母は、長年の癖で、つい自分でも見てしまったのです。

そのとき、産湯の湯気が、天井に白く立ちのぼっていました。

湯気の向こうで、Sさんの顔は、ほとんど見えませんでした。

確かに、目は開いていませんでした。

でも、その下には、ちゃんと眼球の丸い盛り上がりがあった、と祖母は言いました。

赤ん坊のお母さんは、半狂乱になりました。

そのあと、長く、うつ状態に陥ったそうです。

何年か経って、母がその親子の噂を聞いたときには、その子を大切に育てていたということでした。

祖母の違和感

祖母は、そのことを、ずっと誰にも言えませんでした。

祖母の違和感は、年を重ねるごとに、胸の中で重くなっていったのでしょう。

「万が一、自分の見間違いだったらどうしよう」

そう思うと、口が開けなかったのです。

けれど、十年前、母にだけは、ぽつぽつと打ち明けました。

「Sさんが、あの赤ん坊の目を、わざとつぶしたんじゃないかと、疑わずにはいられないんだよ」

祖母は、湯呑みを両手で包みながら、そう言ったそうです。

母は、その言葉を聞いて、背筋がひやりとしたといいます。

祖母は、あの夜明けに目が覚めたときの違和感を、後から何度も考えました。

冷静になって思い返すと、答えはひとつでした。

Sさんは、番を替わるたびに、必ず祖母の肩を、二度叩いて起こしていた。

それなのに、その夜明けだけは、肩を叩く手が来なかったのです。

目が覚めたのは、産婦さんの声のせいでした。

つまり祖母は、Sさんに起こされたのではなく、自分で目を覚ましたのです。

Sさんは、なぜ「起きて」と、ひと言、声をかけてくれなかったのか。

祖母が眠っているあいだに、赤ん坊の頭は、もう半分出ていたのかもしれません。

その数分間、部屋には、Sさんと産婦さんだけがいたことになります。

Sさんが、一方的に、その産婦さんに何か恨みを持っていたのか。

それとも、祖母の思い違いで、その子は本当に、障害を持って生まれてきたのか。

祖母の手元には、その夜の記録は何も残っていません。

産婆の帳面には、ただ「無事に出産」とだけ、鉛筆で書かれていたそうです。

日付の横の小さな丸印が、妙に濃く塗りつぶされていたと、母は言いました。

今となっては、何も分かりません。

Sさんは、その後まもなく、村を離れたと聞きました。

祖母は、最後まで、その真相を口にしませんでした。

同じように、土地の暗がりを覗いた話に、盛り塩の物語があります。

夜道で出会う不思議な気配なら、トンネルの女の子の話にも通じるものを感じます。

母は、お盆に祖母の仏壇に手を合わせるたび、湯呑みの水を一度だけ替えます。

そして、私の肩を、そっと二度、叩くのです。

とん、とん、と。

その手の温度は、少し冷たかったそうです。

祖母が最後に言った言葉を、母は今でも、はっきり覚えています。

「あの夜明け、肩を叩く手が来なかったのが、いちばん怖かったんだよ」

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

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