
新潟での三日間の出張を終えて、私は東京行きの夜行バスに乗った。
本当は新幹線で帰るつもりだったのだが、予約していた便が車両故障で運休になり、振替先も全部埋まっていた。
仕方なく駅前のチケット売り場で、ぎりぎり一席だけ残っていた夜行バスを買った。
三十三歳、営業職で、月に何度も出張に出る生活だが、夜行バスに乗るのは久しぶりだった。
渡された乗車券を見ると、最後列の窓側、4Aと書かれている。
四列シートの一番後ろは、シートが倒れない代わりに広めに作られている、いわゆる「ハズレ」と呼ばれる席だった。
もっとも、この時間に空いていただけで御の字だ。
バスはちょうど雨が降り始めた二十二時三十分に出発した。
乗客は半分も埋まっていない。
後ろを振り返ると、最後列は私を含めて四席あるが、座っているのは私だけだった。
左の窓側に陣取り、リュックを足元に置いて、缶のお茶を二口だけ飲んだ。
運転手から定時の案内放送があり、深夜帯の停車予定地と消灯時刻が告げられた。
「次の休憩は、上越のサービスエリアで、二十三時五十分の予定です」
静かな声だった。
放送が終わると車内灯が落ち、足元の薄い案内灯だけが青白く点いた。
※
消灯から三十分ほど経って、私はうとうとし始めていた。
窓の外を流れる高速道路の街灯が、雨粒を伝って細い線になって流れていく。
そのときだった。
右側のシートが、軽く沈んだ気配がした。
誰かが座った、と感じて目を開けたが、暗くてよく見えない。
気のせいだったかと思い、もう一度目を閉じようとしたとき、隣から小さな声がした。
「すみません、酔ってしまって」
女性の声だった。
若いというより、二十代後半ぐらいに聞こえた。
暗がりの中で、肩の輪郭だけがぼんやり見える。
髪は長く、薄手のコートを羽織っているらしい。
「あ、いえ、大丈夫ですよ」
私はとっさに小声で答えた。
夜行バスでは見知らぬ客同士があまり話さないものだが、酔って後ろに移ってきたなら、揺れの少ない最後列に来たのだろうと納得した。
「私の方こそ、寝言とか、いびきとか、すみません」
適当にそんなことを言って、また目を閉じた。
女性はそれきり何も話さず、しばらくは小さく息をする音だけが聞こえていた。
しばらくして、運転手の控えめな放送が車内に流れた。
「まもなく、上越サービスエリアです」
窓の外には黄色い照明が見え、車体がゆっくりとカーブして駐車場に入った。
※
サービスエリアでは、二十分ほどの停車だった。
私は缶コーヒーが飲みたくて席を立った。
隣の女性も、私のあとから無言で立ち上がり、通路を先に歩いていった。
暗いバスから降りて、白い蛍光灯の下に出ると、彼女の後ろ姿がやっと少しはっきり見えた。
細身で、ベージュのコート、髪は背中の真ん中ぐらいまである。
足取りは特に酔っているようには見えなかった。
そのままトイレの方へ歩いていく彼女に、私は会釈だけして自販機コーナーに向かった。
缶コーヒーを買い、一服のためにベンチに座って、なんとなく時計を見た。
二十三時五十八分。
あと十分ほどで出発だ。
缶を空にしてバスに戻ると、運転手が出口の前で人数を数えていた。
「あれ、お客さん、最後列ですよね」
「そうです、4Aです」
運転手は手元の用紙を指さしながら言った。
「お一人だけなので、戻ってきてもらえてよかったです」
私は意味がわからず、軽く眉を寄せた。
「いえ、隣の方も降りられたはずですが」
「隣の方?」
運転手の顔から、表情がふっと薄くなった。
「最後列は、4Aだけのご予約ですよ。BもCもDも、空席です」
※
私はバスに戻り、座席に着いてから、もう一度後ろの三席を見た。
確かに、誰も座っていない。
シートには皺ひとつなく、座られた跡もない。
しかし、消灯後、隣に座って「酔ってしまって」と話しかけてきた女性のことを、私は確かに覚えていた。
声、肩の輪郭、コートの色、長い髪。
気のせいで片付けられるほど、曖昧な記憶ではない。
しばらくして、サービスエリアから乗客たちが戻ってきて、出発予定の時刻になった。
運転手は車内を一通り見回し、最後列の方をちらりと見た。
そして、私と一瞬目が合うと、何も言わずに前を向いた。
消灯がもう一度告げられ、バスはゆっくりと駐車場を出た。
私は窓の外を見つめながら、結局、東京に着くまでほとんど眠れなかった。
右側のシートからは、最後まで何の気配もしなかった。
ただ一度だけ、関越トンネルに入ったとき、暗いガラスの向こうに、自分とは違う輪郭が一瞬映ったように見えたが、目を凝らすと消えていた。
※
翌日、私は新宿の取引先に立ち寄ったあと、地元の友人と昼飯を食べた。
友人は新潟出身で、年に一度は実家に帰るので、夜行バスもよく使う。
何気なく、昨夜の話をしてみた。
消灯後に隣に来た女性のこと、サービスエリアで降りていったこと、運転手が「最後列は一人」と言ったこと。
友人は最初、笑いながら「夢でも見たんじゃないの」と取り合わなかった。
しかし、上越サービスエリアという地名を出した瞬間、箸を持つ手が止まった。
「上越って、上りの方?」
「うん、東京行きの方」
友人はしばらく黙ってから、声を落とした。
「お前、ニュース見てない?」
「何の?」
「三年前ぐらいに、若い女性がさ、夜行バスで東京に向かう途中、上越のサービスエリアで降りたまま、戻ってこなかった事件」
私は缶ビールを置いた。
友人は続けた。
「結局、そのあとどこに行ったかわからないままで、未だに見つかってないんだよ」
※
東京に戻ってから、私は気になって、何となく当時の報道を検索してみた。
確かに、三年前の春、上越のサービスエリアで停車していた東京行きの夜行バスから、二十代後半の女性が休憩中に降りたまま、戻ってこなかったという記事が出てきた。
所持品は座席に残されたままで、ベージュのコートだけが、車内に置かれていたという。
記事の写真は本人ではなく、サービスエリアの夜景しか出ていない。
それでも私は、その文章を読んでいるあいだじゅう、消灯後のバスで肩越しに聞こえた、あの控えめな声をはっきり思い出していた。
「すみません、酔ってしまって」
あの夜、彼女は本当に降りていったのだろうか。
それとも、ただ私の隣の席に、座っていただけなのだろうか。
その後、私は出張の予定があっても、夜行バスは使わないようにしている。
ただ、不思議と、あの声を怖いとは思わなかった。
会ったことのない誰かに、ほんの一瞬だけ、連れて行ってほしかったのかもしれない。
そんなふうに、勝手に思っている。