最後列の同乗者

バス

新潟での三日間の出張を終えて、私は東京行きの夜行バスに乗った。

本当は新幹線で帰るつもりだったのだが、予約していた便が車両故障で運休になり、振替先も全部埋まっていた。

仕方なく駅前のチケット売り場で、ぎりぎり一席だけ残っていた夜行バスを買った。

三十三歳、営業職で、月に何度も出張に出る生活だが、夜行バスに乗るのは久しぶりだった。

渡された乗車券を見ると、最後列の窓側、4Aと書かれている。

四列シートの一番後ろは、シートが倒れない代わりに広めに作られている、いわゆる「ハズレ」と呼ばれる席だった。

もっとも、この時間に空いていただけで御の字だ。

バスはちょうど雨が降り始めた二十二時三十分に出発した。

乗客は半分も埋まっていない。

後ろを振り返ると、最後列は私を含めて四席あるが、座っているのは私だけだった。

左の窓側に陣取り、リュックを足元に置いて、缶のお茶を二口だけ飲んだ。

運転手から定時の案内放送があり、深夜帯の停車予定地と消灯時刻が告げられた。

「次の休憩は、上越のサービスエリアで、二十三時五十分の予定です」

静かな声だった。

放送が終わると車内灯が落ち、足元の薄い案内灯だけが青白く点いた。

消灯から三十分ほど経って、私はうとうとし始めていた。

窓の外を流れる高速道路の街灯が、雨粒を伝って細い線になって流れていく。

そのときだった。

右側のシートが、軽く沈んだ気配がした。

誰かが座った、と感じて目を開けたが、暗くてよく見えない。

気のせいだったかと思い、もう一度目を閉じようとしたとき、隣から小さな声がした。

「すみません、酔ってしまって」

女性の声だった。

若いというより、二十代後半ぐらいに聞こえた。

暗がりの中で、肩の輪郭だけがぼんやり見える。

髪は長く、薄手のコートを羽織っているらしい。

「あ、いえ、大丈夫ですよ」

私はとっさに小声で答えた。

夜行バスでは見知らぬ客同士があまり話さないものだが、酔って後ろに移ってきたなら、揺れの少ない最後列に来たのだろうと納得した。

「私の方こそ、寝言とか、いびきとか、すみません」

適当にそんなことを言って、また目を閉じた。

女性はそれきり何も話さず、しばらくは小さく息をする音だけが聞こえていた。

しばらくして、運転手の控えめな放送が車内に流れた。

「まもなく、上越サービスエリアです」

窓の外には黄色い照明が見え、車体がゆっくりとカーブして駐車場に入った。

サービスエリアでは、二十分ほどの停車だった。

私は缶コーヒーが飲みたくて席を立った。

隣の女性も、私のあとから無言で立ち上がり、通路を先に歩いていった。

暗いバスから降りて、白い蛍光灯の下に出ると、彼女の後ろ姿がやっと少しはっきり見えた。

細身で、ベージュのコート、髪は背中の真ん中ぐらいまである。

足取りは特に酔っているようには見えなかった。

そのままトイレの方へ歩いていく彼女に、私は会釈だけして自販機コーナーに向かった。

缶コーヒーを買い、一服のためにベンチに座って、なんとなく時計を見た。

二十三時五十八分。

あと十分ほどで出発だ。

缶を空にしてバスに戻ると、運転手が出口の前で人数を数えていた。

「あれ、お客さん、最後列ですよね」

「そうです、4Aです」

運転手は手元の用紙を指さしながら言った。

「お一人だけなので、戻ってきてもらえてよかったです」

私は意味がわからず、軽く眉を寄せた。

「いえ、隣の方も降りられたはずですが」

「隣の方?」

運転手の顔から、表情がふっと薄くなった。

「最後列は、4Aだけのご予約ですよ。BもCもDも、空席です」

私はバスに戻り、座席に着いてから、もう一度後ろの三席を見た。

確かに、誰も座っていない。

シートには皺ひとつなく、座られた跡もない。

しかし、消灯後、隣に座って「酔ってしまって」と話しかけてきた女性のことを、私は確かに覚えていた。

声、肩の輪郭、コートの色、長い髪。

気のせいで片付けられるほど、曖昧な記憶ではない。

しばらくして、サービスエリアから乗客たちが戻ってきて、出発予定の時刻になった。

運転手は車内を一通り見回し、最後列の方をちらりと見た。

そして、私と一瞬目が合うと、何も言わずに前を向いた。

消灯がもう一度告げられ、バスはゆっくりと駐車場を出た。

私は窓の外を見つめながら、結局、東京に着くまでほとんど眠れなかった。

右側のシートからは、最後まで何の気配もしなかった。

ただ一度だけ、関越トンネルに入ったとき、暗いガラスの向こうに、自分とは違う輪郭が一瞬映ったように見えたが、目を凝らすと消えていた。

翌日、私は新宿の取引先に立ち寄ったあと、地元の友人と昼飯を食べた。

友人は新潟出身で、年に一度は実家に帰るので、夜行バスもよく使う。

何気なく、昨夜の話をしてみた。

消灯後に隣に来た女性のこと、サービスエリアで降りていったこと、運転手が「最後列は一人」と言ったこと。

友人は最初、笑いながら「夢でも見たんじゃないの」と取り合わなかった。

しかし、上越サービスエリアという地名を出した瞬間、箸を持つ手が止まった。

「上越って、上りの方?」

「うん、東京行きの方」

友人はしばらく黙ってから、声を落とした。

「お前、ニュース見てない?」

「何の?」

「三年前ぐらいに、若い女性がさ、夜行バスで東京に向かう途中、上越のサービスエリアで降りたまま、戻ってこなかった事件」

私は缶ビールを置いた。

友人は続けた。

「結局、そのあとどこに行ったかわからないままで、未だに見つかってないんだよ」

東京に戻ってから、私は気になって、何となく当時の報道を検索してみた。

確かに、三年前の春、上越のサービスエリアで停車していた東京行きの夜行バスから、二十代後半の女性が休憩中に降りたまま、戻ってこなかったという記事が出てきた。

所持品は座席に残されたままで、ベージュのコートだけが、車内に置かれていたという。

記事の写真は本人ではなく、サービスエリアの夜景しか出ていない。

それでも私は、その文章を読んでいるあいだじゅう、消灯後のバスで肩越しに聞こえた、あの控えめな声をはっきり思い出していた。

「すみません、酔ってしまって」

あの夜、彼女は本当に降りていったのだろうか。

それとも、ただ私の隣の席に、座っていただけなのだろうか。

その後、私は出張の予定があっても、夜行バスは使わないようにしている。

ただ、不思議と、あの声を怖いとは思わなかった。

会ったことのない誰かに、ほんの一瞬だけ、連れて行ってほしかったのかもしれない。

そんなふうに、勝手に思っている。

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