
七月の初め、私は海沿いの町で、住宅の工事を請け負っていました。
今から思えば、あの夏の昼休みの海岸の弁当こそが、すべての始まりでした。
現場は、子どもの頃に泳ぎ回った浜から、歩いて五分ほどの場所にありました。
遊泳禁止の札が立ってからは、地元の人もあまり近づかない浜です。
それでも私にとっては、懐かしい遊び場でした。
だから、現場監督として赴任した日の昼、ごく自然に足が浜へ向いたのです。
この話は、そこで一緒に弁当を食べていた、同い年の職人さんの話でもあります。
浜の石段に座ると、波の音が、胸の奥の古い記憶をそっと揺らしました。
子どもの頃、夏休みのたびに、友達と日が暮れるまで泳ぎ回った浜です。
帰りには、海水で冷えた体を、石段の熱で温めたものでした。
その思い出に引かれて、毎日通っているのだと、私は信じていました。
彼のことを、ここではA君と呼ぶことにします。
潮風にさらされた古い浜の景色は、今でも、目を閉じれば鮮やかに浮かびます。
白く乾いた石段、色褪せた遊泳禁止の札、そして、遠くで鳴く海猫の声。
どれも穏やかで、少しも恐ろしくはありませんでした。
だからこそ、あとから知った事実が、胸にずしりと重く残っているのです。
昼休みの海岸の弁当
A君は、下請けに入っていた内装の職人でした。
歳が近く、口数は少ないのに、不思議と気の合う人でした。
初めは私ひとりで、浜の石段に腰かけて、弁当の蓋を開けていました。
三日目あたりから、A君も黙ってついてくるようになりました。
「海を見ながら食うと、うまいですよね」
私がそう言うと、A君は少し笑って、うなずくだけでした。
七月の日差しは、ひどく強い日が続きました。
浜には日陰がひとつもなく、石段は、尻が焼けるほど熱くなります。
汗が顎を伝って、弁当の飯に落ちることもありました。
それでも私は、毎日、同じ石段に座りに行きました。
現場の事務所には冷房が入っていて、涼しい日陰もありました。
なのに、昼のチャイムが鳴ると、足は勝手に浜へ向かうのです。
日陰もない浜へ向かう足取りが、いつも不思議なほど軽いことにも、そのときは気づいていませんでした。
A君は、いつも私の半歩後ろを歩いてきました。
横に並んで歩くことは、一度もありませんでした。
理由を尋ねたこともありません。
ただ、律儀な人なのだろうと思っていました。
食べ終わると、A君は決まって、浜に背を向けて座り直しました。
そして、私が海をぼんやり眺めている間、じっと足元の砂を見ていました。
箸を持つ手も、どこか落ち着かず、ときどき、石段の影の長さを確かめるように、目を上げました。
私の弁当は、母が持たせてくれる、梅干しと焼き鮭の簡素なものでした。
A君は、コンビニのおにぎりを、いつも半分だけ食べて、残りを袋に戻していました。
「食べないんですか」
「うん、今日は、あんまり腹が減らなくて」
本当は、胸がいっぱいで、喉を通らなかったのかもしれません。
「海、見ないんですか」
「うん、俺は、見るとのぼせるから」
そんなやりとりを、何度かしたように思います。
今思えば、A君は、浜の話題になると、いつも少しだけ口数が減りました。
潮が満ちてくる時間を、腕時計で何度も確かめていたこともあります。
私は、せっかちな人なのだろうと、軽く考えていました。
弁当の汁が、石段に一滴こぼれると、A君はそれを、靴の先で、静かに砂へ隠しました。
そんな癖にも、そのときは、少しも疑いを持ちませんでした。
現場の日陰に戻った日
その日も、よく晴れていました。
空には雲ひとつなく、蝉の声が、現場のトタン屋根にじりじりと降り注いでいました。
朝から、A君は、どこか落ち着かない様子で、何度も浜のほうの空を見上げていました。
私は、暑さのせいだろうと、軽く受け流していました。
昼のチャイムが鳴り、私はいつものように弁当を持って立ち上がりました。
浜に着くと、石段の先の波打ち際に、十歳くらいの子どもが四人、遊んでいました。
遊泳禁止の札など、気にする様子もありません。
子どもの頃の自分を見るようで、私は思わず頬が緩みました。
いつもの石段に腰を下ろしかけたときです。
「今日は日差しが強いから、現場の日陰で食べませんか」
A君が、私の袖を、ぐいと引きました。
いつになく、強い力でした。
「ここで食べると、のぼせますよ」
「いや、でも、ここがいちばん落ち着くんだけどな」
「いいから、今日は戻りましょう」
その声が、わずかに震えていたことを、私はあとになって思い出しました。
確かに、その日の暑さは異様でした。
私は半ばあきれながら、A君に連れられて、現場の日陰へ戻りました。
資材置き場の陰で、二人で弁当を広げます。
海岸の弁当に比べると、その日の昼食は、ずいぶん味気ないものでした。
波の音もなく、潮の匂いもなく、遠くで電動工具が唸っているだけです。
私は、箸を持ったまま、何度も浜の方角を振り返りました。
そのたびに、A君が、小さく咳払いをして、私の注意を引き戻しました。
まるで、私の視線そのものを、そっと押さえているかのようでした。
風が通らず、汗が引くこともありませんでした。
それでも、A君はやけにほっとした顔で、箸を動かしていました。
食べ終えて、午後の作業の準備をしていたときのことです。
遠くで、サイレンの音がしました。
パトカーの音に混じって、頭の上を、ヘリコプターの羽音が通り過ぎていきます。
「何かあったのかな」
私が外へ出ようとすると、A君は、動きませんでした。
「俺は、やめときます」
その横顔が、ひどく青ざめて見えました。
私は他の職人たちと一緒に、野次馬の列に加わりました。
職人仲間のひとりが、小声で、この浜は昔から事故が多いと教えてくれました。
私は、そんな話を、それまで一度も耳にしたことがありませんでした。
知らないということが、これほど恐ろしいことだとは、思いもしませんでした。
人だかりは、さっきまで私が弁当を食べるつもりだった浜にできていました。
浜に近づくと、制服の警察官が、野次馬を後ろへ下がらせていました。
石段のそばには、ひとりの女性が、濡れた砂の上に膝をついていました。
その手には、小さなビーチサンダルが、片方だけ握られていました。
持ち主を呼ぶ声は、もう、かすれて音にならなくなっていました。
子どもの母親だと、誰かが小声で教えてくれました。
母親は、何も言わず、海のほうだけを、じっと見つめていました。
風が強くなり、波の音が、いつもより近く聞こえました。
私は、その背中を見ていられず、思わず目をそらしました。
浜に集まった人だかり
近くにいた人の話では、遊んでいた子どもが、ひとり、波にさらわれたということでした。
浜に目をやると、子どもたちの数が、確かにひとり減っていました。
さっき私が、頬を緩めて眺めていた子どもたちです。
胸の奥に、冷たい石を飲み込んだような重さが沈みました。
私は泳ぎには自信がありました。
いつもどおり浜で弁当を食べていれば、いちばんに気づけたかもしれません。
助けることも、できたのではないか。
そんな後悔が、波のように繰り返し寄せてきました。
警察や消防の人たちが、浜を行き来します。
沖のほうでは、ボートが何艘も、ゆっくり円を描いていました。
若い消防の隊員が、ゴムボートの上から、何度も水面を覗き込んでいます。
その肩が、ひどく落ちているのが、遠くからでも分かりました。
時間が経つにつれ、人だかりの空気は、少しずつ重く、静かになっていきました。
誰かが、小さな声で、祈るような言葉をつぶやいていました。
私は居ても立ってもいられなくなり、現場に戻りました。
A君は、まだ資材置き場の陰に、座っていました。
「俺たちが、いつもどおり浜にいたら、助けられたかもしれないよな」
私がそう言うと、A君は、力なく首を横に振りました。
「無理ですよ。だから俺は、今日あそこで食べたくなかったんです」
「どういう意味だよ」
A君は、しばらく黙っていました。
やがて、意を決したように、口を開きました。
「変な目で見ないでほしいんですけど」
A君は、自分の指先を見つめたまま、続けました。
「子どもの頃から、そういうものが、見えるんです」
「だから、水辺や古い橋のそばには、あまり行かないようにしてきました」
私は、笑い飛ばすことも、頷くこともできませんでした。
ただ、昨日までの海岸の弁当の景色が、まったく違う色に変わっていくのを感じていました。
「うん」
「あの浜には、いろいろいるんです」
私は、返す言葉を探せませんでした。
波の音が、遠くで、一定の間を置いて繰り返しています。
その音さえ、急に、誰かの息遣いのように聞こえてきました。
海から呼んでいたもの
「あなたは、そっち方面に疎いみたいだったから、言わないでおいたんですけど」
A君は、ゆっくりと話し始めました。
「現場の中のほうが涼しいのに、どうして毎日、浜で食べたがったんですか」
「そりゃ、海を見ながら食べると、うまいと思って」
「でも、毎日、暑い暑いって言いながら食べて、食べ終わると、すぐに事務所へ逃げ帰ってましたよね」
言われてみれば、そのとおりでした。
最初の日こそ、海を見ながら食べたいと思ったのは本心です。
けれど二日目からは、日陰もない浜に、なぜあれほど通い続けたのか。
自分でも、まったく説明がつきませんでした。
「あいつ等の狙いは、初めから、あなただったんです」
A君は、低い声で言いました。
「ずっと、呼ばれてたんですよ。海のほうから」
私は、背中の汗が、すっと冷えるのを感じました。
A君は、初めて現場で私に会ったときから、海の側が私に意識を合わせているのを感じていたそうです。
けれど、元請の監督に、真顔でそんなことを言えば、笑われるか、現場を追い出されるだけです。
だから、毎日、弁当についてきて、見張っていたのだと。
そのときの私は、ただ驚くばかりで、半歩後ろのことまでは、頭が回りませんでした。
「ただ、あなたは鈍すぎて、向こうも手こずってたみたいで」
A君は、苦笑いをしました。
「だから今日は、あなたの目の前で、子どもを引き込もうとしたんでしょう」
「子どもを助けに、あなたが海へ入ることを、知っていたから」
私は、声が出ませんでした。
「俺が邪魔をして、あなたを連れ戻したから、あの子が、身代わりになった」
「今日は、波長の合う子が来たせいで、俺にも、はっきり見えました」
「あなたを連れ戻したときの、あいつ等の顔は、本当に、恨めしそうでしたよ」
そこまで分かっていて、なぜ、遊んでいる子どもたちを止めなかったのか。
私は、思わず声を荒らげました。
A君は、うつむいたまま、静かに言いました。
「見えない人は、見えるものの怖さが分からないんです」
「子どもたちが遊んでいた場所は、完全に、あいつ等の領域でした」
「あなたもあれを見たら、きっと、一歩も近づけませんよ」
「あなたを連れ戻しただけでも、俺は、ずいぶん勇気を出したんです」
「たとえば、刃物を持った男に追われている子どもを、身を挺して助けられますか」
「関わったあとの面倒を、知っているからです」
それは、冷たい言葉でした。
A君は、続けて、小さな声で言い足しました。
「見える人間は、助けたい気持ちと、近づけない怖さの間で、いつも引き裂かれてるんです」
「だから、笑われても、黙ってるほうが、楽なんですよ」
私は、返事の代わりに、冷めた弁当の蓋を閉めました。
けれど、A君の手は、膝の上で、小さく震えていました。
半歩後ろを歩く人
その夜、私は車を走らせて、浜へ見に行きました。
A君の言葉が、頭の中で何度も繰り返されていたからです。
呼ばれていたのは、本当に、私だったのか。
それとも、私を通して、あの子を呼んでいたのか。
どれだけ考えても、答えは出ませんでした。
ヘリコプターは、まだ海沿いを飛び回っていました。
サーチライトの白い光が、黒い波の上を、ゆっくりと滑っていきます。
その光が、石段の近くを通るたびに、私は思わず息をひそめました。
何かが映ってしまうのではないかと、怖かったのです。
たくさんの人が、手に灯りを持って、暗い浜を探していました。
私は車の中から、その灯りの列を、ただ眺めていました。
浜の石段は、いつもの場所に、黙って置かれていました。
海のほうから、風が吹きました。
潮の匂いの中に、弁当の飯のような、ほのかに温かい匂いが混じった気がしました。
気のせいだと、思います。
それでも私は、車を降りて、石段のそばまで歩いていきました。
足元の砂は、昼間の熱をまだ残していて、ほんのりと温かでした。
海に向かって、私は、小さく手を合わせました。
あの子が、無事に見つかりますようにと、祈りました。
祈りながら、ふと、足を止めました。
自分のすぐ後ろに、誰かが立っているような気がしたのです。
振り向かずに、私は、そのまま車へ戻りました。
その後、A君は、他の現場へ移っていきました。
最後の日、私は何度か礼を言おうとしました。
けれど、A君は、いつものように、半歩後ろで笑うだけでした。
「面倒事は、御免ですから」
そう言って、背を向けかけて、ふと足を止めました。
「そういえば、ずっと聞かなかったですね。どうして半歩後ろなのか」
私は、あっと声を上げました。
気づいていたのに、聞けずにいたのです。
「あなたが振り向かないように、俺は後ろを歩いてたんです」
A君は、それだけ言うと、軽く手を挙げて、現場を出ていきました。
自分は、お人好しではないと、あれほど繰り返していた人です。
その彼が、去年の秋、川で溺れている子どもを助けて、そのまま、帰らぬ人となりました。
二度目は、見て見ぬふりができなかったのでしょう。
人を助けることは、彼にとって、一番怖いことだったはずです。
それでも彼は、水の中へ入っていきました。
その勇気を思うたびに、私は、石段で震えていた彼の手を、思い出します。
彼の知らせを聞いたとき、私は、あの夏の石段を思い出しました。
一度は、私を海から連れ戻した人が、今度は、自分から水の中へ入っていったのです。
それが、どんな気持ちだったのか、私には分かりません。
ただ、今でも、昼休みに海の近くを通ると、ふと、背中に気配を感じることがあります。
半歩後ろを、誰かが、黙ってついてくるような気配です。
振り向くと、そこには、潮の匂いがあるだけです。
「まだ、そっちじゃないですよ」
そんな声が、波の音に混じって、聞こえた気がしました。
A君のような人が、私の後ろに、まだいてくれるのかもしれません。
もしそうなら、私は、せめて前だけを向いて歩いていこうと思います。
振り向かずにいることが、あの半歩の優しさに応える、ただひとつの方法だからです。
私は今も、あの海岸の弁当の味だけは、忘れられずにいます。
あの石段で食べた梅干しの酸っぱさは、不思議と、今でも舌に残っています。
こんな不思議な体験は、いないはずの誰かの話にも通じます。
海や水辺に残る気配なら、会社の開かずの間も、どうぞ。