
去年の夏、俺は、友人二人と、無人の古い神社へ肝試しに行った。
蝋燭を一本ずつ灯して、社殿の裏の茂みまで順番に往復する。
それだけの、簡単な遊びのはずだった。
帰り際に、鳥居の前で、黒い水溜りを見た。
あの夜から、一年が経つ。
友人二人は、もう普通に暮らしている。
けれど俺の机の上では、今夜も、小さな火が灯っている。
消したはずの火だ。
蝋燭を灯す順番
大学三年の夏、期末試験の前の週だった。
気分転換と称して、友人のAが、「肝試しに行こうぜ」と言い出した。
もう一人の友人Bは、「試験前だぞ」と渋った。
「一時間で帰るから」と、Aは、手を合わせて頼み込んだ。
それでも結局、三人で、深夜のコンビニに集合した。
駐車場の白い照明に、羽虫が、無数に集まっていた。
俺は、缶コーヒーを三本買って、二人に配った。
試験の話は、誰も、口にしなかった。
あの夜、三人とも、どこか、現実から逃げたかったのだと思う。
Aは、懐中電灯と、コンビニの袋に入った蝋燭を持っていた。
仏壇用の、白くて細い蝋燭だ。
「雰囲気、大事だろ」と、Aは得意げに笑った。
目的地は、大学から車で三十分ほどの、山の麓の神社だった。
地元の人間も、もう滅多に行かないと聞いていた。
石段を上がると、鳥居の柱は、苔で緑色になっていた。
境内には、雑草が膝の高さまで伸びていた。
社殿は、屋根の一部が、傾いていた。
Bが、小声で言った。
「ちゃんと、礼してから入ろうぜ」
俺たちは、鳥居の前で、順番に頭を下げた。
小心者の三人が、できる精一杯の礼儀だった。
夜の山は、思ったより、静かだった。
虫の声が、一定の間隔で、闇に溶けていた。
ルールは、Aが決めた。
蝋燭に火を点けて、社殿の裏の茂みへ入る。
裏手には、苔むした小さな祠があるらしい。
その前に、蝋燭を置いて、手を合わせて、戻ってくる。
「順番は、じゃんけんな」
結果は、Bが最初で、Aが二番目、俺が最後だった。
Aが、「最後のやつが、一番怖いんだぞ」と、わざとらしく脅した。
俺は、笑って返したが、掌には、汗が滲んでいた。
Bは、震える手で、蝋燭に火を点けた。
炎が、風に煽られて、細く揺れた。
「行ってくる」
Bの背中が、茂みの奥へ消えていく。
しばらくして、遠くのほうで、Bの蝋燭の灯りが、ぽつんと見えた。
灯りは、ある一点で、止まった。
それから、数分して、Bは、一人で戻ってきた。
顔色が、少しだけ、白かった。
「どうだった」
「祠があった。ちゃんと置いてきた」
「何か、あったか」
「……いや。ただ」
Bは、言葉を探すように、首を傾げた。
「置いたとき、蝋燭の火が、一瞬、横を向いた」
風はなかった、と、Bは言った。
Aは、「気のせいだろ」と笑った。
けれど、その笑いは、いつもより、半拍遅れていた。
次は、Aだった。
Aは、冗談を言いながら、茂みへ入っていった。
けれど、その声は、奥へ進むにつれて、小さくなった。
やがて、聞こえなくなった。
灯りだけが、Bのと同じ場所で、止まった。
Aは、戻ってきたとき、笑っていなかった。
「……もう、いいや。次、お前な」
そう言って、俺に、懐中電灯を渡した。
俺は、蝋燭に火を点けた。
炎が、掌の中で、小さく、ひらめいた。
茂みを分けて、裏手へ入った。
足元で、枯れた枝が、ぱきぱきと鳴った。
炎が、頼りなく、前方の闇を、半円だけ照らしていた。
祠は、思ったより、小さかった。
苔と、湿った土と、古い線香のような匂いがした。
祠の前の石は、黒く、丸く、焦げていた。
そこに、BとAの蝋燭が、二本、並んで立っていた。
二本とも、まだ、火が点いていた。
俺は、その横に、自分の蝋燭を置こうとした。
けれど、置こうとして、手が止まった。
周りは、乾いた枯草だった。
火事になる、と思った。
俺は、置く前に、炎を、親指と人差し指で、つまんで消した。
熱さが、指先に、ぴりっと走った。
消した蝋燭を、そのまま、ジャケットのポケットに入れた。
そして、祠に手を合わせて、足早に戻った。
その行動が、何を意味するのか、そのときの俺は、知らなかった。
祠の前を離れるとき、背後で、二本の炎が、ぱちりと、小さく爆ぜた気がした。
振り返りはしなかった。
鳥居の前の黒い水溜り
石段を下りて、鳥居の前まで来たときだ。
背後に、気配を感じた。
最初は、風だと思った。
けれど、風にしては、重かった。
背中の真ん中に、冷たい手のひらを、そっと当てられたような感覚だった。
「……なあ」
Bが、前を向いたまま、言った。
「今、後ろ、誰かいる?」
誰も答えなかった。
Aの喉が、ごくりと鳴った。
振り返るまいと、俺は決めていた。
歩いてきた石段の途中で、足音が、一つ多いと気づいた。
三人分のはずが、四人分、聞こえていた。
誰も、そのことを、口にしなかった。
けれど、好奇心と、友情が、同時に背中を押した。
三人は、示し合わせたように、一斉に、振り返った。
月明かりに照らされた、社殿の前。
そこに、黒い水溜りが、あった。
最初は、影だと思った。
けれど、影は、動かない。
水溜りは、表面が、油のように、ゆっくり波打っていた。
雨は、降っていなかった。
地面は、乾いていた。
水溜りの縁だけが、くっきりと、円を描いていた。
その中心から、何かが、ずるりと、滑り出した。
黒い腕だった。
指が、長かった。
関節が、人間より、一つ多く見えた。
腕は、地面に、掌を押し当てて、体を引き上げようとしていた。
その後ろから、細長い頭部が、這い出てこようとしていた。
俺たちは、悲鳴を上げた。
歓声にも似た、裏返った声だった。
それから、全速力で、石段を駆け下りた。
Aが、一度、転んだ。
Bが、その腕を引いた。
誰も、振り返らなかった。
車に飛び乗って、エンジンをかけた。
ルームミラーに、鳥居の影が、映っていた。
その手前に、黒いものが、ゆっくり広がっているのが見えた。
俺は、ミラーを、見るのをやめた。
Aは、後部座席で、膝を抱えていた。
Bは、助手席で、何度も、シートベルトを、握り直していた。
コンビニの前を通り過ぎるまで、誰も、一言も、喋らなかった。
信号待ちで、Aが、ぽつりと言った。
「あれ、何だったんだろうな」
俺は、「見間違いだ」と答えた。
答えながら、自分でも、まるで信じていなかった。
家に着いたのは、午前三時を回っていた。
玄関で、靴を脱ぐとき、気づいた。
ジャケットのポケットが、ずしりと重かった。
あの蝋燭だった。
消したはずなのに、ほんのり、温かかった。
俺は、蝋燭を、玄関の靴箱の上に置いた。
そのまま、風呂にも入らず、布団に倒れ込んだ。
夢の中の三本
その夜、俺は、夢を見た。
真っ暗な背景の中に、蝋燭が、三本、立っている。
最初の一本に、火が灯った。
それが、Bのだと、なぜか分かった。
炎は、細く、揺れていた。
しばらくして、二本目に、火が灯った。
それが、Aのだと、分かった。
三本目には、火が点かなかった。
白い蝋燭が、闇の中で、冷たく、立っていた。
その三本を取り囲むように、黒い影が、輪を作っていた。
影は、何も言わなかった。
ただ、一本ずつ、数えるように、首を傾けていた。
目が覚めたとき、窓の外は、もう明るかった。
汗で、シーツが濡れていた。
枕元の目覚まし時計は、午前五時半を、指していた。
ほんの二時間しか、眠っていなかった。
それなのに、頭は、冴えきっていた。
その日の昼、Bから、電話があった。
「悪い、今日、休む」
声が、かすれていた。
自転車で、坂道を下っていて、ブレーキが利かなかったそうだ。
肋骨が二本折れて、入院するという。
「あの蝋燭、俺のが、一番最初に火を点けたやつだ」
Bは、独り言のように、言った。
「夢を、見たんだ。三本、並んでた」
俺は、返事ができなかった。
受話器の向こうで、病院のアナウンスが、かすかに響いていた。
Bの声は、いつもの、軽い調子ではなかった。
「一本目に、火が点いてた。それが、俺だった」
電話は、そこで切れた。
その夜の夢では、二本目の火が、少し、大きくなっていた。
そして、翌日、Aが、横断歩道で、車に接触された。
命に別状はないが、足の骨を折ったという。
大学の講義には、二人とも、しばらく来られない。
試験どころではなくなったと、研究室の友人が、教えてくれた。
三人で行った夜のことは、俺だけが、知っていることになった。
俺は、二日続けて、病院へ通った。
Bの病室には、窓際に、煤のような黒い汚れが、薄く残っていた。
看護師さんは、「火器は、使っていないんですけどね」と、首を傾げた。
Aの病室の床にも、同じような、薄い汚れがあった。
円を描くように、くっきりと。
「次は、お前だ」
Aが、天井を見たまま、言った。
冗談だと、言ってほしかった。
けれど、Aの目は、笑っていなかった。
「夢でさ、三本目の蝋燭の前に、誰か、立ってるんだ」
「誰か、って」
「顔は、見えない。ただ、蝋燭を、持ち上げようとしてる」
Aは、そこで、口を閉じた。
俺は、病院を出て、駐輪場の自転車に跨った。
ポケットの中で、蝋燭が、コトンと、小さな音を立てた。
その夜、俺は、夢を見なかった。
その代わり、枕元に、見覚えのない紙片が、置いてあった。
手のひらほどの、古い紙だった。
墨で、稲妻のような、曲がった線が、一本、引かれていた。
墨は、まだ、湿っていた。
俺は、紙片を、引き出しの奥にしまった。
捨てる気には、なれなかった。
なぜか、捨ててはいけない、と思った。
掃き掃除の老婆
二日後の朝、俺は、一人で、あの神社へ向かった。
昼間の石段は、夜よりも、ずっと、短かった。
鳥居の脇で、竹箒を使っている、老婆がいた。
白い割烹着を着て、背中が、ひどく曲がっていた。
「あの」
声をかけると、老婆は、手を止めて、振り返った。
「また、来たんか」
「え」
「若いのが、夜中に来て、火を置いていくけえ」
老婆は、箒に寄りかかって、俺を、じっと見た。
その目は、濁っていたが、焦点は、俺の顔に合っていた。
「あんた、何本、置いてきた」
「一本、です。いや、置かずに、持って帰りました」
言ってから、自分の声が、震えていることに気づいた。
老婆の表情が、ゆっくり、変わった。
「持って帰ったんか」
「火は、消しました。燃え移ると、危ないと思って」
「そりゃあ、あかんわ」
老婆は、箒の柄を、ぎゅっと握った。
「あすこの火は、灯したら、燃え尽きるまで、置いとくもんじゃ」
「消した者は」
「火を、借りたことになる」
老婆の声は、低く、乾いていた。
「置いた者の火は、置いた場所で、燃えとる。それが、あすこの決まりじゃ」
「友達が、二人、怪我をしました」
「置いたもんは、あすこで、数えられとるけえな」
老婆は、そこで、一度、口を閉じた。
それから、続けた。
「あんたの蝋燭は、どこにある」
「ポケットに、入ってます」
「見せてみい」
俺は、ジャケットのポケットから、蝋燭を取り出した。
白い、細い蝋燭だった。
火は、点いていなかった。
けれど、老婆は、その蝋燭を、見ただけで、後ろへ一歩、下がった。
「長さを、覚えとけ」
「え」
「毎晩、短うなる。短うなったら、返しに来にゃならん」
「返す、って、どこに」
老婆は、答えなかった。
かわりに、あの裏手の方向へ、顎をしゃくった。
そして、それきり、箒を動かし始めた。
さっきまでの会話が、なかったように。
箒の音だけが、さらさらと、境内に響いていた。
俺は、頭を下げて、その場を離れた。
礼を言う気には、なれなかったが、他にできることもなかった。
俺は、石段を駆け上がって、裏手へ回った。
祠の前の、黒く焦げた石の上に、蝋燭が、二本、並んでいた。
二本とも、まだ、火が点いていた。
昼間の日差しの中で、炎は、ほとんど見えなかった。
けれど、蝋燭は、確かに、短くなっていた。
風のない昼なのに、炎の先が、ふっと、こちらを向いた。
俺は、その場で、動けなかった。
社務所のような建物は、見当たらなかった。
あの老婆が、どこに住んでいるのかも、分からない。
帰りに、麓の商店で、神社のことを聞いた。
店の人は、「あそこは、誰も管理しとらんよ」と、不思議そうに言った。
「掃除する人なんて、おらんはずやけど」
俺は、礼を言って、店を出た。
あの老婆は、誰だったのだろう。
ポケットの中の蝋燭が、急に、重くなった気がした。
歩く速度を、自然と、速めていた。
振り返って、石段の上を見上げた。
鳥居の下に、小さな人影が、立っていた。
箒を持った、背の曲がった影だった。
その影は、俺に向かって、ゆっくり、頭を下げた。
机の上で灯る火
家に帰って、蝋燭の長さを測った。
十二センチだった。
定規の目盛りを、何度も確かめた。
机の上に、小皿を置いて、その上に立てた。
火は、点けていない。
その夜、俺は、寝る前に、もう一度、長さを測った。
十二センチ。
翌朝、目が覚めて、机を見た。
蝋燭の先から、細い煙が、立ち上っていた。
火が、灯っていた。
小さく、赤く。
窓は、閉まっていた。
俺は、指で、芯をつまんで、消した。
長さは、十一センチと、七ミリだった。
指の先に、薄い蝋が、白く残った。
それは、ひどく、温かかった。
その日から、毎晩、同じことが起きた。
寝る前に、消えていることを確認する。
朝、目覚めると、火が灯っている。
消しても、また、灯る。
捨てようとしたこともある。
ゴミ袋に入れて、集積所に出した。
けれど、夕方、帰宅すると、蝋燭は、机の小皿の上に、戻っていた。
袋は、きちんと、結んだままの形で、ゴミ箱に残っていた。
夜中、眠れなくて、携帯で、似た話を探した。
公図にだけ残る裏の町や、壁の内側を撮ってしまったが、出てきた。
どちらも、読んだ。
けれど、蝋燭を返す話は、どこにもなかった。
返す、という言葉が、頭から、離れなかった。
借りた火を、返す。
誰に、何を、返すというのか。
一週間が経つ頃には、蝋燭は、十センチになっていた。
Bの退院が決まった、と連絡が来た。
その翌日に、Aも、松葉杖で歩けるようになった。
二人が回復したのは、あの二本の火が、消えかけた頃だった。
そう思うのは、俺の勝手な想像かもしれない。
けれど、日数は、合っていた。
夜になると、俺は、机の前に、椅子を引いて座るようになった。
ただ、蝋燭を見ているだけだった。
炎の中に、ときどき、小さな人影のようなものが、揺れた。
三つあって、一つだけ、こちらを向いていた。
今夜の蝋燭は、あと三センチだ。
ひと晩に、一センチ近く、短くなる。
あと三日で、燃え尽きる。
あの老婆は、短くなったら返しに来い、と言った。
けれど、どこへ、どうやって返すのか、教えてくれなかった。
祠の前に置けば、いいのだろうか。
それとも、あの黒い水溜りに。
試験の日程も、もう、頭に入らなかった。
それでも俺は、答案用紙に、名前だけを書くために、大学へ通った。
Bも、Aも、俺には、何も言わない。
二人とも、あの夜のことを、もう話そうとしない。
見舞いに行っても、話題は、いつも、天気と食事のことだった。
まるで、何も起きなかったかのように。
それが、かえって、俺には、怖かった。
窓の外で、風が止んだ。
机の上の蝋燭は、消したはずの火を、また、灯していた。