犬に呪われたら

犬に恨まれると、本当に厄介なことになる。

これは、そのことを身をもって知った、私の情けない体験談だ。

できることなら、誰か知恵を貸してほしい。

私の実家には、私が生まれる前から一匹の犬がいた。

柴の雑種で、名をゴンといった。

正直に言えば、私はこのゴンが、どうにも苦手だった。

よく吠えるし、私の言うことだけは、まるで聞かない。

散歩の紐を持っても、私の手からはすぐに逃げようとする。

要するに、馬が合わなかったのだ。

ところが両親と兄は、このゴンを目に入れても痛くないほど可愛がっていた。

犬というのは、存外、人をよく見ているものらしい。

私がゴンを好いていないことを、あの犬はしっかり見抜いていた。

父や兄が帰宅すると、ゴンは尻尾を振って玄関へ飛んでいく。

それなのに、餌をやる私には、そっけない顔ひとつ向けるだけだ。

私は家族の見ていないところで、こっそりとゴンに毒づいた。

「まったく、可愛げのないやつだ」と。

私の実家は、祖父の代に建てられた、古い木造の平屋だった。

築年数はとうに五十年を超え、廊下を歩けば、あちこちで床板が軋んだ。

庭には大きな柿の木があり、その根元に、ゴンの犬小屋が置かれていた。

夏になると、ゴンはその木陰で、舌を出して寝そべっていたものだ。

縁側からその姿を眺めるのが、家族の何気ない日課だった。

私はといえば、その輪の中に、うまく入れずにいた。

ゴンが私にだけ心を開かない、その一点が、幼い私には棘のように刺さっていた。

中学に上がった頃、ゴンは天寿を全うした。

かなりの高齢だったから、大往生と言ってよかった。

薄情な話だが、私はどこかで、せいせいした気持ちを抱いていた。

これでもう、あの気難しい犬に気を使わずにすむ、と。

ところが、母の落ち込みようは、見ていられないほどだった。

母は日に日に元気をなくし、食卓に並ぶおかずも寂しくなっていった。

当時の私は、母の心よりも、夕飯の品数のほうが気がかりだった。

今思えば、我ながら呆れるほど幼い息子だった。

見かねた兄が、ある日、小さな子犬を一匹もらってきた。

母は最初こそ戸惑っていたが、少しずつ笑顔を取り戻していった。

その子犬を、家族はモモと名づけた。

不思議なもので、私はこのモモだけは、心から可愛がった。

素直で、人懐こくて、私にもよく懐いてくれたからだ。

ゴンとは大違いだ、と私は無邪気に思っていた。

今にして思えば、この比較こそが、私の失言だったのかもしれない。

ゴンが息を引き取った朝のことを、私はよく覚えている。

庭の犬小屋で、ゴンは眠るように、静かに冷たくなっていた。

兄は声を上げて泣き、父は黙って空を見上げていた。

母は、その小さな体を抱きしめて、いつまでも離さなかった。

その光景を、私は一歩引いたところから、ただ眺めていた。

涙は、一滴も出てこなかった。

それが、私の犯した、いちばん大きな過ちだったのかもしれない。

別れの悲しみすら、私はあの犬に、分けてやらなかったのだから。

モモは、来た当初から、私にだけ妙に懐いた。

帰省するたびに、玄関先で誰よりも早く、私に飛びついてきた。

「お前は素直でいい子だなあ」

私はモモの頭を撫でながら、いつもそう声をかけた。

その言葉を、当時の私は、なんの気なしに口にしていた。

ゴンには一度も、そんな優しい言葉をかけたことがなかったというのに。

モモを可愛がるほど、私はゴンへの後ろめたさを、遠くへ押しやっていた。

亡くなった相手に嫉妬させるなど、まさか犬にできるはずがない。

そう高をくくっていた自分を、今は心から悔いている。

忘れられない出来事がある。

小学校の低学年の頃、私はゴンに手を噛まれたことがあった。

餌の皿を取り上げようとした、ほんの一瞬のことだ。

傷は浅かったが、私はその日から、ゴンが恐ろしくなった。

母は「あなたが急に手を出すからよ」と、私ではなくゴンをかばった。

その一言が、いつまでも胸の底に、澱のように沈んでいた。

以来、私はゴンを、家族の一員として見ることをやめてしまった。

今思えば、心を閉ざしていたのは、犬ではなく、私のほうだった。

そんなふうにして、月日は流れた。

私は無事に大学へ進み、実家を離れて一人暮らしを始めた。

もともと私は、環境の変化に弱いたちだった。

引っ越してからというもの、なかなか寝つけない夜が続いた。

見慣れない天井を見上げているうちに、朝を迎えることもあった。

ところが、つい二日前のことだ。

その晩は珍しく、吸い込まれるように深い眠りに落ちた。

そして、久しぶりに夢を見た。

夢に出てきたのは、あのゴンだった。

よりによって、なぜこいつの夢を、と私は夢の中で毒づいた。

すると、ゴンが口を開いたのだ。

「私は、お前が嫌いだった」

もちろん、犬が言葉を話すはずがない。

それでも、その声は、はっきりと私の耳に届いた。

「私が居なくなってからも、ずっとお前を見ていた」

ゴンは、静かに、恨みがましくもなく、そう続けた。

「自分より長生きするお前が、どうにも赦せなかった」

私は、夢だと分かっていながら、背筋が寒くなった。

「だから、お前を呪うことに決めた」

そう言い終えると、目の前が、すうっと暗くなった。

気がつくと、私は自分の部屋で目を覚ましていた。

夢の中のゴンは、生前よりも、ずっと落ち着いて見えた。

毛並みは艶やかで、目には静かな光が宿っていた。

その姿は、私が知っているゴンよりも、どこか気高かった。

「お前は、私のことを一度でも、家族だと思ったか」

ゴンは、責めるでもなく、ただ淡々とそう尋ねた。

私は答えることができなかった。

沈黙こそが、何よりの答えだったのだろう。

ゴンは、ふっと、諦めたように鼻を鳴らした。

「私は、ずっとお前の帰りを、待っていたのにな」

その一言が、なぜか今も、胸の奥に刺さって抜けない。

一人暮らしの部屋は、大学から歩いて二十分ほどの、古いアパートだった。

六畳一間の、日当たりの悪い角部屋だ。

夜になると、隣の線路を走る終電の音が、壁越しに響いてきた。

その音を聞くたびに、私は妙に心細くなった。

実家の柿の木も、縁側も、もうそこにはない。

あれほど疎ましく思っていたゴンの吠え声さえ、ふと恋しくなる夜があった。

人は、失って初めて、その存在の大きさに気づくものらしい。

眠れない夜、私はよく、天井の木目をぼんやりと数えていた。

最初に気づいた違和感は、天井の高さだった。

いつもより、ずいぶんと高いところに天井がある。

寝ぼけているのだろうと、私は目をこすろうとした。

ところが、うまく手が動かない。

次に気づいたのは、部屋の家具が、やけに大きく見えることだった。

机も、椅子も、まるで巨人のもののようにそびえて見える。

そして、決定的な違和感が、私を襲った。

私の隣に、見知らぬ男が一人、寝息を立てて眠っていたのだ。

一人暮らしのはずの部屋に、なぜ男がいる。

私は声を上げようとしたが、喉から出たのは、低いうなり声だった。

頭の中が、ぐるぐると空回りした。

やがて、寝返りを打った男の顔が、常夜灯にぼんやりと照らされた。

その顔を見て、私は凍りついた。

そこで眠っていたのは、まぎれもなく、私自身の顔だった。

引っ越して間もない頃、私は一度だけ、奇妙な夢を見ていた。

暗い庭に、一匹の犬が、こちらをじっと見上げている夢だ。

顔は影になって見えないのに、その視線だけは、痛いほど感じられた。

目が覚めると、明け方の部屋は、しんと静まり返っていた。

あれは、今思えば、前触れだったのかもしれない。

あの晩から、私の周りでは、小さな異変が続いていた。

眠れない夜、実家の母の声が、ふいに耳の奥で蘇ることがある。

「この子は、あなたのことをちゃんと見てるのよ」

幼い私に、母はゴンを指して、そう言ったことがあった。

あのとき聞き流したその一言が、今になって、重くのしかかってくる。

見られていたのは、私の行いではなく、私の心そのものだったのだ。

今となっては、そのまなざしの意味が、痛いほどよく分かる。

閉めたはずの窓が、朝には少し開いていたり。

買った覚えのないドッグフードが、流し台の下に置かれていたり。

そのどれもを、私は気のせいだと、笑って片づけていた。

人は、信じたくないものからは、目をそらしてしまう生き物らしい。

起き上がろうとしても、体に力が入らない。

四肢が、自分の意志とは裏腹に、妙な方向へ曲がろうとする。

それだけではなかった。

視界が、いつもより低く、そして色彩が薄く感じられた。

世界が、まるで別のフィルターを通したように、くすんで見えるのだ。

鼻だけが、やたらと敏感になっていた。

隣で眠る男の、汗の匂いまでが、はっきりと嗅ぎ分けられた。

この時点で、私は自分の身に起きた異変を、うすうす悟りはじめていた。

混乱したまま、私は転がるように壁際の姿見へと向かった。

四本の脚が、もつれるようにしか動かない。

それでもどうにか鏡の前にたどり着き、私はそこを覗き込んだ。

鏡に映っていたのは、一匹の犬だった。

見覚えのある、素直そうな垂れ目。

それは、実家で可愛がっていたはずの、モモの姿だった。

いや、正確には、モモの体に入った、私だった。

私は確信した。

これは、ゴンの呪いだ。

あの夢は、ただの夢などではなかったのだ。

呆然と立ち尽くしていると、背後で、私の体がもぞもぞと動いた。

どうやら、目を覚ましたらしい。

私の体は、ゆっくりと起き上がり、犬になった私を見下ろした。

そして、にたりと笑って、一言こう言った。

「おはよう。よく眠れたか」

その声は、確かに私の声でありながら、私のものではなかった。

背筋を、氷のような何かが、すうっと滑り落ちていった。

鏡の中の犬が、私の動きに合わせて、首をかしげた。

間違いなく、それは私自身だった。

モモの、あの人懐こい垂れ目が、絶望に見開かれていた。

私は、声にならない声で、何度も自分の名を呼んだ。

けれど、鏡の中の犬は、ただ弱々しく鳴くばかりだった。

人間の言葉は、もう、どこにも残っていなかった。

犬の体での生活は、想像を絶する不自由さだった。

扉のノブは回せず、蛇口はひねれない。

文字を書こうにも、前足ではペンひとつ握れない。

それでも私は、諦めきれずに、あらゆる手を試した。

床に散らばった新聞に、鼻先で丸をつけてみたこともある。

けれど、あいつはそれを見て、ただ楽しげに笑うだけだった。

「賢い犬だな。芸でも仕込んでやろうか」

その言葉の裏に、私は確かな悪意を感じ取った。

あいつは、私が私であることに、とうに気づいているのだ。

気づいた上で、この状況を、心ゆくまで愉しんでいる。

それからというもの、私は懸命に、この呪いを解く方法を探している。

だが、犬の体では、できることが驚くほど限られている。

私の姿をしたあいつは、平然と大学へ通い、私の暮らしを乗っ取っていく。

実家に電話をかけようにも、受話器は前足では持ち上がらない。

誰かに助けを求めようにも、口から出るのは、情けない鳴き声だけだ。

それでも私は、諦めるわけにはいかない。

私は今、慣れない前足で、懸命にこの文章を打ち込んでいる。

もし、動物と体が入れ替わる呪いについて、何か知っている人がいたら。

どうか、この愚かな私に、力を貸してほしい。

……ああ、あいつが帰ってきたようだ。

玄関で、私の声が、上機嫌に「ただいま」と言っている。

そして、私の顔をした何かが、こちらを見て、優しく笑うのだ。

「いい子にしてたか」と。

あいつは、私の名前で、私の友人たちと笑い合っているのだろう。

私の代わりに講義に出て、私の代わりにレポートを書いているのだろう。

そして夜になると、私を、モモの体をした私を、優しく撫でるのだ。

「いい子だ、いい子だ」と、心にもない声で。

その手つきの優しさが、かえって私を、ぞっとさせる。

あいつは、ずっとこの日を待っていたのだ。

自分より長く生きた私が、心の底から憎かったのだと。

ならば、なぜモモの体なのか。

私が唯一、心を許した犬だったからだろうか。

それとも、これがあいつなりの、最後の意趣返しなのだろうか。

考えれば考えるほど、答えは、暗がりの奥へと遠ざかっていく。

どうにかして、あいつの隙をつけないものか。

私は毎日、犬の頭で、あらゆる作戦を練っている。

だが、思考だけは人間のままでも、体は完全に犬のそれだ。

腹が減れば、餌の皿の前で情けなく待つしかない。

眠くなれば、抗いようもなく、まぶたが落ちていく。

人間だった頃の理性が、少しずつ、犬の本能に侵食されていく気がする。

このまま時が経てば、私は本当に、ただの犬になってしまうのだろうか。

自分が誰だったのかさえ、忘れてしまう日が来るのだろうか。

それを思うと、鼻の奥が、つんと痛くなる。

犬になってから、私はよく、実家の柿の木を思い出す。

あの木陰で、ゴンはいつも、私が近づくのを待っていたのかもしれない。

ただ一度、頭を撫でてほしかっただけなのかもしれない。

それに気づけなかった自分が、今はただ、情けない。

もし呪いが解けたなら、私は真っ先に、あの木の下へ行くだろう。

そして、モモの頭を撫でるのと同じ手で、ゴンの墓標に触れたい。

「遅くなって、すまなかった」と、そう伝えたい。

届かないと分かっていても、伝えずにはいられないのだ。

だから、これを読んでいるあなたに、ひとつだけ伝えておきたい。

もし身近に、あなたを疎ましく思う相手がいるのなら。

たとえそれが、言葉を持たない生き物であっても、侮らないでほしい。

心の声は、思いのほか、遠くまで届いてしまうものらしい。

私は、たった一匹の犬の思いを、長いあいだ、踏みにじってきた。

その報いが、今のこの姿なのだとしたら、受け入れるほかない。

それでも、諦めきれずに、私はこうして助けを求めている。

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