犬に恨まれると、本当に厄介なことになる。
これは、そのことを身をもって知った、私の情けない体験談だ。
できることなら、誰か知恵を貸してほしい。
私の実家には、私が生まれる前から一匹の犬がいた。
柴の雑種で、名をゴンといった。
正直に言えば、私はこのゴンが、どうにも苦手だった。
よく吠えるし、私の言うことだけは、まるで聞かない。
散歩の紐を持っても、私の手からはすぐに逃げようとする。
要するに、馬が合わなかったのだ。
ところが両親と兄は、このゴンを目に入れても痛くないほど可愛がっていた。
犬というのは、存外、人をよく見ているものらしい。
私がゴンを好いていないことを、あの犬はしっかり見抜いていた。
父や兄が帰宅すると、ゴンは尻尾を振って玄関へ飛んでいく。
それなのに、餌をやる私には、そっけない顔ひとつ向けるだけだ。
私は家族の見ていないところで、こっそりとゴンに毒づいた。
「まったく、可愛げのないやつだ」と。
※
私の実家は、祖父の代に建てられた、古い木造の平屋だった。
築年数はとうに五十年を超え、廊下を歩けば、あちこちで床板が軋んだ。
庭には大きな柿の木があり、その根元に、ゴンの犬小屋が置かれていた。
夏になると、ゴンはその木陰で、舌を出して寝そべっていたものだ。
縁側からその姿を眺めるのが、家族の何気ない日課だった。
私はといえば、その輪の中に、うまく入れずにいた。
ゴンが私にだけ心を開かない、その一点が、幼い私には棘のように刺さっていた。
中学に上がった頃、ゴンは天寿を全うした。
かなりの高齢だったから、大往生と言ってよかった。
薄情な話だが、私はどこかで、せいせいした気持ちを抱いていた。
これでもう、あの気難しい犬に気を使わずにすむ、と。
ところが、母の落ち込みようは、見ていられないほどだった。
母は日に日に元気をなくし、食卓に並ぶおかずも寂しくなっていった。
当時の私は、母の心よりも、夕飯の品数のほうが気がかりだった。
今思えば、我ながら呆れるほど幼い息子だった。
見かねた兄が、ある日、小さな子犬を一匹もらってきた。
母は最初こそ戸惑っていたが、少しずつ笑顔を取り戻していった。
その子犬を、家族はモモと名づけた。
不思議なもので、私はこのモモだけは、心から可愛がった。
素直で、人懐こくて、私にもよく懐いてくれたからだ。
ゴンとは大違いだ、と私は無邪気に思っていた。
今にして思えば、この比較こそが、私の失言だったのかもしれない。
※
ゴンが息を引き取った朝のことを、私はよく覚えている。
庭の犬小屋で、ゴンは眠るように、静かに冷たくなっていた。
兄は声を上げて泣き、父は黙って空を見上げていた。
母は、その小さな体を抱きしめて、いつまでも離さなかった。
その光景を、私は一歩引いたところから、ただ眺めていた。
涙は、一滴も出てこなかった。
それが、私の犯した、いちばん大きな過ちだったのかもしれない。
別れの悲しみすら、私はあの犬に、分けてやらなかったのだから。
モモは、来た当初から、私にだけ妙に懐いた。
帰省するたびに、玄関先で誰よりも早く、私に飛びついてきた。
「お前は素直でいい子だなあ」
私はモモの頭を撫でながら、いつもそう声をかけた。
その言葉を、当時の私は、なんの気なしに口にしていた。
ゴンには一度も、そんな優しい言葉をかけたことがなかったというのに。
モモを可愛がるほど、私はゴンへの後ろめたさを、遠くへ押しやっていた。
亡くなった相手に嫉妬させるなど、まさか犬にできるはずがない。
そう高をくくっていた自分を、今は心から悔いている。
忘れられない出来事がある。
小学校の低学年の頃、私はゴンに手を噛まれたことがあった。
餌の皿を取り上げようとした、ほんの一瞬のことだ。
傷は浅かったが、私はその日から、ゴンが恐ろしくなった。
母は「あなたが急に手を出すからよ」と、私ではなくゴンをかばった。
その一言が、いつまでも胸の底に、澱のように沈んでいた。
以来、私はゴンを、家族の一員として見ることをやめてしまった。
今思えば、心を閉ざしていたのは、犬ではなく、私のほうだった。
そんなふうにして、月日は流れた。
私は無事に大学へ進み、実家を離れて一人暮らしを始めた。
もともと私は、環境の変化に弱いたちだった。
引っ越してからというもの、なかなか寝つけない夜が続いた。
見慣れない天井を見上げているうちに、朝を迎えることもあった。
ところが、つい二日前のことだ。
その晩は珍しく、吸い込まれるように深い眠りに落ちた。
そして、久しぶりに夢を見た。
夢に出てきたのは、あのゴンだった。
よりによって、なぜこいつの夢を、と私は夢の中で毒づいた。
すると、ゴンが口を開いたのだ。
「私は、お前が嫌いだった」
もちろん、犬が言葉を話すはずがない。
それでも、その声は、はっきりと私の耳に届いた。
「私が居なくなってからも、ずっとお前を見ていた」
ゴンは、静かに、恨みがましくもなく、そう続けた。
「自分より長生きするお前が、どうにも赦せなかった」
私は、夢だと分かっていながら、背筋が寒くなった。
「だから、お前を呪うことに決めた」
そう言い終えると、目の前が、すうっと暗くなった。
気がつくと、私は自分の部屋で目を覚ましていた。
※
夢の中のゴンは、生前よりも、ずっと落ち着いて見えた。
毛並みは艶やかで、目には静かな光が宿っていた。
その姿は、私が知っているゴンよりも、どこか気高かった。
「お前は、私のことを一度でも、家族だと思ったか」
ゴンは、責めるでもなく、ただ淡々とそう尋ねた。
私は答えることができなかった。
沈黙こそが、何よりの答えだったのだろう。
ゴンは、ふっと、諦めたように鼻を鳴らした。
「私は、ずっとお前の帰りを、待っていたのにな」
その一言が、なぜか今も、胸の奥に刺さって抜けない。
一人暮らしの部屋は、大学から歩いて二十分ほどの、古いアパートだった。
六畳一間の、日当たりの悪い角部屋だ。
夜になると、隣の線路を走る終電の音が、壁越しに響いてきた。
その音を聞くたびに、私は妙に心細くなった。
実家の柿の木も、縁側も、もうそこにはない。
あれほど疎ましく思っていたゴンの吠え声さえ、ふと恋しくなる夜があった。
人は、失って初めて、その存在の大きさに気づくものらしい。
眠れない夜、私はよく、天井の木目をぼんやりと数えていた。
最初に気づいた違和感は、天井の高さだった。
いつもより、ずいぶんと高いところに天井がある。
寝ぼけているのだろうと、私は目をこすろうとした。
ところが、うまく手が動かない。
次に気づいたのは、部屋の家具が、やけに大きく見えることだった。
机も、椅子も、まるで巨人のもののようにそびえて見える。
そして、決定的な違和感が、私を襲った。
私の隣に、見知らぬ男が一人、寝息を立てて眠っていたのだ。
一人暮らしのはずの部屋に、なぜ男がいる。
私は声を上げようとしたが、喉から出たのは、低いうなり声だった。
頭の中が、ぐるぐると空回りした。
やがて、寝返りを打った男の顔が、常夜灯にぼんやりと照らされた。
その顔を見て、私は凍りついた。
そこで眠っていたのは、まぎれもなく、私自身の顔だった。
※
引っ越して間もない頃、私は一度だけ、奇妙な夢を見ていた。
暗い庭に、一匹の犬が、こちらをじっと見上げている夢だ。
顔は影になって見えないのに、その視線だけは、痛いほど感じられた。
目が覚めると、明け方の部屋は、しんと静まり返っていた。
あれは、今思えば、前触れだったのかもしれない。
あの晩から、私の周りでは、小さな異変が続いていた。
眠れない夜、実家の母の声が、ふいに耳の奥で蘇ることがある。
「この子は、あなたのことをちゃんと見てるのよ」
幼い私に、母はゴンを指して、そう言ったことがあった。
あのとき聞き流したその一言が、今になって、重くのしかかってくる。
見られていたのは、私の行いではなく、私の心そのものだったのだ。
今となっては、そのまなざしの意味が、痛いほどよく分かる。
閉めたはずの窓が、朝には少し開いていたり。
買った覚えのないドッグフードが、流し台の下に置かれていたり。
そのどれもを、私は気のせいだと、笑って片づけていた。
人は、信じたくないものからは、目をそらしてしまう生き物らしい。
起き上がろうとしても、体に力が入らない。
四肢が、自分の意志とは裏腹に、妙な方向へ曲がろうとする。
それだけではなかった。
視界が、いつもより低く、そして色彩が薄く感じられた。
世界が、まるで別のフィルターを通したように、くすんで見えるのだ。
鼻だけが、やたらと敏感になっていた。
隣で眠る男の、汗の匂いまでが、はっきりと嗅ぎ分けられた。
この時点で、私は自分の身に起きた異変を、うすうす悟りはじめていた。
混乱したまま、私は転がるように壁際の姿見へと向かった。
四本の脚が、もつれるようにしか動かない。
それでもどうにか鏡の前にたどり着き、私はそこを覗き込んだ。
鏡に映っていたのは、一匹の犬だった。
見覚えのある、素直そうな垂れ目。
それは、実家で可愛がっていたはずの、モモの姿だった。
いや、正確には、モモの体に入った、私だった。
私は確信した。
これは、ゴンの呪いだ。
あの夢は、ただの夢などではなかったのだ。
呆然と立ち尽くしていると、背後で、私の体がもぞもぞと動いた。
どうやら、目を覚ましたらしい。
私の体は、ゆっくりと起き上がり、犬になった私を見下ろした。
そして、にたりと笑って、一言こう言った。
「おはよう。よく眠れたか」
その声は、確かに私の声でありながら、私のものではなかった。
背筋を、氷のような何かが、すうっと滑り落ちていった。
※
鏡の中の犬が、私の動きに合わせて、首をかしげた。
間違いなく、それは私自身だった。
モモの、あの人懐こい垂れ目が、絶望に見開かれていた。
私は、声にならない声で、何度も自分の名を呼んだ。
けれど、鏡の中の犬は、ただ弱々しく鳴くばかりだった。
人間の言葉は、もう、どこにも残っていなかった。
犬の体での生活は、想像を絶する不自由さだった。
扉のノブは回せず、蛇口はひねれない。
文字を書こうにも、前足ではペンひとつ握れない。
それでも私は、諦めきれずに、あらゆる手を試した。
床に散らばった新聞に、鼻先で丸をつけてみたこともある。
けれど、あいつはそれを見て、ただ楽しげに笑うだけだった。
「賢い犬だな。芸でも仕込んでやろうか」
その言葉の裏に、私は確かな悪意を感じ取った。
あいつは、私が私であることに、とうに気づいているのだ。
気づいた上で、この状況を、心ゆくまで愉しんでいる。
それからというもの、私は懸命に、この呪いを解く方法を探している。
だが、犬の体では、できることが驚くほど限られている。
私の姿をしたあいつは、平然と大学へ通い、私の暮らしを乗っ取っていく。
実家に電話をかけようにも、受話器は前足では持ち上がらない。
誰かに助けを求めようにも、口から出るのは、情けない鳴き声だけだ。
それでも私は、諦めるわけにはいかない。
私は今、慣れない前足で、懸命にこの文章を打ち込んでいる。
もし、動物と体が入れ替わる呪いについて、何か知っている人がいたら。
どうか、この愚かな私に、力を貸してほしい。
……ああ、あいつが帰ってきたようだ。
玄関で、私の声が、上機嫌に「ただいま」と言っている。
そして、私の顔をした何かが、こちらを見て、優しく笑うのだ。
「いい子にしてたか」と。
あいつは、私の名前で、私の友人たちと笑い合っているのだろう。
私の代わりに講義に出て、私の代わりにレポートを書いているのだろう。
そして夜になると、私を、モモの体をした私を、優しく撫でるのだ。
「いい子だ、いい子だ」と、心にもない声で。
その手つきの優しさが、かえって私を、ぞっとさせる。
あいつは、ずっとこの日を待っていたのだ。
自分より長く生きた私が、心の底から憎かったのだと。
ならば、なぜモモの体なのか。
私が唯一、心を許した犬だったからだろうか。
それとも、これがあいつなりの、最後の意趣返しなのだろうか。
考えれば考えるほど、答えは、暗がりの奥へと遠ざかっていく。
どうにかして、あいつの隙をつけないものか。
私は毎日、犬の頭で、あらゆる作戦を練っている。
だが、思考だけは人間のままでも、体は完全に犬のそれだ。
腹が減れば、餌の皿の前で情けなく待つしかない。
眠くなれば、抗いようもなく、まぶたが落ちていく。
人間だった頃の理性が、少しずつ、犬の本能に侵食されていく気がする。
このまま時が経てば、私は本当に、ただの犬になってしまうのだろうか。
自分が誰だったのかさえ、忘れてしまう日が来るのだろうか。
それを思うと、鼻の奥が、つんと痛くなる。
犬になってから、私はよく、実家の柿の木を思い出す。
あの木陰で、ゴンはいつも、私が近づくのを待っていたのかもしれない。
ただ一度、頭を撫でてほしかっただけなのかもしれない。
それに気づけなかった自分が、今はただ、情けない。
もし呪いが解けたなら、私は真っ先に、あの木の下へ行くだろう。
そして、モモの頭を撫でるのと同じ手で、ゴンの墓標に触れたい。
「遅くなって、すまなかった」と、そう伝えたい。
届かないと分かっていても、伝えずにはいられないのだ。
だから、これを読んでいるあなたに、ひとつだけ伝えておきたい。
もし身近に、あなたを疎ましく思う相手がいるのなら。
たとえそれが、言葉を持たない生き物であっても、侮らないでほしい。
心の声は、思いのほか、遠くまで届いてしまうものらしい。
私は、たった一匹の犬の思いを、長いあいだ、踏みにじってきた。
その報いが、今のこの姿なのだとしたら、受け入れるほかない。
それでも、諦めきれずに、私はこうして助けを求めている。