神社の奥の光

その年の春、私は祖母の暮らす、山あいの集落に身を寄せていた。

勤めを辞めて、しばらく絵を描いて過ごそうと、決めたばかりの頃だった。

集落は、山に抱かれるように静まり返り、人の姿もまばらだった。

私は毎日、スケッチブックを抱えて、あてもなく村の中を歩いた。

古い家並みや、苔むした石垣を、夕暮れの光の中で写し取るのが好きだった。

集落には、信号も、コンビニも、何ひとつなかった。

日が落ちれば、聞こえるのは、谷を流れる川の音と、風が杉を鳴らす音だけだった。

祖母は、そんな村で、たった一人、古い家を守って暮らしていた。

私が来たことを、祖母はことのほか喜んで、毎晩、山の幸を膳に並べてくれた。

穏やかで、何の変哲もない、静かな日々のはずだった。

村のはずれの道を、いつものように歩いていたときのことだ。

細い辻を曲がったところに、古びた鳥居が一基、立っているのに気づいた。

朱の色はすっかり剥げ落ち、灰色の木肌が、剥き出しになっていた。

鳥居の奥は、杉の木立に呑まれて、暗く、何も見通せなかった。

その寂れた佇まいが、絵心をそそった。

鳥居の真正面に立っても、参道の先に、社殿の影は見えなかった。

おそらく社は、参道の途中で右へそれた、奥のほうにあるのだろう。

右手に、苔むした石段が、暗がりへと続いているのが見えた。

いい題材だと思った私は、明日、明るいうちに描きに来ようと決めた。

その日は、鳥居の輪郭だけを、ざっと写して帰った。

その鳥居をスケッチして帰った晩、私は祖母に、村の地図のことを尋ねた。

村のはずれに、古い鳥居があるね、と何気なく口にした。

すると祖母は、一瞬、箸を止めて、ああ、とだけ答えた。

あそこは、昔から、あまり近づかんほうがええ場所でな、と小さく言った。

その時の私は、田舎にありがちな言い伝えだろうと、軽く聞き流していた。

今思えば、祖母はあのとき、それとなく、私を止めようとしていたのだ。

翌日の夕方、私はスケッチブックを抱えて、再びその鳥居を訪ねた。

春の日は長く、この時刻でもまだ、十分に明るいはずだった。

ところが、鳥居の前まで来ると、あたりの様子が、どこかおかしかった。

鳥居の周りだけ、薄い靄が、うっすらと立ちこめていたのだ。

辻を曲がる前は、そんなものは、どこにもなかったのに。

妙だな、とは思った。

けれど、そういう不思議な目に遭ったことなど、それまで一度もなかった。

だから私は、たいして気にも留めず、靄など、谷から下りた水気だろうと考えた。

暗くならないうちに描いてしまおうと、私は鳥居に近づいた。

そして、画板を構えようとした、そのときだった。

鳥居の奥、暗い木立の中で、ふいに、何かが、ぼうっと光った。

誰かが灯りを持っているのか、と思った。

だが、こんな時刻に、こんな寂れた社の奥に、人がいるはずもない。

靄は出ていても、そのあたりまでは、まだ見通せた。

光は、社のあるはずの右手ではなく、鳥居の真正面、参道の奥に浮かんでいた。

私は目がいいほうだ。

見間違いではない。

確かに、暗がりの奥で、淡い光が、ひとつ、灯っていた。

その光を見つめていると、なんとも言えない感覚に、襲われた。

まるで、その光に、そっと手招きをされているような、そんな気がしたのだ。

同時に、背筋を、ぞわりと、冷たいものが這い上がってきた。

背骨の一本一本を、見えない指で、そっと撫でられているような感覚だった。

心地よくはない。

だが、その光から、目を離すこともできなかった。

私は、画板を構えたまま、その場に、根が生えたように立ち尽くしていた。

二分ほども見ていただろうか。

光が、少しずつ、変化していくのが分かった。

うまく言えないのだが、光は、遠ざかると大きく、近づくと小さく見えた。

普通の灯りなら、近づけば大きくなるはずだ。

それが、逆なのだ。

そして、光がこちらへ近づいてくるほど、なぜか、靄が濃くなっていった。

光を見つめるうち、私は、自分の体が、わずかに前へ傾いているのに気づいた。

足が、ひとりでに、鳥居の内側へ、踏み込もうとしていた。

はっとして、私は、その足を、無理やり押しとどめた。

行ってはいけない、と、頭の片隅で、別の自分が叫んでいた。

それでも、視線だけは、どうしても、あの光に吸い寄せられたままだった。

普通、こういう靄は、時間が経てば、薄れていくものではないだろうか。

それなのに、靄は、私を包み込もうとするように、刻々と濃くなっていく。

鳥居の輪郭が、白くにじんで、ぼやけていった。

私の足元から、すうっと、地面の冷たさが上ってくる。

気づけば、あれほど聞こえていた鳥の声も、虫の音も、ぴたりとやんでいた。

帰るべきか、それとも、もう少し見ていたいのか。

自分の中で、二つの気持ちが、せめぎ合っていた。

その手招きするような光から、私は、目を離したくなかった。

だが、背筋を這う、あの冷たい感覚は、はっきりと、いやだと告げていた。

そのとき、突然、鳥居の奥の空気が、変わった。

左右から、ざわっと、何かが流れ込むように、空気が動いた。

そして、暗がりの色が、ゆっくりと、別のものに変わっていくのが分かった。

言葉では言い表せない。

ただ、見てはいけないものが、今まさに、こちらへ来ようとしている。

そう感じた瞬間、私は弾かれたように、踵を返して、走り出していた。

スケッチブックを胸に抱え、辻を曲がるまで、私は一度も振り返らなかった。

集落の灯りが見えたとき、ようやく、靄が嘘のように消えていることに気づいた。

息を整えながら、私は、たった今の出来事が、現実だったのか、自信が持てなくなった。

あの光は、いったい、何だったのか。

行けば吉だったのか、凶だったのか。

その晩、私は、なかなか寝つけなかった。

翌朝、私は、夕餉の支度をする祖母に、何気なく、その話をした。

村のはずれの、古い鳥居の奥で、光を見たのだと。

すると、それまで穏やかだった祖母の手が、ぴたりと止まった。

祖母は、私の顔を、じっと見て、低い声で言った。

「あそこへは、もう二度と、夕方に行ってはならんよ」

祖母の話は、こうだった。

あの鳥居の奥は、村でも古い、御神域なのだという。

悪いものがいるわけではない。

むしろ、神さまが、おわす場所なのだと、祖母は言った。

そして、たいていの神さまは、人の目に触れることを、たいそう嫌われるのだと。

うっかり、その姿を見てしまうと、よくないことが起きる。

だから、この村では、古くからの決まりがあるのだという。

神さまが通られる時季には、夜、家々はいっさいの灯りを消す。

道を、真っ暗に保ち、戸を固く閉ざして、決して外を覗かない。

それは、うっかり、神さまの姿を、見てしまわないための、用心なのだと。

「お前が見た光は、たぶん、その類のものだ」と、祖母は言った。

「見られて、向こうも、決まりが悪かったろうて」

「逃げ帰ってきて、よかった。あのまま見ておったら、どうなっていたか」

後で知ったことだが、村には、昔、こんな話があったという。

ずっと昔、好奇心の強い若者が、夕方、あの鳥居の奥へ入っていったそうだ。

その若者は、三日のあいだ、村から姿を消した。

四日目に、参道の入口で、ぼんやりと座り込んでいるのを見つかった。

だが、それからの彼は、人の顔を見ても、まるで誰だか分からなくなっていたという。

何を見たのか、ついに、誰にも語らないまま、生涯を終えたそうだ。

祖母は、それきり、その話を二度としなかった。

私も、それ以上は、訊かなかった。

祖母は、立ち上がって、仏壇に灯した小さな火を、そっと消した。

そして、窓の障子を、いつもより念入りに、閉めて回った。

「神さまの通る道を、覗くものではない」と、もう一度、低くつぶやいた。

その背中が、いつもより小さく、こわばって見えた。

村の決まりを守るということが、どれほど切実なものか、私は初めて肌で感じた。

あの靄が、私を包もうとして、濃くなっていったこと。

光が、近づくほどに小さく見えたこと。

背筋を這った、あの冷たい指のような感覚。

そのどれもが、見てはならないものへ、私が踏み込みかけていた証だったのだ。

目がいいことを、あのとき初めて、私は恐ろしく思った。

数日して、私は昼の明るいうちに、もう一度だけ、あの辻まで行ってみた。

鳥居は、ただ古びて、灰色に立っているだけだった。

靄もなく、奥の木立も、ありふれた杉林に過ぎなかった。

鳥でも鳴いていそうな、のどかな昼下がりだった。

それでも私は、鳥居をくぐる気には、どうしてもなれなかった。

明るい昼であっても、その奥には、別の時間が流れているように思えたのだ。

あれから、私はもう、あの鳥居を描こうとは思わなくなった。

村にいる間も、夕方にあの辻へ近づくことは、二度となかった。

走って逃げたあの夜、靄を抜けた瞬間のことを、私は今も覚えている。

背中を這っていた冷たい感覚が、すうっと、潮が引くように消えたのだ。

まるで、見えない境界を、ぎりぎりで越えて、こちら側へ戻ってきたような。

あと数歩、鳥居の奥へ踏み込んでいたら。

あの若者のように、私も、戻ってこられなかったのかもしれない。

今でも、夕暮れに薄い靄を見ると、あの淡い光を、ふと思い出す。

手招きされているようだ、と感じたあの感覚を、私は今も、うまく説明できない。

優しく招かれているのに、行けば二度と帰れない。

光は、そういう、矛盾した気配をまとっていた。

美しいものほど、近づいてはいけないのだと、あの夜、体で教わった気がする。

絵を描く者として、私は、見ることを生業にしてきた。

けれど、この世には、見てはならないものも、確かにあるのだ。

見たいという気持ちと、見てはならないという戒めが、今も胸の中でせめぎ合う。

村を離れる日、私は祖母に、あの鳥居のことを、もう一度だけ尋ねた。

祖母は、ただ静かに、行かんでよかった、とだけ繰り返した。

その穏やかな顔の奥に、私は、深い畏れのようなものを見た気がした。

あのとき、走って逃げた自分の足を、私は、心から信じている。

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