
二十年以上経ったいまでも、お札という言葉を聞くと落ち着かない。
あの夏に俺が見たのは、内側のお札ではなく、外側のお札のほうだった。
中学三年の話だ。
当時、俺たちは麻雀を覚えたてだった。
学校が終わると、Aの家に集まって卓を囲んだ。
メンバーは俺とA、それからBとCの四人だ。
Aの部屋は母屋から離れた離れにあった。
親にうるさく言われず、多少騒いでも近所に響かない。
それで、自然とそこが溜まり場になった。
四畳半に、卓が一つ。
窓を開けると、庭の砂利が見える。
誰かが来ると、砂利を踏む音で分かった。
ジャリ、ジャリ、と規則正しい音だ。
その音を、俺はいまでも覚えている。
Cは、四人の中でいちばん背が低かった。
早口で、笑うと目がなくなる奴だった。
麻雀は下手だったが、点数の計算だけは誰より速かった。
点棒を数えるとき、Cは必ずチラシの裏に数字を書いた。
鉛筆を寝かせて、薄く書く癖があった。
六の払いが、いつも長く伸びる。
「お前の六、七に見えるんだよ」
Bがそう文句を言うと、Cは笑って書き直した。
書き直しても、やっぱり六は長かった。
そのチラシは、Aの部屋の隅に溜まっていった。
捨てようとすると、Cが止めた。
「記録だから」
「なんの記録だよ」
「誰がいちばん勝ってるか」
Cは、いちばん負けていた。
それでも、記録は残したがった。
俺が最後にその束を見たのは、九月の初めだ。
輪ゴムで二つに分けて、押し入れの下の段に入れてあった。
あとになって、その束のことを何度も考えた。
Cの家に行ったことは、二度しかない。
一度は誕生日で、一度は宿題を借りに行った日だ。
玄関に、古い自転車の空気入れが置いてあった。
Cは、それを使って毎朝タイヤに空気を入れていた。
「減るんだよ、うちのチューブ」
そう言いながら、ハンドルを押していた。
あの音も、いまだに耳に残っている。
しゅっ、しゅっ、という短い音だ。
離れの四畳半
Aの家は、町の外れの古い農家だった。
母屋と離れのあいだに、飛び石が並んでいる。
その飛び石の周りだけ、砂利が敷き詰めてあった。
雨の日は、砂利が濡れて音が変わる。
乾いた日はジャリ、濡れた日はザリ、と鳴った。
俺たちはその音で、誰が来たかを当てる遊びをしていた。
Aのオカンの歩き方は、速くて短い。
Aの親父さんは、間隔が広くて重い。
Cは、いちばん軽くて速かった。
「Cのはさ、走ってきてんだよ」
Aがそう言ったことがある。
「なんで走るんだよ」
「早くやりたいんだろ」
たしかにCは、いつも息を切らして入ってきた。
自転車を飛ばしてくるからだ。
Cの家からAの家までは、自転車で十五分かかる。
その十五分を、Cはいつも十分で来た。
「危ないぞ」
Aの親父さんに一度、そう注意されていた。
Cは「はい」と返事だけして、次の日も飛ばしてきた。
夏休みが終わってすぐの頃だ。
四人で、点五で打つか点一で打つかで揉めたことがある。
結局、点棒だけで金は賭けないことになった。
言い出したのはCだった。
「金かけたら、親父に卓ごと捨てられる」
そう言って笑っていた。
その卓は、Aの祖父さんが使っていた古いものだった。
天板の布が擦り切れていて、端だけ色が変わっている。
牌を強く叩くと、脚が鳴った。
Aは、卓を大事にしていた。
打ち終わると、必ず乾いた布で拭く。
「湿気で反るんだって」
そういうところが、Aは律儀だった。
俺たちの中で、いちばん先に立ち直りそうなのもAだと思っていた。
実際は逆だった。
Cが来なくなったあと、卓に布をかけたまま、Aは一度も開けなかったらしい。
その話も、ずっとあとで聞いた。
Aの離れには、電話の子機が置いてあった。
母屋からの呼び出しに使うものだ。
その子機が鳴ると、必ず誰かが飛び上がった。
音が大きすぎるのだ。
Aは、それを枕元の棚に置いていた。
あの夜も、そこにあった。
俺が覚えているのは、その子機が一度も鳴らなかったことだ。
母屋から呼ばれる用がなかったというだけかもしれない。
点棒を数える指
その金曜のことは、順番に思い出せる。
次の日が休みだったので、徹夜で打とうという話になった。
各自、家で晩飯を済ませてから、夜の十時にAの家に集合と決めた。
俺が着いたのは、十時を少し回った頃だ。
移動は自転車だ。
中学生だから、それしかない。
行ってみると、C以外は集まっていた。
卓を組んで、点棒を並べて、Cを待った。
十時半を過ぎても、Cは来ない。
「なにしてんだ、あいつ」
「コンビニで立ち読みしてんじゃね」
「もう少し待つか」
十一時になろうとしていた。
当時は携帯電話がない。
連絡の取りようがなかった。
気は引けたが、AがCの家に電話をかけた。
「夜分すいません。今夜うちで集まることになってるんですが、C君はまだいますか」
少しの間があった。
「そうですか。いや、まだこっちに来てないんです」
Aは受話器を置いて、こちらを向いた。
「C、もうとっくに出たってさ」
「じゃあ途中か」
「探しに行くか」
そう言って部屋を出ようとしたときだった。
庭の砂利を、誰かが小走りに踏む音がした。
ジャリジャリジャリ、と速い音だ。
「来た」
Bがそう言って笑った。
けれど、入ってきたのはAのオカンだった。
「C君、事故に遭ったって。○○病院に運ばれたって」
一瞬、誰も動かなかった。
身体の内側に、ドンという振動を受けた気がした。
病院は自転車で行ける距離だ。
三人とも、何も言わずに外へ出た。
自転車を漕ぎながら、俺は道の左側ばかり見ていた。
Cが通る道はひとつしかない。
県道に出る前の、細い下り坂だ。
その坂の途中に、ガードレールの切れている場所がある。
通り過ぎるとき、砂が撒いてあるのが見えた。
誰かが片づけた跡だった。
Bが、その前で自転車を止めた。
「ここか」
俺は返事をしなかった。
Aは、止まらずに先へ行った。
三人とも、そのあと病院までひとことも話さなかった。
病院の駐輪場は、屋根がなかった。
俺たちは、三台の自転車を並べて停めた。
Aのスタンドが立たなくて、何度もやり直していた。
結局、Aは自転車を寝かせたままにした。
その横に、見覚えのある自転車はなかった。
俺は、それを探していた自分に、あとから気づいた。
外側のお札の字
夜の病院は薄暗かった。
非常灯と、機械の小さな音だけがしている。
いちばん大きく聞こえるのは、自分の心臓の音だった。
どこへ行けばいいのか分からず、廊下を少し歩いた。
突き当たりで、Cの家族に会った。
母親が泣き崩れていた。
それを支える父親と、俯いている兄。
母親が俺たちに気づいて、力なく言った。
「あんたらのせいで」
声は小さいのに、はっきり聞こえた。
それから長い沈黙があって、父親が口を開いた。
「逝ったよ。事故だそうだ。今日のところは帰りなさい」
その言葉を聞いても、実感がなかった。
訳が分からないまま、その日は帰って寝た。
家に着いたのは、午前二時を過ぎていた。
母親が起きて待っていた。
何も聞かずに、温かい茶を出してくれた。
俺は、その茶を飲まずに部屋へ上がった。
布団に入ってから、天井の木目をずっと見ていた。
眠ったのか、眠っていないのかは覚えていない。
朝になって、机の上にあの日の点棒の数字が浮かんだ。
Cが書いた、長い六だ。
そんなものを思い出す自分が、少し嫌だった。
月曜、俺は学校へ行った。
Bは来ていたが、Aは来ていなかった。
朝礼で、全校にCのことが伝えられた。
俺もBも、その話をあまり聞いていなかった。
その夜の通夜にも、Aは来なかった。
次の日も、その次の日も、Aは学校に現れなかった。
俺たちも、Aの家まで行こうとは思わなかった。
少なからず、自分たちにも責任を感じていたからだ。
一週間ほど経って、Aがひょっこり現れた。
少し立ち直っていた俺は、明るく声をかけるつもりだった。
けれど、口から出たのは別の言葉だった。
「お前、どうしたんだよ、その顔」
Aの頬は、げっそりとこけていた。
Aは、廊下の窓のところで話し始めた。
「病院から帰って、すぐ寝たんだ。眠れなかったけど」
「布団の中でもぞもぞしてたら、外から砂利を踏む音が聞こえてくる」
「オカンかと思ってドア開けたら、Cが立ってたんだ」
制服の肩が、黒く濡れていたという。
何を言ってるんだと、俺とBは言い返した。
Aは、それでも引かなかった。
「もう毎日なんだ。最初はオカンも信じてくれなかった」
「でも、日に日に痩せていく俺を見て、知り合いの霊媒師に見てもらった」
「札をもらって、ドアの外と中に貼った」
「そしたら出なくなったから、来れたんだ」
俺は、そのとき一つだけ引っかかったことがある。
Aは「札をもらって」と言った。
何枚とは言わなかった。
俺がそれを気にしたのは、ずいぶんあとのことだ。
そのときは、Aの顔色のほうが気になっていた。
「飯、食ってんのか」
「食ってる」
「嘘つけ」
Aは笑おうとして、うまく笑えなかった。
「なあ、お前ら来てくれよ」
Aが、そういう言い方をしたのは初めてだった。
俺とBは、断らなかった。
断れる雰囲気ではなかった。
風の強い晩のドア
俺とBは顔を見合わせて、Aの家に行くことにした。
次の日が休みだったからだ。
離れのドアの前に立つと、たしかに札が貼ってあった。
黄ばんだ紙に、墨で何か書いてある。
ドアを開けると、内側にも同じように貼られていた。
ドアを挟んで、札が向かい合っている形だ。
そのとき、俺は妙なことに気づいた。
内側の札は、墨の黒がはっきりしている。
外側の札は、それより薄く見えた。
外側の札の字だけが、墨ではなく、薄い鉛筆で書かれていた。
雨に濡れて薄くなったのだろうと、そのときは思った。
外側のお札は、内側のものより一回り小さかった。
紙の質も違う。
内側は和紙のような厚みがあるのに、外側は薄い。
ノートの紙のような手触りだった。
「これ、両方同じ人が書いたのか」
俺が聞くと、Aは首をかしげた。
「同じだろ。一緒にもらったんだから」
Aは、それ以上は覚えていないようだった。
霊媒師の人の顔も、はっきり思い出せないと言っていた。
「オカンが連れてったから」
俺は、二枚の札を交互に見比べた。
内側の札には、縦に五文字くらい書いてある。
外側の札には、もっと少ない。
三文字か、四文字だ。
そのうちの一つが、数字のように見えた。
そのときは、崩した漢字だろうと思った。
Bも横から覗き込んで、すぐに離れた。
「読めねえ」
「読めなくていいだろ」
Aが、ドアを閉めた。
その晩、俺たちは三人でテレビを見たり、雑誌を読んだりしていた。
Aは、ずっとドアを気にしている。
その日は風が強かった。
Aは何度もドアを開けて、外側の札が飛んでいないか確かめた。
そのたびに、セロハンテープを足していく。
最後には、札の全面がテープで覆われていた。
テープの上に、さらにテープを重ねている。
「もう飛ばねえよ」
「うん」
そう言いながら、Aはまたドアを見た。
十二時を回った頃、Aはうとうとし始めた。
安心したのだと思う。
そのとき、風が一段強く吹いた。
外から、砂利を踏む音が聞こえてきた。
ジャリジャリジャリ。
速い、軽い足音だった。
Aが震え始めた。
「そうなのか」
俺が聞いても、Aは震えるだけだ。
Bが堪りかねて、ドアノブに手をかけた。
「やめろ。開けるな。入ってくる」
Aが小さく呟いた。
Bは、思い切ってドアを外側へ開け放した。
風が部屋の中に吹き込んできた。
外には、何もなかった。
「なんだよ、全然平気じゃん」
「なんもねーよ。なあ、A」
そう言って振り返った。
Aの手前に、Cが立っていた。
そして、こちらを向いた。
そこで俺の記憶は切れている。
倒れた拍子に、卓の脚にぶつかったらしい。
翌朝、こめかみに青い痣ができていた。
Bは、俺より先に気を失っていたと言った。
何を見たのかを、Bは最後まで話さなかった。
「顔は見てない」
そう言い張っていた。
見ていないほうが、たぶん正しい。
その晩以来、Aの離れで麻雀をすることはなくなった。
卓は、布をかけたまま押し入れに仕舞われた。
押し入れの下の段にあった、あのチラシの束も一緒だ。
俺は一度だけ、それを出してくれと頼んだことがある。
Aは首を振った。
「開けたくない」
理由は聞かなかった。
庭の四つん這い
目が覚めたときは、もう朝だった。
隣でBが寝ていた。
あれは夢だったのかと思い、Cが立っていた場所を見た。
畳には、何もなかった。
ドアのほうを見ると、内側の札は貼られたままだ。
Bを起こして、昨夜のことを話した。
「なあ、昨日のあれなんだが」
「やっぱり夢じゃなかったんだ」
Bは、それだけ言って黙った。
Aがいない。
ドアを開けて外を見ると、Aが庭で四つん這いになっていた。
砂利を、手で掻き分けている。
「A、何してるの」
「ないんだ。外の札がないんだ」
外側のドアを見た。
テープはそのまま残っていた。
テープの形だけが、四角く残っている。
その内側だけが、きれいに空だった。
俺はテープの縁を指でなぞった。
粘着面に、紙の繊維が一本も残っていない。
引き剥がしたなら、必ず何か残る。
そのことを言うと、Bが黙り込んだ。
内側の札は、朝の光の中でも黒々としていた。
墨は、時間が経つほど落ち着いた色になるという。
外側のお札のあった場所には、日焼けの跡だけが四角く残っていた。
その四角は、テープの四角より一回り小さかった。
紙を剥がした跡ではない。
テープを剥がさずに、紙だけが抜けている。
俺とBは、途中から一緒に掻いた。
手のひらが、砂利の角で赤くなった。
「もういいって」
Bがそう言っても、Aは止めなかった。
「あの札、返さなきゃいけない気がするんだよ」
「誰に」
Aは、答えなかった。
昼前に、Aのオカンが縁側から声をかけた。
「ごはんにしなさい」
その声で、ようやくAは立ち上がった。
膝のところが、砂で白くなっていた。
Aは、それから一時間ほど砂利を掻いていた。
何も出てこなかった。
あれから二十年以上が過ぎた。
Aとは、成人式で一度会ったきりだ。
去年、Aの母親が入院したと聞いて、見舞いに行った。
病室で、昔の話になった。
俺は、あの札のことを聞いてみた。
「二枚もらったんですよね。外と中に貼るやつ」
Aの母親は、点滴の台のほうを見ていた。
窓の外は曇っていて、部屋の中が薄暗かった。
「あの子、ずいぶん痩せてね」
「はい」
「知り合いに拝んでもらう人がいるって聞いて、連れて行ったの」
「何か言われました」
「戸の内側に貼りなさいって。それだけ」
Aの母親は、しばらく考えてから首を振った。
霊媒師が渡した札は、一枚だけだったと、Aの母親は言った。
外に貼る札は、初めからなかったのだという。
帰りの電車で、俺は外側の札の字を思い出していた。
薄い鉛筆の字だ。
六に見える字が、一つだけ入っていた。
点棒を数えるとき、Cが紙の隅に書く数字と、払いの癖が同じだった。
Cは、麻雀の点数の計算だけは誰より速かった。
入れないための札だったのか、そうでなかったのかは、いまも分からない。
洗い物を干していた人という話を読んだとき、同じ種類の寒さを感じた。
初めて見た霊が、友達だった。
怖くもあり、悲しくもある話だ。
いまでも、庭に砂利を敷いた家の前を通ると、足が止まる。
ジャリ、という音がしないかどうか、つい待ってしまう。
赤い鞠のような、意味の分からないものが残るほうが、まだ楽だったと思う。