鏡にまつわる、こんな話を聞いたことがあるだろうか。
大きな姿見の前に立ち、そこに映った自分の目を、じっと見つめる。
そして、静かにこう問いかけるのだ。
「お前は、誰だ」
たったそれだけの、単純なまじないのような話だ。
けれど、これを繰り返すうちに、人は奇妙な感覚に囚われていくのだという。
鏡の中の自分が、だんだんと、自分ではない何かに見えてくる。
その現象を、心理学では「ゲシュタルト崩壊」と呼ぶらしい。
まとまりを持っていたはずの全体が、ばらばらに崩れ、意味を失っていく感覚のことだ。
私がこの話を知ったのは、まだ学生だった頃のことだった。
※
そもそも、私がこの話を知ったのには、きっかけがあった。
深夜、眠れないままに眺めていた、古い掲示板の書き込みだった。
名も知れぬ誰かが、体験談として、淡々と綴っていたのだ。
曰く、鏡の自分に問いかけ続けると、十日ほどで判断力が鈍りはじめる。
物事が、正しく把握できなくなっていく。
そして、ひと月も続ければ、自分が誰なのか、分からなくなってしまう、と。
読んだときは、よくある作り話だろうと、鼻で笑っていた。
それを面白半分に、修二に話したのが、そもそもの過ちだった。
あの書き込みを、読まなければよかった。
今でも、そう悔やむことがある。
当時、私には修二という、悪友がいた。
何をするにも一緒で、くだらないことばかりして笑い合う、そんな仲だった。
ある晩、私がこの鏡の話を教えると、修二は目を輝かせた。
「うさんくせえ。試しにやってみようぜ」
そういう度胸試しのようなことが、修二は昔から好きだった。
その夜、私は自分の部屋の姿見の前に立った。
窓を閉め切った、しんと静まり返った部屋だ。
鏡に映った自分の目を見つめ、私は声に出した。
「お前は、誰だ」
最初は、なんということもなかった。
けれど、五度、六度と繰り返すうちに、妙な心地がしてきた。
鏡の中の顔が、知らない誰かのように思えてきたのだ。
鼻の形も、目の並びも、なぜか他人のもののように見える。
急に気分が悪くなって、私はすぐにやめてしまった。
胃の底から、冷たいものがせり上がってくるようだった。
※
あの晩、鏡の前で感じた奇妙な心地を、私はうまく言葉にできない。
自分の顔の輪郭が、ぐにゃりと溶けていくようだった。
目が、鼻が、口が、ばらばらの部品のように見えてくる。
それらを寄せ集めて「私」と呼んでいたのだと、はたと気づく。
その途端、足元が、すっと崩れるような感覚に襲われた。
自分という存在が、ひどく頼りないものに思えたのだ。
わずか数分で、私はそれ以上、鏡を見ていられなくなった。
あのとき素直にやめた自分を、今はただ、幸運だったと思う。
修二とは、大学の入学式で、たまたま隣の席になったのがきっかけだった。
人見知りの私に、彼のほうから、屈託なく話しかけてきた。
「なあ、お前もこの辺、右も左も分からないクチだろ」
その一言で、私たちはすぐに打ち解けた。
修二は、私とは正反対の、明るく怖いもの知らずな男だった。
肝試しと聞けば真っ先に手を挙げ、噂の心霊スポットにも平気で足を運んだ。
そんな彼が、私は少しまぶしくもあり、頼もしくもあった。
だからあの夜も、彼が鏡の話に飛びついたのは、いつものことだと思っていた。
まさか、その好奇心が、彼自身を呑み込むことになるとは、思いもよらずに。
翌日、私は修二に、途中でやめてしまったことを話した。
すると修二は、いかにも馬鹿にしたように笑った。
「なんだよ、そんなもん、ちっとも怖くねえだろ」
「お前、意外と肝が小さいんだな」
私は少しむっとしたが、それ以上は言い返さなかった。
そして、その日のうちに、鏡の話などすっかり忘れてしまった。
あんな子供じみた遊びのことなど、記憶の隅に押しやっていたのだ。
それが、間違いのはじまりだった。
※
しばらく経った頃から、修二の様子が、少しずつおかしくなっていった。
まず、彼はしばしば、学校を休むようになった。
たまに登校しても、どこか上の空で、心ここにあらずといった風だった。
「なあ修二、なんかあったのか」
私が尋ねても、彼は「いや、なんでもない」と、力なく首を振るだけだった。
その目の焦点が、どこか合っていないように見えた。
昼休みに一人、窓の外をじっと見つめている姿を、何度か見かけた。
けれど私は、深く考えなかった。
あいつも何か、悩みでもあるのだろう、くらいに思っていた。
その悩みの正体に、私はまるで気づいていなかった。
※
修二の変化は、日を追うごとに、はっきりしていった。
あれほどよく笑う男だったのに、表情がすっかり抜け落ちていった。
講義中、彼が小声で何かをつぶやいているのを、隣の席で聞いたことがある。
「お前は誰だ、お前は誰だ」
それを、無意識のうちに、繰り返しているようだった。
私が肩を叩くと、彼はびくりと震え、我に返ったように私を見た。
「ああ……悪い。ちょっと、ぼうっとしてた」
その目の奥が、うつろに濁っているのを見て、私は言葉を失った。
何か、取り返しのつかないことが起きている。
そう感じながらも、私にはどうすればいいのか、分からなかった。
思い返せば、兆候は、いくつもあったのだ。
あるとき、修二が、鏡を見るのを妙に避けるようになった。
エレベーターの鏡張りの壁を前にすると、彼は決まって顔を伏せた。
「なんだよ、鏡くらいで」
私がからかうと、彼は青ざめた顔で、こう言った。
「鏡の中のあいつが、俺と違う動きをするんだ」
そのときは、寝不足の冗談だろうと、私は笑って流してしまった。
またあるときは、自分の名前を、うまく書けなくなっていた。
見慣れているはずの文字が、意味を失ってしまうのだと、彼はこぼした。
小さな違和感が、確かに、少しずつ積み重なっていたのだ。
それなのに、私はそのどれも、本気で受け止めていなかった。
ある夜のことだった。
時刻は、日付が変わる少し前だったと思う。
突然、修二から電話がかかってきた。
受話器を取るなり、彼はいきなり、こう言った。
「なあ、俺って、俺だよな」
「俺は、修二だよな。なあ、そうだよな」
声が、ひどく上ずっていた。
私は面食らいながらも、努めて落ち着いて答えた。
「何を言ってるんだ。お前は修二に決まってるだろう」
すると、電話の向こうで、彼はほっと息をついたようだった。
「そうか……。そう、だよな」
少し落ち着いた声で、修二は続けた。
「実はさ、あれから何度も、鏡に向かってやってたんだ」
あの、お前は誰だ、というまじないのことだ。
「別に、ナルシストってわけじゃないんだけどさ」
「鏡の自分に話しかけてると、なんだか、すごく落ち着くんだよ」
「自分が、少しずつ自分じゃなくなっていく感じが、妙に心地いいんだ」
私は、ぞっとした。
それは、心地よさなどではない。
何かが、静かに壊れていく音だと、直感が告げていた。
※
「やめろ、修二。今すぐやめるんだ」
私は思わず、受話器に向かって叫んだ。
けれど、修二の返事は、まるで噛み合わなかった。
「いいんだ。大丈夫だから。これでいいんだ」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ」
彼は、壊れたレコードのように、同じ言葉を繰り返した。
その声が、次第に、抑揚を失っていく。
「おい、修二、聞いてるのか」
私が強く呼びかけた瞬間、電話は、ぷつりと切れた。
慌ててかけ直したが、なかなか出ない。
十回以上、呼び出し音を聞いた。
ようやくつながったとき、受話器の向こうから聞こえたのは、たった一言だった。
「お前……、誰だ」
それは、私のよく知る、修二の声ではなかった。
低く、平坦で、感情のない声だった。
そのまま、電話は切れた。
それきり、二度とつながることはなかった。
※
その日を境に、修二はぱたりと、学校に姿を見せなくなった。
連絡もまったく取れないことを心配した彼の両親が、下宿先を訪ねたのだそうだ。
そこで両親が見たものを、私は後から人づてに聞いた。
修二は、洗面所の鏡に向かって、へらへらと笑いながら、何事かを話しかけていたという。
親の顔を見ても、誰なのか分からない様子だったらしい。
もちろん、鏡に映っているのは、修二自身の顔だ。
彼はその後、実家に連れ戻され、遠くの療養先へと移っていった。
詳しいことは、私には分からない。
ただ、人づてに聞いた話では、少しずつ落ち着きを取り戻しているそうだ。
そして、彼の部屋には今、鏡のたぐいが一切、置かれていないのだという。
※
電話が途絶えてから、私は一度だけ、彼の下宿を訪ねた。
何度ノックしても、返事はなかった。
けれど、ドアの向こうからは、確かに声がしていた。
ぼそぼそと、誰かと話し込むような、低い声だ。
「お前は誰だ」
「お前は、誰だ」
それが、延々と、繰り返されていた。
相手の返事は、一度も聞こえなかった。
当たり前だ。鏡が、言葉を返すはずもない。
私は、それ以上ノブに手をかけることが、どうしてもできなかった。
あの部屋の空気に、触れるのが恐ろしかったのだ。
私は、まさかと思った。
あんな短い時間で、人がここまでおかしくなるものなのか、と。
後になって、あの鏡の話には、続きがあることを知った。
普通の鏡ではなく、合わせ鏡で同じことをすると、変調は倍の速さで訪れるのだという。
鏡が向かい合い、自分の姿が、奥へ奥へと無限に映り込む、あの合わせ鏡だ。
そして、私は思い出してしまった。
修二の下宿の洗面所にあったのは、三面鏡だった。
彼は毎晩、無数の自分に囲まれながら、問いかけ続けていたのだ。
お前は誰だ、お前は誰だ、と。
※
合わせ鏡が、なぜ人の心を早く蝕むのか。
それについて、私なりに調べてみたことがある。
向かい合った鏡は、互いの像を、際限なく映し込む。
奥へ、奥へと、無数の自分が連なっていく。
その終わりのない列を見つめるうち、人はどれが本物の自分か、分からなくなるのだという。
確かなよりどころが、ひとつずつ、剥がれ落ちていくのだ。
修二は、その無限の回廊の中で、毎晩、独り問いかけていた。
想像するだけで、私は今も、背筋が寒くなる。
思えば、私と修二を分けたのは、ほんの些細な違いだった。
気味が悪いと感じて、すぐに手を引いた私。
心地よいと感じて、のめり込んでいった修二。
その差が、これほどの隔たりを生むとは、誰が思っただろう。
好奇心は、ときに人を、後戻りのできない場所へ運んでいく。
結局のところ、修二を蝕んだのが、鏡そのものだったのか、それとも彼自身の心だったのか。
それは、今もって、私には分からない。
ただ一つ言えるのは、人の心とは、思うよりずっと脆いということだ。
確かなはずの「自分」でさえ、覗き込みすぎれば、たやすく揺らいでしまう。
あの晩、私がもう少し強く、彼を引き止めていたなら。
その仮定を、私は今も、幾度となく胸の中で繰り返している。
あの三面鏡を、なぜもっと早く、片づけさせなかったのか。
友を止められなかった悔いは、今も消えることがない。
修二が暮らしていたのは、大学の裏手にある、古い木造の下宿だった。
築四十年は経つという、二階建てのアパートだ。
廊下は薄暗く、歩くたびに、床がぎしぎしと鳴った。
彼の部屋は、二階のいちばん奥の角部屋だった。
私も何度か遊びに行ったことがある。
六畳一間の、日当たりの悪い部屋だった。
洗面所は、ドアを開けてすぐの、狭い場所にあった。
そこに据えられていたのが、あの、大きな三面鏡だったのだ。
当時の私は、それをただの古い鏡としか、思っていなかった。
あれから、長い時間が過ぎた。
それでも私は、あの晩の、平坦な声を忘れられずにいる。
この話を、あなたに軽い気持ちで試してほしくはない。
暗示にかかりやすい人ほど、たやすく足を踏み外してしまうから。
……実は、最近、少し困っていることがある。
顔を洗って、ふと鏡を見上げると、知らない誰かが映っていることがあるのだ。
その誰かは、こちらを見て、それは嬉しそうに笑っている。
けれど、よく目を凝らすと、それは、私自身の顔なのだ。
鏡の中の私が、こちらを見て、にたりと笑った。
私は、本当に、私なのだろうか。
あの一件以来、私は鏡が、少し苦手になった。
夜、洗面所の鏡の前に立つと、つい、身構えてしまう。
見つめすぎないように、私はいつも、視線を素早くそらす。
それでも、ふとした拍子に、目が合ってしまうことがある。
そのたびに、鏡の中の私が、ほんの一瞬、遅れて動いた気がするのだ。
気のせいだと、自分に言い聞かせる。
けれど、その気のせいが、少しずつ増えているように思えてならない。
数年前、修二から一度だけ、手紙が届いたことがある。
療養先の住所が記された、短い便りだった。
そこには、震えたような字で、こう綴られていた。
「もう大丈夫だ。俺は、ちゃんと俺に戻れたよ」
その一行を読んで、私は胸を撫で下ろした。
けれど、便箋の最後に添えられた、追伸に、私は目を留めた。
「ただ、今でも鏡だけは、そばに置けないんだ」
「あいつが、まだ中にいる気がしてならないから」
あいつ、というのが誰を指すのか、私にはあえて聞けなかった。
手紙は、それきりだった。
この話を、私はこれまで、誰にも詳しく語ってこなかった。
語れば、あの晩の平坦な声が、また耳の奥で蘇る気がしたからだ。
それでも、今こうして書き記しているのは、ひとつの願いからだ。
どうか、あなたには、面白半分で鏡を覗き込んでほしくない。
あなたも、家に大きな鏡があるなら、今すぐ思い出してほしい。
その鏡に、映りすぎていないだろうか。
向かいの棚のガラスや、窓が、鏡と向き合ってはいないだろうか。
知らぬ間に、あなたの部屋にも、合わせ鏡が生まれているかもしれない。
自分が誰かなど、確かめる必要はない。
あなたはあなたで、それでいいのだから。