ゲシュタルト崩壊

鏡にまつわる、こんな話を聞いたことがあるだろうか。

大きな姿見の前に立ち、そこに映った自分の目を、じっと見つめる。

そして、静かにこう問いかけるのだ。

「お前は、誰だ」

たったそれだけの、単純なまじないのような話だ。

けれど、これを繰り返すうちに、人は奇妙な感覚に囚われていくのだという。

鏡の中の自分が、だんだんと、自分ではない何かに見えてくる。

その現象を、心理学では「ゲシュタルト崩壊」と呼ぶらしい。

まとまりを持っていたはずの全体が、ばらばらに崩れ、意味を失っていく感覚のことだ。

私がこの話を知ったのは、まだ学生だった頃のことだった。

そもそも、私がこの話を知ったのには、きっかけがあった。

深夜、眠れないままに眺めていた、古い掲示板の書き込みだった。

名も知れぬ誰かが、体験談として、淡々と綴っていたのだ。

曰く、鏡の自分に問いかけ続けると、十日ほどで判断力が鈍りはじめる。

物事が、正しく把握できなくなっていく。

そして、ひと月も続ければ、自分が誰なのか、分からなくなってしまう、と。

読んだときは、よくある作り話だろうと、鼻で笑っていた。

それを面白半分に、修二に話したのが、そもそもの過ちだった。

あの書き込みを、読まなければよかった。

今でも、そう悔やむことがある。

当時、私には修二という、悪友がいた。

何をするにも一緒で、くだらないことばかりして笑い合う、そんな仲だった。

ある晩、私がこの鏡の話を教えると、修二は目を輝かせた。

「うさんくせえ。試しにやってみようぜ」

そういう度胸試しのようなことが、修二は昔から好きだった。

その夜、私は自分の部屋の姿見の前に立った。

窓を閉め切った、しんと静まり返った部屋だ。

鏡に映った自分の目を見つめ、私は声に出した。

「お前は、誰だ」

最初は、なんということもなかった。

けれど、五度、六度と繰り返すうちに、妙な心地がしてきた。

鏡の中の顔が、知らない誰かのように思えてきたのだ。

鼻の形も、目の並びも、なぜか他人のもののように見える。

急に気分が悪くなって、私はすぐにやめてしまった。

胃の底から、冷たいものがせり上がってくるようだった。

あの晩、鏡の前で感じた奇妙な心地を、私はうまく言葉にできない。

自分の顔の輪郭が、ぐにゃりと溶けていくようだった。

目が、鼻が、口が、ばらばらの部品のように見えてくる。

それらを寄せ集めて「私」と呼んでいたのだと、はたと気づく。

その途端、足元が、すっと崩れるような感覚に襲われた。

自分という存在が、ひどく頼りないものに思えたのだ。

わずか数分で、私はそれ以上、鏡を見ていられなくなった。

あのとき素直にやめた自分を、今はただ、幸運だったと思う。

修二とは、大学の入学式で、たまたま隣の席になったのがきっかけだった。

人見知りの私に、彼のほうから、屈託なく話しかけてきた。

「なあ、お前もこの辺、右も左も分からないクチだろ」

その一言で、私たちはすぐに打ち解けた。

修二は、私とは正反対の、明るく怖いもの知らずな男だった。

肝試しと聞けば真っ先に手を挙げ、噂の心霊スポットにも平気で足を運んだ。

そんな彼が、私は少しまぶしくもあり、頼もしくもあった。

だからあの夜も、彼が鏡の話に飛びついたのは、いつものことだと思っていた。

まさか、その好奇心が、彼自身を呑み込むことになるとは、思いもよらずに。

翌日、私は修二に、途中でやめてしまったことを話した。

すると修二は、いかにも馬鹿にしたように笑った。

「なんだよ、そんなもん、ちっとも怖くねえだろ」

「お前、意外と肝が小さいんだな」

私は少しむっとしたが、それ以上は言い返さなかった。

そして、その日のうちに、鏡の話などすっかり忘れてしまった。

あんな子供じみた遊びのことなど、記憶の隅に押しやっていたのだ。

それが、間違いのはじまりだった。

しばらく経った頃から、修二の様子が、少しずつおかしくなっていった。

まず、彼はしばしば、学校を休むようになった。

たまに登校しても、どこか上の空で、心ここにあらずといった風だった。

「なあ修二、なんかあったのか」

私が尋ねても、彼は「いや、なんでもない」と、力なく首を振るだけだった。

その目の焦点が、どこか合っていないように見えた。

昼休みに一人、窓の外をじっと見つめている姿を、何度か見かけた。

けれど私は、深く考えなかった。

あいつも何か、悩みでもあるのだろう、くらいに思っていた。

その悩みの正体に、私はまるで気づいていなかった。

修二の変化は、日を追うごとに、はっきりしていった。

あれほどよく笑う男だったのに、表情がすっかり抜け落ちていった。

講義中、彼が小声で何かをつぶやいているのを、隣の席で聞いたことがある。

「お前は誰だ、お前は誰だ」

それを、無意識のうちに、繰り返しているようだった。

私が肩を叩くと、彼はびくりと震え、我に返ったように私を見た。

「ああ……悪い。ちょっと、ぼうっとしてた」

その目の奥が、うつろに濁っているのを見て、私は言葉を失った。

何か、取り返しのつかないことが起きている。

そう感じながらも、私にはどうすればいいのか、分からなかった。

思い返せば、兆候は、いくつもあったのだ。

あるとき、修二が、鏡を見るのを妙に避けるようになった。

エレベーターの鏡張りの壁を前にすると、彼は決まって顔を伏せた。

「なんだよ、鏡くらいで」

私がからかうと、彼は青ざめた顔で、こう言った。

「鏡の中のあいつが、俺と違う動きをするんだ」

そのときは、寝不足の冗談だろうと、私は笑って流してしまった。

またあるときは、自分の名前を、うまく書けなくなっていた。

見慣れているはずの文字が、意味を失ってしまうのだと、彼はこぼした。

小さな違和感が、確かに、少しずつ積み重なっていたのだ。

それなのに、私はそのどれも、本気で受け止めていなかった。

ある夜のことだった。

時刻は、日付が変わる少し前だったと思う。

突然、修二から電話がかかってきた。

受話器を取るなり、彼はいきなり、こう言った。

「なあ、俺って、俺だよな」

「俺は、修二だよな。なあ、そうだよな」

声が、ひどく上ずっていた。

私は面食らいながらも、努めて落ち着いて答えた。

「何を言ってるんだ。お前は修二に決まってるだろう」

すると、電話の向こうで、彼はほっと息をついたようだった。

「そうか……。そう、だよな」

少し落ち着いた声で、修二は続けた。

「実はさ、あれから何度も、鏡に向かってやってたんだ」

あの、お前は誰だ、というまじないのことだ。

「別に、ナルシストってわけじゃないんだけどさ」

「鏡の自分に話しかけてると、なんだか、すごく落ち着くんだよ」

「自分が、少しずつ自分じゃなくなっていく感じが、妙に心地いいんだ」

私は、ぞっとした。

それは、心地よさなどではない。

何かが、静かに壊れていく音だと、直感が告げていた。

「やめろ、修二。今すぐやめるんだ」

私は思わず、受話器に向かって叫んだ。

けれど、修二の返事は、まるで噛み合わなかった。

「いいんだ。大丈夫だから。これでいいんだ」

「だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ」

彼は、壊れたレコードのように、同じ言葉を繰り返した。

その声が、次第に、抑揚を失っていく。

「おい、修二、聞いてるのか」

私が強く呼びかけた瞬間、電話は、ぷつりと切れた。

慌ててかけ直したが、なかなか出ない。

十回以上、呼び出し音を聞いた。

ようやくつながったとき、受話器の向こうから聞こえたのは、たった一言だった。

「お前……、誰だ」

それは、私のよく知る、修二の声ではなかった。

低く、平坦で、感情のない声だった。

そのまま、電話は切れた。

それきり、二度とつながることはなかった。

その日を境に、修二はぱたりと、学校に姿を見せなくなった。

連絡もまったく取れないことを心配した彼の両親が、下宿先を訪ねたのだそうだ。

そこで両親が見たものを、私は後から人づてに聞いた。

修二は、洗面所の鏡に向かって、へらへらと笑いながら、何事かを話しかけていたという。

親の顔を見ても、誰なのか分からない様子だったらしい。

もちろん、鏡に映っているのは、修二自身の顔だ。

彼はその後、実家に連れ戻され、遠くの療養先へと移っていった。

詳しいことは、私には分からない。

ただ、人づてに聞いた話では、少しずつ落ち着きを取り戻しているそうだ。

そして、彼の部屋には今、鏡のたぐいが一切、置かれていないのだという。

電話が途絶えてから、私は一度だけ、彼の下宿を訪ねた。

何度ノックしても、返事はなかった。

けれど、ドアの向こうからは、確かに声がしていた。

ぼそぼそと、誰かと話し込むような、低い声だ。

「お前は誰だ」

「お前は、誰だ」

それが、延々と、繰り返されていた。

相手の返事は、一度も聞こえなかった。

当たり前だ。鏡が、言葉を返すはずもない。

私は、それ以上ノブに手をかけることが、どうしてもできなかった。

あの部屋の空気に、触れるのが恐ろしかったのだ。

私は、まさかと思った。

あんな短い時間で、人がここまでおかしくなるものなのか、と。

後になって、あの鏡の話には、続きがあることを知った。

普通の鏡ではなく、合わせ鏡で同じことをすると、変調は倍の速さで訪れるのだという。

鏡が向かい合い、自分の姿が、奥へ奥へと無限に映り込む、あの合わせ鏡だ。

そして、私は思い出してしまった。

修二の下宿の洗面所にあったのは、三面鏡だった。

彼は毎晩、無数の自分に囲まれながら、問いかけ続けていたのだ。

お前は誰だ、お前は誰だ、と。

合わせ鏡が、なぜ人の心を早く蝕むのか。

それについて、私なりに調べてみたことがある。

向かい合った鏡は、互いの像を、際限なく映し込む。

奥へ、奥へと、無数の自分が連なっていく。

その終わりのない列を見つめるうち、人はどれが本物の自分か、分からなくなるのだという。

確かなよりどころが、ひとつずつ、剥がれ落ちていくのだ。

修二は、その無限の回廊の中で、毎晩、独り問いかけていた。

想像するだけで、私は今も、背筋が寒くなる。

思えば、私と修二を分けたのは、ほんの些細な違いだった。

気味が悪いと感じて、すぐに手を引いた私。

心地よいと感じて、のめり込んでいった修二。

その差が、これほどの隔たりを生むとは、誰が思っただろう。

好奇心は、ときに人を、後戻りのできない場所へ運んでいく。

結局のところ、修二を蝕んだのが、鏡そのものだったのか、それとも彼自身の心だったのか。

それは、今もって、私には分からない。

ただ一つ言えるのは、人の心とは、思うよりずっと脆いということだ。

確かなはずの「自分」でさえ、覗き込みすぎれば、たやすく揺らいでしまう。

あの晩、私がもう少し強く、彼を引き止めていたなら。

その仮定を、私は今も、幾度となく胸の中で繰り返している。

あの三面鏡を、なぜもっと早く、片づけさせなかったのか。

友を止められなかった悔いは、今も消えることがない。

修二が暮らしていたのは、大学の裏手にある、古い木造の下宿だった。

築四十年は経つという、二階建てのアパートだ。

廊下は薄暗く、歩くたびに、床がぎしぎしと鳴った。

彼の部屋は、二階のいちばん奥の角部屋だった。

私も何度か遊びに行ったことがある。

六畳一間の、日当たりの悪い部屋だった。

洗面所は、ドアを開けてすぐの、狭い場所にあった。

そこに据えられていたのが、あの、大きな三面鏡だったのだ。

当時の私は、それをただの古い鏡としか、思っていなかった。

あれから、長い時間が過ぎた。

それでも私は、あの晩の、平坦な声を忘れられずにいる。

この話を、あなたに軽い気持ちで試してほしくはない。

暗示にかかりやすい人ほど、たやすく足を踏み外してしまうから。

……実は、最近、少し困っていることがある。

顔を洗って、ふと鏡を見上げると、知らない誰かが映っていることがあるのだ。

その誰かは、こちらを見て、それは嬉しそうに笑っている。

けれど、よく目を凝らすと、それは、私自身の顔なのだ。

鏡の中の私が、こちらを見て、にたりと笑った。

私は、本当に、私なのだろうか。

あの一件以来、私は鏡が、少し苦手になった。

夜、洗面所の鏡の前に立つと、つい、身構えてしまう。

見つめすぎないように、私はいつも、視線を素早くそらす。

それでも、ふとした拍子に、目が合ってしまうことがある。

そのたびに、鏡の中の私が、ほんの一瞬、遅れて動いた気がするのだ。

気のせいだと、自分に言い聞かせる。

けれど、その気のせいが、少しずつ増えているように思えてならない。

数年前、修二から一度だけ、手紙が届いたことがある。

療養先の住所が記された、短い便りだった。

そこには、震えたような字で、こう綴られていた。

「もう大丈夫だ。俺は、ちゃんと俺に戻れたよ」

その一行を読んで、私は胸を撫で下ろした。

けれど、便箋の最後に添えられた、追伸に、私は目を留めた。

「ただ、今でも鏡だけは、そばに置けないんだ」

「あいつが、まだ中にいる気がしてならないから」

あいつ、というのが誰を指すのか、私にはあえて聞けなかった。

手紙は、それきりだった。

この話を、私はこれまで、誰にも詳しく語ってこなかった。

語れば、あの晩の平坦な声が、また耳の奥で蘇る気がしたからだ。

それでも、今こうして書き記しているのは、ひとつの願いからだ。

どうか、あなたには、面白半分で鏡を覗き込んでほしくない。

あなたも、家に大きな鏡があるなら、今すぐ思い出してほしい。

その鏡に、映りすぎていないだろうか。

向かいの棚のガラスや、窓が、鏡と向き合ってはいないだろうか。

知らぬ間に、あなたの部屋にも、合わせ鏡が生まれているかもしれない。

自分が誰かなど、確かめる必要はない。

あなたはあなたで、それでいいのだから。

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