川べりに、古い木造アパートが二棟、向かい合って建っていた。
川をはさんで、ではない。
細い路地をはさんで、軒が触れそうなほど近くに、だ。
俺が越してきたのは、その手前の一棟、藤影荘の二階だった。
築四十年は下らない、と大家は言っていた。
家賃が安いのが、ただ一つの取り柄だった。
日当たりも、風通しも、よくはなかった。
それでも、川の見えるベランダだけは、気に入っていた。
向かいの棟は、川淵荘といった。
同じ造りの、同じ色をした、古い二階建てだ。
ただ、こちらより、ひとまわり暗い気がした。
俺は、夜勤の多い仕事をしていた。
帰り着くのは、いつも真夜中を過ぎていた。
街も、川も、すっかり寝静まった時刻だった。
眠れない夜は、ベランダに出て、川の音を聞いた。
川の水は、対岸の街灯を受けて、鈍く光っていた。
昼は生ぬるい風が、夜になると、川筋を伝って冷たくなった。
越してきて、まだ半月ほどだった。
段ボールも、まだ半分、開けていなかった。
隣に誰が住んでいるのかも、俺はまだ知らなかった。
この街には、知り合いが、一人もいなかった。
訪ねてくる者も、電話をかけてくる者も、いなかった。
ただ、川の音だけが、俺の話し相手だった。
夜勤明けの体は、疲れているのに、なぜか目だけが冴えていた。
川面のむこうに、狭い空が、切り取られていた。
その晩も、俺はベランダに立っていた。
ふと、向かいの川淵荘に、目がいった。
二階のベランダに、人が立っていた。
背格好からして、少女だろうか。
淡い色の、ワンピースのような服を着ていた。
夜目にも、その色だけが、白く浮いて見えた。
少女は、じっと空を見上げていた。
身じろぎ一つ、していなかった。
まるで、そこだけ、時間が止まっているようだった。
つられて、俺も空を見た。
その晩は、めずらしく星がよく見えた。
川べりの街にも、星は降るのだと知った。
ビルばかりの前の街では、見たことのない星空だった。
川面にも、小さな光が、いくつも散って、揺れていた。
少女は、これを眺めているのか。
そう思うと、なんだか声をかけたくなった。
「――綺麗な星空ですね」
路地を、冷たい夜風が吹き抜けた。
声は、風にさらわれたかもしれない。
それでも、少女は、こちらを見た気がした。
少女は、風が吹くたびに、こくりと頷いた。
小さな、ためらいがちな頷きだった。
俺は、なぜか嬉しくなって、部屋に戻った。
この街に来て初めて、誰かと心が通った気がした。
そんな、他愛のない嬉しさだった。
その夜は、久しぶりに、よく眠れた。
夢の中でも、俺は、星を見上げていた気がする。
翌朝、鏡の中の自分は、なぜか、少しやつれて見えた。
※
翌日の夜も、少女はベランダにいた。
やはり、空を見上げていた。
「今日も、星が見えますね」
少女は、答えない。
ただ、風が吹くと、こくりと頷いた。
無口な子だな、と思った。
それでも、俺は、その頷きが嬉しかった。
少女の顔は、よく見えなかった。
ベランダの手すりの陰と夜の闇に、いつも半分、沈んでいた。
それでも、頷きだけは、はっきりと分かった。
毎晩、俺は、少女に話しかけるようになった。
返事がなくても、よかった。
一日の終わりに、あの頷きを見るのが、いつしか習慣になっていた。
職場でも、ふと、あの少女のことを考えた。
単調な作業の合間に、あの淡い色の服が、まぶたにちらついた。
名前も知らない。声も、聞いたことがない。
それなのに、俺は、彼女に会いに帰るような気持ちで、夜道を急いだ。
「寒くは、ないですか」
「学校は、どこなんですか」
少女は、いつも黙っていた。
風が吹くと、頷くだけだった。
おかしなことに、気づきはじめたのは、その頃だ。
少女の部屋から、物音が、まるでしない。
テレビの音も、話し声も、聞こえてこない。
川の音だけが、二棟のあいだを流れていた。
耳を澄ませば澄ますほど、少女のいる側だけが、無音だった。
音のない空間が、ぽっかりと、そこに空いていた。
風の音さえ、その一角だけは、避けて通るようだった。
はじめは、気のせいだと思った。
だが、幾晩も続くと、気のせいでは、片づけられなくなった。
無音は、日を追うごとに、濃さを増していった。
それに、灯りだ。
少女の部屋の窓は、いつも、真っ暗だった。
少女がベランダに立つ晩も、部屋に灯りが点いたことは、一度もなかった。
ベランダの隅に、鉢植えが、いくつか並んでいた。
どれも、とうに枯れていた。
茶色く縮れた葉が、風に、かさかさと鳴っていた。
世話をする者の、いない鉢だった。
それなのに、少女は、毎晩そこに立っていた。
俺は、その矛盾から、あえて目をそらしていた。
見なかったことにしたい事柄が、一つ、また一つと、増えていった。
それでも、あの頷きを見ると、不思議と、心が凪いだ。
この街で、たった一つの、俺のよりどころだった。
孤独というものは、人から、正しい判断を、少しずつ奪っていく。
今なら、そう分かる。
あの頃の俺は、ただ、どうしようもなく、寂しかったのだ。
それでも、俺は、少女に会いたかった。
※
ある朝、階段で、大家と行き会った。
世間話のついでに、俺は尋ねてみた。
「向かいの川淵荘、若い子が住んでるんですね」
大家は、怪訝な顔をした。
「川淵荘? あそこは、もう空き家じゃよ」
「空き家……ですか」
「もう、五年になるかね。取り壊しが、決まっとる」
大家の声に、嘘をつく色は、なかった。
冗談を言うような人でも、なかった。
「あんた、まさか、誰かを見たんかね」
大家は、探るように、俺の目を覗き込んだ。
俺は、とっさに、首を横に振っていた。
見ていません、と、俺は言った。
なぜ嘘をついたのか、自分でも、分からなかった。
ただ、あの頷きを、誰にも否定されたくなかった。
俺は、言葉に詰まった。
毎晩、少女は、ベランダに立っていた。
空き家のはずの、あの棟に。
俺が毎晩見ていたものは、いったい、何だったのか。
背筋を、冷たいものが、ゆっくりと這い上がった。
それでも、その夜も、俺はベランダに出た。
少女に、会わずには、いられなかった。
恐ろしさと、会いたさが、胸の中で、せめぎ合っていた。
結局、会いたさのほうが、いつも、勝った。
大家は、俺の顔を見て、少し声を落とした。
「あんた、こっちの棟の、川に面した部屋かね」
「……ええ、たぶん、そのあたりです」
大家は、しばらく黙った。
それから、ぽつりと言った。
「風の強い晩はな、向かいのベランダを、見んほうがええよ」
なぜ、と問い返す間も、なかった。
大家は、それきり、口をつぐんでしまった。
理由は、教えてくれなかった。
ただ、階段を降りていくその背中が、いつもより小さく見えた。
※
その夜、俺は、いつもより注意して、向かいを見た。
少女は、やはり、ベランダにいた。
空を見上げ、風が吹くと、頷いた。
俺は、あることに気づいて、背筋が冷えた。
それまで、気づかないふりをしていた、一つの事実だった。
少女が頷くのは、いつも、風が吹いた、その一瞬だった。
風が止むと、少女は、微動だにしない。
まるで、風に、揺らされているように。
いや、と俺は、その考えを打ち消した。
頷いて、応えてくれているだけだ。
そう、思いたかった。
けれど、その晩の風は、やけに、少女をよく揺らした。
頷きは、いつもより、深く、そして長かった。
風の中で、少女の体が、ゆらり、ゆらりと、揺れていた。
揺れる、という言葉が、頭に浮かんだ。
俺は、それを、必死で、打ち消した。
揺れているのではない。頷いているのだ。
何度も、何度も、そう自分に言い聞かせた。
「――君と、話がしたいんだ」
俺は、思いきって言った。
「今から、そっちへ行っても、いいかい」
風が、路地を、吹き抜けた。
少女は、こくりと、頷いた。
いい、と言ってくれた。
会いに来て、と言ってくれた。そう、思い込んだ。
冷静に考える余裕は、もう、どこにもなかった。
俺は、そう信じて、部屋を飛び出した。
※
川淵荘の入り口には、板が打ちつけてあった。
かつては、住人が出入りしたはずの、玄関だった。
今は、錆びた釘が、幾本も、板を留めていた。
その隙間から、体を、滑り込ませた。
中は、埃と、かびの匂いがした。
誰も踏まぬ廊下に、俺の足音だけが、やけに大きく響いた。
窓という窓は板でふさがれ、月明かりさえ、入らなかった。
手すりは、触れると、ざらりと錆びていた。
暗い階段を、手さぐりで、上がった。
一段ごとに、古い木が、ぎしりと軋んだ。
引き返せ、と、体のどこかが言っていた。
それでも、足は、止まらなかった。
廊下の突き当たりに、その部屋は、あった。
一歩ごとに、腐りかけた床板が、ぐずりと沈んだ。
ドアの前に立つと、隙間から、冷たい風が、流れ出てきた。
空き部屋のはずなのに、風は、部屋の奥から吹いていた。
川に面した、角の部屋の前に立った。
チャイムを、押した。
が、音は、鳴らなかった。
壊れて、いるようだった。
ドアを、ノックした。
返事は、ない。
ドアノブに、手をかけた。
鍵は、かかっていなかった。
きい、と、蝶番が鳴った。
その音が、静寂の中で、悲鳴のように、長く尾を引いた。
部屋の中は、真っ暗だった。
ベランダに続く窓だけが、青白い月明かりを、入れていた。
その光の中に、少女の後ろ姿が、あった。
いつも見ていた、あの背中だった。
淡い色の服も、細い肩も、間違いなかった。
あの、毎晩、星を見上げていた少女だった。
会えた、と、俺は、一瞬、安堵しかけた。
けれど、その安堵は、すぐに、凍りついた。
「……おじゃま、します」
声をかけながら、俺は、一歩、踏み出した。
近づくにつれ、違和感が、はっきりしてきた。
少女の、姿勢が、おかしい。
頭が、力なく、傾いでいる。
つま先が、妙な向きに、垂れている。
だらり、と、力なく。
足の裏が、こちらを、向いていた。
少女の足は、床から、わずかに浮いていた。
俺は、腰を抜かして、その場にへたり込んだ。
声が、出なかった。
喉の奥が、貼りついたように、動かなかった。
ただ、心臓だけが、痛いほど、鳴っていた。
逃げなければ、と思うのに、足が、動かなかった。
天井の梁から、細い縄が、伸びていた。
少女は、その縄に、首を、吊っていた。
淡い色のワンピースが、闇の中で、ぼんやりと浮いていた。
その白さだけが、暗い部屋の中で、際立っていた。
近づくほどに、その白は、冷たく、濁って見えた。
とうに事切れているのは、一目で分かった。
では、俺は毎晩、いったい誰と、話していたのか。
少女の足元に、倒れた椅子が、一つ、転がっていた。
埃の積もった床で、その椅子だけが、妙に、きれいだった。
まるで、ついさっき、倒れたばかりのように。
埃だけが、五年という月日を、正直に語っていた。
少女の時間は、その椅子が倒れた瞬間で、止まっていた。
五年ものあいだ、誰にも気づかれずに。
この部屋だけが、ずっと、あの夜のままだった。
※
そのとき、路地を、夜風が吹き抜けた。
開いた窓から、風が、部屋に流れ込んだ。
風にあおられた体が揺れ、くくられた首が、頷くように、かくりと折れた。
こくり、と。
いつも見ていた、あの頷きだった。
風がやむと、少女は、また、動かなくなった。
頷きは、それきり、ぴたりと途絶えた。
二度と、こくり、とは、動かなかった。
俺が話しかけても、もう、応えるものは、なかった。
応えていたのは、はじめから、風だけだったのだ。
あの子は頷いていたのではない。風が吹くたび、ただ揺れていたのだ。
俺が話しかけた言葉に、応えていたのではない。
風が、その体を、揺らしていただけだった。
俺は、悲鳴も出せずに、部屋を転がり出た。
板の隙間を抜け、藤影荘へ、逃げ帰った。
部屋の鍵を、何度も、かけ直した。
布団をかぶっても、川の音が、耳から離れなかった。
目を閉じると、あの頷きが、まぶたの裏で、繰り返された。
あの、こくり、という音が、闇の中で、聞こえる気がした。
朝まで、俺は、一睡もできなかった。
※
あくる日、俺は、大家に、見たままを話した。
大家は、驚かなかった。
ただ、ゆっくりと、頷いた。
「五年前にな、あの部屋で、若い子が、一人」
声をかけてやる者も、いなかったのだろう。
毎晩、空を見上げていたのは、誰かの声を、待っていたからかもしれない。
そう思うと、恐ろしさよりも、寒々しさのほうが、勝った。
誰にも見上げてもらえない空を、あの子は、ずっと見ていた。
せめて、俺の「綺麗な星空ですね」は、届いていただろうか。
届いていたなら、あの頷きは、風だけの仕業では、なかったのかもしれない。
そう考えるのは、俺の、身勝手な願いだろうか。
答えてくれる者は、もう、どこにも、いない。
その先は、言わなかった。
詳しいことは、聞けなかった。
聞いてはいけない、という気が、した。
「風の晩は、見んほうがええ、と言うたろう」
俺は、何も、返せなかった。
ただ、大家の言葉の意味が、今になって、重く沈んできた。
川淵荘は、その年の暮れに、取り壊された。
重機が壁を崩すのを、俺は、窓から見ていた。
埃が舞い上がり、あの角部屋も、あっけなく、消えた。
更地になった路地は、風の通りが、よくなった。
遮るもののなくなった風が、俺の部屋の窓を、夜ごと、叩いた。
更地には、いつのまにか、背の高い草が、生えた。
風が吹くと、その穂が、いっせいに、こくり、こくりと、揺れた。
それきり、少女を見ることは、なくなった。
――はずだった。
だが、風の強い晩には、今も、川の音にまじって、聞こえることがある。
耳をふさいでも、その音は、胸の奥に、じかに届く。
こくり、と、何かが、かしぐ、かすかな音が。
空耳だと、思いたい。
けれど、あの晩から、俺の耳は、その音を、覚えてしまった。
今夜も、風の吹く晩は、向かいを見ないことにしている。
見てしまえば、きっと、俺も頷いてしまう気がするから。