大学を出たばかりの春、私は小さな学習塾で講師をしていた。
地方都市の外れにある、こぢんまりとした個人塾だった。
塾の建物は、もともと古い個人医院だったという。
築六十年をゆうに超える、木造二階建ての古い建物だ。
玄関を入ると、昔の待合室がそのまま受付ロビーになっていた。
かつて診察室だった部屋は、仕切りを取り払って教室に変えられていた。
二階には、院長一家が暮らしていたという小さな和室が並んでいた。
壁の白いペンキは黄ばみ、床は歩くたびに軋んだ。
そして、どれだけ掃除をしても、消えない匂いがあった。
古い消毒液の、あの鼻の奥を刺すような匂いだ。
「昔の匂いが、染みついちゃってるのよ」
先輩講師の園田さんは、笑ってそう言っていた。
園田さんは二十代半ばの、明るくて面倒見のいい人だった。
生徒からの人気も高く、私にとっては頼れる先輩だった。
最初の数か月、塾での毎日は、ごく穏やかに過ぎていった。
私の一日は、夕方から始まった。
学校を終えた子どもたちが、ひとり、またひとりとやってくる。
古いロビーに彼らの声が響くと、建物が少しだけ若返るようだった。
授業は夜まで続き、終わる頃には、外はすっかり暗くなっている。
生徒を送り出したあとの戸締まりは、たいてい私の役目だった。
鍵を閉めて回るあいだ、私はいつも、少しだけ早足になった。
理由は、自分でもわからなかった。
ただ、誰かに見られているような気が、していたのだ。
誰もいなくなった建物は、昼間とはまるで別の顔をしていた。
蛍光灯の光が、黄ばんだ壁にぼんやりとにじむ。
床板は、私の足音に合わせて、あちこちで軋んだ。
二階の和室のほうから、ときおり、みしり、と音がした。
ネズミでもいるのだろうと、最初は思っていた。
けれど、その音は、決まって同じ時刻に鳴った。
夜の八時を過ぎ、最後の生徒が帰った直後だ。
まるで、子どもたちがいなくなるのを、待っていたかのように。
園田さんは、そんな私に、いつも温かいお茶をいれてくれた。
「夜のこの建物、慣れるまで少し怖いでしょう」
「正直、ちょっとだけ怖いです」
「私も、最初はそうだったの」
そう言って笑う彼女の目が、一瞬だけ翳ったのを、私は見逃していた。
それでも、その頃の私は、ただの古い建物だと思い込んでいた。
古いものには、古いなりの軋みや匂いがあるものだ、と。
塾長は、この建物の由来を、あまり話したがらなかった。
「昔、子どもをたくさん診た医院だったんだ」
そう言うだけで、詳しいことは濁した。
私が奥の教室について尋ねても、
「あそこは、物を置くのに使ってるだけだ」
と、そっけなく返されるだけだった。
今思えば、塾長も、何かを知っていたのだと思う。
知っていて、あえて口をつぐんでいたのだ。
※
最初の異変は、ひとつの教室の寒さだった。
一階のいちばん奥にある、小さな教室だ。
そこだけが、真夏でもひんやりと冷えていた。
エアコンを切っても、その冷たさは変わらなかった。
戸を開けると、ひやりとした空気が、足元を撫でていく。
真夏だというのに、うなじが粟立つほどの冷たさだった。
床の一部が、いつも湿っているようにも見えた。
その教室にだけ、消毒液の匂いが、いっそう強く漂っていた。
「あの部屋、なんだか寒くないですか」
私が尋ねると、園田さんは少しだけ黙った。
「……あそこは、あんまり使わないほうがいいの」
理由は、教えてくれなかった。
次に気づいたのは、夜の音だった。
授業がすべて終わり、生徒が帰ったあとのことだ。
誰もいないはずの受付ロビーで、ぎい、と音が鳴る。
昔の待合室に置かれた、古い木の長椅子の軋む音だった。
まるで、誰かがそこに腰を下ろしたような音だった。
見に行っても、長椅子には誰もいない。
けれど、座面のほこりだけが、うっすらと乱れていた。
まるで、たった今、誰かが立ち上がったかのように。
私は、見なかったことにして、灯りを消した。
ただ、消毒液の匂いだけが、その一角で濃くなっていた。
そんな夜が、少しずつ増えていった。
三つ目の異変は、咳の音だった。
空っぽの教室から、子どもの咳が聞こえるのだ。
こほ、こほ、という、乾いた小さな咳だった。
それは、風邪をひいた子どもがするような、弱々しい咳だった。
一つではなかった。
いくつもの咳が、重なって聞こえることもあった。
まるで、たくさんの子が、同じ部屋で寝ているかのように。
戸を開けても、そこには誰もいない。
けれど、匂いだけが、また濃くなっていた。
私は、自分の神経が疲れているのだと思うことにした。
そう思わなければ、あの建物にはいられなかった。
四つ目の異変は、出席簿だった。
ある夜、翌日の名簿を確認していたときのことだ。
生徒の名前が並ぶ列の、いちばん下。
覚えのない名前が、薄い鉛筆で書き足されていた。
古めかしく、見慣れない字だった。
私は、そんな子を担当した覚えがなかった。
翌朝、園田さんに尋ねると、彼女の顔がこわばった。
「その名前、消しておいて」
「……見なかったことに、して」
彼女は、それ以上、何も言わなかった。
消しゴムで消しても、翌週、また同じ名前が浮かんでいた。
何度消しても、それは律儀に、戻ってきた。
その名前を、私は一度だけ、声に出して読んでしまった。
読んだ瞬間、教室の蛍光灯が、一度だけ、ちかりと瞬いた。
それきり、私は二度と、その名を口にしなかった。
五つ目の異変は、足音だった。
夜、二階の廊下を、小さな足音が歩く。
ぱたぱたと、子どもが走るような、軽い足音だ。
見に行くと、廊下には誰もいない。
ただ、床にうっすらと、濡れたような足跡が残っていた。
その足跡は、決まって、あの奥の教室のほうへ続いていた。
拭き取っても、次の夜には、また同じ場所に現れた。
私は、夜の戸締まりが、だんだん怖くなっていった。
帰り際、あの奥の教室の戸だけは、見ないようにして通った。
それでも、私はまだ、辞めるつもりはなかった。
新米講師の私にとって、この仕事は、ようやく掴んだ居場所だった。
園田さんという、頼れる先輩もいた。
だから、多少の不気味さは、目をつぶるしかなかったのだ。
——今にして思えば、それが甘かった。
あの塾で過ごした日々を、私は今も、忘れることができない。
忘れたくても、あの匂いが、それを許してくれないのだ。
※
その頃から、園田さんの様子が、少しずつ変わっていった。
授業中、ふと言葉を止めて、宙の一点を見つめることがあった。
「園田さん、大丈夫ですか」
「え……ああ、ごめんなさい。ちょっと、ぼうっとして」
そう言って笑うものの、その目は、どこか遠かった。
ある日、彼女がぽつりとこぼした。
「最近ね、知らない子の名前を、呼びそうになるの」
「知らない子、ですか」
「うん。出席簿にも、いないはずの名前」
私は、背筋がすっと冷たくなるのを感じた。
それからの園田さんは、日に日に、痩せていくように見えた。
顔色は青白く、目の下には濃い隈があった。
「あの子たちが、呼んでるの」
あるとき、彼女は独り言のように、そうつぶやいた。
「あの子たち、って」
「……ごめんなさい。なんでもないの」
彼女は、慌てたように首を振って、それきり黙り込んだ。
私は、かける言葉を見つけられなかった。
※
それは、蒸し暑い夏の夜のことだった。
私は、例の奥の教室で、数人の小学生に授業をしていた。
隣の教室では、園田さんが授業をしているはずだった。
ふいに、隣から聞こえる声が、変わった。
園田さんの声のはずなのに、低く、ドスの利いた声色だった。
私は手を止めて、耳をすませた。
「静かにしなさい」
それは、園田さんの口調ではなかった。
戦時中の教師が、生徒を叱るような、古めかしい言い回しだった。
「熱のある子は、こちらへ並びなさい」
背筋が凍った。
その声には、有無を言わせぬ響きがあった。
まるで、大勢の子どもを束ねてきた者の、慣れた口ぶりだった。
私は生徒たちに待つよう言い、隣の教室へ向かった。
戸を開けると、園田さんが、黒板の前に立っていた。
目は虚ろで、どこか遠い虚空を見ていた。
生徒たちは、机に張りついたまま、青ざめていた。
「園田さん」
私が名を呼んでも、彼女は振り向かなかった。
彼女は、誰もいない教室の後ろを、じっと数えていた。
「一人、二人、三人……」
その指が、宙をなぞっていく。
「一人、二人、三人……」
誰もいない机の上を、順に撫でるように。
その手つきは、まるで、幼い子の頭を撫でるようだった。
「みんな、いい子にしていましたか」
低い声が、そう問いかける。
返事をする者は、誰もいない。
それでも彼女は、満足そうにうなずいた。
そして、ふと、その笑みが消えた。
彼女は、教室の後ろの隅を、じっと見つめた。
そこには、誰もいないはずだった。
「あなたは、まだ、帰らないの」
低い声が、誰もいない隅に、そう問いかけた。
私の全身から、血の気が引いた。
「一人、足りないねえ」
ぞわりと、腕の毛が逆立った。
女子生徒の一人が、とうとう泣き出した。
私はもう一人の講師を呼びに走った。
駆けつけたベテランの先生が、園田さんの肩を叩いた。
「園田さん! しっかりして!」
二度、三度と名を呼び、肩を揺さぶる。
園田さんは、糸が切れたように、その場に崩れ落ちた。
そして、正気に戻った彼女は、何も覚えていなかった。
「私、今、何を……」
園田さんは、床に座り込んだまま、震えていた。
「大丈夫です。少し、疲れていただけですよ」
私は、そう言うしかなかった。
本当のことを告げる勇気は、なかった。
その夜のあと、生徒の何人かは、塾を辞めていった。
無理もないことだった。
園田さんは、その後、しばらく塾を休んだ。
復帰しても、あの奥の教室にだけは、決して入ろうとしなかった。
そして、あの低い声は、ふとした拍子に、また彼女を訪れた。
その夜、私は数えずにはいられなかった。
教室にいた子どもの数を、もう一度、頭のなかで。
その日、教室にいた子どもの数は、一人多かった。
※
その一件のあと、同じようなことが、何度か続いた。
園田さんは、決まってあの低い声で、子どもたちを整列させようとした。
そして必ず、最後にこう言うのだ。
「一人、足りないねえ」と。
秋が来る前に、園田さんは塾を辞めた。
体を壊した、というのが表向きの理由だった。
辞める前、彼女は私に、一枚の古い紙を見せてくれた。
塾の物置で見つけた、この建物の昔の記録だった。
そこには、この医院の、ある年の出来事が記されていた。
紙は茶色く変色し、端はぼろぼろに崩れていた。
それは、この医院の、古い診療の記録だった。
院長が、几帳面な字で書き残したものらしい。
そこには、運び込まれた子どもたちの名前が、ずらりと並んでいた。
名前の横には、日付と、短い一言が添えられている。
『快方』『退院』——そう書かれた子も、いた。
けれど、あるページから、その言葉が変わっていた。
『力及ばず』。
同じ言葉が、何度も、何度も続いていた。
ページをめくる指が、止まらなくなった。
最後のほうには、名前だけが並び、言葉さえ添えられていなかった。
書く手が、追いつかなかったのだろう。
記録の最後のページに、院長は、こう書き残していた。
『この子らを、一人も見送れなかったことが、生涯の悔いである』
園田さんは、その一文を、そっと指でなぞった。
「だから、あの声は、まだ数えているのね」
「何人、助けられなかったのかを」
私は、何も言えなかった。
ただ、あの奥の教室の冷たさの意味を、ようやく理解した。
あそこは、子どもたちが最期を過ごした、隔離室だったのだ。
熱にうかされた子らが、親にも会えぬまま、次々と息を引き取った部屋。
その部屋を、塾は教室に変え、私たちは何も知らずに使っていた。
子どもの声が響くその場所で、あの子たちは、どんな思いでいたのだろう。
楽しげな笑い声が、羨ましかったのかもしれない。
あるいは、ただ、仲間に入りたかっただけなのかもしれない。
その年、町では、子どもの流行り病が広がったという。
熱を出した子どもたちが、この医院に次々と運び込まれた。
多くの子が、あの奥の隔離室で、息を引き取ったそうだ。
あの、真夏でも冷たい、奥の教室のことだった。
「あの声はね」と、園田さんは静かに言った。
「たぶん、あの子たちを看ていた、昔の先生なのよ」
だから、いつも数えていたのだ。
何人の子が、まだ助けられずに残っているのかを。
園田さんは、それきり町を離れ、連絡も途絶えた。
風の便りに、彼女は元気にしていると聞いた。
けれど、二度とこの町には、戻ってこなかった。
あの建物のことを、私は誰にも詳しくは話していない。
話したところで、信じてもらえるとも思えなかった。
けれど、これだけは、本当のことだ。
あの奥の教室は、真夏でも、氷のように冷たかった。
そして夜になると、確かに、子どもの咳が聞こえた。
塾は、今でもあの古い建物で続いている。
奥の教室は、今も使われないままだと聞いた。
そして、夜になると、たまに消毒液の匂いが、濃くなるのだという。
私も、あの塾を、その年のうちに離れた。
あの匂いと、あの足音に、もう耐えられなくなったのだ。
辞める最後の夜、私は奥の教室の前で、一度だけ立ち止まった。
戸の隙間から、ひやりとした空気が、廊下に流れ出していた。
その冷たさの奥で、こほ、と小さな咳が聞こえた気がした。
私は振り返らずに、足早に建物を出た。
今でも、消毒液の匂いを嗅ぐと、あの奥の教室を思い出す。
園田さんが、いない子を数えていた、あの夜を。
あの夜、一人多かった子どもが、誰だったのか。
ただ、ひとつだけ、忘れられないことがある。
あの夜、園田さんが数え終えたあと。
私は確かに、小さな声を聞いた気がするのだ。
「ありがとう」と。
誰もいない、教室の後ろの隅から。
それは、今もわからないままだ。