ねろてばさん

ねろてばさん

祖母の実家がある谷は、地図の上では名前を持っていない。

藁尾(わらお)と呼ばれている。

戸数は十七。山陰の、川に沿って細く伸びた集落だ。

大学で民俗学を専攻していた私は、卒業論文の題材を探して、その谷に一週間滞在した。

迎えてくれたのは、祖母の弟にあたる与作さんだった。

当時、八十四。腰は曲がっていたが、目だけがひどく澄んでいた。

「東京から、何を採りに来たんか」

「子守唄です。ここにしかないものがあると、祖母から聞きました」

与作さんは、湯呑みを置いた。

置いたきり、しばらく手を離さなかった。

「あるにはある」

「録らせてもらえますか」

「録るのはええ」

少しの間があった。

「ただ、夜には流すな」

※

平屋。屋根は瓦。北向きの窓が、ひとつもない。

北側にあるのは、裏山だ。

標高は四百に届かない。杉と、竹と、名の知れない広葉樹。

何の変哲もない、日本のどこにでもある山だった。

最初の違和感は、二日目の朝に来た。

与作さんの家の雨戸を、内側から見たときだ。

釘が打ってあった。

太い、鍛冶で打ったような和釘が、桟に四本。

開かないように、ではない。

開けにくいように、打たれていた。

「これは」

「昔からじゃ」

「防犯ですか」

与作さんは笑わずに答えた。

「起きてしもうた者が、うっかり開けんようにな」

意味が分からなかった。

聞き返そうとしたとき、与作さんは立ち上がって、畑へ出て行った。

二日目の午後、私は裏山に登ってみた。

獣道はあるが、人の道はない。

杉の間隔が、途中から不自然に規則正しくなった。

植林の跡だ。だが、間伐された形跡がない。

半分ほど登ったところで、石が並んでいるのに気づいた。

膝ほどの高さの、丸い石が十七。

戸数と、同じ数だった。

文字は刻まれていない。

苔の生え方から見て、百年以上そこにある。

石の並びは、円ではなかった。

集落のほうを向いた、緩い弧を描いていた。

見下ろす配置だ、と思った。

思った瞬間、背中の産毛が立った。

私は写真を撮らずに、山を下りた。

撮ろうとして、指がシャッターに乗らなかったのだ。

下りる途中、一度も振り返らなかった。

振り返らなかったことを、いまも覚えている。

覚えているということは、振り返りたかったということだ。

※

藁尾へは、麓の駅から一日二便のバスで入る。

終点で降りて、そこからさらに砂利道を三十分。

川は浅く、水音は絶えない。

それなのに、谷はひどく静かだった。

鳥が鳴かないのだと、あとで気づいた。

与作さんの家は、明治の末に建てられたものだという。

梁は煤で黒く、囲炉裏の跡が土間の隅に残っていた。

間取りは六間。四つが襖で仕切られ、二つは納戸だ。

どの部屋にも、北側に窓がない。

代わりに、南の縁側だけが不自然に広かった。

「日が入らんと、米が乾かんけえな」

与作さんはそう説明した。

筋は通っている。

通っているのに、私は納得できなかった。

この谷では、どの家も、山に背を向けて建っていた。

寺だけが例外だった。

本堂は、まっすぐ裏山に向いていた。

住職はもういない。無住になって三十年だと聞いた。

※

三日目、私は集落の女たちから子守唄を採録した。

寺の集会所に、七人が集まってくれた。

最年長は九十を超え、最年少は六十だった。

歌が始まると、部屋の温度が下がった気がした。

実際には下がっていない。それでも、腕の毛が立った。

寝ろてばよ 寝ろてばよ

目ん玉でんぐりがえして 寝ろてばよ

旋律は、ほとんど旋律と呼べないほど平坦だった。

三つの音を、上がっては下がるだけ。

それを、七人が微妙にずれた拍で繰り返す。

ずれているのに、途中から不思議と揃っていく。

揃った瞬間、私は録音機のレベルメーターから目を離せなくなった。

針が、歌の切れ目でも下がらない。

誰も歌っていない拍に、音が残り続けていた。

「もう、ええか」

最年長の婆さまが、そう言って歌をやめた。

腕時計を見ると、二十分が経っていた。

体感では、五分だった。

※

歌のあと、私は婆さまたちに尋ねた。

「この唄は、いつ歌うんですか」

「赤子が泣くときじゃ」

「ほかには」

部屋の空気が、わずかに硬くなった。

六十くらいの女が、口を開きかけて、閉じた。

最年長の婆さまが、代わりに答えた。

「山が光ったときにも、歌う」

「大人が、ですか」

「大人がな。自分に歌うんじゃ」

私は、その言い方に引っかかった。

子守唄とは、他人を眠らせるものだ。

この谷では、自分を眠らせるための唄になっていた。

「最後に光ったのは、いつです」

婆さまは指を折った。

折って、途中でやめた。

「数えん方がええ」

※

「ねろてば、というのは何ですか」

夕食のあと、私は与作さんに尋ねた。

「寝なさい、じゃ。この谷の言い方でな」

「では、ねろてばさんとは」

与作さんは、飯粒のついた箸を置いた。

「山が光る。そのときのことを、そう呼ぶ」

「山が、光る」

「薄い緑にな。ぼうっと、山ぜんぶが」

「発光現象、ですか」

「知らん。だが、光ったら寝る」

「寝ないと、どうなります」

与作さんは、そこで初めて私を正面から見た。

「見えてしまう」

何が、とは言わなかった。

「じゃけえ、子守唄で言うとろうが」

目ん玉でんぐりがえして、寝ろてばよ。

目玉をひっくり返して眠れ。

つまり、外側を見るな。

内側を見ろ、ということだ。

「うちのじじさまの、弟がな」

与作さんは、天井を見ながら言った。

「光った晩に、雨戸を開けた」

「どうなりました」

「戻ってこん」

「山に入ったんですか」

「いや。座敷に、おった」

箸が、卓の上でわずかに転がった。

「体はな。おったんじゃ」

※

その晩、私は寝つけずに縁側へ出た。

月はなく、山の稜線だけが空より濃く沈んでいた。

川音のほかに、音はない。

ふと、集落を見渡して、妙なことに気づいた。

どの家にも、灯りが点いていない。

まだ九時前だった。

十七戸が、一斉に眠っている。

翌朝、私は与作さんに聞いた。

「みなさん、寝るのが早いですね」

「早いんじゃない」

与作さんは、味噌汁の椀を置いた。

「早う寝る癖を、つけとるんじゃ」

癖。

その言葉が、ずっと耳に残った。

何かに備える癖を、この谷は世代をかけて身につけていた。

※

じじさまの弟の話を、与作さんは一度だけ詳しく語った。

名は、久太郎といった。

当時、十九。谷でいちばん目のいい若者だったという。

光った晩、久太郎は雨戸の釘を抜いた。

見てやろうと思ったらしい。

翌朝、家族が座敷で見つけたとき、久太郎は正座していた。

背筋を伸ばし、両手を膝に置いて。

目は開いていた。

「返事は、するんじゃ」

与作さんは言った。

「名を呼べば、はい、と言う」

「じゃあ、無事だったんですね」

「はい、しか言わん」

「ほかの言葉は」

「三十年、はい、だけじゃった」

私は箸を持てなくなった。

「久太郎さんは、いつ亡くなったんですか」

与作さんは、少し考えてから答えた。

「死んどらん。あれは、死ぬ前に空になっとった」

※

四日目の夜、私は録音を聞き返した。

部屋の灯りを落とし、ヘッドフォンをつけて。

与作さんの言いつけを、私は破っていた。

夜には流すな。

守るほどのことではないと、思っていたのだ。

歌が始まる。七人の声。

寝ろてばよ 寝ろてばよ。

三巡目までは、集会所の記憶のとおりだった。

四巡目に入ったところで、声が八つになった。

数えたわけではない。密度で分かった。

低い、性別のはっきりしない声が、拍の裏に入っている。

歌詞が、違っていた。

起きろてばよ 起きろてばよ。

私は、ヘッドフォンを外した。

部屋は静かだった。

外していても、まだ聞こえていた。

※

雨戸の桟が、鳴った。

風ではない。内側から、何かが押している音だった。

私は動けなかった。

和釘が、木を軋ませていた。

廊下の向こうで、与作さんの部屋の襖が開いた。

足音が、こちらへ来る。

止まる。

「開けるな」

襖越しの声だった。

「開けてません」

「わしが言うとるのは、目じゃ」

私は、自分の瞼が開いていることに、そのとき気づいた。

部屋の障子が、外から薄く緑に染まっていた。

淡い、腐りかけた若葉のような色。

光は、揺れていなかった。

揺れないから、生き物ではないと思った。

次の瞬間、思い直した。

揺れないものほど、こちらを見ている。

「与作さん」

「寝ろ」

「山が」

「あれは山が光っとるんじゃない」

襖の向こうで、老人の声が低くなった。

「山が、こっちを見とるんじゃ」

※

私は布団に入り、目を閉じた。

閉じても、緑は瞼の裏に残った。

だから、目玉をひっくり返すのだ。

眼球を上に向け、白目の裏を自分に向ける。

実際にやってみて、初めてその歌詞が実技であることを知った。

視界が、ようやく黒くなった。

廊下から、与作さんの声が聞こえてきた。

寝ろてばよ 寝ろてばよ。

歌っていた。

八十四の老人が、自分に向かって子守唄を歌っていた。

その声に、集会所の七人の声が重なった。

家々の雨戸の内側で、みんなが同じ歌を歌っている。

谷の十七戸すべてが、同時に眠ろうとしていた。

眠りとは、逃げることだ。

この谷の人々は、逃げ方だけを、千年かけて完成させたのだ。

それが、藁尾の唯一の防具だった。

※

翌朝、私は集落を歩いた。

どの家も、雨戸が閉まったままだった。

昼近くになって、一軒ずつ、順に開いていく。

順番があった。

川下の家から、川上へ。

最後に開くのが、寺にいちばん近い家だった。

誰かが確かめてから、次が開ける。

そういう決まりに見えた。

庭先で、女が布団を干していた。

私が会釈すると、その人は手を止めずに言った。

「よう寝んさったか」

「はい」

「そんなら、よかった」

それ以上、何も聞かれなかった。

聞かれないことが、この谷の礼儀だった。

寝られなかった者に、何があったかを尋ねてはいけない。

尋ねれば、聞いてしまう。

聞けば、知ってしまう。

知ってしまえば、次は自分が起きる番になる。

※

朝、光は消えていた。

与作さんは、いつもどおり味噌汁をすすっていた。

「昨夜のことですが」

「何もなかったろう」

「光りました」

「見たんか」

箸が止まった。

「……少しだけ」

与作さんは、それきり何も聞かなかった。

聞かないことが、答えだった。

その日、私は集落を出た。

見送りに来たのは、与作さん一人だった。

バス停まで、五百メートルの砂利道を、二人で歩いた。

別れ際、与作さんが私の腕を掴んだ。

力は、驚くほど強かった。

「テープは、燃やせ」

「資料です」

「資料の中に、おるんじゃ」

「何が」

与作さんは答えず、私の目を覗き込んだ。

覗き込んで、それから、ひどく静かな顔になった。

「もう、遅いか」

※

バスの車内で、私は録音機の残量を確かめた。

最後の十分に、覚えのない音が入っていた。

集会所でも、与作さんの家でもない。

風の音でもなかった。

呼吸だった。

規則正しい、深い、眠っている人間の呼吸。

それが、二十人分ほど重なっていた。

あの晩、谷じゅうの寝息を、私の機械は拾っていたのだ。

あるいは、拾わされていた。

再生を止めると、車内はひどく静かになった。

運転手のほかに、乗客は私だけだった。

窓の外を、藁尾の山が遠ざかっていく。

薄い緑をしていた。

それが昼の色なのか、まだ光っているのか、私には判断がつかなかった。

※

東京に戻って、私は論文を書かなかった。

テープは燃やさなかった。

金庫に入れ、二十年、一度も開けていない。

それでも、この二十年で、いくつかのことが起きた。

最初は、眠り方だ。

私は仰向けで眠れなくなった。

目を閉じると、瞼の裏がわずかに緑に染まる。

眼球を上に向けなければ、黒くならない。

二つ目は、家の窓だ。

引っ越しのたびに、私は北向きの窓のない部屋を選んでいた。

意識してではない。契約書を見返して、初めて気づいた。

三つ目は、去年のことだ。

娘が生まれた。

夜泣きがひどく、妻がどうしても寝かしつけられない晩があった。

私は娘を抱いて、暗い居間を歩いた。

気づくと、歌っていた。

寝ろてばよ 寝ろてばよ。

習ったことはない。録音を聞き返してもいない。

それなのに、拍のずれまで正確だった。

娘は泣きやんだ。

腕の中で、驚くほど早く眠りに落ちた。

※

眠っているのに、開いていた。

そこに、黒目はなかった。

白目だけが、居間の暗がりに浮いていた。

眼球が、上を向いていたのだ。

教えていない。

誰も、あの子には教えていない。

私は娘を抱いたまま、その場に座り込んだ。

歌は、まだ喉の奥で続いていた。

止めようとして、止まらなかった。

娘は今年、三歳になった。

言葉が増え、歌をよく歌う。

保育園で覚えたという童謡を、風呂で聞かせてくれる。

先週、湯船で娘が新しい歌を歌った。

三つの音を、上がっては下がるだけの、平坦な歌だった。

「それ、どこで習ったの」

娘は湯を掬いながら答えた。

「おそとの、みどりのひとが、おしえてくれた」

私は、風呂の窓に目をやった。

北向きの、すりガラスの窓だった。

そんな窓は、この家にはないはずだった。

※

藁尾は、五年前に最後の住人が施設へ移り、無住になった。

与作さんの家も、いまは屋根が落ちているという。

雨戸の和釘だけが、まだ残っているだろうか。

あれは、誰かが起きてしまわないための釘だった。

外から入るものを止める釘では、なかった。

金庫を開けたことは、二十年で一度だけある。

三年前、引っ越しの荷造りのときだ。

テープは、巻き戻された状態で入っていた。

私は、聞き終えたあと必ず頭出しをする習慣がない。

あの晩も、途中で外した。巻き戻すはずがなかった。

それだけを確認して、私は蓋を閉めた。

以来、鍵の番号は妻にも教えていない。

教えれば、いつか誰かが再生する。

再生すれば、八つ目の声が部屋に出る。

起きろてばよ、と。

金庫の中のテープを、私は時々思い出す。

回してもいないのに、あの八つ目の声が、部屋のどこかで拍を刻んでいる気がして。

起きろてばよ、と。

だから今夜も、私は眼球を上へ向ける。

見なければ、まだ、こちらの番ではない。

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