ねろてばさん

祖母の実家がある谷は、地図の上では名前を持っていない。

藁尾(わらお)と呼ばれている。

戸数は十七。山陰の、川に沿って細く伸びた集落だ。

大学で民俗学を専攻していた私は、卒業論文の題材を探して、その谷に一週間滞在した。

迎えてくれたのは、祖母の弟にあたる与作さんだった。

当時、八十四。腰は曲がっていたが、目だけがひどく澄んでいた。

「東京から、何を採りに来たんか」

「子守唄です。ここにしかないものがあると、祖母から聞きました」

与作さんは、湯呑みを置いた。

置いたきり、しばらく手を離さなかった。

「あるにはある」

「録らせてもらえますか」

「録るのはええ」

少しの間があった。

「ただ、夜には流すな」

平屋。屋根は瓦。北向きの窓が、ひとつもない。

北側にあるのは、裏山だ。

標高は四百に届かない。杉と、竹と、名の知れない広葉樹。

何の変哲もない、日本のどこにでもある山だった。

最初の違和感は、二日目の朝に来た。

与作さんの家の雨戸を、内側から見たときだ。

釘が打ってあった。

太い、鍛冶で打ったような和釘が、桟に四本。

開かないように、ではない。

開けにくいように、打たれていた。

「これは」

「昔からじゃ」

「防犯ですか」

与作さんは笑わずに答えた。

「起きてしもうた者が、うっかり開けんようにな」

意味が分からなかった。

聞き返そうとしたとき、与作さんは立ち上がって、畑へ出て行った。

二日目の午後、私は裏山に登ってみた。

獣道はあるが、人の道はない。

杉の間隔が、途中から不自然に規則正しくなった。

植林の跡だ。だが、間伐された形跡がない。

半分ほど登ったところで、石が並んでいるのに気づいた。

膝ほどの高さの、丸い石が十七。

戸数と、同じ数だった。

文字は刻まれていない。

苔の生え方から見て、百年以上そこにある。

石の並びは、円ではなかった。

集落のほうを向いた、緩い弧を描いていた。

見下ろす配置だ、と思った。

思った瞬間、背中の産毛が立った。

私は写真を撮らずに、山を下りた。

撮ろうとして、指がシャッターに乗らなかったのだ。

下りる途中、一度も振り返らなかった。

振り返らなかったことを、いまも覚えている。

覚えているということは、振り返りたかったということだ。

藁尾へは、麓の駅から一日二便のバスで入る。

終点で降りて、そこからさらに砂利道を三十分。

川は浅く、水音は絶えない。

それなのに、谷はひどく静かだった。

鳥が鳴かないのだと、あとで気づいた。

与作さんの家は、明治の末に建てられたものだという。

梁は煤で黒く、囲炉裏の跡が土間の隅に残っていた。

間取りは六間。四つが襖で仕切られ、二つは納戸だ。

どの部屋にも、北側に窓がない。

代わりに、南の縁側だけが不自然に広かった。

「日が入らんと、米が乾かんけえな」

与作さんはそう説明した。

筋は通っている。

通っているのに、私は納得できなかった。

この谷では、どの家も、山に背を向けて建っていた。

寺だけが例外だった。

本堂は、まっすぐ裏山に向いていた。

住職はもういない。無住になって三十年だと聞いた。

三日目、私は集落の女たちから子守唄を採録した。

寺の集会所に、七人が集まってくれた。

最年長は九十を超え、最年少は六十だった。

歌が始まると、部屋の温度が下がった気がした。

実際には下がっていない。それでも、腕の毛が立った。

寝ろてばよ 寝ろてばよ

目ん玉でんぐりがえして 寝ろてばよ

旋律は、ほとんど旋律と呼べないほど平坦だった。

三つの音を、上がっては下がるだけ。

それを、七人が微妙にずれた拍で繰り返す。

ずれているのに、途中から不思議と揃っていく。

揃った瞬間、私は録音機のレベルメーターから目を離せなくなった。

針が、歌の切れ目でも下がらない。

誰も歌っていない拍に、音が残り続けていた。

「もう、ええか」

最年長の婆さまが、そう言って歌をやめた。

腕時計を見ると、二十分が経っていた。

体感では、五分だった。

歌のあと、私は婆さまたちに尋ねた。

「この唄は、いつ歌うんですか」

「赤子が泣くときじゃ」

「ほかには」

部屋の空気が、わずかに硬くなった。

六十くらいの女が、口を開きかけて、閉じた。

最年長の婆さまが、代わりに答えた。

「山が光ったときにも、歌う」

「大人が、ですか」

「大人がな。自分に歌うんじゃ」

私は、その言い方に引っかかった。

子守唄とは、他人を眠らせるものだ。

この谷では、自分を眠らせるための唄になっていた。

「最後に光ったのは、いつです」

婆さまは指を折った。

折って、途中でやめた。

「数えん方がええ」

「ねろてば、というのは何ですか」

夕食のあと、私は与作さんに尋ねた。

「寝なさい、じゃ。この谷の言い方でな」

「では、ねろてばさんとは」

与作さんは、飯粒のついた箸を置いた。

「山が光る。そのときのことを、そう呼ぶ」

「山が、光る」

「薄い緑にな。ぼうっと、山ぜんぶが」

「発光現象、ですか」

「知らん。だが、光ったら寝る」

「寝ないと、どうなります」

与作さんは、そこで初めて私を正面から見た。

「見えてしまう」

何が、とは言わなかった。

「じゃけえ、子守唄で言うとろうが」

目ん玉でんぐりがえして、寝ろてばよ。

目玉をひっくり返して眠れ。

つまり、外側を見るな。

内側を見ろ、ということだ。

「うちのじじさまの、弟がな」

与作さんは、天井を見ながら言った。

「光った晩に、雨戸を開けた」

「どうなりました」

「戻ってこん」

「山に入ったんですか」

「いや。座敷に、おった」

箸が、卓の上でわずかに転がった。

「体はな。おったんじゃ」

その晩、私は寝つけずに縁側へ出た。

月はなく、山の稜線だけが空より濃く沈んでいた。

川音のほかに、音はない。

ふと、集落を見渡して、妙なことに気づいた。

どの家にも、灯りが点いていない。

まだ九時前だった。

十七戸が、一斉に眠っている。

翌朝、私は与作さんに聞いた。

「みなさん、寝るのが早いですね」

「早いんじゃない」

与作さんは、味噌汁の椀を置いた。

「早う寝る癖を、つけとるんじゃ」

癖。

その言葉が、ずっと耳に残った。

何かに備える癖を、この谷は世代をかけて身につけていた。

じじさまの弟の話を、与作さんは一度だけ詳しく語った。

名は、久太郎といった。

当時、十九。谷でいちばん目のいい若者だったという。

光った晩、久太郎は雨戸の釘を抜いた。

見てやろうと思ったらしい。

翌朝、家族が座敷で見つけたとき、久太郎は正座していた。

背筋を伸ばし、両手を膝に置いて。

目は開いていた。

「返事は、するんじゃ」

与作さんは言った。

「名を呼べば、はい、と言う」

「じゃあ、無事だったんですね」

「はい、しか言わん」

「ほかの言葉は」

「三十年、はい、だけじゃった」

私は箸を持てなくなった。

「久太郎さんは、いつ亡くなったんですか」

与作さんは、少し考えてから答えた。

「死んどらん。あれは、死ぬ前に空になっとった」

四日目の夜、私は録音を聞き返した。

部屋の灯りを落とし、ヘッドフォンをつけて。

与作さんの言いつけを、私は破っていた。

夜には流すな。

守るほどのことではないと、思っていたのだ。

歌が始まる。七人の声。

寝ろてばよ 寝ろてばよ。

三巡目までは、集会所の記憶のとおりだった。

四巡目に入ったところで、声が八つになった。

数えたわけではない。密度で分かった。

低い、性別のはっきりしない声が、拍の裏に入っている。

歌詞が、違っていた。

起きろてばよ 起きろてばよ。

私は、ヘッドフォンを外した。

部屋は静かだった。

外していても、まだ聞こえていた。

雨戸の桟が、鳴った。

風ではない。内側から、何かが押している音だった。

私は動けなかった。

和釘が、木を軋ませていた。

廊下の向こうで、与作さんの部屋の襖が開いた。

足音が、こちらへ来る。

止まる。

「開けるな」

襖越しの声だった。

「開けてません」

「わしが言うとるのは、目じゃ」

私は、自分の瞼が開いていることに、そのとき気づいた。

部屋の障子が、外から薄く緑に染まっていた。

淡い、腐りかけた若葉のような色。

光は、揺れていなかった。

揺れないから、生き物ではないと思った。

次の瞬間、思い直した。

揺れないものほど、こちらを見ている。

「与作さん」

「寝ろ」

「山が」

「あれは山が光っとるんじゃない」

襖の向こうで、老人の声が低くなった。

「山が、こっちを見とるんじゃ」

私は布団に入り、目を閉じた。

閉じても、緑は瞼の裏に残った。

だから、目玉をひっくり返すのだ。

眼球を上に向け、白目の裏を自分に向ける。

実際にやってみて、初めてその歌詞が実技であることを知った。

視界が、ようやく黒くなった。

廊下から、与作さんの声が聞こえてきた。

寝ろてばよ 寝ろてばよ。

歌っていた。

八十四の老人が、自分に向かって子守唄を歌っていた。

その声に、集会所の七人の声が重なった。

家々の雨戸の内側で、みんなが同じ歌を歌っている。

谷の十七戸すべてが、同時に眠ろうとしていた。

眠りとは、逃げることだ。

この谷の人々は、逃げ方だけを、千年かけて完成させたのだ。

それが、藁尾の唯一の防具だった。

翌朝、私は集落を歩いた。

どの家も、雨戸が閉まったままだった。

昼近くになって、一軒ずつ、順に開いていく。

順番があった。

川下の家から、川上へ。

最後に開くのが、寺にいちばん近い家だった。

誰かが確かめてから、次が開ける。

そういう決まりに見えた。

庭先で、女が布団を干していた。

私が会釈すると、その人は手を止めずに言った。

「よう寝んさったか」

「はい」

「そんなら、よかった」

それ以上、何も聞かれなかった。

聞かれないことが、この谷の礼儀だった。

寝られなかった者に、何があったかを尋ねてはいけない。

尋ねれば、聞いてしまう。

聞けば、知ってしまう。

知ってしまえば、次は自分が起きる番になる。

朝、光は消えていた。

与作さんは、いつもどおり味噌汁をすすっていた。

「昨夜のことですが」

「何もなかったろう」

「光りました」

「見たんか」

箸が止まった。

「……少しだけ」

与作さんは、それきり何も聞かなかった。

聞かないことが、答えだった。

その日、私は集落を出た。

見送りに来たのは、与作さん一人だった。

バス停まで、五百メートルの砂利道を、二人で歩いた。

別れ際、与作さんが私の腕を掴んだ。

力は、驚くほど強かった。

「テープは、燃やせ」

「資料です」

「資料の中に、おるんじゃ」

「何が」

与作さんは答えず、私の目を覗き込んだ。

覗き込んで、それから、ひどく静かな顔になった。

「もう、遅いか」

バスの車内で、私は録音機の残量を確かめた。

最後の十分に、覚えのない音が入っていた。

集会所でも、与作さんの家でもない。

風の音でもなかった。

呼吸だった。

規則正しい、深い、眠っている人間の呼吸。

それが、二十人分ほど重なっていた。

あの晩、谷じゅうの寝息を、私の機械は拾っていたのだ。

あるいは、拾わされていた。

再生を止めると、車内はひどく静かになった。

運転手のほかに、乗客は私だけだった。

窓の外を、藁尾の山が遠ざかっていく。

薄い緑をしていた。

それが昼の色なのか、まだ光っているのか、私には判断がつかなかった。

東京に戻って、私は論文を書かなかった。

テープは燃やさなかった。

金庫に入れ、二十年、一度も開けていない。

それでも、この二十年で、いくつかのことが起きた。

最初は、眠り方だ。

私は仰向けで眠れなくなった。

目を閉じると、瞼の裏がわずかに緑に染まる。

眼球を上に向けなければ、黒くならない。

二つ目は、家の窓だ。

引っ越しのたびに、私は北向きの窓のない部屋を選んでいた。

意識してではない。契約書を見返して、初めて気づいた。

三つ目は、去年のことだ。

娘が生まれた。

夜泣きがひどく、妻がどうしても寝かしつけられない晩があった。

私は娘を抱いて、暗い居間を歩いた。

気づくと、歌っていた。

寝ろてばよ 寝ろてばよ。

習ったことはない。録音を聞き返してもいない。

それなのに、拍のずれまで正確だった。

娘は泣きやんだ。

腕の中で、驚くほど早く眠りに落ちた。

眠っているのに、開いていた。

そこに、黒目はなかった。

白目だけが、居間の暗がりに浮いていた。

眼球が、上を向いていたのだ。

教えていない。

誰も、あの子には教えていない。

私は娘を抱いたまま、その場に座り込んだ。

歌は、まだ喉の奥で続いていた。

止めようとして、止まらなかった。

娘は今年、三歳になった。

言葉が増え、歌をよく歌う。

保育園で覚えたという童謡を、風呂で聞かせてくれる。

先週、湯船で娘が新しい歌を歌った。

三つの音を、上がっては下がるだけの、平坦な歌だった。

「それ、どこで習ったの」

娘は湯を掬いながら答えた。

「おそとの、みどりのひとが、おしえてくれた」

私は、風呂の窓に目をやった。

北向きの、すりガラスの窓だった。

そんな窓は、この家にはないはずだった。

藁尾は、五年前に最後の住人が施設へ移り、無住になった。

与作さんの家も、いまは屋根が落ちているという。

雨戸の和釘だけが、まだ残っているだろうか。

あれは、誰かが起きてしまわないための釘だった。

外から入るものを止める釘では、なかった。

金庫を開けたことは、二十年で一度だけある。

三年前、引っ越しの荷造りのときだ。

テープは、巻き戻された状態で入っていた。

私は、聞き終えたあと必ず頭出しをする習慣がない。

あの晩も、途中で外した。巻き戻すはずがなかった。

それだけを確認して、私は蓋を閉めた。

以来、鍵の番号は妻にも教えていない。

教えれば、いつか誰かが再生する。

再生すれば、八つ目の声が部屋に出る。

起きろてばよ、と。

金庫の中のテープを、私は時々思い出す。

回してもいないのに、あの八つ目の声が、部屋のどこかで拍を刻んでいる気がして。

起きろてばよ、と。

だから今夜も、私は眼球を上へ向ける。

見なければ、まだ、こちらの番ではない。

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