仮面の男

仮面の男

十七の年に、私はその宿で、白いものだけを数える仕事を憶えた。

昭和四十二年の春だ。

山陰の、日本海に向かって開いた小さな温泉町だった。

宿の名は潮見屋といった。

客室は十二。

板場は先代とその弟、女中が四人、そこに住み込みの私が入った。

中学を出て二年、私は炭焼きの家の三男で、行く先がなかった。

面接らしい面接もなく、女将に「明日から来られるか」とだけ訊かれた。

潮見屋は、坂の途中に建っていた。

玄関から見ると二階建てだが、裏へ回ると三階に見える。

斜面に無理やり足を突っ込んだような造りだった。

湯は、坂の下の共同の源泉から樋で引いていた。

冬になると、その樋から湯気が上がって、坂全体が白くなる。

客の多くは、近在の町から来る年寄りだった。

三泊か四泊して、湯に浸かって帰っていく。

夏は海水浴の家族連れが少し入る。

それだけの宿だった。

私の部屋は、板場の裏の三畳だった。

窓を開けると、隣の家の壁しかない。

それでも、実家の炭焼き小屋よりは、ずっと温かかった。

朝は五時に起きて、風呂の湯量を見る。

それから米を研いで、廊下を拭く。

拭く場所には、順番が決まっていた。

母屋を全部拭いてから、渡り廊下に入る。

渡り廊下は、途中までしか拭かない。

膳台の手前で終わり、その先は女将の担当だった。

働き始めて三日目に、離れの説明を受けた。

母屋から渡り廊下でつながった、二間だけの離れだ。

手前が空き部屋で、奥が「三番」。

三番には、客がいた。

「十九年、おられる」

女将はそう言った。

私は聞き違いだと思った。

「十九日ですか」

「十九年」

女将は繰り返した。

それから、決まりを三つ教えられた。

ひとつ、三番の障子は、こちらから開けない。

ふたつ、開いていたら、閉めずに下がる。

みっつ、顔を見たら、その日のうちに宿を出る。

私は三つ目の意味がわからず、聞き返した。

女将は、廊下の雑巾を絞りながら答えた。

「見た者が悪いんやない」

「見せた側に、都合が起きるだけや」

女将は、四十をいくつか越えた人だった。

先代の娘で、婿を取らずに一人で宿を継いでいた。

声を荒らげたところを、私は一度も見ていない。

怒るときは、雑巾を絞る手が速くなるだけだ。

その女将が、離れの話をするときだけ、手を止めた。

「うちの親父も、見とらん」

「祖父さんも、見とらん」

「見とらんまま、代を渡していくんが、この宿のやり方や」

三番の客のことは、みんな「三番様」と呼んでいた。

名は帳場の帳面にも書いていない。

宿泊料は毎月、県外の木邑商会というところから、きっかり同じ額が振り込まれていた。

十九年、一度も遅れたことがない。

一度も、額が変わったこともない。

帳場の金庫に、木邑商会からの振込の控えが束で残っていた。

私は一度だけ、それを数えたことがある。

二百二十八枚あった。

十九年ぶん、ちょうどだ。

差出人の欄には、住所も電話番号も刷ってあった。

気になって、休みの日に町の電話局で調べてもらった。

その番号は、使われていなかった。

使われなくなったのが、十九年より前だという。

私は、それを女将に言えなかった。

言えば、決まりが四つに増える気がした。

世話をするのは、女将ただ一人だった。

膳は女将が運ぶ。

渡り廊下の途中に膳台があって、そこへ置いて、声もかけずに下がる。

しばらくして戻ると、膳は同じ場所にある。

掃除は、年に一度だけ。

正月の三日に、女将が一人で入る。

誰も、その部屋の中を見たことがない。

先代の板長でさえ、見たことがないと言った。

板長は、女将の叔父にあたる人だった。

指の関節が全部太くて、包丁の柄が指の形に凹んでいた。

その人が、三番の献立だけは自分で切ると決めていた。

誰にも手伝わせない。

白いものだけは、必ず二人前の量を一つの器に盛った。

私が理由を訊くと、こう答えた。

「そういう決まりや」

「決まりに理由を訊くと、理由のほうが増える」

「あの部屋の畳の色も、わしは知らんよ」

私の仕事は、下げた膳を洗うことだった。

そこで、最初の妙なことに気づいた。

三番の膳は、必ず一品だけ手をつけずに戻ってきた。

残す品は、毎回違った。

けれど、必ず白いものだった。

豆腐の日は、豆腐が残る。

白身の刺身の日は、刺身が残る。

大根の炊いたものの日は、大根が残る。

白いものがない献立の日は、飯だけが手つかずで戻った。

私は板長に言った。

「三番様は、白いもんがお嫌いなんですかね」

板長は、包丁を研ぐ手を止めなかった。

「嫌いなら、女将が献立を変える」

「変えとらんということは、そうやない」

それ以上は、教えてくれなかった。

私は次の日から、白いものだけを数えるようになった。

一日二食、三百六十五日。

数え始めて三月で、私は数えるのをやめたくなった。

残る白いものは、いつも一人前ではなかったからだ。

正確に言えば、半分だった。

器の中の白いものが、毎回きっちり半分だけ減っていた。

私は帳面の隅に、正の字をつけ始めた。

三月で四百を越えた。

一度の例外もなかった。

多すぎることも、少なすぎることもない。

人が食べれば、日によって量は変わる。

体の具合でも、気分でも変わる。

変わらないというのは、食べていないということだ。

食べていないのに、減っている。

私はその帳面を、押し入れの奥にしまった。

音のこともある。

夜、渡り廊下を通ると、離れから紙をめくる音がした。

一定の間隔で、ぱら、ぱら、と鳴る。

読んでいるというより、数えている音だった。

私は女将に、本を差し入れているのかと訊いた。

「あの部屋には、本は一冊もない」

女将はそう言った。

正月の掃除で入るのだから、女将は中を知っている。

「布団と、膳台と、それだけや」

「あとは、何もない」

それから、匂いのことがあった。

離れの前を通ると、線香でも樟脳でもない匂いがする。

強いて言えば、糊の匂いだった。

障子を張り替えるときの、あの匂いだ。

正月の掃除のときだけ女将が障子を張り替えるのだと、私は思っていた。

けれど、匂いは季節に関係なくした。

あるとき、障子の桟を見た。

母屋の障子は、桟の上に埃が積もっている。

三番の障子の桟には、埃が一筋もなかった。

誰かが、毎日拭いているような桟だった。

女将は、年に一度しか入らない。

私は、その晩からしばらく渡り廊下を通らなくなった。

母屋の裏から回ると遠かったが、そうした。

秋になって、私は膳を運ぶ役を任された。

女将が腰を痛めたからだ。

「置いて、すぐ下がりや」

「振り向いたらいかん」

私は頷いて、渡り廊下を歩いた。

膳台の前に立って、膳を置いた。

そのとき、板の擦れに気づいた。

離れの廊下には、膳を置いた丸い擦れが、二つ並んでいた。

木が白くなるほど、深く擦れていた。

十九年、同じ場所に置き続ければ、そうなる。

けれど、二つある理由がわからなかった。

膳は、いつも一つだ。

私は帳場に戻って、古い帳面を出してもらった。

帳面は、年ごとに紐で綴じてあった。

紙が茶色くなって、めくるたびに粉が落ちた。

三番の欄だけ、書き方が他と違っていた。

客名も、人数も書いていない。

膳の数と、白いものの品名だけが並んでいる。

十九年、同じ書式だった。

字は、途中で三回変わっていた。

先々代、先代、そして今の女将だ。

三人とも、書式を一度も変えていない。

変えてはいけないものだと、教わったのだと思う。

十九年ぶん、膳の数の記録が残っていた。

一度も、二つ運ばれていなかった。

その年の暮れ、女中頭のトメさんが、はじめて三番様の話をした。

台所の火の前で、鍋を見ながらだった。

「あの人はな、うちが最初やない」

トメさんは、この宿に四十年いた人だ。

「その前は、湯村のほうの宿におられた」

「その前は、山を越えた向こうの宿や」

私は訊いた。

「なんで、宿を替わるんです」

トメさんは、鍋の蓋を持ち上げた。

湯気で、顔が見えなくなった。

「見た者が出たからや」

「見た者が出ると、その宿は置いとけんようになる」

トメさんは、若い頃に湯村の宿を訪ねたことがあると言った。

そこはもう旅館ではなくなっていて、家の人が住んでいた。

裏に、使っていない離れがあった。

「廊下の板にな、丸い跡が二つついとった」

「うちのと、寸法まで同じや」

私は、その意味をすぐには飲み込めなかった。

膳台の位置は、宿ごとに違うはずだ。

それが同じ寸法で残っているということは、置き方が同じだということだ。

置く人が替わっても、置き方が替わらない。

置き方を決めているのは、置く側ではないということになる。

私は、女将の言葉を思い出した。

見た者が悪いのではない。

見せた側に、都合が起きるだけや。

「トメさん」

「なんや」

「三番様は、何年ごとに替わるんですか」

トメさんは、しばらく答えなかった。

それから、火を弱めた。

「十九年や」

私が来たのは、十九年目の春だった。

それを聞いてから、私は自分の来た日を数え直した。

湯村の宿を出たのが、いつだったのか。

トメさんは、はっきりと憶えていた。

「わしがここへ来た年や」

「わしは、その年に、湯村から流れてきたんよ」

私は、それ以上訊かなかった。

訊けば、トメさんが何を見たのかを訊くことになる。

四十年、この人はそれを抱えて台所に立っていたわけだ。

火の前で鍋を見る背中が、その晩は少しだけ小さく見えた。

台風が来たのは、翌年の九月だった。

夜の十時を回って、風が海のほうから吹き上げてきた。

渡り廊下の板が、鳴っていた。

その日は、朝から客が一組もいなかった。

波の予報が出て、皆が早く発ったからだ。

宿にいたのは、女将と板長と、私だけだった。

トメさんは、家の雨戸を閉めに帰っていた。

板長は「今日は、白いもんを多めにしとけ」と言った。

私は理由を訊かなかった。

訊けば、理由が増える。

私は膳を持って、離れへ向かった。

膳台の前に立ったとき、障子が開いていた。

手のひらほどの幅だった。

決まりでは、閉めずに下がる。

私は、そうしようとした。

けれど、風で膳の椀が滑って、廊下に転がった。

拾おうとして、私は膝をついた。

膝をついた高さから、隙間の向こうが見えた。

部屋は暗かった。

行灯が一つだけ点いていた。

畳の真ん中に、人が座っていた。

白い布を、頭からすっぽりとかぶっていた。

膝の前に、膳があった。

私が置いた膳ではない。

私の膳は、まだ廊下の外にある。

向かいには、誰も座っていない膳が、もう一つ置いてあった。

そちらの器だけ、白いものが半分減っていた。

風の音が、いっぺんに遠くなった。

布をかぶった人が、こちらを向いた。

顔の位置に、影があるだけだった。

そして、その人は、腕を上げた。

布の縁に、指がかかった。

私は、椀を置いたまま走った。

渡り廊下を、板の鳴る音ごと走った。

帳場に飛び込んで、女将の名を呼んだ。

女将は、帳面をつけていた手を止めて、私の顔を見た。

それだけで、全部わかったようだった。

「見たか」

私は頷いた。

「取ったか」

意味がわからなかった。

「布や」

「あんたが、取ったか」

取っていない、と私は言った。

女将は、長く息を吐いた。

それから、私の荷物をまとめるように言った。

決まりの三つ目だった。

朝の始発のバスに乗る前、トメさんが握り飯を持ってきた。

白い布巾に包んであった。

私は、それを見て手が止まった。

トメさんは、包みを私の手に押しつけた。

「あの人はな」

「十九年、待っとったんよ」

「顔を見せる相手を」

私は、そこでようやく決まりの意味がわかった。

三つの決まりは、あの人を隠すためのものではなかった。

宿の者を、あの人から遠ざけるためのものだった。

あの人は、顔を見られたのではない。

私は、バスの窓から海を見ていた。

波が高くて、堤防の上まで白いものが上がっていた。

白いもの、と思った瞬間に、体が冷えた。

あの器の中で毎回半分だけ減っていたものが、何のためのものだったのか。

二人前を一つの器に盛れ、と板長は言っていた。

盛らなければ、足りなくなる。

足りなくなれば、部屋の中の誰かが、外へ探しに出る。

そう考えると、宿の決まりの三つ目も、順番が逆になる。

宿を出るのは、罰ではない。

逃がしているのだ。

見せようとしたのだ。

そして、布を自分から取るには、誰かが見ていなければならなかった。

取るのは、たぶん、渡すということだ。

私は、間に合ったのか、間に合わなかったのか、いまでもわからない。

若い頃に、外国の古い話を読んだことがある。

顔を布で覆われたまま、長い年月を牢の中で過ごした人の話だ。

世話をした者さえ、その顔を知らなかったという。

丁重に扱われ、名も残らず、持ち物は全部処分された。

私はその話を、作り話だと思って読んでいた。

いまは、そうは思わない。

顔を隠されていたのではなく、隠していたのだとしたら、話は逆になる。

丁重に扱われていたのも、逃がさないためではない。

渡させないためだ。

潮見屋は、その翌々年に廃業した。

離れは取り壊されて、いまは駐車場になっている。

女将もトメさんも、もういない。

私は町を出て、四十年ちかく、別の土地で宿の仕事を続けた。

去年、細長い二階建ての小さな宿を、自分で買った。

部屋は六つ。

渡り廊下の先に、二間だけの離れがついていた。

買ってから気づいたことだ。

離れの廊下の板に、丸い擦れが二つ並んでいた。

私は、指で寸法を測った。

潮見屋のものと、同じ幅だった。

その晩、私は離れの障子の桟を見に行った。

埃が、一筋もなかった。

木が白くなるほど、深く擦れていた。

先月、予約の電話が入った。

長期の逗留で、支払いは県外の商会からだという。

私は、部屋の番号を訊かなかった。

訊かなくても、わかっていた。

いま、膳は私が運んでいる。

置いて、声もかけずに下がる。

白いものは、毎回きっちり半分だけ減って戻ってくる。

あと十七年ある。

そのあいだに、若い者を一人でも置くべきかどうか、まだ決めかねている。

置けば、決まりを三つ教えることになる。

教えれば、いつかそのうちの一つを破る者が出る。

顔は、見ないことにしている。

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