その写真を初めて見たのは、神保町の編集部の、蛍光灯が一本切れかけた打ち合わせ室でした。
当時の私は、オカルトと医学史の間のような記事ばかり書いている、駆け出しのライターでした。
編集長が机に滑らせてきたのは、一枚の頭蓋骨の写真です。
頭頂部に、指が二本入るほどの、丸い穴が開いていました。
「事故か何かですか」
「違う。開けたんだ、生きてるうちに」
編集長は事もなげに言いました。
ペルーの遺跡から出土した、数千年前の頭蓋骨だといいます。
「よく見ろ。穴の縁が、滑らかになってるだろう」
言われて、私は写真に顔を近づけました。
確かに、穴の縁は割れ口のように鋭くなく、丸みを帯びていました。
「骨ってのはな、生きてれば治ろうとする。縁が滑らかなのは、穴を開けられたあとも、この人物が何年も生きた証拠だ」
つまり、その穴は治療か儀式か、いずれにせよ意図して開けられ、そして本人は生還している。
数千年前に、麻酔も消毒もない時代に、です。
頭蓋穿孔。
英語でトレパネーションと呼ばれる、人類最古の外科手術のひとつ。
「これ、太古の話だけじゃないんだ」
編集長は声を落としました。
「今も、自分の頭に自分で穴を開ける人間がいる。調べてみないか」
それが、すべての始まりでした。
※
最初に訪ねたのは、都内の大学の医学部にある、古い標本室でした。
骨学が専門だという初老の先生が、標本棚の間を案内してくれました。
「穿孔頭蓋骨ですか。うちにも複製がありますよ」
ガラス棚から出されたそれは、写真で見るより、ずっと小さく感じられました。
頭頂部の穴に、先生は指を添えました。
「いいですか、ここ。内板と外板の間、断面が全部ならされている。何年もかけて骨が作り直した証拠です」
「開けられた本人は、痛くなかったんでしょうか」
「頭皮は痛みます。ただ、脳そのものには痛覚がない。骨まで達すれば、あとは案外……という報告はあります」
先生はそこで言葉を切って、眼鏡を押し上げました。
「感心しないでくださいよ。感染症だけで、普通は死にます。現代の水準で見れば、生還例のほうが奇跡なんです」
標本室を出るとき、私はもう一度だけ振り返りました。
棚のガラスの奥で、数千年前の窓が、じっと天井を向いていました。
帰りの電車で、私は吊り革を握りながら、向かいの席の人々の頭を眺めていました。
眠る人、頷く人、画面を覗き込む人。
あのひとつひとつの丸い骨の内側に、それぞれの一生が閉じ込められている。
そんな当たり前のことが、その日はやけに奇妙に思えたのです。
職業病だと、そのときは笑って済ませました。
※
最初は、古代史の記事になるはずでした。
図書館に通って調べるほど、出土例の多さに驚かされました。
穿孔された頭蓋骨は、ペルーだけでなく、ヨーロッパ、北アフリカ、ロシア、そして世界中の新石器時代の遺跡から見つかっています。
フランスのある遺跡では、出土した頭蓋骨の相当数に穿孔の痕があったという報告さえあります。
しかも治癒痕から見て、生存率は現代人の想像よりずっと高かったらしいのです。
古代ギリシャの医聖ヒポクラテスも、頭部外傷の治療として穿孔術を記録に残しています。
中世ヨーロッパでは「狂気の石」を取り出すと称する怪しげな施術絵画が残り、頭に穴を開ければ悪いものが出ていくという想像は、洋の東西を問わず繰り返し現れました。
面白いのは、この想像の普遍性です。
頭痛、てんかん、幻覚。
原因のわからない頭の不調を前にしたとき、人類は時代も場所も問わず、同じ答えに手を伸ばしてきました。
中に何かがいるなら、出口を作ればいい。
素朴で、恐ろしく、そしてどこか筋の通った発想です。
民俗学の資料には、悪いものは頭から入り、頭から出ていくという伝承が、世界各地に残っています。
骨に窓を開ける行為は、外科であると同時に、どこまでも呪術でした。
ここまでは、まだ医学史の話です。
様子がおかしくなるのは、資料の年代が現代に近づいてからでした。
一九六〇年代のアムステルダム。
バート・フヘスという名のオランダ人が、ある主張を始めます。
人類は直立したせいで脳の血流が減った、頭蓋骨に穴を開けて圧を逃がせば、血の巡りが戻り、意識は子どもの頃のように開かれる。
医学的な根拠は、何ひとつありません。
しかし彼は自説を実演しました。
自分自身の頭に、です。
そして包帯姿で記者の前に現れ、こう言い放ったと伝えられています。
「私は成人してから初めて、晴れやかな気分だ」
当時のアムステルダムには、プロボと呼ばれる挑発的な社会運動があり、若者たちは体制を揺さぶる「プロボケーション」を競っていました。
フヘスの穿孔はその空気に乗り、第三の目運動などと呼ばれて、一部の若者の間で神格化されていきます。
運動の熱の中で、フヘスの理屈は妙な説得力を持ちました。
赤ん坊の頭蓋骨には、まだ閉じていない泉門という柔らかい場所があります。
子どもの意識があんなに自由なのは、頭がまだ閉じていないからだ、と彼らは言うのです。
大人になるとは、骨の窓が閉じることだ。
ならば、もう一度開ければいい。
論理の形はしています。
形だけは。
ばかばかしい、で終わればよかったのです。
けれど調べる手を進めるほど、この話は「過去」になってくれませんでした。
フヘスに共鳴した英国の女性アマンダ・フィールディングは、一九七〇年、自らの施術の一部始終を自分で記録映像に残しました。
のちに彼女は「国民保険で穿孔を受けられるように」と訴えて、英国議会の選挙に二度も立候補しています。
彼女の記録映像は、今も一部の研究者の間で言及されます。
私は結局、断片しか確認できませんでした。
それで十分でした。
画面の中の彼女は、取り乱すでもなく、淡々と鏡を見ながら作業を進めていたといいます。
見た者が一様に口にするのは、悲鳴でも血でもなく、その静けさの不気味さです。
熱狂した人間より、静かに確信した人間のほうが、ずっと怖い。
この仕事を続けてきて、それだけは断言できます。
泡沫候補と笑うのは簡単です。
けれど二度目は、得票が増えていました。
さらに資料を繰ると、九〇年代以降も欧米には穿孔を推進する小さな団体が存在し、体験者の手記が出版され、うつからの解放を主張する声が続いていることがわかりました。
医学界の見解は一貫しています。
効果の根拠はなく、感染と出血のリスクは重大で、絶対に行ってはならない。
それはそうだろう、と私も思いました。
思いながら、深夜の資料の山の中で、ひとつの感覚が拭えなくなっていました。
数千年前の遺跡の穴と、六〇年代の包帯姿と、現代の手記。
時代も大陸も違うのに、みんな同じことを言うのです。
頭が、軽くなった、と。
決定的に空気が変わったのは、調査の最後の夜でした。
海外の資料を検索していて、誤って日本語の古い掲示板のログに行き当たったのです。
二〇〇〇年代はじめの、個人サイトの掲示板でした。
「例の件、道具は揃いました」
「先にやった者として言うが、やめておけ」
「静かになった。それだけ報告します」
日付は飛び飛びで、そこで書き込みは途絶えていました。
三人目の投稿者のハンドルネームを検索しても、もう何も出てきません。
海の向こうの奇矯な運動だと思っていたものが、急に、同じ言語の距離まで迫ってきました。
静かになった、という六文字を、私は何度も読み返しました。
何が、静かになったのか。
その後どうなったのか、確かめる術はありませんでした。
※
翌年の春、別件の取材でロンドンに行く機会がありました。
伝手をたどって、体験者だという男性に会えることになりました。
仮に、ハワードと呼びます。
仲介してくれたのは、現地の医療ジャーナリストでした。
彼女は電話口で、条件を三つ並べました。
本名を出さないこと、住所を聞かないこと、そして施術の手順を記事にしないこと。
「あなたの読者に、二人目を作らせないためよ」
受話器の向こうの声は、冗談の調子ではありませんでした。
約束の場所は、大英博物館にほど近い、古い喫茶店でした。
石畳を叩く雨の音と、店内の紅茶の匂いを、今でも覚えています。
現れたハワードは、六十がらみの、穏やかな紳士でした。
ツイードの上着に、几帳面に畳んだ新聞。
どこから見ても、退職した大学職員といった風情です。
「日本から来たのかね。遠いところを」
握手した手は、乾いて、温かでした。
注文を終えると、彼は先に断りました。
「最初に言っておくが、私は布教者ではないよ。あなたが最後の取材相手だ。もう、この話は仕舞いにする」
「どうして私に会ってくださったんですか」
「仲介した彼女が、あなたは面白半分で書く人間ではない、と言ったのでね」
買いかぶりだ、と思いながら、私はレコーダーを鞄から出す手を止めました。
「録音は」
「やめておこう。メモならいい」
雨脚が、少し強くなりました。
「若い頃は、ひどいうつでね」
彼は砂糖を一杯だけ入れながら、世間話のように始めました。
「二十年、霧の中にいた。薬も、医者も、私には効かなかった」
「それで、あの施術を」
「三十九歳の誕生日の翌週に。友人の医学生が手伝ってくれた」
詳しいやり方を、彼は話したがりませんでした。
「勧めない。それだけは先に言っておく。死んだ仲間もいる」
そう釘を刺してから、彼は静かに続けました。
「フヘスに会ったことは」
話の流れで私が尋ねると、ハワードは首を振りました。
「ないよ。ただ、彼の本は読んだ。理屈はめちゃくちゃだと、当時から思っていた」
「めちゃくちゃだと思って、それでも」
「溺れている人間はね、理屈で藁を掴むんじゃないんだ」
その一言で、私は続く質問を飲み込みました。
「終わった瞬間のことは、一生忘れないだろうね。潮が引くように、頭の中の圧力が消えた。三十九年間ずっと鳴っていた耳鳴りが、初めて止んだような感じだ」
「それは……プラセボだと言われたら」
「言われ続けているよ、四十年」
ハワードは初めて、少しだけ笑いました。
「プラセボで二十年の霧が晴れるなら、それはもう奇跡と呼んでいいんじゃないかね」
「死んだ仲間、とおっしゃいましたね」
少し迷ってから、私は踏み込みました。
ハワードは頷きました。
「二人。ひとりは感染で、ひとりは……手を貸してくれる者がいなくて、ひとりでやろうとした」
「それでも、あなたは後悔していない」
「私の穴については、していない。彼らを止められなかったことは、毎晩後悔している」
穏やかだった声が、そこで初めて、わずかに掠れました。
私は、用意してきた質問を口にしました。
施術のとき、音はしましたか。
ハワードは紅茶のカップを置き、窓の外の雨を、しばらく眺めました。
「した」
それきり、黙りました。
どんな音でしたか、とは、とうとう聞けませんでした。
店を出る間際、ハワードは前髪を軽く持ち上げて見せました。
生え際の上に、五百円玉ほどの、皮膚のかすかな窪みがありました。
「触ってみるかね」
私は、首を横に振りました。
彼は気を悪くするでもなく、帽子を被り直しました。
そして別れ際、ドアの前で振り返り、こう言ったのです。
「君は頭蓋骨を、脳を守る器だと思っているだろう」
「違うんですか」
「牢屋の壁も、中から見れば身を守る壁だよ。閉じ込められているのは脳じゃない、あなたのほうだ」
雨の石畳に、彼の足音が消えていきました。
私はしばらく、店の軒先から動けませんでした。
ホテルへ戻る道すがら、雨のバス停で、私は自分の額に手を当てていました。
骨のカーブは硬く、雨に冷えて、当然ながらどこにも窪みはありません。
安堵している自分に気づいて、その安堵の意味を考えて、少し怖くなりました。
何に対して、私は安心したのでしょうか。
※
記事は、結局、当たり障りのない医学史の読み物として掲載されました。
ハワードの談話は、編集長の判断で大半が削られました。
「読者が真似したら、責任が取れん」
その判断は、正しかったと思います。
掲載後、標本室の先生に、礼を兼ねて記事を送りました。
返ってきた葉書には、几帳面な字で一行だけ添えられていました。
「骨は治りたがる。問題は、なぜ開けたくなるのか、です」
医学は穴の閉じ方を知っていても、開けたくなる心のほうは、まだ説明できていないのかもしれません。
念のため繰り返しますが、頭蓋穿孔に医学的な根拠はなく、命に関わる危険な行為です。
現代の医療で頭蓋骨に穴を開けるのは、脳外科医が血腫を除くときなど、明確な適応がある場合だけです。
けれど、それで話が終わってくれないことも、私は知ってしまいました。
帰国してから、癖がついたのです。
締切前の深夜、原稿に詰まって天井を見上げるとき。
こめかみの奥で、とくり、とくりと脈打つ音に、ふと耳を澄ませてしまう。
頭蓋骨は、人体でただひとつ、生涯一度も開かない部屋です。
私たちは誰もが、その八ミリほどの骨の壁の内側で生まれ、内側で考え、内側のまま死んでいきます。
数千年前のペルーの誰かは、その壁に窓を開けて、生き延びました。
何を入れるための、あるいは何を出すための窓だったのか、骨はもう語りません。
ただ、穴の縁だけが滑らかに治って、その人がその後も長く生きたことだけを、静かに証言しています。
ハワードが今も存命かどうか、私は知りません。
あの掲示板のログも、いつのまにかサーバーごと消えていました。
「静かになった」と書いた人が、その後も静かなままでいてくれることを、祈るしかありません。
ただ、あの雨の日の言葉だけが、たまに頭の内側で反響するのです。
閉じ込められているのは、脳ではなく、あなたのほうだ。
その声が響くたび、私は決まって、自分の頭を外から軽く叩いて確かめます。
骨の音は、思っているより、ずっと硬く、ずっと近くで鳴ります。