ニワトリ

あれから十二年経つが、いまだにニワトリを見ると足が止まる。

六月のある日の夕方だった。

俺は高校二年で、家でだらだらしていた。

外出中の母から、電話がかかってきた。

かかりつけの医院へ行って、母の代わりに薬をもらってきてくれという。

「今日中に取りに行かないと、閉まっちゃうから」

「わかった」

「保険証、玄関の棚にあるから」

電話の向こうで、母が誰かと話す声がした。

パートの同僚だろう。

「もう切るね」

「うん」

「あ、それと」

母が、思い出したように言った。

「坂の道は通らないで、水路のほうから行きなさい」

「なんで」

「なんとなく」

母は、そう言って電話を切った。

あの時、素直に聞いておくべきだった。

だが、水路の道は遠回りだ。

五分は、余計にかかる。

俺は、坂を選んだ。

面倒だったが、断る理由もなかった。

俺は財布と保険証を持って、家を出た。

うちは、県境の小さな町にある。

駅から歩いて二十分、田んぼと古い住宅が混ざったような場所だ。

医院までは、徒歩で十五分ほど。

途中に、水路が一本と、坂が一つある。

その坂の上に、昔、養鶏場があったらしい。

らしい、というのは、俺が生まれる前に無くなっていたからだ。

今は、更地に草が生えているだけだった。

柵も、看板もない。

ただ、コンクリートの土台だけが、地面から四角く出ていた。

細長い、大きな土台だ。

子供の頃、そこを秘密基地にしようとしたことがある。

一度だけ入って、二度と行かなかった。

理由は、覚えていない。

覚えていないことが、今になって気持ち悪い。

友達も、誰も行きたがらなかった。

誰も、理由を言わなかった。

夕方と夜の、ちょうど中間くらいの暗さだった。

六月の、あの妙な明るさ。

空はまだ青いのに、地面だけが先に暗くなる時間だ。

歩き出して、五分ほどしてから、妙なことに気づいた。

静かすぎた。

六月の夕方といえば、蛙がうるさい。

田んぼの水は張ってあるのに、一匹も鳴いていない。

それだけではない。

犬も、鳥も、車も。

水路の水も、動いていなかった。

六月だ。

田に水を引く時期で、水路はいつも早い。

それが、止まっていた。

鏡みたいに、空を映している。

俺は、水面に石を落とした。

波紋が、広がった。

広がって、消えた。

消えたあと、水は、また動かなかった。

自分のサンダルの音だけが、やけに大きく聞こえた。

耳がおかしくなったのかと思って、一度立ち止まった。

その時、遠くで、鶏の声がした。

一声だけ。

すぐに、また静かになった。

坂を上りかけたところで、前方に何かが見えた。

最初は、暗くてよくわからなかった。

ぼんやりした人影のようなものだ。

それが、こちらへ近づいてくる。

近づくにつれて、輪郭がはっきりしてきた。

どうやら、子供が何かに乗っているらしい。

自転車ではない。

上下に揺れず、すうっと滑るように来る。

一輪車だ。

こんな時間に、一輪車。

坂道を、下ってきているのに、速度が変わらない。

俺は、道の端に寄って立ち止まった。

子供は、小学校の低学年くらいに見えた。

男の子か女の子かは、わからなかった。

髪が、短かった。

そして、頭に包帯を巻いていた。

真新しい包帯だった。

額から後頭部にかけて、きっちりと。

両手で、何かを抱えている。

一輪車に乗りながら、両手が塞がっている。

バランスを取る手が、ない。

それなのに、まったく揺れなかった。

すれ違う瞬間に、抱えているものが見えた。

ニワトリだった。

生きたニワトリだ。

白い羽で、目が開いていた。

子供の腕の中で、暴れもせず、じっとしている。

その目が、俺のほうを見た。

子供は、俺を見なかった。

まっすぐ前を向いたまま、通り過ぎていった。

匂いがした。

すれ違った、一瞬だけ。

焦げた匂いだ。

紙でも、木でもない。

もっと、脂っぽい匂い。

一度だけ、嗅いだことがある。

小学生の時、近所で家が焼けた。

その翌朝の匂いだった。

子供が通り過ぎると、匂いも消えた。

音が、しなかった。

一輪車のタイヤは、アスファルトの上にあった。

接地しているのに、音が一切しなかった。

俺は、振り返った。

子供は、坂を下りきって、曲がり角を曲がっていった。

消えたのではない。

ちゃんと、曲がった。

そして、俺は影を見た。

街灯の下を通ったとき、子供にも、一輪車にも、ニワトリにも、影がついていた。

黒く、はっきりと。

幽霊じゃない。

そう思って、俺は少しほっとした。

ほっとしたのを、今でも覚えている。

それが、間違いだった。

医院は、古い建物だった。

待合に、俺のほかに誰もいなかった。

受付の女の人が、薬の袋を出しながら言った。

「今日、坂のほうから来た」

「はい」

「そう」

それだけだった。

聞き返そうとしたら、女の人はもうカルテを片付けていた。

今思えば、あの人は何かを知っていた。

だが、その医院は、俺が高校を出た年に閉まった。

薬をもらって、帰りは同じ道を通った。

坂の上まで来て、俺は足を止めた。

更地の草が、倒れていた。

円く、きれいに。

直径が、二メートルくらいだろうか。

誰かが、そこで何度も回ったような跡だ。

草は、まだ起き上がろうとしていなかった。

つい今しがた、倒されたばかりに見えた。

草の折れ方を、しゃがんで見た。

中心から、外側へ向かって倒れている。

放射状にだ。

何かが、そこで何度も回ったのだ。

一輪車なら、そうなる。

だが、その円の中に、轍はなかった。

土が、まったく荒れていない。

草だけが、倒れていた。

俺は、その円の縁に立って、中を見た。

白い羽が、一枚落ちていた。

家に帰って、母に話した。

「一輪車の子供?」

母は、台所で手を止めた。

「頭に包帯巻いて、ニワトリ抱えてた」

「変な子ねえ」

母は、笑わなかった。

笑うと思っていたので、俺は少し戸惑った。

「うちの近所に、そんな子いる?」

「いないと思うけど」

「だよね」

それで、その話は終わった。

終わったと思っていた。

月曜、学校で、俺は友達のタカにその話をした。

タカは、うちから三軒隣に住んでいる。

「一輪車」

「うん。ニワトリ抱えて」

タカは、笑わなかった。

弁当の蓋を閉めて、こう言った。

「お前、坂の道通ったんか」

「通った」

「阿呆」

タカは、それだけ言って、席を立った。

放課後、俺は追いかけて聞いた。

「なあ、何なんだよ、あれ」

「知らん」

「知ってるだろ」

タカは、立ち止まった。

そして、自分の後頭部を指さした。

「うちの兄貴が、中学ん時に見たって」

「同じやつ」

「頭に、包帯巻いた子供」

「ニワトリは」

「持っとった」

タカの兄は、俺より八つ上だ。

俺が見るずっと前にも、同じものが、同じ坂を下っていた。

三日後の夜、母が急に言った。

夕飯の途中だ。

「あんた、この前の話だけど」

「なに」

「一輪車の子」

母は、箸を置いた。

「あれ、坂の上から来たって言ってたよね」

「うん」

「下ってきたんだよね」

「そう」

母は、しばらく黙った。

それから、言った。

「あの坂、上に何もないのよ」

知っている。

更地だ。

「そうじゃなくて」

母は、首を振った。

「あの坂の上は、行き止まりなの」

翌日、俺は自転車で坂を上った。

本当だった。

更地の先は、藪だった。

その先は、崖になっていて、下は水路だ。

道は、そこで完全に途切れていた。

車は入れない。

人が歩いて入るのも、無理だ。

一輪車で下りてくるなど、あり得なかった。

つまり、あの子供は、あの更地から出てきたことになる。

何もない、草の生えた更地から。

その週の土曜、俺は近所の商店へ行った。

店番をしているのは、九十近い婆さんだ。

この町のことなら、何でも知っている。

「あの坂の上、昔、養鶏場だったんですよね」

「そうよ」

「いつまであったんですか」

婆さんは、少し考えた。

「あんたが生まれる、ずっと前」

「なんで、無くなったんですか」

婆さんの手が、止まった。

レジの縁を、指でこすっていた。

「火事」

「火事」

「鶏舎が、丸ごと」

「鶏は」

婆さんは、俺を見た。

初めて、目が合った。

「全部よ」

「全部」

「三千羽、いたそうよ」

店の中が、急に静かになった。

冷蔵庫の音まで、止まった気がした。

「一羽も、出られんかったの」

それ以上は、言わなかった。

俺が何を聞いても、婆さんは値札を貼り直しているだけだった。

家に帰って、俺は町の広報を調べた。

図書館に、古いものが綴じてある。

昭和五十年代のものだ。

その中に、一行だけあった。

養鶏場の火事。

夜中に出火して、鶏舎が全焼。

経営者の子供が、頭に大火傷を負って病院へ運ばれた。

記事は、そこで終わっていた。

その後のことは、書いていない。

図書館の人に聞いても、続報はないという。

「小さい町ですから」

「はい」

「あまり、書かないんですよ」

記事の隣に、小さな写真があった。

焼けた鶏舎の写真だ。

黒い骨組みだけが、残っている。

その手前の地面が、白かった。

雪のように見えた。

六月に、雪は降らない。

俺は、拡大コピーを取った。

家で、それを見た。

見なければよかった。

羽だった。

焼けずに残った羽が、地面を埋めつくしていた。

そういうことも、あるらしい。

その週の日曜、俺はタカを誘って、夜の更地へ行った。

怖いもの見たさ、というやつだ。

懐中電灯を持って、坂を上った。

更地には、何もなかった。

草と、四角い土台と、それだけだ。

「なんもないな」

「なんもないわ」

帰ろうとした時、タカが足を止めた。

「おい」

「なに」

タカが、懐中電灯を地面に向けた。

土台のコンクリートの上に、白いものが並んでいた。

羽だった。

一枚ではない。

土台の縁に沿って、ずらりと。

等間隔に、並べてあった。

風で飛んできたものではない。

誰かが、置いたものだ。

俺たちは、走って坂を下りた。

後ろから、鶏の声が一声だけ聞こえた。

振り返らなかった。

それから、俺はあの道を通らなくなった。

遠回りをした。

高校を出て、町を離れて、就職して、十年以上経った。

去年、母が体を悪くした。

入院するほどではないが、一人にはしておけない。

俺は、勤め先に相談して、実家から通うことにした。

十二年ぶりの、あの町だ。

何も変わっていなかった。

駅前の商店が二つ減って、田んぼが一枚、駐車場になっていた。

それくらいだ。

坂も、更地も、そのままだった。

戻って、最初の六月だ。

あの道を、久しぶりに歩いた。

坂は、そのままだった。

更地も、そのままだった。

何も、起きなかった。

ほっとした。

やはり、あれは見間違いだったのだ。

そう思って、坂を下りかけた。

下りかけて、足が止まった。

更地の草が、倒れていた。

円く、きれいに。

直径は、二メートルくらいだ。

十二年前と、まったく同じ場所に、まったく同じ大きさで。

草は、まだ起き上がろうとしていなかった。

つい今しがた、倒されたばかりに見えた。

俺は、その縁に立った。

白い羽が、一枚落ちていた。

拾わなかった。

家に帰って、母に聞いた。

「あの一輪車の子、覚えてる?」

母は、テレビを見たまま言った。

「覚えてるよ」

「あれ、なんだったんだろう」

母は、答えなかった。

少し経ってから、こう言った。

「あんた、あの時、ニワトリと目が合ったって言ってたね」

言った覚えは、なかった。

だが、事実だ。

たしかに、あの鶏の目は、俺を見た。

「言ってたよ」

母は、テレビを消した。

「だから、お母さん、笑わなかったの」

「どういう意味」

母は、しばらく黙っていた。

それから、こう言った。

「お母さんも、見たことがあるの」

「いつ」

「高校生の時」

母は、この町で生まれ育っている。

「同じ坂」

「同じ坂」

「ニワトリは」

「抱えてた」

母は、湯呑みを両手で包んだ。

「目が合ったの。ニワトリと」

「それで」

「それだけ」

母は、それきり何も言わなかった。

だが、わかった。

だから母は、あの日、水路の道から行けと言ったのだ。

そして、俺は坂を選んだ。

一つ、ずっと引っかかっていることがある。

あの一輪車だ。

小学校の備品にあるような、赤いやつではなかった。

車輪が、木だった。

サドルの下の支柱が、細い鉄の棒で。

そんな一輪車を、俺は見たことがない。

去年、調べてみた。

戦前の曲芸用のものに、似た型があった。

車輪が木で、支柱が鉄。

今は、誰も作っていない。

作っていないものに、あの子は乗っていた。

その子供が誰だったのか、俺は今も知らない。

火事の記事に、名前は載っていなかった。

一度だけ、婆さんが自分から話しかけてきたことがある。

高校を出る年の春だ。

店を出ようとしたら、後ろから言われた。

「あんた、町を出るんね」

「はい」

「そう」

婆さんは、それから、こう言った。

「出た子は、大丈夫よ」

出た子は、大丈夫。

では、戻った子は、どうなのか。

聞けなかった。

婆さんは、去年亡くなった。

聞ける人は、もういない。

ただ、一つだけわかったことがある。

図書館で、火事の日付を確かめた。

六月十四日。

俺が、あの子とすれ違った日だ。

十二年前も、去年も。

タカとは、今も年に一度は会う。

去年の暮れ、酒を飲みながら、その話になった。

「あの羽、覚えてるか」

「覚えとるよ」

タカは、そう言って、コップを置いた。

「なあ」

「なんや」

「あれ、なんで六月なんやろな」

俺は、答えられなかった。

火事があったのが六月だ。

それは、わかる。

わからないのは、なぜ坂を下ってくるのか、だ。

火は、坂の上で起きた。

なのに、あの子は、上から下へ来る。

逃げているのだとしたら。

十二年経っても、まだ、逃げ切れていないことになる。

両手が、塞がっているから。

今年も、もうすぐ六月だ。

母は、あの日は薬を頼まないと言っている。

理由は、聞いていない。

俺も、聞くつもりはない。

ただ、あの子が、あれから十二年、まだ坂を下り続けているのだとしたら。

両手にニワトリを抱えたまま、ずっと。

それは、いったい、どこへ向かっているのだろう。

母は、今年の六月、どこにも出かけないと言っている。

薬は、俺が取りに行く。

水路の道から行く。

遠回りだ。

五分、余計にかかる。

その五分を、俺はもう惜しまない。

十二年かかって、覚えたのは、それだけだ。

一輪車は、後ろへ下がれない。

前にしか、進めない乗り物だ。

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