ニワトリ

ニワトリ

あれから十二年経つが、いまだにニワトリを見ると足が止まる。

六月のある日の夕方だった。

俺は高校二年で、家でだらだらしていた。

外出中の母から、電話がかかってきた。

かかりつけの医院へ行って、母の代わりに薬をもらってきてくれという。

「今日中に取りに行かないと、閉まっちゃうから」

「わかった」

「保険証、玄関の棚にあるから」

電話の向こうで、母が誰かと話す声がした。

パートの同僚だろう。

「もう切るね」

「うん」

「あ、それと」

母が、思い出したように言った。

「坂の道は通らないで、水路のほうから行きなさい」

「なんで」

「なんとなく」

母は、そう言って電話を切った。

あの時、素直に聞いておくべきだった。

だが、水路の道は遠回りだ。

五分は、余計にかかる。

俺は、坂を選んだ。

面倒だったが、断る理由もなかった。

俺は財布と保険証を持って、家を出た。

※

うちは、県境の小さな町にある。

駅から歩いて二十分、田んぼと古い住宅が混ざったような場所だ。

医院までは、徒歩で十五分ほど。

途中に、水路が一本と、坂が一つある。

その坂の上に、昔、養鶏場があったらしい。

らしい、というのは、俺が生まれる前に無くなっていたからだ。

今は、更地に草が生えているだけだった。

柵も、看板もない。

ただ、コンクリートの土台だけが、地面から四角く出ていた。

細長い、大きな土台だ。

子供の頃、そこを秘密基地にしようとしたことがある。

一度だけ入って、二度と行かなかった。

理由は、覚えていない。

覚えていないことが、今になって気持ち悪い。

友達も、誰も行きたがらなかった。

誰も、理由を言わなかった。

夕方と夜の、ちょうど中間くらいの暗さだった。

六月の、あの妙な明るさ。

空はまだ青いのに、地面だけが先に暗くなる時間だ。

※

歩き出して、五分ほどしてから、妙なことに気づいた。

静かすぎた。

六月の夕方といえば、蛙がうるさい。

田んぼの水は張ってあるのに、一匹も鳴いていない。

それだけではない。

犬も、鳥も、車も。

水路の水も、動いていなかった。

六月だ。

田に水を引く時期で、水路はいつも早い。

それが、止まっていた。

鏡みたいに、空を映している。

俺は、水面に石を落とした。

波紋が、広がった。

広がって、消えた。

消えたあと、水は、また動かなかった。

自分のサンダルの音だけが、やけに大きく聞こえた。

耳がおかしくなったのかと思って、一度立ち止まった。

その時、遠くで、鶏の声がした。

一声だけ。

すぐに、また静かになった。

※

坂を上りかけたところで、前方に何かが見えた。

最初は、暗くてよくわからなかった。

ぼんやりした人影のようなものだ。

それが、こちらへ近づいてくる。

近づくにつれて、輪郭がはっきりしてきた。

どうやら、子供が何かに乗っているらしい。

自転車ではない。

上下に揺れず、すうっと滑るように来る。

一輪車だ。

こんな時間に、一輪車。

坂道を、下ってきているのに、速度が変わらない。

※

俺は、道の端に寄って立ち止まった。

子供は、小学校の低学年くらいに見えた。

男の子か女の子かは、わからなかった。

髪が、短かった。

そして、頭に包帯を巻いていた。

真新しい包帯だった。

額から後頭部にかけて、きっちりと。

両手で、何かを抱えている。

一輪車に乗りながら、両手が塞がっている。

バランスを取る手が、ない。

それなのに、まったく揺れなかった。

※

すれ違う瞬間に、抱えているものが見えた。

ニワトリだった。

生きたニワトリだ。

白い羽で、目が開いていた。

子供の腕の中で、暴れもせず、じっとしている。

その目が、俺のほうを見た。

子供は、俺を見なかった。

まっすぐ前を向いたまま、通り過ぎていった。

匂いがした。

すれ違った、一瞬だけ。

焦げた匂いだ。

紙でも、木でもない。

もっと、脂っぽい匂い。

一度だけ、嗅いだことがある。

小学生の時、近所で家が焼けた。

その翌朝の匂いだった。

子供が通り過ぎると、匂いも消えた。

音が、しなかった。

一輪車のタイヤは、アスファルトの上にあった。

接地しているのに、音が一切しなかった。

※

俺は、振り返った。

子供は、坂を下りきって、曲がり角を曲がっていった。

消えたのではない。

ちゃんと、曲がった。

そして、俺は影を見た。

街灯の下を通ったとき、子供にも、一輪車にも、ニワトリにも、影がついていた。

黒く、はっきりと。

幽霊じゃない。

そう思って、俺は少しほっとした。

ほっとしたのを、今でも覚えている。

それが、間違いだった。

※

医院は、古い建物だった。

待合に、俺のほかに誰もいなかった。

受付の女の人が、薬の袋を出しながら言った。

「今日、坂のほうから来た」

「はい」

「そう」

それだけだった。

聞き返そうとしたら、女の人はもうカルテを片付けていた。

今思えば、あの人は何かを知っていた。

だが、その医院は、俺が高校を出た年に閉まった。

※

薬をもらって、帰りは同じ道を通った。

坂の上まで来て、俺は足を止めた。

更地の草が、倒れていた。

円く、きれいに。

直径が、二メートルくらいだろうか。

誰かが、そこで何度も回ったような跡だ。

草は、まだ起き上がろうとしていなかった。

つい今しがた、倒されたばかりに見えた。

草の折れ方を、しゃがんで見た。

中心から、外側へ向かって倒れている。

放射状にだ。

何かが、そこで何度も回ったのだ。

一輪車なら、そうなる。

だが、その円の中に、轍はなかった。

土が、まったく荒れていない。

草だけが、倒れていた。

俺は、その円の縁に立って、中を見た。

白い羽が、一枚落ちていた。

※

家に帰って、母に話した。

「一輪車の子供?」

母は、台所で手を止めた。

「頭に包帯巻いて、ニワトリ抱えてた」

「変な子ねえ」

母は、笑わなかった。

笑うと思っていたので、俺は少し戸惑った。

「うちの近所に、そんな子いる?」

「いないと思うけど」

「だよね」

それで、その話は終わった。

終わったと思っていた。

※

月曜、学校で、俺は友達のタカにその話をした。

タカは、うちから三軒隣に住んでいる。

「一輪車」

「うん。ニワトリ抱えて」

タカは、笑わなかった。

弁当の蓋を閉めて、こう言った。

「お前、坂の道通ったんか」

「通った」

「阿呆」

タカは、それだけ言って、席を立った。

放課後、俺は追いかけて聞いた。

「なあ、何なんだよ、あれ」

「知らん」

「知ってるだろ」

タカは、立ち止まった。

そして、自分の後頭部を指さした。

「うちの兄貴が、中学ん時に見たって」

「同じやつ」

「頭に、包帯巻いた子供」

「ニワトリは」

「持っとった」

タカの兄は、俺より八つ上だ。

俺が見るずっと前にも、同じものが、同じ坂を下っていた。

※

三日後の夜、母が急に言った。

夕飯の途中だ。

「あんた、この前の話だけど」

「なに」

「一輪車の子」

母は、箸を置いた。

「あれ、坂の上から来たって言ってたよね」

「うん」

「下ってきたんだよね」

「そう」

母は、しばらく黙った。

それから、言った。

「あの坂、上に何もないのよ」

知っている。

更地だ。

「そうじゃなくて」

母は、首を振った。

「あの坂の上は、行き止まりなの」

※

翌日、俺は自転車で坂を上った。

本当だった。

更地の先は、藪だった。

その先は、崖になっていて、下は水路だ。

道は、そこで完全に途切れていた。

車は入れない。

人が歩いて入るのも、無理だ。

一輪車で下りてくるなど、あり得なかった。

つまり、あの子供は、あの更地から出てきたことになる。

何もない、草の生えた更地から。

※

その週の土曜、俺は近所の商店へ行った。

店番をしているのは、九十近い婆さんだ。

この町のことなら、何でも知っている。

「あの坂の上、昔、養鶏場だったんですよね」

「そうよ」

「いつまであったんですか」

婆さんは、少し考えた。

「あんたが生まれる、ずっと前」

「なんで、無くなったんですか」

婆さんの手が、止まった。

レジの縁を、指でこすっていた。

「火事」

「火事」

「鶏舎が、丸ごと」

「鶏は」

婆さんは、俺を見た。

初めて、目が合った。

「全部よ」

「全部」

「三千羽、いたそうよ」

店の中が、急に静かになった。

冷蔵庫の音まで、止まった気がした。

「一羽も、出られんかったの」

それ以上は、言わなかった。

俺が何を聞いても、婆さんは値札を貼り直しているだけだった。

※

家に帰って、俺は町の広報を調べた。

図書館に、古いものが綴じてある。

昭和五十年代のものだ。

その中に、一行だけあった。

養鶏場の火事。

夜中に出火して、鶏舎が全焼。

経営者の子供が、頭に大火傷を負って病院へ運ばれた。

記事は、そこで終わっていた。

その後のことは、書いていない。

図書館の人に聞いても、続報はないという。

「小さい町ですから」

「はい」

「あまり、書かないんですよ」

記事の隣に、小さな写真があった。

焼けた鶏舎の写真だ。

黒い骨組みだけが、残っている。

その手前の地面が、白かった。

雪のように見えた。

六月に、雪は降らない。

俺は、拡大コピーを取った。

家で、それを見た。

見なければよかった。

羽だった。

焼けずに残った羽が、地面を埋めつくしていた。

そういうことも、あるらしい。

※

※

その週の日曜、俺はタカを誘って、夜の更地へ行った。

怖いもの見たさ、というやつだ。

懐中電灯を持って、坂を上った。

更地には、何もなかった。

草と、四角い土台と、それだけだ。

「なんもないな」

「なんもないわ」

帰ろうとした時、タカが足を止めた。

「おい」

「なに」

タカが、懐中電灯を地面に向けた。

土台のコンクリートの上に、白いものが並んでいた。

羽だった。

一枚ではない。

土台の縁に沿って、ずらりと。

等間隔に、並べてあった。

風で飛んできたものではない。

誰かが、置いたものだ。

俺たちは、走って坂を下りた。

後ろから、鶏の声が一声だけ聞こえた。

振り返らなかった。

※

それから、俺はあの道を通らなくなった。

遠回りをした。

高校を出て、町を離れて、就職して、十年以上経った。

去年、母が体を悪くした。

入院するほどではないが、一人にはしておけない。

俺は、勤め先に相談して、実家から通うことにした。

十二年ぶりの、あの町だ。

何も変わっていなかった。

駅前の商店が二つ減って、田んぼが一枚、駐車場になっていた。

それくらいだ。

坂も、更地も、そのままだった。

戻って、最初の六月だ。

あの道を、久しぶりに歩いた。

坂は、そのままだった。

更地も、そのままだった。

何も、起きなかった。

ほっとした。

やはり、あれは見間違いだったのだ。

そう思って、坂を下りかけた。

※

下りかけて、足が止まった。

更地の草が、倒れていた。

円く、きれいに。

直径は、二メートルくらいだ。

十二年前と、まったく同じ場所に、まったく同じ大きさで。

草は、まだ起き上がろうとしていなかった。

つい今しがた、倒されたばかりに見えた。

俺は、その縁に立った。

白い羽が、一枚落ちていた。

拾わなかった。

※

家に帰って、母に聞いた。

「あの一輪車の子、覚えてる?」

母は、テレビを見たまま言った。

「覚えてるよ」

「あれ、なんだったんだろう」

母は、答えなかった。

少し経ってから、こう言った。

「あんた、あの時、ニワトリと目が合ったって言ってたね」

言った覚えは、なかった。

だが、事実だ。

たしかに、あの鶏の目は、俺を見た。

「言ってたよ」

母は、テレビを消した。

「だから、お母さん、笑わなかったの」

「どういう意味」

母は、しばらく黙っていた。

それから、こう言った。

「お母さんも、見たことがあるの」

「いつ」

「高校生の時」

母は、この町で生まれ育っている。

「同じ坂」

「同じ坂」

「ニワトリは」

「抱えてた」

母は、湯呑みを両手で包んだ。

「目が合ったの。ニワトリと」

「それで」

「それだけ」

母は、それきり何も言わなかった。

だが、わかった。

だから母は、あの日、水路の道から行けと言ったのだ。

そして、俺は坂を選んだ。

※

※

一つ、ずっと引っかかっていることがある。

あの一輪車だ。

小学校の備品にあるような、赤いやつではなかった。

車輪が、木だった。

サドルの下の支柱が、細い鉄の棒で。

そんな一輪車を、俺は見たことがない。

去年、調べてみた。

戦前の曲芸用のものに、似た型があった。

車輪が木で、支柱が鉄。

今は、誰も作っていない。

作っていないものに、あの子は乗っていた。

※

その子供が誰だったのか、俺は今も知らない。

火事の記事に、名前は載っていなかった。

一度だけ、婆さんが自分から話しかけてきたことがある。

高校を出る年の春だ。

店を出ようとしたら、後ろから言われた。

「あんた、町を出るんね」

「はい」

「そう」

婆さんは、それから、こう言った。

「出た子は、大丈夫よ」

出た子は、大丈夫。

では、戻った子は、どうなのか。

聞けなかった。

婆さんは、去年亡くなった。

聞ける人は、もういない。

ただ、一つだけわかったことがある。

図書館で、火事の日付を確かめた。

六月十四日。

俺が、あの子とすれ違った日だ。

十二年前も、去年も。

※

※

タカとは、今も年に一度は会う。

去年の暮れ、酒を飲みながら、その話になった。

「あの羽、覚えてるか」

「覚えとるよ」

タカは、そう言って、コップを置いた。

「なあ」

「なんや」

「あれ、なんで六月なんやろな」

俺は、答えられなかった。

火事があったのが六月だ。

それは、わかる。

わからないのは、なぜ坂を下ってくるのか、だ。

火は、坂の上で起きた。

なのに、あの子は、上から下へ来る。

逃げているのだとしたら。

十二年経っても、まだ、逃げ切れていないことになる。

両手が、塞がっているから。

※

今年も、もうすぐ六月だ。

母は、あの日は薬を頼まないと言っている。

理由は、聞いていない。

俺も、聞くつもりはない。

ただ、あの子が、あれから十二年、まだ坂を下り続けているのだとしたら。

両手にニワトリを抱えたまま、ずっと。

それは、いったい、どこへ向かっているのだろう。

母は、今年の六月、どこにも出かけないと言っている。

薬は、俺が取りに行く。

水路の道から行く。

遠回りだ。

五分、余計にかかる。

その五分を、俺はもう惜しまない。

十二年かかって、覚えたのは、それだけだ。

一輪車は、後ろへ下がれない。

前にしか、進めない乗り物だ。

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