ダイバー

ダイバー

あれは、もう十年以上も前の、夏の出来事です。

私は、仲間たちと、山あいのダム湖へ、ダイビングに出かけました。

海ではなく、湖に潜るのは、そのときが初めてでした。

透明度が高く、知る人ぞ知る、穴場の湖だと、仲間が教えてくれたのです。

空はよく晴れ、水面は、鏡のように、静かでした。

絶好の、ダイビング日和でした。

少なくとも、その日の朝までは、私は、何の疑いも、持っていませんでした。

湖畔に着くと、ひぐらしの声が、山あいに、響いていました。

水は、深い、群青色をしていました。

のぞき込むと、底が見えないほど、深く、沈んでいくようでした。

仲間たちは、はしゃぎながら、機材の準備を、始めました。

私だけが、なぜか、その水面を見て、かすかな、胸騒ぎを覚えていました。

風も、虫の声も、湖の上だけは、止まっているように感じたのです。

湖へ向かう途中、小さな商店に、立ち寄りました。

飲み物を買うとき、店番の老婆が、私たちの機材を見て、こう言いました。

「あんたら、あの湖に、潜るのかい」

私が、はい、と答えると、老婆は、顔を、曇らせました。

「やめときな。あそこは、田んぼが、まだ、生きてるからね」

妙なことを言う人だ、と、そのときは、聞き流しました。

その言葉の意味を知るのは、ほんの、数時間後のことでした。

※

このダム湖は、五十年ほど前に、造られたものだと聞きました。

谷あいにあった、小さな村を、ひとつ、水の底に沈めて、できた湖だそうです。

「昔は、田んぼが広がる、静かな村だったらしいよ」

バディを組んだ後輩が、準備をしながら、そう話してくれました。

水の底には、今も、家の跡や、神社の鳥居が、残っているといいます。

その話に、私は、少しだけ、心が躍りました。

沈んだ村を、この目で見られるかもしれない。

そう思うと、胸が、高鳴ったのです。

「でもさ」と、後輩が、声を、少し落としました。

「地元の人は、あんまり、この湖に潜らないらしいですよ」

「なんでも、よくないものが出る、とか」

私は、笑って、取り合いませんでした。

「どこの湖にも、そういう噂は、あるもんだよ」

今思えば、あのとき、引き返すべきだったのです。

※

私と後輩は、二人で、湖の中央あたりから、潜りはじめました。

水面近くは、太陽の光が届いて、明るく、暖かでした。

でも、潜るにつれて、水は、急に、冷たくなっていきました。

五メートル、十メートルと、深くなるほど、光は、失われていきます。

水も、なぜか、少しずつ、濁ってきました。

透明度が高いと聞いていたのに、おかしいな、と思いました。

目を凝らすと、ようやく、湖の底が、見えてきました。

そこには、確かに、沈んだ村の跡が、ありました。

崩れかけた、家の土台。倒れた、石の鳥居。

鳥居の朱は、とうに剥げ落ち、黒ずんでいました。

その根元に、小さな祠が、ひとつ、傾いて、沈んでいました。

誰かが、まだ、手を合わせているような気配が、そこには、ありました。

水草が、その上を、ゆらゆらと、覆っていました。

耳の奥で、水の圧が、ぎしぎしと、鳴りました。

水温は、もう、肌が痛くなるほど、冷たくなっていました。

夏だというのに、まるで、真冬の水のようでした。

ライトで照らすと、光の届く範囲だけが、ぼんやりと、浮かび上がりました。

その光の輪の外は、墨を流したような、闇でした。

何かに、見られているような気配を、背中に、感じました。

後輩が、ライトを、ぐるりと、周囲に向けました。

光の輪の中に、崩れた家々の影が、ぼうっと、浮かんでは、消えました。

水の中だというのに、どこからか、かすかに、土の匂いがした気が、しました。

濡れた、田んぼの泥の、匂いでした。

※

村の跡を、しばらく、眺めていたときです。

私は、湖の底の、ある一画に、目を留めました。

そこは、かつて、田んぼだったのでしょう。

四角く区切られた、平らな地面が、広がっていました。

でも、その田んぼから、生えているものを見て、私は、息を呑みました。

稲ではなかったのです。

最初は、白い水草か、何かだと、思いました。

でも、ライトを向けて、私は、全身が、凍りつきました。

それは、まぎれもなく、人の、頭でした。

白い、人の頭が、田んぼの泥から、いくつも、突き出していたのです。

そこから生えていたのは、一面の、人間でした。

※

白い、人間が、田んぼの底から、ずらりと、生えていたのです。

腰のあたりまでを、泥に埋めて。

みな、同じ方向を向いて、じっと、立っていました。

私は、自分の目を、疑いました。

後輩のほうを見ると、彼もまた、その光景に、凍りついていました。

生えている人間の顔は、不思議なことに、どれも、同じでした。

年老いた、女の人の、顔でした。

しわの刻まれた、痩せた、老婆の顔です。

白髪が、水の中で、海藻のように、ゆらめいていました。

その顔が、何十も、何百も、田んぼいっぱいに、並んでいました。

すべてが、寸分たがわず、同じ顔でした。

その顔には、何の表情も、ありませんでした。

ただ、虚ろな目で、一点を、見つめていました。

※

そのとき、後輩が、私の肩を、強く叩きました。

そして、ある方向を、震える指で、差したのです。

私が、その方を見ると、一人の老人が、いました。

ダイビングの装備など、何も、つけていません。

作業着のような、普通の服を着た、痩せた老人でした。

その老人は、手に、一本の鎌を、持っていました。

そして、生えている人間たちを、稲を刈るように、一人ずつ、刈り取っていたのです。

刈り取られる瞬間、無表情だった顔が、ふいに、歪みました。

声にならない、悲鳴のような、苦痛の表情でした。

水の中なのに、その叫びが、聞こえてくる気が、しました。

刈り取られるたびに、ひとつ、また、ひとつと、顔が、消えていきました。

老人の動きには、何の、迷いも、ありませんでした。

長年、田を耕してきた者の、慣れた手つきでした。

それが、よけいに、私を、恐ろしくさせました。

刈り取られた人々は、声もなく、ただ、消えていきました。

抵抗する者も、逃げ出す者も、一人として、いませんでした。

まるで、刈られることを、ずっと、待っていたかのようでした。

※

刈り取られた跡からは、黒い、もやのようなものが、ゆらりと、立ちのぼりました。

それは、水に溶けて、刈られた顔を、隠していきました。

老人は、一人、また一人と、淡々と、刈り進めていきました。

そして、その作業をしながら、少しずつ、私たちのほうへ、近づいてくるのです。

私も、後輩も、完全に、体が、固まっていました。

逃げなければ、と、頭では分かっているのに。

手も、足も、まるで、言うことを聞きませんでした。

後輩が、必死に、私の腕を、引っぱりました。

早く逃げよう、と、その目が、訴えていました。

でも、私の体は、見えない何かに、押さえつけられたように、動かないのです。

レギュレーターを通す、自分の呼吸の音だけが、ごぼごぼと、やけに大きく、響いていました。

※

やがて、老人は、私たちの、すぐそばまで、やってきました。

そして、ゆっくりと、顔を上げ、私たちのほうを、見たのです。

その口元が、にやり、と、笑った気が、しました。

老人は、手にした鎌を、私たちのほうへ、すっと、差し出しました。

まるで、こう言っているようでした。

「おまえたちも、やってみるかい」

と。

私の、意識が、そこで、ぷつりと、途切れました。

差し出された鎌の刃が、ライトを反射して、ぎらりと、光りました。

その瞬間、私の中で、何かが、ぷつりと、切れたのです。

視界が、すうっと、暗くなっていきました。

遠くで、後輩の、くぐもった悲鳴が、聞こえた気が、しました。

不思議と、恐怖よりも、深い、眠気のようなものが、押し寄せてきました。

このまま、ここにいてもいい。

そんな、甘い囁きが、頭の奥で、聞こえた気が、したのです。

不思議と、恐怖よりも、深い、眠気のようなものが、押し寄せてきました。

このまま、ここにいてもいい。

そんな、甘い囁きが、頭の奥で、聞こえた気が、したのです。

それきり、私の記憶は、途切れています。

※

次に気づいたとき、私たちは、二人とも、近くの診療所の、ベッドの上にいました。

酸素が尽きる時間になっても、浮上してこない私たちを、仲間が、心配して、助けに来てくれたのだそうです。

「いったい、何があったんだ。二人とも、湖の底で、気を失ってたんだぞ」

先輩のダイバーが、青い顔で、そう言いました。

私は、自分の指先が、まだ、震えているのに、気づきました。

水の冷たさが、骨の芯にまで、残っているようでした。

「君たちは、二十分以上、底で、動かなかったんだ」

先輩は、そう続けました。

でも、私の体感では、ほんの、数分のことでした。

二十分ものあいだ、私たちは、いったい、何を、していたのでしょう。

その空白の時間のことを、思い出そうとすると、決まって、頭が、ずきずきと痛みます。

あの湖の底でも、時間が、おかしくなっていたのです。

私は、見たことを、必死に、話しました。

田んぼから生えた、人間のこと。鎌を持った、老人のこと。

でも、先輩は、首を、横に振るばかりでした。

「俺は、そんなもの、何も見なかったぞ」

一緒に助けに来た仲間も、みな、同じことを、言いました。

ただ、後輩だけは、何も、言いませんでした。

ベッドの上で、毛布にくるまり、ただ、震えていました。

私が「お前も、見ただろう」と聞いても、目を、合わせようとしません。

その夜、後輩は、うわごとのように、こう、つぶやいていたそうです。

「刈らないで。刈らないで」と。

彼は、その一件のあと、二度と、潜ることは、ありませんでした。

※

「水の中ってのはな、いろんな幻覚を、見るものなんだ」

先輩は、私を諭すように、静かに、言いました。

診療所の医師も、同じことを、言いました。

「深いところでは、酸素の分圧で、意識が、混乱するんですよ」

「とくに、冷たくて、暗い水の中では、ね」

医師は、優しく、そう説明してくれました。

理屈は、分かりました。

でも、私の指の爪の間には、黒い泥が、こびりついていました。

診療所のベッドで、何度洗っても、その泥は、なかなか落ちませんでした。

あの、田んぼの泥と、同じ匂いが、しました。

でも、納得は、できませんでした。

窒素酔いなら、なぜ、二人で、まったく同じものを、見たのか。

なぜ、後輩は、今も、あれほど、おびえているのか。

医師の説明は、その問いには、答えてくれませんでした。

「窒素酔いってやつだよ。それが、深い水の、怖さであり、不思議さでもある」

きっと、酸素の足りない頭が、見せた、夢だったのだ。

そう、自分に、言い聞かせようと、しました。

でも、私には、はっきりと、言えるのです。

あれは、決して、幻覚などでは、ありませんでした。

※

後日、私は、地元の古老に、あのダム湖のことを、尋ねてみました。

沈んだ村の、話を聞きたかったのです。

古老は、しばらく黙ってから、ぽつりと、こう言いました。

「あの村にはな、最後まで、立ち退きを拒んだ、婆さまが、一人いてな」

「田んぼと一緒に、水に沈むほうがいい、と言ってな」

「とうとう、村が沈む日まで、田んぼから、離れなかったそうだ」

私は、あの、生えていた人間たちの、年老いた女の顔を、思い出しました。

みな、同じ、老婆の顔でした。

私は、思わず、古老に、聞き返しました。

「その婆さまは、どんな、顔をしていたんですか」

古老は、目を細めて、こう答えました。

「痩せこけた、小さな婆さまでな。白髪の、ほつれた」

「最期まで、田んぼの、稲のことばかり、心配しておった」

私は、それ以上、何も、言えませんでした。

あの湖の底で見た顔と、寸分も、違わなかったからです。

古老は、最後に、こう、付け加えました。

「だからな、あの湖じゃ、昔から、潜る者が、ときどき、戻らんのだよ」

「婆さまが、田んぼの手伝いに、連れていくんだ、と言う者もおる」

「あんたら二人は、運が、よかったんだろうな」

その言葉を聞いて、私の背に、冷たいものが、流れました。

戻らなかったという、潜水者たちは、今、どこにいるのでしょう。

あの田んぼで、腰まで泥に埋まり、刈られる日を、待っているのでしょうか。

みな、あの老婆と、同じ顔に、なって。

あのとき、鎌を、受け取らなかったから。

だから、私たちは、戻ってこられたのだと、悟ったのです。

※

あの老人は、誰だったのでしょう。

沈んだ田んぼで、いったい、何を、刈り取っていたのでしょう。

そして、なぜ、その顔は、すべて、同じ老婆のものだったのでしょう。

考えても、答えは、出ません。

ただ、ひとつだけ、確かなことが、あります。

あのとき、差し出された鎌を、受け取らなくて、本当に、よかったということです。

もし、受け取っていたら。

私も今ごろ、あの冷たい田んぼで、誰かに刈られる日を、待っていたのかもしれません。

※

あれから、十年以上が、過ぎました。

私は、今でも、ときどき、同じ夢を見ます。

冷たい水の底で、泥に、腰まで、埋まっている夢です。

体は、まったく、動きません。

そして、遠くから、鎌を持った老人が、ゆっくりと、近づいてくるのです。

いつも、刈られる、すんでのところで、目が覚めます。

全身に、冷たい汗を、かいて。

妻には、ただ、昔ダイビングで怖い目にあった、とだけ、話しました。

あの田んぼのことは、誰にも、詳しくは、話していません。

話したところで、信じてもらえないと、分かっているからです。

それでも、これだけは、書き残しておきたかったのです。

あの湖には、もう、二度と、近づくつもりは、ありません。

水面の、あの静けさを、私は、生涯、忘れないでしょう。

田んぼは、まだ、生きている。

あの商店の老婆の言葉が、今も、耳の底に、こびりついて離れません。

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