ダイバー

あれは、もう十年以上も前の、夏の出来事です。

私は、仲間たちと、山あいのダム湖へ、ダイビングに出かけました。

海ではなく、湖に潜るのは、そのときが初めてでした。

透明度が高く、知る人ぞ知る、穴場の湖だと、仲間が教えてくれたのです。

空はよく晴れ、水面は、鏡のように、静かでした。

絶好の、ダイビング日和でした。

少なくとも、その日の朝までは、私は、何の疑いも、持っていませんでした。

湖畔に着くと、ひぐらしの声が、山あいに、響いていました。

水は、深い、群青色をしていました。

のぞき込むと、底が見えないほど、深く、沈んでいくようでした。

仲間たちは、はしゃぎながら、機材の準備を、始めました。

私だけが、なぜか、その水面を見て、かすかな、胸騒ぎを覚えていました。

風も、虫の声も、湖の上だけは、止まっているように感じたのです。

湖へ向かう途中、小さな商店に、立ち寄りました。

飲み物を買うとき、店番の老婆が、私たちの機材を見て、こう言いました。

「あんたら、あの湖に、潜るのかい」

私が、はい、と答えると、老婆は、顔を、曇らせました。

「やめときな。あそこは、田んぼが、まだ、生きてるからね」

妙なことを言う人だ、と、そのときは、聞き流しました。

その言葉の意味を知るのは、ほんの、数時間後のことでした。

このダム湖は、五十年ほど前に、造られたものだと聞きました。

谷あいにあった、小さな村を、ひとつ、水の底に沈めて、できた湖だそうです。

「昔は、田んぼが広がる、静かな村だったらしいよ」

バディを組んだ後輩が、準備をしながら、そう話してくれました。

水の底には、今も、家の跡や、神社の鳥居が、残っているといいます。

その話に、私は、少しだけ、心が躍りました。

沈んだ村を、この目で見られるかもしれない。

そう思うと、胸が、高鳴ったのです。

「でもさ」と、後輩が、声を、少し落としました。

「地元の人は、あんまり、この湖に潜らないらしいですよ」

「なんでも、よくないものが出る、とか」

私は、笑って、取り合いませんでした。

「どこの湖にも、そういう噂は、あるもんだよ」

今思えば、あのとき、引き返すべきだったのです。

私と後輩は、二人で、湖の中央あたりから、潜りはじめました。

水面近くは、太陽の光が届いて、明るく、暖かでした。

でも、潜るにつれて、水は、急に、冷たくなっていきました。

五メートル、十メートルと、深くなるほど、光は、失われていきます。

水も、なぜか、少しずつ、濁ってきました。

透明度が高いと聞いていたのに、おかしいな、と思いました。

目を凝らすと、ようやく、湖の底が、見えてきました。

そこには、確かに、沈んだ村の跡が、ありました。

崩れかけた、家の土台。倒れた、石の鳥居。

鳥居の朱は、とうに剥げ落ち、黒ずんでいました。

その根元に、小さな祠が、ひとつ、傾いて、沈んでいました。

誰かが、まだ、手を合わせているような気配が、そこには、ありました。

水草が、その上を、ゆらゆらと、覆っていました。

耳の奥で、水の圧が、ぎしぎしと、鳴りました。

水温は、もう、肌が痛くなるほど、冷たくなっていました。

夏だというのに、まるで、真冬の水のようでした。

ライトで照らすと、光の届く範囲だけが、ぼんやりと、浮かび上がりました。

その光の輪の外は、墨を流したような、闇でした。

何かに、見られているような気配を、背中に、感じました。

後輩が、ライトを、ぐるりと、周囲に向けました。

光の輪の中に、崩れた家々の影が、ぼうっと、浮かんでは、消えました。

水の中だというのに、どこからか、かすかに、土の匂いがした気が、しました。

濡れた、田んぼの泥の、匂いでした。

村の跡を、しばらく、眺めていたときです。

私は、湖の底の、ある一画に、目を留めました。

そこは、かつて、田んぼだったのでしょう。

四角く区切られた、平らな地面が、広がっていました。

でも、その田んぼから、生えているものを見て、私は、息を呑みました。

稲ではなかったのです。

最初は、白い水草か、何かだと、思いました。

でも、ライトを向けて、私は、全身が、凍りつきました。

それは、まぎれもなく、人の、頭でした。

白い、人の頭が、田んぼの泥から、いくつも、突き出していたのです。

そこから生えていたのは、一面の、人間でした。

白い、人間が、田んぼの底から、ずらりと、生えていたのです。

腰のあたりまでを、泥に埋めて。

みな、同じ方向を向いて、じっと、立っていました。

私は、自分の目を、疑いました。

後輩のほうを見ると、彼もまた、その光景に、凍りついていました。

生えている人間の顔は、不思議なことに、どれも、同じでした。

年老いた、女の人の、顔でした。

しわの刻まれた、痩せた、老婆の顔です。

白髪が、水の中で、海藻のように、ゆらめいていました。

その顔が、何十も、何百も、田んぼいっぱいに、並んでいました。

すべてが、寸分たがわず、同じ顔でした。

その顔には、何の表情も、ありませんでした。

ただ、虚ろな目で、一点を、見つめていました。

そのとき、後輩が、私の肩を、強く叩きました。

そして、ある方向を、震える指で、差したのです。

私が、その方を見ると、一人の老人が、いました。

ダイビングの装備など、何も、つけていません。

作業着のような、普通の服を着た、痩せた老人でした。

その老人は、手に、一本の鎌を、持っていました。

そして、生えている人間たちを、稲を刈るように、一人ずつ、刈り取っていたのです。

刈り取られる瞬間、無表情だった顔が、ふいに、歪みました。

声にならない、悲鳴のような、苦痛の表情でした。

水の中なのに、その叫びが、聞こえてくる気が、しました。

刈り取られるたびに、ひとつ、また、ひとつと、顔が、消えていきました。

老人の動きには、何の、迷いも、ありませんでした。

長年、田を耕してきた者の、慣れた手つきでした。

それが、よけいに、私を、恐ろしくさせました。

刈り取られた人々は、声もなく、ただ、消えていきました。

抵抗する者も、逃げ出す者も、一人として、いませんでした。

まるで、刈られることを、ずっと、待っていたかのようでした。

刈り取られた跡からは、黒い、もやのようなものが、ゆらりと、立ちのぼりました。

それは、水に溶けて、刈られた顔を、隠していきました。

老人は、一人、また一人と、淡々と、刈り進めていきました。

そして、その作業をしながら、少しずつ、私たちのほうへ、近づいてくるのです。

私も、後輩も、完全に、体が、固まっていました。

逃げなければ、と、頭では分かっているのに。

手も、足も、まるで、言うことを聞きませんでした。

後輩が、必死に、私の腕を、引っぱりました。

早く逃げよう、と、その目が、訴えていました。

でも、私の体は、見えない何かに、押さえつけられたように、動かないのです。

レギュレーターを通す、自分の呼吸の音だけが、ごぼごぼと、やけに大きく、響いていました。

やがて、老人は、私たちの、すぐそばまで、やってきました。

そして、ゆっくりと、顔を上げ、私たちのほうを、見たのです。

その口元が、にやり、と、笑った気が、しました。

老人は、手にした鎌を、私たちのほうへ、すっと、差し出しました。

まるで、こう言っているようでした。

「おまえたちも、やってみるかい」

と。

私の、意識が、そこで、ぷつりと、途切れました。

差し出された鎌の刃が、ライトを反射して、ぎらりと、光りました。

その瞬間、私の中で、何かが、ぷつりと、切れたのです。

視界が、すうっと、暗くなっていきました。

遠くで、後輩の、くぐもった悲鳴が、聞こえた気が、しました。

不思議と、恐怖よりも、深い、眠気のようなものが、押し寄せてきました。

このまま、ここにいてもいい。

そんな、甘い囁きが、頭の奥で、聞こえた気が、したのです。

不思議と、恐怖よりも、深い、眠気のようなものが、押し寄せてきました。

このまま、ここにいてもいい。

そんな、甘い囁きが、頭の奥で、聞こえた気が、したのです。

それきり、私の記憶は、途切れています。

次に気づいたとき、私たちは、二人とも、近くの診療所の、ベッドの上にいました。

酸素が尽きる時間になっても、浮上してこない私たちを、仲間が、心配して、助けに来てくれたのだそうです。

「いったい、何があったんだ。二人とも、湖の底で、気を失ってたんだぞ」

先輩のダイバーが、青い顔で、そう言いました。

私は、自分の指先が、まだ、震えているのに、気づきました。

水の冷たさが、骨の芯にまで、残っているようでした。

「君たちは、二十分以上、底で、動かなかったんだ」

先輩は、そう続けました。

でも、私の体感では、ほんの、数分のことでした。

二十分ものあいだ、私たちは、いったい、何を、していたのでしょう。

その空白の時間のことを、思い出そうとすると、決まって、頭が、ずきずきと痛みます。

あの湖の底でも、時間が、おかしくなっていたのです。

私は、見たことを、必死に、話しました。

田んぼから生えた、人間のこと。鎌を持った、老人のこと。

でも、先輩は、首を、横に振るばかりでした。

「俺は、そんなもの、何も見なかったぞ」

一緒に助けに来た仲間も、みな、同じことを、言いました。

ただ、後輩だけは、何も、言いませんでした。

ベッドの上で、毛布にくるまり、ただ、震えていました。

私が「お前も、見ただろう」と聞いても、目を、合わせようとしません。

その夜、後輩は、うわごとのように、こう、つぶやいていたそうです。

「刈らないで。刈らないで」と。

彼は、その一件のあと、二度と、潜ることは、ありませんでした。

「水の中ってのはな、いろんな幻覚を、見るものなんだ」

先輩は、私を諭すように、静かに、言いました。

診療所の医師も、同じことを、言いました。

「深いところでは、酸素の分圧で、意識が、混乱するんですよ」

「とくに、冷たくて、暗い水の中では、ね」

医師は、優しく、そう説明してくれました。

理屈は、分かりました。

でも、私の指の爪の間には、黒い泥が、こびりついていました。

診療所のベッドで、何度洗っても、その泥は、なかなか落ちませんでした。

あの、田んぼの泥と、同じ匂いが、しました。

でも、納得は、できませんでした。

窒素酔いなら、なぜ、二人で、まったく同じものを、見たのか。

なぜ、後輩は、今も、あれほど、おびえているのか。

医師の説明は、その問いには、答えてくれませんでした。

「窒素酔いってやつだよ。それが、深い水の、怖さであり、不思議さでもある」

きっと、酸素の足りない頭が、見せた、夢だったのだ。

そう、自分に、言い聞かせようと、しました。

でも、私には、はっきりと、言えるのです。

あれは、決して、幻覚などでは、ありませんでした。

後日、私は、地元の古老に、あのダム湖のことを、尋ねてみました。

沈んだ村の、話を聞きたかったのです。

古老は、しばらく黙ってから、ぽつりと、こう言いました。

「あの村にはな、最後まで、立ち退きを拒んだ、婆さまが、一人いてな」

「田んぼと一緒に、水に沈むほうがいい、と言ってな」

「とうとう、村が沈む日まで、田んぼから、離れなかったそうだ」

私は、あの、生えていた人間たちの、年老いた女の顔を、思い出しました。

みな、同じ、老婆の顔でした。

私は、思わず、古老に、聞き返しました。

「その婆さまは、どんな、顔をしていたんですか」

古老は、目を細めて、こう答えました。

「痩せこけた、小さな婆さまでな。白髪の、ほつれた」

「最期まで、田んぼの、稲のことばかり、心配しておった」

私は、それ以上、何も、言えませんでした。

あの湖の底で見た顔と、寸分も、違わなかったからです。

古老は、最後に、こう、付け加えました。

「だからな、あの湖じゃ、昔から、潜る者が、ときどき、戻らんのだよ」

「婆さまが、田んぼの手伝いに、連れていくんだ、と言う者もおる」

「あんたら二人は、運が、よかったんだろうな」

その言葉を聞いて、私の背に、冷たいものが、流れました。

戻らなかったという、潜水者たちは、今、どこにいるのでしょう。

あの田んぼで、腰まで泥に埋まり、刈られる日を、待っているのでしょうか。

みな、あの老婆と、同じ顔に、なって。

あのとき、鎌を、受け取らなかったから。

だから、私たちは、戻ってこられたのだと、悟ったのです。

あの老人は、誰だったのでしょう。

沈んだ田んぼで、いったい、何を、刈り取っていたのでしょう。

そして、なぜ、その顔は、すべて、同じ老婆のものだったのでしょう。

考えても、答えは、出ません。

ただ、ひとつだけ、確かなことが、あります。

あのとき、差し出された鎌を、受け取らなくて、本当に、よかったということです。

もし、受け取っていたら。

私も今ごろ、あの冷たい田んぼで、誰かに刈られる日を、待っていたのかもしれません。

あれから、十年以上が、過ぎました。

私は、今でも、ときどき、同じ夢を見ます。

冷たい水の底で、泥に、腰まで、埋まっている夢です。

体は、まったく、動きません。

そして、遠くから、鎌を持った老人が、ゆっくりと、近づいてくるのです。

いつも、刈られる、すんでのところで、目が覚めます。

全身に、冷たい汗を、かいて。

妻には、ただ、昔ダイビングで怖い目にあった、とだけ、話しました。

あの田んぼのことは、誰にも、詳しくは、話していません。

話したところで、信じてもらえないと、分かっているからです。

それでも、これだけは、書き残しておきたかったのです。

あの湖には、もう、二度と、近づくつもりは、ありません。

水面の、あの静けさを、私は、生涯、忘れないでしょう。

田んぼは、まだ、生きている。

あの商店の老婆の言葉が、今も、耳の底に、こびりついて離れません。

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