スローになる空間

もう六年ほど前になる。

友人の部屋に、奇妙な空間があった。

それは今でも、僕のなかで、うまく説明のつかない出来事のひとつだ。

その友人は、大学の頃の知り合いだった。

古いアパートの二階に、一人で住んでいた。

日当たりの悪い、六畳ほどの部屋だった。

はじめてその部屋を訪ねたのは、何でもない平日の午後だったと思う。

漫画を借りに寄った、それくらいの軽い用事だった。

友人は、口数の少ない男だった。

部屋は、いつ行ってもきれいに片付いていて、物が少なかった。

本棚と、低いテーブルと、畳んだ布団。

それくらいしか、置かれていなかったように思う。

窓の外は隣家の壁で、昼でも部屋の奥は薄暗かった。

その薄暗さのなかに、彼はいつも静かに座っていた。

その空間に気づいたのは、まったくの偶然だった。

僕は本棚に手を伸ばそうとして、何もない宙で、一度手を止めた。

理由は、自分でも分からない。

ただ、その一帯の空気が、わずかに違う気がしたのだ。

試しに、その辺りで手を振ってみた。

そして、僕は手を止めた。

そこだけ、手の動きが、ゆっくりになっていた。

はじめは、自分の手が痺れたのかと思った。

だが、手を引いてもう一度振ると、何ともない。

もう一度、同じ高さに手を戻すと、また遅くなる。

痺れではなかった。

僕の体の問題ではなく、その場所の問題だった。

何もないはずの宙で、手を振る。

すると、ある一点を通り過ぎるときだけ、手がスローになる。

水のなかで腕を動かしたときの、あの抵抗に少し似ていた。

だが、水のような濡れた感触はない。

空気は、乾いたままだった。

ただ、速度だけが、そこで奪われる。

手を引き抜くと、また、もとの速さに戻る。

何度試しても、同じだった。

気になって、僕は顔を近づけてみた。

その一点から、音や匂いが漏れているということはなかった。

温度も、周りの空気と変わらない。

目で見ても、そこには何もない。

光が歪むわけでも、空気が揺らいで見えるわけでもなかった。

視覚では、まったく捉えられない。

ただ、手を入れたときの速度だけが、そこにあることを教えてくれた。

僕は、その空間を、もう少し詳しく調べてみることにした。

手のひらで、そっと撫で回してみる。

輪郭のようなものが、たしかにあった。

おおよそ、バスケットボールくらいの大きさの、丸い領域だった。

その丸い境目を越えるときだけ、手がゆっくりになる。

内側に入れた手は、まるで時間の濃い蜜のなかにあるようだった。

そして、その空間は、床から一メートルほどの高さの宙に、ぽつんと留まっていた。

何かにぶら下がっているわけでも、支えられているわけでもない。

ただ、そこに、在った。

僕は、ポケットから十円玉を取り出した。

その丸い領域の真上から、そっと落としてみたのだ。

硬貨は、空間に差しかかったところで、ふっと速度を落とした。

落ちる、というより、沈んでいくように見えた。

領域の下端を抜けた瞬間、硬貨はまた、本来の速さで畳に落ちた。

かちん、という音が、やけに遅れて聞こえた気がした。

次に、ボールペンを、横から差し入れてみた。

領域に入ったペンの先だけが、ゆっくりと動く。

僕の手元はいつもの速さなのに、その一点だけが、別の時間を生きていた。

指先に伝わる抵抗は、押し返してくるというより、しがみついてくるような感触だった。

携帯電話のカメラを向けてみたが、画面には、ただの何もない宙が映るだけだった。

写真に撮っても、後から見返すと、不思議なほど何の変哲もない部屋の一角だった。

記録に残せないものを、僕は手のひらの感触だけで、確かに知っていた。

その不確かさが、かえって、その空間を本物だと思わせた。

念のため、僕は手帳に、その位置を簡単に書き留めておいた。

本棚の左端から、横にこれくらい。床から、これくらいの高さ。

後日、別の日にもう一度訪ねたとき、その丸い領域は、寸分も違わず同じ場所にあった。

日付が変わっても、天気が変わっても、それは決して動かなかった。

動かないものほど、人を落ち着かなくさせるのだと、僕はそのとき知った。

僕は、興奮して友人を呼んだ。

「これ、何だよ。すごいな」と、僕は無邪気にはしゃいでいたと思う。

だが、振り返ると、友人の表情が、固まっていた。

彼は、その空間のほうを見ようとしなかった。

「ああ、それな」と、彼は短く言った。

それきり、口をつぐんだ。

その様子で、僕は、これ以上触れてはいけないのだと察した。

楽しい話題では、ないらしかった。

ただ、ひとつだけ、彼はぽつりとこぼした。

「最初は、もっと小さかったんだ」

それだけ言って、彼は口を閉じた。

小さかった、ということは、少しずつ大きくなっている、ということだろうか。

訊き返したかったが、彼の横顔が、それを許さなかった。

彼は、その空間と、長いあいだ一人で暮らしてきたのだ。

慣れているようでいて、決して馴染んではいない。

そんな距離の取り方を、彼はその丸い領域に対してしていた。

後で気づいたことだが、彼の部屋の家具は、その一点を避けるように置かれていた。

本棚も、テーブルも、その丸い領域の真下や真横を、わずかに外していた。

無意識なのか、意図してなのかは、分からない。

ただ、彼はその場所に、できるだけ近づかずに暮らしているようだった。

狭い部屋のなかに、彼だけが立ち入らない、見えない柱が立っているようだった。

一人で住むには、それは、ずいぶんと心細い同居人だったろうと思う。

気まずくなって、僕はその話を切り上げた。

漫画を借りて、早々に部屋を出た。

だから、その空間が何なのか、友人がどう思っているのか。

結局、何ひとつ聞けないまま、この話は終わってしまった。

ただ、後日談がある。

その友人の部屋に出入りしていた人間は、僕のほかにも数人いた。

そのうちの何人かに、それとなく訊いてみたのだ。

あの宙に、変な感じのする場所がなかったか、と。

すると、二人が、知っていた。

「ああ、あのスローになるとこだろ」と、こともなげに言った。

彼らもまた、偶然それに気づき、そして、触れずにいたのだという。

一人は、酔った勢いでそこに頭を突っ込んでみたことがあるらしい。

耳のあたりまで入れたとき、自分の心臓の音が、間延びして聞こえたという。

気味が悪くなって、すぐに引き抜いたそうだ。

もう一人は、ただ手で触れただけで、それ以上は近づかなかったと言った。

二人とも、その話をするとき、声を少し低くした。

面白がる者は、一人もいなかった。

皆、申し合わせたように、その空間を「触れないもの」として扱っていた。

つまり、あの空間は、僕の気のせいではなかった。

複数の人間が、同じ場所で、同じ現象を確かめていた。

そして、どうやらそれは、いつ訪ねても、同じ場所に在ったらしい。

気まぐれに現れて消えるようなものではなく、ずっとそこに、安定して在った。

部屋の主が変わっても、家具の配置が変わっても、その一点だけは動かなかった。

考えてみれば、それがいちばん不気味な点だった。

幽霊のように、現れては消えるのなら、まだ分かる。

だが、それは、ただそこに在り続けた。

何をするでもなく、誰を害するでもなく、ただ時間だけを、その一点で遅らせていた。

あまりにも静かに、当たり前のような顔で、そこに在った。

あれは何だったのか、僕は今でも、時々考える。

時間が淀む、というのは、物理の言葉で言えば、どういうことなのだろう。

だが、いくら考えても、答えらしい答えにはたどり着かない。

そもそも、なぜ床から一メートルの高さの、その一点だったのか。

なぜ、丸かったのか。

なぜ、少しずつ大きくなっていたのか。

問いだけが増えて、ひとつも閉じてくれない。

幽霊なら、まだいい。

怖い、という感情で、片付けることができるからだ。

だが、あれは、怖いという言葉に、うまく収まってくれなかった。

その後、友人とは、なんとなく疎遠になった。

あのアパートも、今はもう取り壊されたと聞いた。

あの空間が、建物と一緒に消えたのか。

それとも、更地になった宙の、床から一メートルの高さに、今もまだ在るのか。

それは、誰にも分からない。

一度だけ、あの友人に連絡を取ろうとしたことがある。

あの空間のことを、もう一度、ちゃんと訊いてみたかったのだ。

だが、登録していた番号は、もう使われていなかった。

共通の知人にも、彼の行方を知る者はいなかった。

まるで、彼自身が、あの空間のように、ある日そっと消えてしまったかのようだった。

あれ以来、僕は「時間」というものを、前ほど信用できなくなった。

時計の針は、どこでも同じ速さで進んでいる。

僕らは、ふだん、それを疑いもせずに生きている。

だが、あの部屋の、床から一メートルの一点では、それが当てはまらなかった。

ほんの数センチ手をずらすだけで、時間の流れる速さが変わる。

そんな場所が、ありふれた古アパートの一室に、当たり前のように在った。

だとすれば、世界のあちこちに、ああいう淀みが、ひっそりと在るのかもしれない。

誰にも気づかれず、誰にも触れられず、ただ静かに時間を遅らせながら。

そう思うと、何でもない宙が、急に底知れないものに見えてくる。

僕らは、見えるものしか、ないことにして生きている。

だが、あの部屋の一点は、見えなくても、確かに在った。

手を入れれば、誰の手も等しく、ゆっくりになった。

僕は時々、何もない宙で、手を振ってみることがある。

もちろん、いつもの速さで、手は動く。

当たり前のことだ。

それでも、ふとした拍子に、指先がほんの少し遅れた気がして、手を止めてしまう。

そのたびに、しばらく宙を見つめる。

何も、ない。

当たり前だ。

それでも、確かめずにはいられないのだ。

六年経った今でも、その感触だけが、手のひらに残っている。

あの部屋の、床から一メートルの高さの宙を、思い出しながら。

更地になった、あの宙の同じ高さに、それは今も在るのだろうか。

それは、もう、誰にも確かめようがない。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

ミステリーを応援する

いつもお読みいただき、ありがとうございます。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

月額 150円(初月無料)または 480円 の買い切りで、
広告のない、静かな読書体験をお届けします。

プランを見る
メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。

読んでいただけるだけで、十分に励みになります。
それでも応援したいと思ってくださる方へ、心より感謝いたします。