もう六年ほど前になる。
友人の部屋に、奇妙な空間があった。
それは今でも、僕のなかで、うまく説明のつかない出来事のひとつだ。
※
その友人は、大学の頃の知り合いだった。
古いアパートの二階に、一人で住んでいた。
日当たりの悪い、六畳ほどの部屋だった。
はじめてその部屋を訪ねたのは、何でもない平日の午後だったと思う。
漫画を借りに寄った、それくらいの軽い用事だった。
友人は、口数の少ない男だった。
部屋は、いつ行ってもきれいに片付いていて、物が少なかった。
本棚と、低いテーブルと、畳んだ布団。
それくらいしか、置かれていなかったように思う。
窓の外は隣家の壁で、昼でも部屋の奥は薄暗かった。
その薄暗さのなかに、彼はいつも静かに座っていた。
※
その空間に気づいたのは、まったくの偶然だった。
僕は本棚に手を伸ばそうとして、何もない宙で、一度手を止めた。
理由は、自分でも分からない。
ただ、その一帯の空気が、わずかに違う気がしたのだ。
試しに、その辺りで手を振ってみた。
そして、僕は手を止めた。
そこだけ、手の動きが、ゆっくりになっていた。
はじめは、自分の手が痺れたのかと思った。
だが、手を引いてもう一度振ると、何ともない。
もう一度、同じ高さに手を戻すと、また遅くなる。
痺れではなかった。
僕の体の問題ではなく、その場所の問題だった。
※
何もないはずの宙で、手を振る。
すると、ある一点を通り過ぎるときだけ、手がスローになる。
水のなかで腕を動かしたときの、あの抵抗に少し似ていた。
だが、水のような濡れた感触はない。
空気は、乾いたままだった。
ただ、速度だけが、そこで奪われる。
手を引き抜くと、また、もとの速さに戻る。
何度試しても、同じだった。
気になって、僕は顔を近づけてみた。
その一点から、音や匂いが漏れているということはなかった。
温度も、周りの空気と変わらない。
目で見ても、そこには何もない。
光が歪むわけでも、空気が揺らいで見えるわけでもなかった。
視覚では、まったく捉えられない。
ただ、手を入れたときの速度だけが、そこにあることを教えてくれた。
※
僕は、その空間を、もう少し詳しく調べてみることにした。
手のひらで、そっと撫で回してみる。
輪郭のようなものが、たしかにあった。
おおよそ、バスケットボールくらいの大きさの、丸い領域だった。
その丸い境目を越えるときだけ、手がゆっくりになる。
内側に入れた手は、まるで時間の濃い蜜のなかにあるようだった。
そして、その空間は、床から一メートルほどの高さの宙に、ぽつんと留まっていた。
何かにぶら下がっているわけでも、支えられているわけでもない。
ただ、そこに、在った。
※
僕は、ポケットから十円玉を取り出した。
その丸い領域の真上から、そっと落としてみたのだ。
硬貨は、空間に差しかかったところで、ふっと速度を落とした。
落ちる、というより、沈んでいくように見えた。
領域の下端を抜けた瞬間、硬貨はまた、本来の速さで畳に落ちた。
かちん、という音が、やけに遅れて聞こえた気がした。
次に、ボールペンを、横から差し入れてみた。
領域に入ったペンの先だけが、ゆっくりと動く。
僕の手元はいつもの速さなのに、その一点だけが、別の時間を生きていた。
指先に伝わる抵抗は、押し返してくるというより、しがみついてくるような感触だった。
携帯電話のカメラを向けてみたが、画面には、ただの何もない宙が映るだけだった。
写真に撮っても、後から見返すと、不思議なほど何の変哲もない部屋の一角だった。
記録に残せないものを、僕は手のひらの感触だけで、確かに知っていた。
その不確かさが、かえって、その空間を本物だと思わせた。
念のため、僕は手帳に、その位置を簡単に書き留めておいた。
本棚の左端から、横にこれくらい。床から、これくらいの高さ。
後日、別の日にもう一度訪ねたとき、その丸い領域は、寸分も違わず同じ場所にあった。
日付が変わっても、天気が変わっても、それは決して動かなかった。
動かないものほど、人を落ち着かなくさせるのだと、僕はそのとき知った。
※
僕は、興奮して友人を呼んだ。
「これ、何だよ。すごいな」と、僕は無邪気にはしゃいでいたと思う。
だが、振り返ると、友人の表情が、固まっていた。
彼は、その空間のほうを見ようとしなかった。
「ああ、それな」と、彼は短く言った。
それきり、口をつぐんだ。
その様子で、僕は、これ以上触れてはいけないのだと察した。
楽しい話題では、ないらしかった。
ただ、ひとつだけ、彼はぽつりとこぼした。
「最初は、もっと小さかったんだ」
それだけ言って、彼は口を閉じた。
小さかった、ということは、少しずつ大きくなっている、ということだろうか。
訊き返したかったが、彼の横顔が、それを許さなかった。
彼は、その空間と、長いあいだ一人で暮らしてきたのだ。
慣れているようでいて、決して馴染んではいない。
そんな距離の取り方を、彼はその丸い領域に対してしていた。
後で気づいたことだが、彼の部屋の家具は、その一点を避けるように置かれていた。
本棚も、テーブルも、その丸い領域の真下や真横を、わずかに外していた。
無意識なのか、意図してなのかは、分からない。
ただ、彼はその場所に、できるだけ近づかずに暮らしているようだった。
狭い部屋のなかに、彼だけが立ち入らない、見えない柱が立っているようだった。
一人で住むには、それは、ずいぶんと心細い同居人だったろうと思う。
※
気まずくなって、僕はその話を切り上げた。
漫画を借りて、早々に部屋を出た。
だから、その空間が何なのか、友人がどう思っているのか。
結局、何ひとつ聞けないまま、この話は終わってしまった。
※
ただ、後日談がある。
その友人の部屋に出入りしていた人間は、僕のほかにも数人いた。
そのうちの何人かに、それとなく訊いてみたのだ。
あの宙に、変な感じのする場所がなかったか、と。
すると、二人が、知っていた。
「ああ、あのスローになるとこだろ」と、こともなげに言った。
彼らもまた、偶然それに気づき、そして、触れずにいたのだという。
一人は、酔った勢いでそこに頭を突っ込んでみたことがあるらしい。
耳のあたりまで入れたとき、自分の心臓の音が、間延びして聞こえたという。
気味が悪くなって、すぐに引き抜いたそうだ。
もう一人は、ただ手で触れただけで、それ以上は近づかなかったと言った。
二人とも、その話をするとき、声を少し低くした。
面白がる者は、一人もいなかった。
皆、申し合わせたように、その空間を「触れないもの」として扱っていた。
※
つまり、あの空間は、僕の気のせいではなかった。
複数の人間が、同じ場所で、同じ現象を確かめていた。
そして、どうやらそれは、いつ訪ねても、同じ場所に在ったらしい。
気まぐれに現れて消えるようなものではなく、ずっとそこに、安定して在った。
部屋の主が変わっても、家具の配置が変わっても、その一点だけは動かなかった。
※
考えてみれば、それがいちばん不気味な点だった。
幽霊のように、現れては消えるのなら、まだ分かる。
だが、それは、ただそこに在り続けた。
何をするでもなく、誰を害するでもなく、ただ時間だけを、その一点で遅らせていた。
あまりにも静かに、当たり前のような顔で、そこに在った。
※
あれは何だったのか、僕は今でも、時々考える。
時間が淀む、というのは、物理の言葉で言えば、どういうことなのだろう。
だが、いくら考えても、答えらしい答えにはたどり着かない。
そもそも、なぜ床から一メートルの高さの、その一点だったのか。
なぜ、丸かったのか。
なぜ、少しずつ大きくなっていたのか。
問いだけが増えて、ひとつも閉じてくれない。
幽霊なら、まだいい。
怖い、という感情で、片付けることができるからだ。
だが、あれは、怖いという言葉に、うまく収まってくれなかった。
※
その後、友人とは、なんとなく疎遠になった。
あのアパートも、今はもう取り壊されたと聞いた。
あの空間が、建物と一緒に消えたのか。
それとも、更地になった宙の、床から一メートルの高さに、今もまだ在るのか。
それは、誰にも分からない。
一度だけ、あの友人に連絡を取ろうとしたことがある。
あの空間のことを、もう一度、ちゃんと訊いてみたかったのだ。
だが、登録していた番号は、もう使われていなかった。
共通の知人にも、彼の行方を知る者はいなかった。
まるで、彼自身が、あの空間のように、ある日そっと消えてしまったかのようだった。
※
あれ以来、僕は「時間」というものを、前ほど信用できなくなった。
時計の針は、どこでも同じ速さで進んでいる。
僕らは、ふだん、それを疑いもせずに生きている。
だが、あの部屋の、床から一メートルの一点では、それが当てはまらなかった。
ほんの数センチ手をずらすだけで、時間の流れる速さが変わる。
そんな場所が、ありふれた古アパートの一室に、当たり前のように在った。
だとすれば、世界のあちこちに、ああいう淀みが、ひっそりと在るのかもしれない。
誰にも気づかれず、誰にも触れられず、ただ静かに時間を遅らせながら。
そう思うと、何でもない宙が、急に底知れないものに見えてくる。
僕らは、見えるものしか、ないことにして生きている。
だが、あの部屋の一点は、見えなくても、確かに在った。
手を入れれば、誰の手も等しく、ゆっくりになった。
※
僕は時々、何もない宙で、手を振ってみることがある。
もちろん、いつもの速さで、手は動く。
当たり前のことだ。
それでも、ふとした拍子に、指先がほんの少し遅れた気がして、手を止めてしまう。
そのたびに、しばらく宙を見つめる。
何も、ない。
当たり前だ。
それでも、確かめずにはいられないのだ。
六年経った今でも、その感触だけが、手のひらに残っている。
あの部屋の、床から一メートルの高さの宙を、思い出しながら。
更地になった、あの宙の同じ高さに、それは今も在るのだろうか。
それは、もう、誰にも確かめようがない。