
大隅の、肝属(きもつき)川の上流に、谷の集落がある。
私が九つまで住んでいた土地だ。
シラス台地が両側から迫って、日が差すのは昼の三時間ほど。
その崖の中腹に、小さな社(やしろ)があった。
石段は四十七段。
子どもの足では、上りきると膝が笑った。
石段の脇は、白い崖だ。
シラスというのは、火山の灰が固まったものらしい。
爪を立てると、ぼろぼろ崩れる。
崖のところどころに、四角い穴が開いていた。
岩屋、と大人は呼んでいた。
覗くと、奥は真っ暗で、夏でも冷たい風が出てくる。
あの穴には近づくな、とだけは、どの家でも言われていた。
理由を教えてくれる大人は、一人もいなかった。
ただ、ハルさんだけは、こう言った。
「あれは、口じゃ」
「なんの口な」
「昔の宮の、上がり口」
あの子と会ったのは、小学二年の夏だ。
※
境内で走り回っていたら、いつのまにか混ざっていた。
混ざっていた、というのも変な話だ。
子どものころは、誰彼かまわず友達になる。
だから誰も、その子がどこから来たのかを訊かなかった。
坊主頭で、白っぽい半袖のシャツを着ていた。
笑うと前歯が一本欠けていた。
「おまえ、どこの子な」
「あっち」
そう言って、社の裏の杉山のほうを指した。
あっち、で通じてしまうのが、あの谷だった。
勇作が「見たことなか顔じゃ」と言った。
ミチルが「よその子やろ」と言った。
それで話は終わった。
盆になれば、都会から親戚の子が何人も来る土地だ。
知らない顔がひとつ増えることに、誰も驚かない。
ただ、盆が過ぎても、あの子はいた。
秋になってもいた。
そのころには、もう誰も、よその子だとは言わなくなっていた。
今になって思えば、おかしなことがある。
あの谷では、よその子がひとり増えれば、三日で全戸に知れ渡る。
誰の家の親戚か、何日いるのか、必ず誰かが訊く。
あの子については、大人が一度も訊かなかった。
訊かなかったのではなく、訊く必要がなかったのだと、今はわかる。
その日から、あの子は遊び仲間になった。
缶蹴り、木登り、蟬の抜け殻集め。
私はとくにあの子と気が合って、二人だけで遊ぶことも増えた。
というより、一人で社に行っても、あの子は必ずそこにいた。
社に行く、イコール、あの子と遊ぶ。
そういうものだと思っていた。
※
境内の縁側には、いつも二人の巫女さんが座っていた。
白い衣に、朱色の袴。
夏でも冬でも、同じ格好だった。
私たちが騒いでも、叱らない。
ただ、ぼうっとこちらを見ている。
ときどき、どちらかが小さく笑った。
あの二人が水を汲むところも、掃除をするところも、私は一度も見ていない。
そういう人たちなのだと思っていた。
一度、ミチルが二人に話しかけたことがある。
「おねえさん、水ちょうだい」
巫女さんは、笑って首をかしげた。
それだけだった。
ミチルは「聞こえんかったんやろ」と言って、井戸のほうへ走っていった。
私たちは、あの二人の声を、ついに一度も聞かなかった。
あの日常が、私は好きだった。
集落には、私を入れて子どもが六人しかいなかった。
勇作、ミチル、その弟、あとは年下が二人。
学校まで、川沿いを四十分歩いた。
夏の夕方は、川面に蛍が湧いた。
あれは今でも、あんな数を見たことがない。
そういう谷だ。
何もないぶん、社の境内が、私たちの世界のほとんどだった。
※
最初の違和感は、声だった。
境内は広い。石段の下から拝殿まで、大人の足でも三十歩はある。
鬼ごっこをすれば、当然、距離が開く。
なのに、あの子の声だけは、いつも同じ大きさで聞こえた。
杉山の際まで走っていっても、耳のすぐ横で「こっち」と言われた。
そのころは、声の通る子だな、としか思わなかった。
蟬の声のなかで、あの子の声だけが、はっきりしていた。
もう一つ、そのころ気づいたことがある。
あの子は、いつも同じ側から現れた。
拝殿の右手、杉山に向かって歩いていくと、五歩目くらいで、もう横にいる。
足音は、聞いたことがない。
境内は玉砂利だ。
私たちが走れば、じゃりじゃり鳴る。
あの子が走っても、鳴らなかった。
子どもというのは不思議なもので、そういうことを、いちいち怖がらない。
ああ、そういう走り方の子なんだな、で終わってしまう。
※
二つ目は、供え物だ。
私たちは駄菓子を買うと、賽銭箱の縁に一つ置く決まりを勝手に作っていた。
誰が言い出したのかは覚えていない。
ある夏、私はきなこ棒を一本置いた。
翌日、それはそのままあった。
三日目もあった。
南九州の八月だ。三日も置けば、飴は溶ける。紙は湿気る。
けれどきなこ棒は、置いた日と同じ形をしていた。
包み紙の折り目まで、私が折ったとおりだった。
四日目に見に行ったら、なくなっていた。
包み紙も、一緒になくなっていた。
食べたなら、紙は残るはずだった。
賽銭箱の縁には、きなこの粉が、ひとつぶも落ちていなかった。
あの子に訊いた。
「おまえ、食べたか」
「食べんよ」
「じゃあ、誰な」
「知らん」
あの子は、それきり賽銭箱のほうを見なかった。
いま思えば、あの子はそれ以降、賽銭箱の前を通るときだけ、少し遠回りをした。
拝殿の階(きざはし)にも、一度も座らなかった。
私たちは何度もそこに腰かけて、汗を拭いていたのに。
※
三つ目は、母の言葉だ。
夕飯のとき、母が味噌汁をよそいながら言った。
「あんた、宮でいっつも独り言ば言いよるね」
「言いよらん」
「言いよるよ。買い物の帰りに見たわ」
「友達とおったが」
母は「そうね」と言って、それ以上は訊かなかった。
今になって思う。
あのとき母は、もう一度も訊き返さなかった。
訊き返さないことを、あの谷の大人はよく知っていた。
その晩、風呂から上がったら、父が縁側で煙草を吸っていた。
「宮で誰と遊びよるとか」
「友達」
「名前は」
私は答えられなかった。
訊いたことがないと気づいたのは、そのときが初めてだった。
父は「ふうん」と言って、灰を落とした。
それきり、その話はしなかった。
※
隣のハルさんという婆さんが、一度だけ、私に作法を教えたことがある。
縁側で瓜を切りながらだった。
「宮を出るときはな、何も言わんで出るとよか」
「なんで」
「言葉ば置いていったら、取りに戻らんといかんようになるけん」
意味はわからなかった。
それでもハルさんの手が瓜を押さえたまま止まったので、私は黙ってうなずいた。
「さいなら、は言うたらいかん」
「またね、もな」
「どっちも、次があるいう約束じゃけん」
ハルさんは、瓜の種を新聞紙に落としながら続けた。
「あの宮はな、もとは崖のもっと下にあったとよ」
「明治の何年やったか、大水で崩れてな」
「上に移したとき、下に置いていったもんが、なんぼかあるらしい」
「そういうもんは、約束を待っとる」
「じゃけん、宮では約束の言葉を口にせん」
私は、崖に開いた四角い穴を思い出した。
あの穴の高さは、ちょうど、昔の社があったあたりだった。
私は、あの子のことを思い出していた。
あの子は、別れぎわにいつも「またね」と手を振った。
さいなら、とは、一度も言わなかった。
※
三年生になり、四年生になると、みんな社では遊ばなくなった。
集落の子は少ない。学年が上がれば、遊び場は校庭に移る。
それでも私は、月に何度か一人で石段を上った。
塾もない。ゲーム機を持っている家もない。
時間だけが、いくらでもあった。
石段の途中で、シラスの崖に耳を当てるのが癖だった。
中で水が流れる音がする、と勇作は言っていたが、私には聞こえたためしがない。
聞こえるのは、いつも、上のほうから呼ぶあの子の声だった。
あの子は、いつ行ってもいた。
「なんで、いつもおるとや」
「おるよ」
「家、帰らんとか」
「帰るよ」
そのやりとりを、何度もした。
訊いてはいけない気がして、学校も、家も、名字も、私は一度も訊かなかった。
子どもながらに、何かを察していたのだと思う。
みんなが石段を下りるとき、あの子は必ず鳥居の下に立って、見送った。
一緒に下りたことは、ただの一度もない。
一度だけ、試したことがある。
五年生の春だ。
「一緒に下りようや」
「よかよ」
あの子はそう言って、鳥居まで来た。
そして、鳥居の柱に手を置いて、そこから動かなかった。
「行かんとか」
「行くよ」
「じゃあ来いよ」
「行くよ」
三回、同じ受け答えをした。
そのうち私のほうが飽きて、先に石段を下りた。
途中で振り返ったら、あの子はまだ、柱に手を置いて立っていた。
笑っていた。
怒っている顔よりも、その笑顔のほうが、私はなぜか長く覚えている。
※
父の転勤で、私は九つの冬に県外へ引っ越した。
荷造りの日、私は最後にもう一度、社へ行った。
雪の降らない土地だが、その日は妙に空気が冷たかった。
学校では、前の日にお別れ会をしてもらった。
勇作が泣いて、ミチルが「男が泣くな」と言って、それで勇作がもっと泣いた。
そういう別れは、ちゃんと済んでいた。
済んでいないのは、社のほうだけだった。
あの子は、鳥居の下にいた。
「引っ越すとよ」
「知っとる」
「なんで知っとると」
あの子は答えなかった。
代わりに、私のシャツの袖を、指二本でつまんだ。
それから離した。
「さいなら」
あの子が「さいなら」と言うたのは、その一度きりだった。
私は「またね」と言いかけて、口を閉じた。
ハルさんの言葉を、そのとき初めて思い出したからだ。
石段を下りて、下から見上げた。
鳥居の下には、もう誰もいなかった。
石段の上のほうを、しばらく見上げていた。
拝殿の屋根の向こうで、杉が揺れていた。
縁側の二人も、その日は見えなかった。
私は袖の、つままれたところを指でこすった。
そこだけが、なぜか湿っていた。
指を鼻に近づけると、土の匂いがした。
崖の岩屋を覗いたときと、同じ匂いだった。
その日は雨も降っていなかったし、私は崖に近づいてもいない。
※
それから十三年が経った。
大学四年の秋、就職活動で郷土のことを調べる機会があって、私はふと、あの社の名前を検索した。
県の神社庁の名簿に、その社はあった。
祭神、鎮座地、由緒。
由緒の欄の最後に、こう書いてあった。
「明治四十年の遷座以降、常駐の神職を置かず」
常駐の神職を置かず。
私は、その一行を何度も読んだ。
宮司も、巫女も、あの社にはいない。
百年以上、ずっといなかった。
年に二度、里の神社から神主が上がってきて、祝詞を上げるだけの社だった。
私は、集落の郷土誌を取り寄せた。
役場のホームページに、頒布のことが小さく載っていた。
届いた冊子の、神社の項を読んだ。
明治四十年に崖の下から現在地へ遷座、とあった。
ハルさんが言ったとおりだった。
下に置いていったもの、という記述は、どこにもなかった。
その代わり、遷座の理由の欄に、ひとこと書いてあった。
「旧地は、参拝の後に下ることを憚(はばか)る土地なりしため」
参拝の後に、下ることを憚る。
私は、鳥居の柱に手を置いたまま動かなかったあの子を思い出した。
※
母に電話をした。
「あの宮に、巫女さんおったよね」
電話の向こうが、少し静かになった。
「あんた、それ、誰にも言わんかったやろね」
「言わんよ」
「よか」
母は、それだけ言った。
それから、思い出したように付け足した。
「ハルさんな、去年、あんたのこと訊きよったよ」
「元気にしとるかて」
「あの子は、宮に言葉ば置いてこんかったけんね、て」
受話器を持ったまま、私はしばらく黙っていた。
母も、黙っていた。
やがて母が言った。
「あんたが引っ越す前の日な」
「ハルさんが、うちに来たとよ」
「今日は宮に行かせなさいって」
「行かせんかったら、あの子が待つけんって」
私は、あの日の冷たい空気を思い出した。
行かせたのは、母ではなくハルさんだったのだ。
※
去年の盆に、二十年ぶりにあの谷へ行った。
石段は四十七段のままだった。
拝殿は思っていたより小さく、縁側の板は灰色に乾いていた。
誰もいなかった。
賽銭箱の縁に、私はきなこ棒を一本置いた。
置いてから、しばらく待った。
杉の梢が鳴った。
玉砂利を踏む音は、自分のものしか聞こえなかった。
ハルさんは、五年前に亡くなっていた。
集落に残っている家は、四軒だと聞いた。
崖の岩屋は、崩れてほとんど塞がっていた。
それでも、覗くと冷たい風が出てきた。
それだけだった。
帰りぎわ、鳥居のところで、私は足を止めた。
言いたい言葉が、口のなかにあった。
結局、言わなかった。
言えば、あの子がまた、待つことになる。
あの子は、私に「さいなら」を言わせなかったのだ。
一度だけ、自分のほうから言って、それきりにした。
※
ひとつだけ、まだ引っかかっていることがある。
集落の郷土誌に、昭和八年の写真が載っている。
社の縁側に、白い衣の女が二人、並んで座っている写真だ。
そのうちの一人が、少し笑っている。
私は、その笑い方を知っている。
写真の説明には、名前が書かれていない。
「社掌某氏の縁者」とだけある。
郷土誌の編纂は昭和五十年だ。
編んだ人たちが、当時の年寄りに聞き取って作っている。
それでも、この二人の名前は出てこなかったということになる。
四十七段の上で、六十年前から、あの人たちは同じ格好で座っていた。
いや、六十年ではない。
写真が昭和八年で、私が遊んだのが平成のはじめだ。
そのあいだの数を、私は指で数えて、途中でやめた。
数えたところで、どうにもならない。
そして、あの子は今も、鳥居の下に立っているのだろうと思う。
私はときどき、自分の子を寝かしつけながら、そのことを考える。
あの日、私が「またね」と言っていたら、どうなっていたのか。
戻ることになったのは、私のほうだったのか。
それとも、あの子は、ただ待たなくてよくなっただけなのか。
答えは出ない。
ひとつだけ確かなのは、私が二十年ぶりに置いたきなこ棒が、翌朝どうなっていたかを、私は確かめずに帰ったということだ。
誰かが「またね」と言うのを、待っている。