
昭和五十一年の、四月からのちょうど一年の話である。
私はその年、県の中ほどにある城下町の電話局に入った。
配属は市内交換課、仕事は度数計の読取だった。
度数計というものを、今の人はもう知らないと思う。
加入者一軒につき一つ、通話の回数を刻む小さな計器が、局の機械室に並んでいた。
黒い鉄の棚が、天井近くまで何段も組まれている。
その棚の面に、目盛りの窓を持った計器が、碁盤の目のように嵌まっている。
一つの棚に二百八十。
棚は四十二本あった。
月に一度、私たちはその窓の数字を一つずつ読み、台帳に写した。
台帳は横罫の帳面で、加入番号の順に欄が切ってある。
前月の数を引けば、その一月にその家が何度電話を使ったかが出る。
その差が、そのまま料金になった。
機械を信じるのではなく、機械の吐いた数を人が読み、人が写す。
そういう時代だった。
私はその仕事が、思っていたより好きだった。
数を読んでいるあいだ、他のことを何も考えなくていいからである。
課には二人しかいなかった。
私と、十四年勤めている先輩の女性である。
先輩は、私に読み方を教えるとき、指を使わなかった。
窓を見て、そのまま鉛筆を動かす。
私は最初のひと月、指で押さえながら読んだ。
最初に読み取った数字は、七だった。
一番の棚の、一番上の段の、一番左の窓。
七。
先輩はそれを見て、何も言わなかった。
ただ、鉛筆の握り方を直された。
「読むときは、数を口に出さないこと」
それが、先輩から最初に教わったことである。
理由は教わらなかった。
局舎は、堀の内側にあった。
三階建ての鉄筋で、戦後に建ったものだと聞いた。
窓から見えるのは、瓦の連なりと、その向こうの城山である。
春には、城山の中腹だけが白くなる。
山桜が、そこにだけ帯のように残っているのだと、あとで知った。
機械室は二階の北側にあり、日が入らない。
一年中、同じ温度に保たれていた。
交換機の音が、絶えず鳴っている。
リレーの接点が開いて閉じる、乾いた音である。
何万という接点が、それぞればらばらに鳴る。
だから機械室の中は、うるさいというよりも、粒の細かい雨の下にいるようだった。
私はその音を、悪くないと思っていた。
音の粒が細かいほど、町の誰かが誰かと話しているということだからである。
給湯室で、先輩は毎朝、湯呑みを洗った。
先輩は、湯呑みを三つ洗っていた。
課には、二人しかいなかった。
私はそれを、前任者のぶんが残っているのだろうと思った。
思っただけで、訊かなかった。
訊かない癖は、この一年で身についたものである。
更衣室のロッカーは十四あり、いちばん端の一つだけ扉が開かなかった。
鍵穴に鍵は差さるが、回らない。
設備係に言えばよかったのだろうが、誰も言わなかった。
局員は十三人だった。
一つ余っているのだから、困ることは何もない。
局には交換台もあった。
市外通話をつなぐ台で、こちらは女性ばかり十人ほどが並んで座る。
私たちの機械室とは、廊下を隔てて向かい合っていた。
台の主任は岸本さんという、局でいちばん古い人だった。
岸本さんは、戦中に入局したと言っていた。
昼休みには、その人たちの笑い声が廊下まで届く。
機械室には誰の声もないので、私はよくその声を聞きに行った。
城下町といっても、当時はもう城は無い。
堀と石垣と、それから城山の名前だけが残っている。
算用場があったのは、堀の内側の、いまの局舎と裏の駐車場のあたりだという。
古い絵図には、ただ四角い建物として描かれているだけである。
私はその絵図を、市の図書室で一度だけ見た。
建物の中に、何が置かれていたかは書かれていなかった。
寮は、局舎から歩いて七分の場所にあった。
食堂の献立は週で決まっていて、金曜は必ず魚が出た。
私はその一年で、ひとつも自炊をしなかった。
局舎の建つ場所は、もとは藩の算用場の跡だという。
それを教えてくれたのは、設備係の老人だった。
名前は長谷といった。
局舎の暖房と水道と、それから床下を見る役の人である。
長谷さんは、機械室の入口に立って、よく棚を眺めていた。
中には入らない。
入らないのは、油の匂いが服につくからだと言っていた。
「ここは昔から、数を置く場所だ」
そう言って、湯呑みも持たずに帰っていく。
給湯室に寄らない職員は、局で長谷さんだけだった。
※
異変は、六月の読取から始まった。
八千二百七十六番の欄で、鉛筆が止まった。
その番号は、まだ加入者のいない空き番号である。
架設されていないのだから、計器は動かない。
前月は〇だった。
その月は、七になっていた。
私は棚の前に立ったまま、窓を二度見た。
数字は七のままだった。
先輩に言うと、「機械の誤差」と言われた。
誤差なら、次の月は動かないはずである。
七月、同じ欄は十四になっていた。
八月は二十一。
九月は二十八。
毎月、七だけ増えていた。
空き番号は、その棚に十九ある。
十九のうち、増えているのは、その一つだけだった。
私は台帳の余白に、小さくその数を書き写した。
先輩に見つかると、余白は消しゴムで消された。
「余計なことを書くと、合わなくなる」
先輩の言い方は、静かだった。
怒っている声ではなかった。
順序を間違えた新人に、順序を教えるときの声である。
その月の帰り道で、私は堀端の売店で氷菓を買った。
先輩も同じものを買って、二人で堀の縁に座って食べた。
先輩は、蓮の葉の下に亀がいると言って、指をさした。
亀はいた。
その日は、それだけの日だった。
その頃、私は昼休みに交換台へ行くのをやめていた。
やめた理由は、はっきりしている。
笑い声の数を、数えるようになったからである。
秋になって、更衣室で気づいたことがある。
更衣室のロッカーは十三になっていた。
扉の開かないものは、もう無かった。
壁には、外した跡の塗り残しも、ねじ穴もない。
床の擦れた跡も、十三本ぶんしかない。
私は前月の設備点検票を出した。
点検票の私の字は、「一四」と書いていた。
その票をもう一度出しに行ったとき、票は「一三」になっていた。
私の字のままで。
消した跡はなかった。
書き直した跡もなかった。
長谷さんに、そのことを話した。
長谷さんは、ロッカーの話には何も言わなかった。
かわりに、算用場の話をした。
藩の算用場では、年貢と人の数を、同じ帳面で合わせていたという。
村から上がってくる数が、どうしても合わない年がある。
不作の年や、村を離れる者が続いた年である。
そういう年は、帳面の側を合わせた。
足りないぶんだけ、いない者を立てて、数を埋めるのである。
それを員数と呼んだ、と長谷さんは言った。
立てた員数には、名を付けない。
名を付けると、代を継いでしまうからだという。
だから帳面には、数だけが残る。
「立てた員数は、帳面を閉じるまで生きている」
「閉じられなかった帳面は、どうなるんですか」
長谷さんは、そこで湯呑みを置いて帰った。
置いて帰った湯呑みには、口をつけた跡がなかった。
十月の終わりに、交換台の岸本さんと廊下で会った。
私は、空き番号の話をした。
番号は言わず、増えているとだけ言った。
岸本さんは、しばらく黙ってから言った。
「前にも、同じことを訊きに来た子がいたよ」
いつの話か訊くと、昭和三十七年だと言われた。
その子はどうしたのか、と私は訊いた。
「一年で辞めた」
辞めたあとのことは知らない、と岸本さんは言った。
そのあとで、岸本さんはこう付け足した。
「うちの課は、昔から十人でね」
「入る子がいると、必ず誰かが抜けるの」
そう言って、笑った。
笑い方は、冗談を言ったときの笑い方だった。
私は、その日の午後、交換台の人数を数えなかった。
数えなくても、十人だったと思う。
長谷さんの話には、続きがあった。
「足りない年」というのが、この土地の帳面には何度もあるのだという。
飢饉の年と、大火の年と、それから川の付け替えの年である。
その年の帳面には、末尾に朱で印が押してある。
閉じられなかった帳面に押す印だ、と長谷さんは言った。
「閉じるには、数が合わないといけない」
「合わないままだと、どうなるんですか」
「合うまで、数え続けるんだろうね」
長谷さんは、そのとき初めて、機械室のほうを指した。
指したのは、棚ではなく、床だった。
十月の読取は、夜勤の日に当たった。
機械室に一人でいると、リレーの音の粒が揃って聞こえることがある。
その夜は、粒の中に別の音が混じっていた。
硬いものを、指で弾く音である。
そろばんの珠を、一つずつ寄せる音に似ていた。
私は棚の間を歩いて、音の出どころを探した。
音は、どの棚の前でも同じ距離に聞こえた。
近づいても遠ざかっても、変わらない。
ただ、数えるように鳴っていた音が、七つめで必ず一拍止まった。
六つ、そして間。
また六つ、そして間。
七つめの珠が、いつまでも寄せられない。
私は棚の間の通路の真ん中に立って、それを数えていた。
足は動かせた。
動かせたのに、動かさなかった。
翌朝、宿直日誌に「異音なし」と書いた。
異音があったと書いたら、原因を書かなければならないからである。
十一月に、度数計の定期検定があった。
棚から外した計器を箱に詰め、県の検定所へ送る。
戻ってきた計器には、検定の封印紙が貼られている。
封印紙には、検定した日付が入る。
その日付が、私が箱を出した日より三日前になっていた。
送り状の控えを見た。
控えの日付は、こちらが出した日で合っている。
先輩に見せると、「向こうの判が古いだけ」と言った。
私は、その封印紙を一枚だけ剥がして、定期入れに挟んだ。
今も持っている。
紙は褪せたが、日付は読める。
十二月、私の勤務表に、出勤していない日の判が押されていた。
十二月六日。
その日は日曜で、局は開いていない。
判は、私の判である。
角の欠けた場所まで、同じだった。
その日、私は寮の部屋で一日、洗濯をしていた。
洗濯物は、たしかに乾いていた。
※
年が明けて、一月の締めの日が来た。
締めの日は、朝から局全体が静かになる。
交換台も、その日は最小限の人数で回す。
数を合わせている最中に音を立てると、数え直しになるからである。
私はその静けさが、この一年でいちばん苦手だった。
機械室の音の粒だけが、いつもより大きく聞こえる。
締めとは、その月の度数の合計と、交換機の総通話回数を突き合わせる作業である。
本来は合う。
機械が数え、人が写しただけだからである。
その月は、合わなかった。
合計のほうが、七だけ足りない。
私は三度数え直した。
三度とも、七だけ足りなかった。
四度目に、私は棚のほうを見た。
八千二百七十六番の窓は、その月、三十五になっていた。
先輩は、私が数え直しているあいだ、湯を沸かしていた。
「合わせておいたから」
戻ってきた先輩は、そう言った。
台帳は、机の上で開いていた。
八千二百七十六番の欄の七は、消えていた。
かわりに、台帳のいちばん後ろの、読取者の欄を見た。
そこに、七という数が書き足されていた。
私の名前の行に。
私の字で。
私は、書いた覚えがなかった。
「先輩は、毎月これをやっているんですか」
先輩は、湯呑みを洗いながら答えた。
「どこかには付けないと、閉じられないでしょう」
先輩は、湯呑みを四つ洗っていた。
課には、まだ二人しかいなかった。
私は、湯呑みの数を数えた自分を、あとで何度も思い返した。
数えなければ、気づかないままでいられたはずである。
その月の終わりに、実家から電話があった。
請求の額が違う、と母が言った。
七回ぶん、多い。
心当たりがあるかと訊かれて、私は無いと答えた。
母は、私が寮から掛けているのだろうと思っていた。
寮の電話は共同で、番号が違う。
私は、その月の請求書を送ってもらった。
その月の請求書に、私が掛けた覚えのない七回分が載っていた。
掛けた先の記録は、当時の請求書には出ない。
出ないから、確かめようがない。
母は、電話口で笑っていた。
七回ぶんくらい、どうということはない、と言った。
そのあと、少し黙ってから、こう言った。
「あんた、こっちに掛けてきてないよね」
私は、掛けていないと答えた。
母は、それならいいと言って、切った。
その七回が、いつ掛かったことになっているのかは、私にはわからない。
私は局の資料室で、実家の番号の欄を三年ぶん遡って見た。
七回分が乗りはじめたのは、私が入局した月からである。
それより前の三年は、母の言うとおりの数だった。
資料室は地下にあり、書棚のあいだに湿気止めの石灰が置かれていた。
その匂いのなかで、私は自分の実家の欄を三年ぶん指で追った。
指で追ったのは、そのときが初めてだった。
先輩から教わったやり方を、私はそこで捨てたことになる。
二月の頭に、局舎の落成記念の写真を見た。
一階の廊下に、額に入れて掛かっているものである。
局員が正面玄関の前に並んでいる、古い写真だった。
額を外して、裏を見た。
裏書きに、墨で「職員十四名」とあった。
表に返して、数えた。
十三人だった。
何度数えても、十三人だった。
右の端に、写真の縁で切れた肩のようなものがある。
指で押さえて数えても、それは肩にはならなかった。
私はそのとき、裏書きの数のほうが正しいのだと思った。
写っている人の数のほうが、減っているのだと。
額をもとに戻して、廊下を歩いた。
歩きながら、廊下の突き当たりの窓の数を数えていた。
数えるのをやめられなくなっていた。
二月の読取のとき、私は一度だけ試したことがある。
八千二百七十六番の七を、台帳に写さなかった。
写さなければ、合わせる必要もないと思ったのである。
その月の締めは、合った。
かわりに、機械室の棚が一本、減っていた。
四十二本あった棚が、四十一本になっていた。
床のアンカーの跡も、四十一本ぶんしかない。
番号の割り当ては、四十一本ぶんに詰め直されていた。
誰も、何も言わなかった。
先輩も、その日はいつもどおり湯を沸かしていた。
私は、その日から、七を必ず写すようにした。
※
私は三月で辞めた。
理由は、体調ということにした。
先輩は引き止めなかった。
最後の日、給湯室で湯呑みを洗っていた先輩に、私は一つだけ訊いた。
「十四年、合わせてきたんですか」
先輩は、蛇口を止めてから言った。
「あなたは、一年だけでよかったのよ」
それが、先輩から最後に聞いた言葉である。
局を出るとき、城山の中腹の帯が、また白くなりはじめていた。
私が入った日と、同じ景色だった。
局舎は、平成に入って建て替えられた。
交換機は電子式になり、度数計の棚は全部外された。
外された計器がどこへ行ったのかは、聞いていない。
建て替えのとき、床下から古い帳面の切れ端が出た、という話だけ、あとで人づてに聞いた。
和紙で、墨で数字が書いてあったという。
名前はなく、数だけだったという。
その紙をどうしたかも、聞いていない。
辞めてから何年かして、私は市の広報で局舎の記事を読んだ。
建て替えの落成を伝える記事で、古い写真が小さく載っていた。
あの廊下の写真である。
記事には「創業時の職員十四名」と書かれていた。
私は、その小さな写真の人数を数えなかった。
数えないと決めたのは、そのときである。
長谷さんは、私が辞めた年の秋に、局を離れた。
最後まで、閉じられなかった帳面がどうなるのかは、教えてくれなかった。
一度だけ、辞めたあとに局へ寄ったことがある。
給湯室を覗くと、湯呑みは三つに戻っていた。
先輩は、まだそこに立っていた。
私は声をかけずに帰った。
あの局で覚えたことは、結局ひとつだけである。
数が合わないとき、人は数のほうを直さない。
数えられる側を、直す。
四十七年が経った。
今でも毎月、七回分だけ、掛けた覚えのない通話が請求されている。
番号も回線も、あれから何度も変わった。
家も二度、変わっている。
それでも、七回分は、そのままついてくる。
一度だけ、電話会社に問い合わせたことがある。
そういう明細は出ていない、と言われた。
私の手元の紙にだけ、その七回分は載っている。
夫にも、子にも、この話はしていない。
話せば、数えることになるからである。
数えた人から、順に付けられるのだと、私は思っている。
払っているうちは、まだこちら側で数えられているのだろう。
そう思うことにしている。
ただ、いつか払い忘れた月に、どこかの帳面の側で、数が一つだけ合うのだと思う。